本日のたつぞう(たつぞうと女性論と語り手)

以前に石川達三『結婚の生態』の感想を書いたですけれども、その後、たつぞうが気になってしまいたつぞうをいろいろ読んでいるです。


『結婚の生態』で気になってしもたんはなんといっても、
「この主人公の男って現代のわたしの目で読めばまるで "フェミニズム的にNGとされる男の戯画" のようやけどたつぞうは本気で書いてたんか?それとも一種パロディとして書いたんか?」
というところのわからなさをめぐるもや~もや~のせいでしたのでありまして、その後、代表作『蒼氓』を読んでこれは非常に面白かったのだが上記もや~についてはスッキリせず、さらに『薔薇と荊の細道』と『泥にまみれて』という、まさに「結婚」「女性」をテーマにした二作を読みまして、「うむ、本気やったんか」と分かった次第。
というか『結婚の生態』において、わたしが戯画的であると感じたところの結婚観・女性観こそが彼の思想の核であったようだ。


いずれも現代の若い読者にはあまり読まれていない作品であろうから、ここで紹介しておこう。
まず、『薔薇と荊の細道』は1952年の作品。
ストーリーは、ものすごく俗っぽくまとめると(ネタバレ含)、処女であった会社員・伸子がいろいろな意地から好きでもない同僚の男と寝てしまい気付いたら妊娠していてさあどうする、という話。
これは、主人公の男性一人称で語られた『結婚の生態』と違って、三人称小説なのだが、この語り手のあり方が面白い。
非人称のこの語り手には明らかに人格があるようで、主人公たちの言動を「これはこういうことなのだ」といちいち説明しに現れる。いわゆる「神の視点」語り手である。たとえば、冒頭で主人公と女友達が会話を交わす場面では、

技巧に満ちた言葉、何かから常に身を躱しているような会話である。それが知性だと思っているのだ。知性とは何のことか、正直なところよく解ってはいない。友達の名前は仇名で呼び、敬語を使うべきところに乱暴な無頼漢の言葉をつかい、隠語をあやつる。そんな子供だましの技巧を、彼女の仲間たちは知性だと信じている。そして知性という言葉に最も高貴な人格を想像しているのだった。一時代まえの女たちは美貌をきそい衣裳の美しさを競うたものであるが、近代的に洗練された彼女たちは、外見の美よりも人間内容の美を、すなわち知性の分量を競うている。それが流行だった。(18頁)

 


伸子が手紙を書けば、

手紙のなかでふざけた言葉を弄ぶことは、彼女等の年代の一種の流行ではなかったろうか。それはもしかしたら大人の真似であったかも知れない。真面目であるべきときにふざけて見せ、諧謔を弄し、茶化して見せる、それは当面の事件から超然としている大人の心境を模倣していたのだ。或いはそうすることによって自分を偉大に見せようとしていたのだ。(p.199-200)

 

とこんな具合に語り手は解説してみせる。愚かだが愛しい人間どもを見下ろす神の視点、あるいは、可愛いバカ娘を見つめる父親の視点、未熟な学生を眺める教師の視点、って感じ。人格があるといったけど、ひらたくいうと、おっさん臭い語り手である。

 


ところで冒頭の主人公たちの会話が、「個性」というものをめぐってのものであることは象徴的である。彼女らは、それぞれの異性関係のあり方を論議しては「そんなの個性がないわ」などと言い合うのであるが、この作品で終始テーマとなっているのは、個性や人格といったものと「女」であることの対立なのである。
個性・人格と「女」であることは対立関係にあるのである(そして主人公はそれに気付いていない愚かだが愛すべき娘である)。

 

女が女であるかぎり、女を女から区別する方法は見つからない。ついに男の言葉をつかい、男身ぶりを模倣し、ズボンを穿いてみたり、髪を男の形に刈ってみたりしたが、それでも駄目だった。女は、自分に絶望している。絶望の原因は、自分ひとりの個性を持たないということではなかったろうか。(略)だから大部分の女は、(来世)は男に生れて、多勢の美しい女に恋されることを、理想と考える。そうでもしなければ、女が女から本質的に優越する方法は見つからないのだった。(41-2頁)

 

ではなぜ、個性・人格/女 は対立関係にあるのか? といえば、女は結婚を求めるもの、男に寄生せねば生きていけないものであるからだ。

 

彼女たちはそのようにして激しい競りあいをしながら、結婚の良い機会を待っているのだ。彼女たちばかりではない、その母の時代にも祖母の時代にも、何百年まえの時代から、みんなそうだった。それが女たちの一番自然な、純真な姿だった。神様がそのように造って下さったのだ。そして、その中にこそ、女性のあらゆる美しさも、あらゆる悲しみも、幸福も、みんな含められているのだった。(31頁)


自分だけでは生きて行かれない。寄生木(やどりぎ)であるところの女性の本質的な貧しさ、薄弱さ、孤独。……それに気がついたときに彼女ははじめて、女の感情を知る。男を慕い、男を恋い求め、素直になり、優しくなり、愛されようと願い、奉仕することの喜びを思う、あの、見栄も誇りも捨てた女の感情が、どんなに大事なものであるかがわかって来る。つまり(女になる)のだ。(92頁)


OH!『結婚の生態』(この作品から10年ほども前に書かれた)と同じ発想である。
以前にも書いたとおり、『結婚の生態』で印象的だったのは、女というものが結婚すると夫に頼りきってしまうことをして主人公が「女すげー!結婚がそんな大事やなんてー!神秘ー!」みたいにいちいち感嘆しよることじゃった。なんでこの男には、「経済的に女は結婚しないと生きていかれんような時代・社会やからやん」という発想がないのか? そしてその発想がないのは、この男なのかそれとも作者なのか? というのがわたしの疑問だったのだが、本作においては、そうした女の性質が社会的・時代的なものでなくて、それは女性の「本質的な貧しさ、薄弱さ」なのであるということがよりはっきり示される。
そして、なぜそれが「本質的」で自然なのかといえば、その理由は彼女らの身体的条件、つまり、妊娠・出産という条件に求められる。

 

牝は、自分がみごもり、仔を産み、育てているあいだじゅう、彼女と関係のあった牡の保護を必要とする。だから、性関係を起点として、その後の数ヶ月を誠実な保護者として身辺に居てくれる牡を求めているのだ。(p.120)


男には、自分が原始につながり自然につながる一個の生物にすぎないことを、腹の底まで理解させられるような機会がない。したがって男の夢は生涯つづき、いつまでも観念的な理想を追うて行くこともできる。女はSEXの地獄におち、自然の生理に支配せられ、母となってはじめて、現実の人間社会というものを腹の底から理解する。(p.212)


このように、彼女らが身体的条件に左右され、結婚や男に頼らざるをえない生き物であることは、動物の雌とのアナロジーで語られるのだけれども、このアナロジーにこだわるあまり、うっかり変なことを口走っているのは面白い。それが次の箇所。

一度に五匹の子を産む牝は、牡によって養われ保護されなければ生きて行くことはできない。そして牡を牝の身辺から離さないようにして置き、常に牝の身のまわりに在って労働と防禦との仕事を負担させるためには、牝は常に牡を魅惑し、牡の興味を自分につなぎとめて置かなくてはならない。したがって、あらゆる牝は娼婦の性格と技術とを、創造の神によって賦与されているのだ。(p.113)

 

人間は五匹の子を産むとは限らんのに、五匹の子を産む動物の事例を以って人間の女の性質を説明すんのはちょっとアナロジーの破綻という感じがする。まあ子供五人というのがこの時代の平均な母イメージだったからかもしれないが。

 

また、性体験や妊娠に伴う主人公の心境の変化を、この神語り手は徹底して女の身体性から解説する。

それは彼女の個性でもなく、教養や思想でもなく、人類の女性が持っている運命的な性格であった。本質であった。女の不幸も女の幸福も、一切がその中にある、逃れ得ざる道筋であった。彼女の感情は彼女の頭脳の支配を受けようとはしないで、皮膚や内臓の支配を受けていた。むしろ、彼女の頭脳そのものが、皮膚や分泌腺やの支配を受けているのだった。男の肌に触れた皮膚はもはや昨日の皮膚ではなかった。男の体液にひたされた内臓は、昨日とは違った活動をしはじめていた。(93頁)


彼女の気持が和かになったのは、あるいは拘留された事件のためばかりではなかったかも知れない。(略)妊娠した母体から自然にうまれてくる一種の生理的な法悦感は、彼女の神経のとげとげしさをやわらげていたに違いない。処女であったころのいら立たしさがその肉体に原因するものであったと同様に、今のささやかな幸福感もまた、父や母との間が和解に達したということ以上に、その母体の生理から来たものであったかも知れないのだ。多くの血液は子宮に流れてゆき、彼女の頭脳や神経のはたらきは緩慢になっている。むしろ極端な表現をするならば、いま、彼女の肉体にとって頭脳は必要ではない。女体は全機能をあげて種族保存のために活動しているのであって、それ以外の人間的機能はすべて衰弱していたに違いない。(pp.190-1)

 

「皮膚」や「内臓」や「分泌線」や「子宮」といった語が、「頭脳」や「個性」と対立するものとして、意識的に使われている。
男かって内臓やら皮膚やらの影響受けへんのん? と問うてみたいところだが、妊娠・出産という究極の生物的体験をする女ほどではない、ということなのであろう。
次の、男根中心主義ならぬ子宮中心主義っぷりはすごい。

 

彼女自身の意志や個性は、ほとんど何の力をも持ってはいなかった。意志も、個性も、完全に肉体の支配の下にあった。そして彼女の肉体を支配しているものは、彼女の子宮であった。子宮に個性は無い。しかし一つの意志があった。何千年何万年にわたって続いて来た人間の生命の流れをここに受けて、それを後代に伝える、種族保存の意志、(人類)の意志であった。(略)種族保存の意志は絶対であって、個人の意志を超越する。(略) したがって、子宮を持っているすべての女性は、本質的な意味において、自由を持たない、自分の意志を持たない、個性を持たない。個性の代りに、厳粛な、人類の意志を持っている。塩田伸子は、個人であるよりも、一般的な(牝)であったのだ。(pp.152-3)


子宮ってそんな恐るべきものであったっけ!?
しかし、子宮に個性は無い!というフレーズはぐっとくるものがあつた。
というのは、余談になりますが、わたしも中学生くらいのときそんなことを考えたからです。中学生くらいのとき「ずっと処女でいたいな~」と思うたことがあった。なぜかというと、自分には個性がある、自分は自分であるという自我がある・しかし、女性性器というものは、どの女の人ももっている・だから、性器を使ってしまうと、自分が自分でなくて一般的なのっぺらぼうの「女」のひとつになってしまうような気がする、という論理であった。分かっていただけましょうか。
今になってみれば、そんなんいうたら胃も腸も目玉もみんなもってるやん、なんで生殖器だけ特別視なん、とか、ほな男性性器に個性はあるのか、とかいろいろつっこみどころはあるのであるが、そのときはけっこう切実な気持ちであった。(最近、年若い女性からまったく同じ悩みを語られ、あっやっぱりそんなふうに考えるんだ! と思った。)


女子中学生の感傷と、おっさんぽい語り手の思想とがはからずも同一とはおもろい。そういえば、ラストもちょっと少女マンガ的である。(ここで指す「少女マンガ」とは、「冴えない幼馴染につんつんしていた女の子がなんかのきっかけで『○○…いつの間にそんなに男らしくなったの』『私……○○が好き!』というやつを指す。)

 

とまれ、以上のように、本作においては「女」が個性や人格と対立するものであるということの根拠も、女主人公のたどる運命の根拠も、明確に彼女らの身体的条件=妊娠・出産という条件におかれているのであるが(妊娠小説・オブ・妊娠小説!)、なんというてもつっこみたいのは、「なんでこの世界には避妊がないんだ!」ということ。
語り手はじめ、登場人物の誰ひとりとして避妊という発想がない。
作中で、唯一、女の運命を受け容れて生きている真に賢い女性として、「みさを」という女性が登場するのだが、彼女は男と付き合うたびに妊娠し、捨てられては堕胎する。

何人かの男に接し、そのたびにみごもり、堕胎して、少しも不幸な顔を見せたことがなかった。(略)牧野みさをは自分が女性であることに満足し、安心し、女性であることを楽しみながら、自然に生きていた。女性の自由だの解放だのという流行の言葉には眼もくれずに、周囲とはなれて一人きりで生きていた。女というものをよく知り尽くして、一匹の牝である自己に徹していたのかも知れない。(p.146)


べつにいいんだけど、幾度にもわたるこの堕胎費用はどこから出ていたのであろうか。
相手の男か、彼女本人が捻出していたのか。
しょうもないことだがこれはけっこう気になる。この物語は、主人公の、女としての成長物語である。主人公は、当初個性が云々、未婚の母になる云々、といっていたのが、ひとりでは子供を育てられないという問題に直面し(語り手によると女性の「自然」による問題)、結婚し「生活」を得る、というところで、女としての成長が完成したのだった。つまり、主人公の、女としての成長には、妊娠出産およびそれに伴う経済的脆弱性という条件が必要だったのだけれど、いっぽうで最初から女であることを受容しているとされる「みさを」が、妊娠はするが出産はできておらず、その際の費用をどう捻出しているのか分からない、というのはどういうことだ。

 

と、いろいろつっこみたくなる箇所はあるのだが、この小説に関しては、現代のフェミニズム的観点から批判すべき!みたいな意図はない。むしろ、(自分が後世の読者であるという進歩意識のためではあり、いやらしい読み方ではあるけれど、)語り手が主人公を微笑ましく見ていたように、わたしも語り手を微笑ましく見つつ読めた。
しかし、この後に読んだ『泥にまみれて』(1949年)はダメだった!

 

3頁くらいでウアアアアッとなり読むのをやめたくなった!
いいとか悪いとかでなく、とにかくウアアアアッとイヤーな気分に襲われたのである。

女というのはそういうものなのです。頼りないもの。何一つ自分のものとては無い。自分の心さえも、自分のものではなくて良人のものなのです。自分の心が自分のものだと考えていると、どこかで間違いが出来てくる。女の「人格」って、一体どこにあるのかしら。人格なんか有りはしない。女の人格は良人の心のなかで、良人の愛情に支えられて僅にそれらしい姿を保っているだけではないかしら。(pp.39-40)

 

自由だの平等だの権利だのと、世間の女たちはなぜそんなに低俗なごみごみした所で生きているのでしょう。それは愛情の美しさ、愛情の本当の尊さ、愛情の本当の味わいを知らないからです。私の眼からはそういう(新しき女性)たちが、何だかお気の毒に見えます。(p.151)


と語られるとおり、『泥にまみれて』も『薔薇と荊の細道』と同じく、結婚生活の中での個性/女性性の対立ということをテーマにしており、テーマはほぼ同一であるといえる。
それだのに、なんでこっちはダメだったのか?


といえばそれは、こちらは、女性一人称小説であるということのせいではないか。この作品は、娘への、母による書簡という形式をとっている。結婚したものの相手が浮気をしたことに憤慨し離婚するという娘。実家に戻ってきた娘を両親は叱り飛ばして婚家に帰らせ、その後、母は娘に手紙を書く。
そして、その手紙の中で、結婚生活とは、女の幸せとは、ということを、自分の半生(プロレタリア活動家である夫との結婚、その夫の相次ぐ女性関係、浮気した夫に性病移され自殺未遂、などなど)を語りつつ娘に説くのであるが、もうその手紙の最初の方の文、

もしも私が簡単に離婚してしまっていたら、今日のこういう喜びは決して味わうことが出来なかったでしょう。そしてこの喜びは、お前たちがいま考えている(幸福)などというものが足元にも寄れないようなもの、深い深い人生の喜びです。一人の女が、妻となって味わい得る最も深いよろこびです。むかしの武家の娘たちが、一旦嫁入ったならば、二度と実家へは帰されなかったという、その厳しさが、本当は、女性の為に最も大きな仕合せを与えるための厳しさでもあったのではないかと、私は今になって思うのです。(9頁)


この部分だけでその手紙(ないけど)を引き裂きたいほどイヤだ! これは批判というよりわたしの個人的なイヤさなのだが、とにかくイヤである。「なんでイヤか」の説明は省略する。(注:単に人の苦労話が嫌いだということもある・単に愚痴ならいいが、また苦労に関する怒りや悲しみならマジメに拝聴するが、自慢げな苦労話が嫌いなのである)

 

ただ、「男女平等や女性解放を唱えて亭主の浮気を責める女たち」への非難の部分に対してだけは、昔の作品といえどしっかり怒っておかねばと思った。「女性解放」をそんなふうに矮小化したならば、亭主に女を作れといいながらあんなにのた打ち回っていた『くれなゐ』(佐多稲子、1938)の苦悩はどうなるんだ。