河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第2回)

つづき


「臺に乗る」の話のつづきです。
産める-産めないという一見明らかであるように思われる問題のあいまいさ、そして、この物語においては、産みたいのか-産みたくないのか問題のあいまいさ、がそれに先立ってある、という話でありました。
以後、そもそも自分は産める身体ではないかもしれないのだ、と気づいた丈子の生活と心情の描写がなされるのですが、この描写の行きつ戻りつ具合がとても面白い。一見、物語の本筋(いやそもそも、本筋、ってなんなんだ)と関係なさそうな、丈子の趣味の話など。
この趣味には、フロイト的には何らかの象徴的な意味を読み取ることもできるのかもしれませんが、私は、この描写抜きでは単なる生産する身体(あるいは生産しない身体――いずれにしても生殖機能だけに焦点を当てられる身体)に還元されかねない女性主人公が、人格や日常をもつひとりの人間であるということを想起させるという点で重要な描写であると感じました。
ここを面白く感じたのは、昨今(に限らぬのかもしれないが)、女性を産む性として取り上げるとき、あまりに個別の人格の存在というものが無いことにされていると感じていたからです(まあ何らかの問題を大きな視点から取り上げるときには避けられないことなのかもしれませんが)。
産む産まない問題が語られるとき、そこで語られる女性というものは、端的に産んだり産まなかったりする身体であって、そこで、個別の微妙なグラデーションというものは無視されています。個別性が語られるとすればせいぜい、「キャリアとプライベートとの間での葛藤」程度であり、「産みたい」「産みたいけど事情があって産めない」という二種類と+αの類型に全女性は分類され、その周囲に存在するであろう微妙なグラデーションの多様性(「産みたい気もするけどよう分からん」「なんとなく産む気になれんけど産まないのも残念な気がする」「断固産まん」)にはあまり触れられません。もちろん、なんとなく意味なくごろごろしていたりロックフェスで騒いだり猟奇的な趣味に耽溺していたり、という個々の人間としての女性像はまったく浮かんできません。
ちなみに、丈子の趣味は、東西の実録物語を読むことと、椰子の実を彫って面を作ることです。面は、雑貨店を営む友人・寿美子の店で売られることになります。


さて、その後、寿美子の高校三年生の長女を預かるというエピソードがあり(それにしても、この頃の小説を読んでいると、こうした人間関係の濃厚さなど、いいか悪いかは別にして、今の都会生活とはだいぶ違うなあ…と感じます)、そのよく躾られた長女や(戦争中に育った丈子にはその衣服などが新鮮に見える、というところも面白い)、長女が赤ん坊のように寝かせている熊のぬいぐるみを見ながら、丈子は、夫・戸川が父親になったところを想像するなどします。

「丈子はあの疑いに捕われてからというもの、生理が済むたびに、それが最後の生理であったような淋しさを感じた」


あの疑いとは、自分の身体がそもそも不妊であったのではという疑いであります。この疑いが今芽生えたのは、偶然でなく、(生殖チャンスの)最後の時期がきたことを「自然な何か」が告げたからではないか、と丈子は思います。
こういうことって、今日の出産の高齢化や不妊を語る中でもよく言われますよね。生殖年齢が終わりにさしかかって、「本能」が発動し子供が欲しくなって焦り出す女性たちがいる、とか(あるいは、そうやって駆け込みで焦ったときにはもう遅かったりするんだよ、とか)。ここで言われる「自然な何か」も、そうした場合に語られる「本能」に似ています。が、丈子の場合は、だからといって、「子供が産みたくなった」のかといえば、そうでもないのであります。


丈子はしきりに戸川に、子供がほしくないのかを問い詰めるようになります。あるときは、戸川が自分以外の女性たちとハレムを作り子供を産ませる空想を、戸川と語り合いもします。
しかし、丈子は、「子供が欲しくなったのではない」のです。
その一方で――「子供をもつ気も勇気もない中年女」である一方で、丈子は、自分が不妊かどうかを案じています。そして「産まないにしても」試すならば今のうちであるとは思っています(普通不妊が問題化されるのは「産む」ためであるのに、ここでは産むことより不妊でないことを試すことが目的化されています)。かといって、実際戸川が性交を挑むと、「恐怖にかられ」拒んでしまうのです。
ほな一体あんたどないしたいねん!というところですが、丈子の欲望として明記されていることは、ただひとつなのです。

「子供は絶対に欲しくないと、戸川にはっきり答えてもらいたかった」

 

「子供なんて要るものか。ふたりで楽しく暮らそうよ」という言葉を聞きたい。

 


戸川は丈子に、丈子が医師から言われたことをもとに、

「機能的に駄目というんじゃあないんだろう、体力的に無理だというだけだろ」


と丈子に確認したことがあります。このフレーズは作中に二度出てきます。こう確認したからといって、別に戸川も子供を欲しているふうではないので、どちらでも同じことであるはずなのですが、しかし丈子は、自分が「機能的にも駄目」だったらそれでも戸川は夫婦になっていたであろうかと思いめぐらせるのです。
しかし、度々の、子供をめぐる丈子の問いかけに、戸川は冗談めかした答えしか与えません。
ここで丈子は、生殖年齢の終わりにさしかかった自分に対し、実際子供をもつかどうかは別にして、戸川は「この先、二十年、三十年にもわたって少くとも意識の上では子孫を夢みていられる」男である、という、生殖における男女の非対称に思い至り、戸川がずっと年下の夫であるかのように感じるのです。

 

戸川の同僚の見舞いの後、丈子は、戸川もまた、生殖能力を確かめえたことがないのだ、ということに気づきます。そして、それを「この躰で確かめさせてやりたい」という発想が生まれ、行動に至ります。
「この躰で確かめさせてやりたい」というのは、言い換えれば「妊娠したい」ということのはずでありますが、ここでは、「妊娠したい」という欲望が必ずしも「子供がほしい」という欲望とは結びついていないところが一点、面白かった点でした。
また二点目として、「妊娠したい」という欲望が、自分の欲望としては芽生え得ず夫という他者を経由してしか芽生えていない点が面白いと感じました。
妊娠の欲望とは、実際には現代においても、社会や家族から要請されたり(されなかったり)しながら形成されていくのでしょうが、たてまえとしてはそれは、産む女性本人の固有の欲望として自発的にもたれるものだとされている、と思います。
たとえば、「産む産まないは女が決める」というフェミニズムの重要なテーゼがあります。世界中であまりに不本意な状況におかれた女性たちが数多あることを考えれば、このテーゼ自体は、けっして色あせることのない、実に実に重要なものであると私は考えます。が、しかし、自分本人にとっての産む産まないの欲望レベルで考えたときに、完全に「私が決める」ことなんて可能であるのか、という疑念も生じるわけであります。私の欲望は他者の欲望云々という言葉を引くまでもなく、自分の欲望って自分の欲望だけじゃないじゃないですか。よってこの、丈子の、行動に至る動機のあいまいさ、もっといえば非主体性は面白いなアと感じたのでありました。
しかし! であります。そこで導入されるのが戸川という他者の欲望という項であるわけですが、この戸川の欲望もそもそもあいまいであるのです。生殖能力を確かめたいというのも、別に戸川が頼んだわけではなく、戸川は結局、子供がほしいともほしくないとも明言しないままであるのです。


さて、ここで丈子はやっと、戸川に内緒で婦人科に行くという行動に出るのです。そこで乗る内診台が、冒頭で述べた、本作のタイトルの由来です。丈子は、子供がほしくて試したのに授からない不妊である、と偽って診察を受けようとします。最後の丈子の述懐にある、

「わたしのような奇妙な願いからこの診察台に上がった女があったかしら」


という「奇妙な願い」は、いわば、
「子供は別にほしくない、とは思う。ずっと一応は避妊してきた。だから機能的に不妊であっても関係ないはずなんだけど、不妊かどうかを確かめたい」という、確かに奇妙な願いであります。いうたら、目的のよくわからん願いですもんね。そうした願いは、通常、生殖をめぐる思いの中で、問題として顕在化しない、顕然とは語られないもののはずであります。

 

ここまで時々挿入した感想によってお気づきかとは思いますが、私がこの物語を「おもろーーー!」と感じたのは、やはり、昨今の、少子化卵子劣化論が云々される風潮という背景があって、その背景を思って、というところが大きいと思います。
(この作品が書かれたのは40年近くも前なのですが――このことについてはまた別に考えます。)
昨今のそうした議論の中では、上に書きましたように、女の欲望というのは、「産みたい」「産みたいが諸事情で産めない」などとはっきり形をとったものとしてしか語られません。あるいは、そうした葛藤やはっきりした欲望なしになんとなく生殖年齢終了にさしかかったものは(まさに俺である)、何も考えずふわふわ浮かれてるうちに年だけとってしまったバカ、として語られます。
そんな中、そうした論から取りこぼされる微妙なグラデーションや多様性の中の、「奇妙な」不定形な欲望の存在を示した本作は、その点で傑作であり、今日においてこそ、文学というものが社会に必要である、ということを示すものであると感じました。ここには、そうした類型でしか語られながちな女性の、主体的な語りがあると同時に、主体的に形成されるものだと信じられている欲望の、非主体性が描かれています。


後半の心情の描写の中に、丈子の夢の描写が挿入されていますが、これもまた興味深いものです。誰かのお産が始まり、それは自分のお産だったのだ(「何だ、わたしのお産だったのか」)と分かるやいなや、死産であった、という夢でありますが、この夢ではお産の主体が自分なのか他人なのかもあいまいになっていますし、また、出産体験のない者が出産を夢見るときの不思議さがよく現れていると思います。出産というのは、ありふれた行為でありながら(これだけ人間があふれてるんやからな)、出産を経験しないものにとっては、永遠に想像するしかない経験であります(まあ出産以外にもそんなことはたくさんあるのだが、鮒寿司食べたことないまま死ぬとか)。私もそういえば若いとき、死産の夢をよく見ました。

 

「臺に乗る」の話が長くなってしまいましたが、その少し前の作品である「蟻たかる」も同時期に読んで非常に面白かったので、こちらについてもお話したくおもいます。

 

(つづく)