河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第4回)

 

「蟻たかる」の話の続きです。


この、史子に生理が訪れた(訪れてしまった?)ときの描写も、上手いなあ、わかるわかる!と思いながら読んだのでした。
まず、史子は安堵します。そして、遅れていたのはそもそも自分の緊張と怖れのせいでないかと考えます。例の、留学のことも心に甦ってきます。しかし、その夜、ふと、

 見馴れた、のれんも廊下も板戸も壁も柱も、ここ数日の間にひどく豊かさを増し、それが今、急激に痩せ細ってゆくのを、彼女は知ったのである。(p.43)

 
という気持ちになるのであります。
史子は松田に妊娠が間違いであった旨を告げて、泣きます。

まるで子供を熱望してきて又憂き目を見た、石女みたいだ(p.44)


次第に産む方向へ話が傾いていたとはいえ、そもそもは子供が欲しいわけではなく、むしろ忌避していたというのに、腹の中に何もいないことが分かるや起こるこの虚脱、何なのでありましょうか。
腹の中にいるかもしれぬ新しい生命へ次第に集中し張り詰めてゆく注意、それをめぐるあれこれの空想で充たされ始めた日常と未来が、ぱちんと弾けた感覚。まあこの感覚って、妊娠に限らず予期していたものが外れたときに感じられる一般的な感覚であるのかもしれませんが、この場合のそれを表わすのに、「豊かさを増し」たものが「急激に痩せ細ってゆく」とは、からっぽになったその腹(実際はもとよりからっぽであったわけですが)をも連想させ、上手い表現であるなあ。


で、ああ、失ってみて初めて認識できるまだ見ぬ子への思い、出産への思い、やっぱり母性本能(※)が彼女の中に育っていたのね、と読者は思いそうになるわけですが、話はこの後、思わぬ方向へ進むのです。
(※ちなみに著者はそのエッセイで、人間の、子孫を残すという本能を、母性本能でなくたしか「建設本能」というちょっと変わった言い方で論じていました。死すべき運命にある人間には、仕事で何か達成するとか家を建てるとか何かを成したい本能が備わっていて、子孫を残すこともそのひとつだというのです。「夢の城」という作品ではこの「建設本能」がテーマになっています。)

 

妊娠が間違いだったことを松田に告げた史子は、でも、いつか本当に松田を喜ばせる、「あんまり遅くならないうちにそうする」と約束します。そして二人は、生まれる子についての想像を語り合います。
もし女の子だったら、と史子は想像を語ります。

「女の子にはきついわよ。あなたが飛び切り甘くって、わたしがあんまりきついから、知らない人には、継母かと思われるかもしれない」
言いながら、史子はふと、その継子と思われるかもしれない自分たちの子供の実感が胸に湧くのを覚えた。(p.44)

 

史子は「数日来の懸念」から解放されたことでよりその「実感」に刺激されるのです。
史子の想像は次のように続きます。
女の子だったら学校にもやらない、贅沢なんかさせない、女中みたいにこき使って、朝早く叩き起こして、私はその間起きないであなたとこうしている。自分の意見のない、口答えのできない、白痴美みたいな子がいい。中学を出たらお嫁にやる、etc…… 翌朝、朝食のバターをきらしていたことを思い出し、史子は更に空想に耽ります。子供がバターを買い忘れたときの虐待の空想です。口許を抓りあげ、服を剥いで全身を抓りあげ、買ってきたバターをスプーンで熱して溶かす――娘の背中に落とすためです――その娘の背中には既にたばこで焼かれた痕がある―――。
この空想によってか「高ぶって」きた史子は、出産の話をしながら、松田に加虐を求めます。

「――とても赤ちゃん産んであげたいけど、わたしは好きじゃあないでしょう」「――だから、あなた、わたしに命じて頂戴」「――ね、命じて頂戴。――強制して頂戴」「苦しくって、暴れるかもしれない。あなた、縛って頂戴。それでも足りないかもしれないわ。そしたら、ぶってくれる? ――縛られながら、ぶたれながら、するお産っていいでしょうねえ。――そんなお産なら、早くしてみたい。――ね、早く!」(p.48-9)

 


この史子の言葉に応え、常の彼らの習慣なのでありましょう、「魚釣りの趣味もないのにそこに納ってある継ぎ竿」を松田は押入れから取り出します。
ええええ!?
そして、読者(私)をぽかーんとさせたまま、物語は終わってゆくのです。


な、なんだこれは!
出産を忌避してきた晶子は、マゾヒスティックな妄想を経由して初めて、「そんなお産なら、早くしてみたい」とお産を肯定するのです。また、初めて「実感」を得た自分たちの子供について、サディスティックな虐待の空想を繰り広げ、そうすることで性的に高ぶるのです。
前半で、「妊娠したと思ったらしてなかった、がっかりしたけど自分の母性に気づいた」的な話かと思っていたら、まったく予想だにしない展開……!

 


ちなみに、「蟻たかる」という奇妙なタイトルの理由がやっと明らかになるのは、ラストシーンです。
(※そういえばフロイト的には「虫がたかる夢」は妊娠の隠喩なんでしたっけ、フロイトもやるなあ…)
初夏の縁側に座り、松田の折檻を受けた後の体の感じに浸る史子。その後、台所に、蟻にたかられる牛肉を見つけます。牛肉は松田が史子の疵痕に貼ってくれていたものでした。史子は、自分が家庭的でないため(つまりミルクやキャラメルを欲する子供もおらず砂糖を用い煮物をすることもないため)「砂糖類に縁遠い世帯」であるこの家にも、これだけの蟻がいたことに驚くのでした。


ここで出てくる「砂糖」は、実は先の、娘を虐待する空想にも登場します。
小さな頃から「家庭的なことばっかり」仕込んで中学出たらお嫁にやる、という史子に、松田は、

「貰った砂糖、きみに内緒で持って行ってやるんだ」「だって、きみは煮物なんかしないじゃないか。砂糖、余っちゃってる」


と言うのでした。ラストシーンで明記されるように、砂糖が「家庭的」なものの象徴であるとすれば、松田によって史子の使わない砂糖を与えられ(空想の中でですが)、「家庭的なことばっかり」仕込まれたこの娘は、史子のもたない部分の凝縮であります。また「自分の意見のない、口答えのできない、白痴美みたいな」この娘は、史子のように、子供をもつことを忌避したり出産か留学かで悩んだりはしないことでありましょう。言うなればこの空想上の娘は、やはり空想中で松田に命令され強制され縛られて産む史子の分身であるのです。実際、折檻される空想の中で許しを乞う娘の口ぶりは、「松田に一層苦痛を求めるときの言葉とそっくり」なのです。
空想の中でマゾヒスティックな出産をすることになる自分と、空想の中で自分に折檻を受ける(その出産によって生まれるはずの)娘が、重なっているのです。なんというセルフ妄想装置……
このサド=マゾヒズムは、それっぽく解釈すれば、「自分とは違う家庭的な少女として造型した娘への嫉妬からのサディズム、および、その娘への同一化としてのマゾヒズムによって女としての自分を受容」とかなんとかまとめられそうですが、そんな単純な図式やないんじゃ、という気がいたしております。なんというか、大事なのはむしろこの、セルフ妄想装置の産出性ではないかなあ、という気がするのですが、このへんはちょっと上手く表現できないのでまた。

 

さらに史子は言います。娘の聟(もちろんこれも空想上の)がわるい亭主になって放蕩するように、松田は素敵な女性を見つけても諦めて、娘の聟に「お砂糖運ぶように」届けてやって――。娘が愚痴をこぼしに来ても、「わたしの躰を見せて」「お父さんだって、こんなに酷い男なんだが、お母さんはこらえている」と言ってやって――。
……なんだこの空想???
しかし、このわけのわからん空想の中で、史子の欲望は大団円を迎えているようです。子供を産みたくない史子は「自分以外の女性を松田に許す寛大さも持ち合わせていなかった」が「松田の父親ぶりを見たい」という矛盾する欲望の間で宙ぶらりんであったわけですが、この空想の中では、松田に他の女性を諦めさせ、かつ、松田の父親ぶり(松田は娘に砂糖を運ぶ)を見ているのですもの。
そして、ここで娘の亭主に運ばれるお砂糖は、娘に運ばれるお砂糖とは少し意味合いが違います。娘に運ばれるお砂糖は、史子のもたぬ「家庭的」なものの象徴でありますが、娘の亭主に運ばれるお砂糖は、家庭の外の女性たちの比喩なのであります。

 

(つづく? かもしれない……でも疲れてきたのでここで終わるかも)

 


※201702追記:その後ろんぶん的なものにまとめてみました。http://ci.nii.ac.jp/naid/40020318494