電話に関する思い出2件

 「援助交際」を介するものとしてのテレクラが話題になったのは、ちょうど私が高校生くらいの頃であったが、私も子供の頃に、テレクラに電話をかけたことがある。


当時、河原町へ行くと、あちこちでテレクラの電話番号が入った宣伝ティッシュが配られていた。テレクラというのは、若者はもう知らないかもしれない。「テレホンクラブ」の略であり、あとは私も詳しくないので適当に調べてほしい。とにかくテレクラ全盛期だったので、宣伝ティッシュのデザインもそれぞれに工夫を凝らしていた。うちは家族がことごとく慢性鼻炎なのでティッシュをこまめに貰っていた。当初はただけばけばしいデザインのものが多かったが、次第にブランドのロゴをパロるなどスタイリッシュなやつも登場し、中には一見オシャレな絵柄でエロを連想させるデザインのものもあった。今はそうしたものはもうちょっと気を遣って配布するのかもしれないが、当時12、3歳の自分にも普通に配られた。
当時の私は、ティッシュは受け取っていたものの、テレクラそのものは、自分に関係のないものだった。周囲では「なんかやらしいおっさんが使ういかがわしいもの」という語られ方であった。いかがわしいものに興味がないではなかったが、自分は知らん人と会話をするのは苦手だし、テレクラなるものを使ってどうこうというのは別の世界のことだった。が、あるとき、ティッシュを見ていて急に、「この番号に電話をしたらつながるんやなあ」と思った。

 

積極的に他人と会話がしたかったわけでもないし、男性と知り合いたかったわけでもない。好奇心ともちょっと違うし、暇つぶしというのでもなかった。つまり、なんでかよく分からないのだが、ふと「電話してみよ」という気になったのだった。いくつかあったティッシュにプリントされた番号から適当なものを選び、当時はケータイなどもなくイエ電であるので、家族が周りにいないときに電話をかけた。
「やらしいおっさん」が出るのだろうから、そうしたら、歌を歌うか般若心経を唱えるかして切ろう、と考えた(祖母の教育により私は当時般若心経を唱えることができた)。テレクラを利用するような「やらしいおっさん」は揶揄ってもかまわない、と考えていたのだろうが、まったくもって何のためだか分からない。

 

数コールののちに、男が電話に出た。
「もしもーし」
嬉しそうな男の声が言った。
歌でも歌う(か般若心経を唱える)予定であったが、相手の声を聴いた途端、喉に何か詰まったかのように声が出なくなってしまった。

 

私はそもそも発声というものが苦手でハードルが高い(これは今もだが、声が上手く使えない――女性にしては低音であることが理由のひとつか)、ということもあったが、それと、そこに、生身の男性がいることに気づいてショックを受けたのだと思う。
電話をかけるまで思い描いていたのは、戯画化された概念としての「やらしいおっさん」に過ぎなかった。しかし、電話に出たのは、欲望をもった生身の男の声であった。
それは、親戚のおじさんや学校の先生や近所の人といった、身近な男性を連想させるような、それでいてそうした身近な男性がそれぞれの立場から私に話しかける声とは全く違った声であり、それまでになかったリアリティをもった声だった。電話の向こうにそうした誰かが実在するというリアリティの前に、私は声を失ってしまった。


「もしもしー、もしもし? いるんですかあー」
と男の声が言う。私は受話器を握りしめたまま何も発せなくなっていた。
「もしもし? 恥ずかしがらずにしゃべろうよお」
恥ずかしがる? 私は恥ずかしがっているのか? イヤなんか違う。しかし、もはや今更般若心経を唱える感じではなくなっていた。
「いくつですかあ? ねえ、OLかな?」
「もしーもし、もしもしっ、もおーしもしッ」
「はずかちくないでちゅよ~ 話そうよ~」
男はなだめすかすように、高い声を出したり低い声を出したり、素っ頓狂な声を出したりした。大人の男が相手(女)に喋らせるためにこんなアホみたいなおどけ方をするのか、というのも初めて知ることだった。猫撫で声とはこういうものなのか。何か応えたいのはやまやまだったが、もう、私の持てる声の中に、これに対処できる声がなかった。物理的に発声できなかった。
黙ったまま、どうしよう、どうしよう、と思っていると、相手は思わぬことを言った。

「ははーん、分かったぞ、おまえ、男やな」

予想外の結論であった。なぜそうなるのか? 女が悪戯で揶揄っていると考えることもできるはずなのに、自分を揶揄うものは女ではありえないというその確信はどこから来るんや?  一方、また別のことでふしぎな気にもなった。当時の私は、男の子になりたいとしょっちゅう思っていた。だが周囲からは女だと思われているし、まあ実際そうだった。なのに私のことを知らない見知らぬおっさん(おそらく)から、このような疑いをかけられて、まるで何かを言い当てられたような気もしたのである。

 ともあれそんな私のふしぎな気もちは相手には関係無い。彼は、さっきまでの猫撫で声でのおどけ口調からがらりと調子を変え、
「貴様、昼間からしょーもないことしてるんとちゃうぞ、くそ、ダボ、ボケが」
と口汚く罵って電話を切った。
私は、向こうから電話を切ってくれたのでほっとした。

 


***


電話に関する変な思い出はもうひとつある。

上記の事件の背景として、この少し前に、たまに「突然知らん人に電話をする」ということをしていた。テレクラ突撃もこの延長線上にあったものと思われる。
端的にいえば悪戯電話であるのだが、私自身は、いたずらな気持ちはなかった。


それは、電話帳で女性名を探して電話をかけるというものだった。当時、電話帳を読むのが趣味だったが、電話帳の名前は世帯主の名前で登録されてあり、世帯に成人男性がいる場合はたいてい世帯主は男性名であるので、女性の名前で登録されているということはその家に成人男性はいないということだ、と考えた。この「女性名を狙っての悪戯電話」というのは、今思えば犯罪者の発想である。
電話をかけ、年配と思われる女性が出ると、
「間違えました」
といったん切り、しばらくして再び同じ番号にかけて、
「さっき間違い電話をしたものですが、優しそうな声の人だと思ったので、もっとお話ししたい」
と頼むのであった。
なんでそんなことをしようと思ったのか分からない。4、50歳くらいの中年の女性が良かった。中年の女性なら優しいはずだという思い込みがあったのだと思われる。ただ、そこに何を求めていたのか、母性を求めていたのか? といわれるとよく分からない。


あるときは、「人生相談」をするところまで辿り着いた。
電話帳から適当にピックアップした番号に電話をかけ、
「私、11歳で、〇〇××と申します。さっき間違い電話をしたときに、優しそうな声の人だと思って、この方なら相談に乗ってくれそうと思って……」
と言うと、相手は、
「えっ? なんで? 相談って何?」
と戸惑った様子だった。そりゃそうである。名乗った名前は、吉本ばなな(当時学校で流行っていた)の小説の主人公の名前を拝借したものだったと思う。
「悩んでいることがあって、誰かに聞いてもらいたいと思って」
「でも、知らない人に相談なんておかしいんじゃないの? そこに他に誰かいるんじゃないの?」
相手は、複数人による悪戯電話の可能性を疑っていた。これもそりゃそうなのであるが、ていうか実際悪戯電話なのであるが、この疑いはまったく予想外のものであり、私は傷ついたような気分になった。
「誰かと間違ってない? なんで私に?」
「ですから、さきほど間違い電話をしたときにお声を聞いて……」
そんなやりとりを繰り返しているうちに、女性が、
「まあいいわ、どんな悩み? 私でよければ」
と言ってくれた。(よく切られなかったものだ。)
しかし、私には、特に本当に相談したいことがあるわけではなかった。とりあえず、みのもんたにかかってくる電話をイメージして話した。

「家族の仲が良くなくて、特に、母と祖母の仲が悪いんですけれど、どうしたらいいでしょう」

そもそもが口下手なので、あまり面白くは話せず、そんなことをざっくり言った。たしかにこの頃、母と祖母の仲は良くなかった。同居しているにもかかわらず二人の間には会話がなかった。だが、それが他人に相談してどうにかなることとも思っていなかったし、他人に相談したいと思ったこともなかった。そもそも別に解決したいことでもなかった。なんでそんな「相談」をしたのか分からない。女性は「うん、うん」と一応相槌を打ってくれたが、また、
「後ろで声がしてない? やっぱり誰かいるんでしょう」
と言い出した。まだ悪戯電話を疑われていたのだ。まあ悪戯電話なのだが。私の予想では、「相談」をすれば相手は「まあ、大変ねえ」とかなんとか優しく相談に乗ってくれて美しく会話が進むイメージになっていたのでこの疑いはノイズだった。
「ほら、後ろで話し声がしてる」
と相手は言っている。正真正銘私一人であるのに心外だ。階下でテレビがついていたので、おそらくその音が聞こえていたのであろう。
「誰もいません、テレビの音だと思います」
「えっ、これ、家からかけてるの? テレビを見ながらかけてるの?」
「テレビは家族が見てます」
「ご家族が一緒にテレビを見てるの? じゃあそんなに仲が悪いわけでもないんじゃないの? 一緒にテレビを見れるくらいなら、何も悩むことないんじゃないの?」
「はあ」
「それでも悩みがあるっていうなら、おばさんでは分からないから、どこか別の、そういうところへ相談してみたら?」
「そーですよね、別の、そういうところがあるんですよね」
「そう、そう」
まったく妥当な回答であった。私でも、なんだかよう分からん子どもから今そんな電話がかかってきたらそう回答するだろう。「どうも聴いてくださってありがとうございました」とお礼を言い、電話は終わった。その後しばらく、「逆探知されて警察に届けられていたらどうしよう」と、ほぼありえない可能性でビクビクしていた。ビクビクするくらいならやらないほうがよいことのうちの最たるものである。しかし、今であればこういう、不特定の他者に向かうなんだかよく分からない衝動というのは、インターネットの中でごくふつうのものとして消化されているのかもしれない。


それにしても奇怪なのは、私は実は電話が苦手であったということである。今でもメールで済ませられることならメールで済ませたい派であるが、子どもの頃から電話は苦手で、友人宅に電話をするにも台本を作るほど緊張していたし、自宅にかかってくる電話を取るのも嫌いだった。それなのにどうして、そんなことをしたのか分からない。

コンタクト屋のチラシ配りの思い出

長らく派遣会社に登録して、試食販売やイベントスタッフなど日雇いのバイトをしていた。その派遣会社の主な派遣先に、コンタクト屋のチラシ配りがあった。


コンタクト屋のチラシというのは、街角で配られて嬉しくないもののひとつであろう。ティッシュならまだ使い道があるがチラシは単なる紙だし、そもそもコンタクトを使う人以外は必要ない。私自身も街角で配られて絶対に受け取らないもののひとつであったので、やってみるとむしろ、「こんなにもらってくれるんや」と意外であった。


昔のことなので今は変わっているかもしれないが、基本は4時間4000円(派遣元にはこの倍が払われているようだった)、1回の配布枚数が一定を超えれば報奨金(といっても500円ほど)が出た。一定とは500枚とか600枚とかだったが、逆にいうとそれが、超えるのが難しいラインだった。神業と呼ばれる派遣スタッフがおり、その人は繁華街でも600枚を配り切るという評判で重宝されていた。チラシ配布など誰でもできる仕事だと思われているかもしれないが、上手い下手があるのだ。繁華街でも、と書いたが、場所も重要だ。最も受け取ってもらえるのはショッピングモールの駐車場である。のんびり入ってきた家族連れにチラシを差し出すと、たいていその一家の誰かがもらってくれる。それに反して繁華街では、なかなか受け取ってもらえないばかりか暴言を吐かれることもあり、イヤなスポットであった。また、当時作成した「もらってくれる人ランキング」は、「1. おじいさん 2.男子中高生 3.おばあさん 4.おじさん」の順になっている。逆に、絶対にもらってくれないのは、オシャレな人と、手をつないでいるカップルであった。

 

大きな交差点が繁華街で配るときの定位置だった。ここはコンタクト屋以外にも、飲食店、ヘアサロン、カラオケ屋などいろんな屋が競ってビラを配っており、無言の連帯感が生まれるのは楽しいことであった。
私は基本的に、「こんにちは、○○(店名)でーす」という「こんにちは型」の口上を愛用していた(長いフレーズを喋るのが苦手であるためシンプルな口上がよかった)。すると周囲の飲食店やカラオケ屋もいつの間にか「こんにちは○○でーす」を始める。次に誰かが「どぞー、○○です」に切り替えると、ついつい「どぞー」につられてしまい、その一帯で「どぞー」が流行り出す。私が「お得になっておりまーす」を開発すると、皆次々に「お得になっておりまーす」に感染していき、「お得な○○でーす」などアレンジする者も現れ、お得はうちが始めたんやーー!!と思うなどした。

 

そのチラシ配布アルバイトを、真夏の暑い中、体調の悪い日にやる羽目になったことがあった。


私は夏風邪を引いて胃腸も壊していた。そこへきて七月下旬のその日は、その夏の最初の猛暑であった。配布場所は京都の繁華街の一角であり、屋外なので屋根も冷房もない。派遣会社は仕事をドタキャンするとペナルティが発生するので休みづらかった(これは法的に問題があるとして後から話題になった)。向こうの都合で突然仕事がなくなることはしばしばあったのに、勝手なもんである。
最初は、それでも4時間くらい乗り切れると思ったが、時間も折り返しに差し掛かった頃、気分が悪くなり目が回りだした。「これは最後までもたんかも」と思い始めたとき、小柄な老女に「お嬢ちゃん、がんばってるんだね」と声をかけられた。

はいありがとうございます、と答えつつも、別にコンタクトに興味があるふうではなかったので放っておいたが、おばあさんは何か言いたげに横に立ち続けている。しばらくして再度こちらへ寄ってきたおばあさんはおもむろに話し始めた。

 

お嬢ちゃんよ、あんたがそうしてがんばっているのを見ているとね、あたしは或る男の子のことを思い出したんだ。あれは三年前、大丸の前だったか、朝早くに三時間、夜遅くに三時間、時給850円って言ってたね、やっぱりそうやってチラシを配ってる男の子がいたんだ。冬の寒い日も、雨の降る日もさ。あたしはね、九州から出てきたんだが、九州で子供を五人も産んだんだよ。でも、五人とも娘でね。一人でも男の子が欲しかった。娘ばかり五人産んだんだがね、やっぱり息子が欲しかった。だから、あの男の子――自分で稼ぎながら勉強してるって言ってた、あんな立派な男の子を持った母親って、一体どおんな幸福な気持ちだろうってね。

 

配る手を止めるのは嫌だったが(ノルマはないが配布枚数が多い方が喜ばれるので)、しばし動きを止めおばあさんの話に耳を傾けることを余儀なくされた。おばあさんは私が仕事中であることを一向に気にする様子もなく語り続けた。おばあさんは名乗った。
「あたしの名は、スナフキン・エミ。売れない画家、放浪の画家さ」
たしかにおばあさんが引いていた重そうなカートには、画材でも入っていそうであった。

 

あの男の子はもうとんと見なくなったから、今頃は夢を叶えて、立派な弁護士になってるんだろうさ。名前のひとつも聞いておけば、この売れない画家、スナフキン・エミの絵葉書でも送ってやれたものを。あんたも覚えておいておくれよ、このスナフキン・エミは、いつでもそこの、なか卯にいるからさ。

 

そう言っておばあさんは交差点の向かい側のなか卯を指した。「(いつでもなか卯にいるんかい!)」と心の中でつっこみつつ、私もなぜか、
「わたしは、村田と申します」
と名乗った。スナフキン・エミは、そこだけ濃い水色のアイシャドウを載せた目を細め、
「ムラタさんかい、覚えておくさ、あんたも夢に向かってがんばるんだよ」
と言い去っていった。
「花の命は短くて、苦しいことのみ多かりき、――これは『放浪記』の林芙美子の言葉。おフミさんは、そういったんだ。それに対して、おエミさんはね―― タンポポの 花も咲かなきゃ ただの種――これが、この、スナフキン・エミの言葉だよ。覚えておいておくれよ――」
よく考えれば何がどう「それに対して」なのか分からなかったが、その日はなんとなくスナフキン・エミのおかげで元気が出たような気がし、最後まで倒れることなく業務を終えた。スナフキン・エミは、チラシはもらってくれなかった。

嘘の思い出

初めて嘘をついたのはいつのことか覚えていないが、初めて「なんぼでも嘘がつける!」と悟ったときのことをよく覚えている。


幼稚園の送迎バスから、祖母に連れられて家に帰る道である。
幼稚園でこんなことがあってん、と報告する中でカズミちゃんの話をした。カズミちゃんとは同じ園に通う近所の子であった。今日カズミちゃんがこんなことしはってん、と私は話し、へえそんなことしはったんか、と祖母は相槌を打ったのであるが、カズミちゃんはそんなことはしていない。要はウソの話をしたのだった。
特に自分の得になるようなウソでもなく、何か面白いウソでもなかったと思う。なんの理由でそんなウソを言ったかは分からないが、言ってしまって、「ああ、ウソを言うてしまった!」と怖くなった。ウソをつくのは悪いことだと日頃習っていたからだ。(その可能性は低かったが)祖母がカズミちゃんに「こんなことがあったんやて?」などと話してカズミちゃんが「そんなことあらへんかったで」と言えば、私の話がウソだと知れてしまう、と不安になった。そうなったらどうしよう、と考えてその瞬間、悟ったのだった。

もし祖母がカズミちゃんに確認しカズミちゃんが「そんなことあらへんかったで」と言ったとしても、もう、過去に遡ってどちらが真実か確認するということは絶対にできない。だから「カズミちゃんはたしかにそうした、私は見た」と言い張れば、それが本当かもしれないことになるのだ。
あるいは、嘘をついたやろと責められたとしても「私はそんなことは言っていない」と言い張ればいい。そのとき――私が嘘を言った瞬間――は既に過ぎ去って失われたのであり、そこに戻って確かめることはできないのだから、私が「言っていない」と言えば言ってないことになるのだ。
――と、4歳か5歳なのでこんなに筋道立った言葉で考えたわけではないが、だいたいこの通りのことを思った。
これは、大変な発見だった。過去は、過ぎてしまえばそのものとしてはもうなくなってしまう。だから誰もそこに戻って真実を確かめることはできない。だからなんぼ嘘をついてもそれが嘘でない可能性が残るのであって、じゃあ私はなんぼでも嘘をつくことができるのだ。それを考えるとクラクラッと気が軽くなった。


とはいえ、現実にはやっぱり、嘘は嘘とバレてそれで諸々の不都合が起きたり嘘をついたやつが信用を失ったりする。というのは世界には記録や証拠や私の言葉と相反する真実を知る信憑性ある他者の証言というものがあるからであって、嘘はなかなか万能を保ってはくれない。が、時折、偉い大人の人や地位ある人が、あたかもなんぼ嘘をついてもバレないと思い込んでいるかのような嘘のつき方をしたり、そんでもってすぐバレる嘘をついたりする場面に行き遭うことがある。そのたび、あ、この人の感覚、私が4歳のときに悟ったやつと同じなのでは? 分かるぜ! と思うのである。

 

ところでそれはそれとして、上述の「別に何の得にもならないウソをついてしまう」という現象はなんだったのか。実はこの癖はその後も続いて私を悩ませた。意図せずしてどうでもいいウソが口から出てしまい、どうでもいいことで、「ウソを言ってしまった」という罪悪感に苦しむことになる。
どのくらいどうでもいいかといえば、たとえば、小学生のときのどうでもいいウソ2選は以下のようなものである。(本当にどうでもいいので読んでも面白くないと思う。)

(1) 小学校の廊下の床には拭き掃除でも取れない細かなシミが浮いていた。それについてクラスの友人に、「いとこの学校でも同じ現象があるらしく、いとこが調べたところ他の学校でも有名らしい。そしてそれは霊のしわざという噂らしい」という話をした。そもそも床のシミ自体がどうでもいいことであり(誰も気にしない程度のシミだった)、作り話としても別に面白くない全くどうでもいいウソだった。「霊」という概念は当時クラスで流行っていたので、友人は「そうなん」と納得したようだったが、このウソはそれ以上展開することもなかった。だが「万が一いとこと友人が会ってしまってこの話になったらどうしよ」「友人が親に相談して霊現象でないと分かったらどうしよ」としばらく心配していた。

(2)「同級生Nちゃんの家はおせちにパンの耳を揚げたやつを入れる」というウソ。子供の頃しばしば、祖母がパンの耳を細かく切って揚げて砂糖をまぶしたものをおやつに出してくれることがあり、まあまあ気に入っていた。あるときそれを食べながら、「Nちゃんちはこれを正月のおせちに入れはるんやって」という話をした。別にその話をしたからといって、祖母がそのおやつを作ってくれる頻度が上がるわけでもないし、何か笑いがとれたり自慢になったりする類の作り話でもない。祖母は「へえ、家によっておせちもいろいろやな」とコメントしたものの薄い反応だった。例によってその後しばらく、「Nちゃんが遊びに来たときに祖母がこの話をしたらどうしよ」と不安を抱え続けていた。

 

以上、本当にどうでもいい嘘の話であり、本当にどうでもいいのだが、こうした嘘がバレるんじゃないかと不安になったときはいつも、「もし嘘だとバレたとしても、最後にはみんな死ぬんや」と考えて心をなだめていた。みんな死んでしまえば、何が嘘かどうかなんてどうでもよくなるし、嘘がバレて恥ずかしいとか後ろめたいとかもなくなってしまう、と、皆の死に期待をかけていた。どうでもよすぎるほどにどうでもいい嘘には不釣り合いに重い期待であった。

 

満月

月と同じに満ち欠けする俺たちの黒目は、廻る黒い円盤に合わせて広がったり縮んだり、同じ刺激-反応を何度も何度も阿呆みたいに、パブロフの犬は尾も振っていたの?


日曜の朝起きて頭の中で流れていた歌をふと口ずさんだら、ぺぐれす(仮)がTechnicsのプレイヤーに載せて回し始めたのは98年の音源だ。わたしたちは好きな音楽が似て同じ巣に棲むに至ったが、日頃はそんな話もあんまりしない、だけどこうして年に何度か突然に祭が始まってしまう。
そうなると、20年も前に初めて聴いて以来さんざん聴いた盤であるのに、何度も馬鹿みたいに踊ったり唸ったり語彙を失ったりし、しまいには自律神経もみょんみょんしてしまう。
そんでその日もすっかりおかしなテンションで休日を過ごす羽目になり、ターンテーブルマットの上で次に廻るはバームクーヘン、99年製の、年輪を追ってレコードの溝をくるくる廻っては左右にふれる猫の尾がふるふる。またこの感じかあ、わたしたちは失笑。この感じは14歳のときにあった。なんだろね、強度になった音が流れ込んだ内側から、つやつやの黒い銃を360°ぶっ放したい、だけど銃など持たないのではけ口を失った体液が体内でちまちまと煮え続けるだけ。


そのやり場の無さをわたしたちは何度も何度も。
休日の一日を、みょんみょんする交感神経を持て余したわれわれは無駄に自転車で走り始め、春の空気はぬるくて全然ピリッとしないが、昂奮したままお喋りを続ける。その盤にまつわる四方山を提供し合うのも何度も目かな。初めて聴いた頃のこと、その数年後のことやその数年後のこと、あのとき聴いたレコード、あのとき観たライブでどうこう、バームクーヘンの年輪に刻まれたそれらは廻り廻って新しく精製されるバターであって、思い出話のようだがぜんぜん思い出話にならない。過去の話のはずであるのにどこまでも現在のことで、充分眩しい初春の午後であるはずが光を取り込みすぎる開いた瞳孔のせいで痛い。そうする間も高速回転する盤上で、右へ左へ翻弄されつつ溝を追うのもまだまだ元気な老猫である。


わたしたちは、98年に聴いたレコードの話をする。同じ部分を何度も聴いては「かっこええ! かっこええ!」と言い合う。なんでギターがこの音からこの音へ移動するだけで「うおおお」となるのかとか、なんでここで打楽器がドドドドパパンととなるだけで「わあああ」となるのかとか、なんでかっこええと笑ってしまうのかなど、音楽のメカニズムはまことよう分からん。と言い合う。感動とか衝撃とか陳腐な表現だが適切な語彙がなくて困るね、音楽の感動は感動というよりも時に心的外傷に似ていて、「十四才」の比喩はまさに秀逸であるな、一発目の弾丸は眼球に命中、で、抜かれた眼窩は穴が開いたままや。ぺぐれす(仮)はその外傷に忠実であった。次は自分が撃つ側に、穴を穿つ側になってみたかったんだろう、少年は傷の蠢きを再現・再建しようとして楽器をもったんだと思う。ロックンロールに囚われちゃったら死ぬまで自由になれないんだって、と溜め息つきつつも、たまにかっこええやつをやる。いいね、会心の射出やん。
一方ですぐ文章で処理しようとしてしまうわたしはしかし語彙が圧倒的に不足。身体反応の記述以外にどう表せばええんか、比喩的表現以外でどう写せばええんか、困るなあ。ペンを武器に喩えて粋がってもペンはペンやし。赤い楽器をゴトリと置いたぺぐれす(仮)が寝静まってのち赤いノートをくぱっと開いちゃみたものの、しょぼいペン先からしょぼい分泌液をぽとぽと落とししょぼい白紙をしょぼく湿らすのみ。


もよんもよんした未分化の情動を散文に置き換えるはわたしにとって嗜癖的作業であったはずなのに一方でなんか味気なく。下手なせいかな。散文によって音楽製外傷に言及するんはちょっと足りない。下手やからかな。昔ロック雑誌で、音楽をセックスに喩えてる人がいて、よう分からんかったんですけど、それが性愛に似てるところがあるとするなら書かれることとの相性悪さかもしれませんねえ。かつて、まったき一体感の幻想を歩いたのち小指を解き八条口で見送る、電車が発車して残される際の、非言語の世界から言語に戻り、ペンを杖のように帰るときの、馴れた道具取り戻してどこかほっとすると同時に未分化の全能を去勢されたみたいな味気なさや。硝子張りの西口エスカレータ上より覗く、うっすら姿を見せた月はどうやら丸く、埋まったかと思うた眼窩がまだ空洞やった。

 

引き続き休日のわたしとぺぐれす(仮)は無駄に自転車で走り回りながら話した後、意味なく回転寿司屋に入り回転する寿司を捕まえる。120円の皿を獲っては広げて水玉状。皿を並べつつもまだ延々と、あれのイントロのここがかっこええよな、みたいな話をしており、四十も過ぎてまだこんなに浮かされたような気分になることがあるんですなとしみじみする。本当に本当に、十四歳時の外傷がまだフレッシュなのだね。くるくる廻るターンテーブル、くるくる廻る寿司のレーンで目も回りそうで、普段より一度ほど高い感じがするけど検温は平常やった。寿司を食べてまた無駄に走ってはお喋りして帰ってきたらば夜になっていたけれど、身体が妙に元気だから夜道を歩いて春の花を見にいこうということになる。わたしたちはフワフワ歩く。
郊外の夜道には誰もいない。時々遠くでバイクの声がしてまばらな街灯が路面に反射している。十四歳時に落としてきた、夜道に転がったわたしたちの眼球が、上転して月を見ている。暗いガード下を通り光る水路沿いを歩く。〇枚目のアルバムじゃどの曲が好き? 2曲目、おれもおれも、あれはハープとギターの掛け合いが好き、一緒一緒、だの、20年前から似たような話をしてるのにおしゃべりは止まらず、思わぬことで意見の一致を見て盛り上がっては、そんな話は20年前にしておけよ、とかセルフツッコミを入れ。口実の春の花を見上げると一緒に空が見え、いつしか雲が出て満月はおぼろ。どこまでも歩けそうではあるけれどそこで引き返し、引き返しつつもまだ浮足立っている深夜の路肩で、自動車が一台横転していた。警察が数名と、野次馬らしき人がいくらか集まっている。目撃者の一人が、中には二人乗っていたみたいです、と言っている。一人は既に助け出されました、もう一人の人はどこへ行ったのか分かりません、と言う。

 

 

 

 

引用:「十四才」(THE HIGH-LOWS)、「終身刑」(フラカン

尼崎toraの年越しの思い出

何年か前に、尼崎toraで年越しをした思い出を書く。なんで今書くかといえば、特に理由はなく、単に、面白かったなアと思い出したからである。

 

尼崎toraは、尼崎にある小さなライブハウスである。ぺぐれす(仮)のご縁でときどき行くようになった。出演するわけでなく客として観に行くだけであるが、いつもいろんな人が出ていて面白い。
立地も面白い。阪神の駅から長く伸びる商店街をずっと奥へ歩いた市場の一角に、ひっそりと、煤けた扉がある。最初に行ったときは、「こんなところにライブハウスが本当にあるのか?」と疑いながら商店街を延々と歩いた。辿り着いた市場はほぼシャッター街なので、ライブの始まる時間には既に闇の中である。暗い中手探りで入口を探す。

 

私は音楽は好きだがライブハウスはちょっと苦手だ。別にライブハウスが悪いわけでなく、単に人が集うところが苦手というこちら側の事情である。だがtoraは、なぜかあまり怖くない。理由は分からないが。スタッフさんたちが気さくであるためかもしれないし、手作り感のある雰囲気のせいかもしれない。ライブハウスというより「サークルの部室」的な雰囲気がある。サークルに属したことがないので実感のない喩えだが、サークルの部室が心地よくて入り浸る人というのは、こういう雰囲気を味わってるんやろな、という感じがする。


その尼崎toraの年越しイベントは、大みそかの明るいうちから始まり、日付が変わるまで続くというものだった。

昼間に着くと、フロアには畳が敷かれその真ん中にはちゃぶ台が置かれて皆が酒を飲んでいた。ライブハウスというか、「広い友達の家」感であった。
イベントは、日頃toraによく出演している演者が少しずつ持ち時間をもらい順番に演奏するという主旨であった。演者と客への一年の感謝を込めるという意味もあったらしく、
「2000円飲み放題(店の酒がなくなるまで)」
という触れ込みであった。
ステージに上がる人は、出る人出る人「はよ歌い終わって酒飲みたいです」と言い、実際降りるなり酒を飲んでいた。ライブというより「来た人が順繰りに歌っていく飲み会」のようだった。
私は酒を飲むとすぐ眠くなるので、途中で壁にもたれてうとうとしてしまった。その間の演者には悪いが、音楽が流れるところでうとうとするのは心地よかった。ライブハウスといえばでかい音であるが、騒がしい中で居眠りしてしまうくらいリラックスできるというのはふしぎなものだ。ぺぐれす(仮)が、轟音渦巻くライブハウスと誰もいない温泉は全然違うのに似てる、ということを言っており、それは、独りにさせてくれる場所、ということなのだと思う。片や音の中で、片や湯の中でではあるけれど、どちらも、ひととき外界から離れた孤独の場所を提供してくれるということだと思う。
私のライブハウス苦手というのも、おそらくは、来た人同士の社交とか皆で一体になって盛り上がろうみたいなノリが苦手なだけであり、本来そこは、音の中で独りになれる心地良い場所なのだ。

 


ライブハウスなのにカレーが異様に美味いというのもtoraの特徴である。レトルトのカレーでなくてちゃんと美味い肉が入っている(コロナ禍で営業できないときはカレーのデリバリーが行われていた)。この日もカレーを食べたが、昼から夜までの長丁場なので、カレーだけでは足りず、いったん抜けて近くの回転寿司で小腹を満たした。戻ってくると、いなかった小一時間の間に、場は更にぐでぐでになっていた。
皆ええ按配でステージに野次を飛ばし演者がいちいちそれに応えていた。この、野次によりステージとフロアに謎の一体感が生まれている、というのも、toraでよく見る風景である(たまたま私が行く回が野蛮寄りなだけで野次が飛ばない日もあるのかもしれないが……)。
toraはいろんなジャンルのいろんな人やバンドが出演するが、この日も、超上手いアコギ弾き語りの人、ピアノでポップソングを歌う人、「今どきこんな無頼派みたいな人がいるのか!」て感じのブルースマン、などいろんな人が出ていた。
そんな中で、私が特に見たかったのは「エンゲル係数」さんだった。
持参した大フリップをめくったりスクリーンに自作PVを流したりしながらギターを弾き語るステージであり、そのPVやフリップに異様に手間がかかっている。採算度外視なのである。そして、日常の些細な疑問や知識を歌った歌、といえばありがちなあるネタだと思われるかもしれないが、独自の視点の吸引力があり、魚卵について歌う歌やヒアリについて歌う歌が始まったときにはポカンとしていた初見の客たちは、秋刀魚の一生について歌う歌が始まる頃には次第にその世界に巻き込まれ、最終的には磁石と鉄について歌う歌で、一同拳をあげながらコール&レスポンスの大合唱となっていた。ええ大人たちが大晦日に何をしているのか? また、エンゲルさんの凄いのは、ギターも歌も妙に不安定なのに、本人には謎の安定感があるところである。その音楽にはときどき、全然違うはずなんだけど、ブルーハーツ的なポップ精神とパンク精神が感じられる。自分の世界をもっていてそれを淡々と表現する人は強い、と思わされた。


終盤には「スーパーギタリスト」が登場するとプログラムにあったので、「あー最後になんか上手い人が出るんやな」と思っていた。だが、クイーンの曲に合わせて登場したのは、紙袋で作ったへなへなの仮面をかぶったエアギターの人であった。いや、プログラムには「ギタリスト」とあるが、持っているのはベースであった。さらに、ストラップがないのでずっと左手で支えていなくてはならず、右手しか動かせないエアベースである。「誰やねん!」と野次が飛ぶ。

しかし、一曲弾き終えた(※弾いてない)スーパーギタリストが紙袋を脱ぎ「なんかすみません……」とステージを降りようとすると、まさかのアンコールが発生。 We are the champions が流され(※その前に別の曲が流れたが「それはできません」とスーパーギタリストが拒否したのだった……エアなのに)、再びエアギター(※エアベース・右手のみ)が始まると、場は異常な盛り上がりを見せた。「みんな立てや!」という声に煽られ、一斉に客たちが立ち上がり、何人かがステージに押し寄せた。ちなみに煽ったのは、別にスタッフでも演者でもなく一人の客であった。誰なんだ。ステージに乱入した人々は肩を組み満面の笑みで合唱を始めたが、一同サビしか歌えていない。

 めちゃくちゃやりにくい雰囲気の中、トリの演者が登場すると同時に、ライブハウス内には蕎麦の出汁の香りが充満し始めた。年越し蕎麦をふるまってくれるというのである。ますますライブハウスなのかなんなのか分からない。演奏途中で蕎麦が出来上がってしまい、トリの演者はギターを抱いたままステージで蕎麦を食べた。蕎麦に気を取られる客たちの前での熱唱、アウェイなはずなのに見事だった。

 

その後、年越しまで微妙に手持無沙汰な時間が余ってしまい、ギターを持つ人々がセッションを始めるものの、これもまた間がもたず、それぞれが「年越しまでまだ〇分もあるよ~」「それまで歌うことがない~」などと歌っていく形になる。それにしても音楽をやる人は皆即興でなんやかんやできるのがすごいなと思う。自分はこうした芸がないので、感心するばかりである。一方では、アーティストでもあるスタッフさんによるライブ・ペインティングが始まった。「俺の背中をキャンバスにしてほしい」と名乗りを上げた客がステージに上がり、「毛が絡んで描きづらい!」と言われながらも、背中に絵筆で絵を描かれてゆく。混沌のうちに年越しの瞬間となったが、スマホを見ながらそれぞれが「年越しまであと30秒!」「いや、あと1分!」「あと20秒」と違う時間を言い始める。時報を聴いてなんとか正確な時間にカウントダウン、その瞬間、背中をキャンバスにされていた彼がステージからフロアにダイブし、なんとそのまま突っ伏して爆睡し始めてしまった。半裸の背中にはこの年の干支であるイノシシが見事な筆で描かれていた。皆、足もとで赤子のように眠る彼の背中を見守った。エンゲルさんが、PVを投射していた白いスクリーンを、毛布代わりに着せ掛けた。

 

年が明け、皆で近くの神社に初詣することになり、演者も客もおかしなテンションのままゾロゾロと歩いた。こんな大勢での初詣は初めてだった。そのほとんどが誰だか知らない人であるが、記憶に残る年越しである。去年はコロナ禍の中、ライブハウスがなんだかウイルスと悪の巣窟である怖い場所のように言われたりもしたが、このように、音と孤と一時の愉快な縁の巣窟でもあるのだよ、と一応結び的なことを書いておきたい。

靴下を切り刻む

「考えたら分かるやん!」というのを昔からよく言われる。言われて痛いフレーズのひとつであるが、たしかに他人からすればそうも言いたくなるであろう失敗をしょっちゅうするのは事実なのでしょうがない。そこまで極端に論理的思考ができないわけではない(と自分では思っている)のだが、この年齢になってもまだ言われる。

 


4歳くらいの頃、靴下を切り刻んでしまったのも、「考えたら分かるやん」案件であった。
母に与えられた靴下で気に入っていたものだったが、自分で切り刻んだ。


最初は爪先の一部にハサミを入れて、さらにその横にハサミを入れて、とハサミを入れ続けていたらばいつのまにか靴下はズタズタになっていた。なっていた、というか自分がしたわけであり、そうなるのはまさに「考えたら分かる」ことであったのだが、惨状に気づいて泣き出した私は、それを母のもとへ持っていき、「靴下を切った」と訴えた。
自分でやったことを自分で号泣しながら訴える娘に母は、
「自分で切ったん? なんでそんなことしたん?」
と困惑&溜め息混じりに問うた。尤もな問いである。
「足がチクチクしたから」
とりあえず娘はそう説明したが、母は「はあ?」という反応であった。またも尤もな反応である。自分でも説明しながら「はあ?」と思っていたのだから。だが、じゃあどうして、といわれれば説明ができない。たしかに最初に「足がチクチクする」と感じたのは本当だったかもしれない。縫い目か何かが皮膚に障ったのだろう。しかし、だからといって生地を切る必要がないことは、自分でも薄々分かっていた。切ってしまっては履けなくなる。ましてや、一箇所だけならまだしも全体をズタズタにする必要はない。
「こんなんもう履けへんわ」
変わり果てた靴下を手に母は絶望的な宣告をし、娘は更に号泣した。自業自得である。
「おじいちゃんやったら直せる?」
と私は訊いた。母方祖父は器用な人で、何かが壊れるたび母は祖父に修理していってもらっていたので、そこに一縷の望みをかけたのであったが、
「こんなんはおじいちゃんにも直せへんわ」
と言われ、不可逆のことがこの世にあることを娘は知った。


「切ってしもたんはしゃあないし、また新しいの買うわ」とかなんとか母が慰めてくれてこの件は終わった。しかしこの記憶はその後も、ことあるごとに苦い気持ちで思い出されることになった。それは、そんな「考えたら分かる」ようなことを自分がなぜしてしまったのか、ずっと説明がつかず、その説明のつかなさがずっと引っかかっていたからだと思う。その説明のつかなさは、自分にとって大事なものである気がした。
「チクチクするからその原因を排除するため」という、一応子供なりの理屈は立っていたはずだが、それだけではない。切り刻みながら自分でも、「これは違うな」と思っていたはずなのだ。何なら最初のハサミを入れた時点で既に、それが解決法として不適であるという自覚はあったはずなのに、その過ちを糊塗しようとしてなぜか同じことを重ねてしまった。そして何がそんなふうに自分を動かしたのか分からない。

 

類似の思い出は他にも数多ある。たとえば砂山蹴り崩し事件。幼稚園の砂場で皆で砂山を作っており完成間近となったとき、立ち上がって足で蹴り崩し(当然ながら)皆に糾弾された。
これには、「手で固めるより足で固めるほうが早いと考えた」という理屈が一応あった。手より足のほうが力が強いので合理的に思えたのだ。それを主張すると幼稚園の先生は「わざとやったんとちゃうんやね、みんなのためと思ったんやね」とかばってくれた。
しかしこれも、一応はその理屈を主張しつつ、またかばってくれた先生を有難く思いつつ、何かその理屈では動機の半分しか説明できていない感じもしていた。立ち上がって足を出した時点で既に、「これは違うな」とどこかで感じてもいて、だがそれにも関わらず蹴り崩してしまった、ような気がする。しかしその、もう半分の動機の正体が何なのか、自分でも分からない。

 


子供の頃は誰でもこういったことがあるのでないかと思う(知らんけど)。だが大人になってもちょくちょく類似の過ちをする。「考えたら分かる」ようなことを、うすうす「これは違うな」と思いながらやってしまう、という過ちである。
とりわけ長じてからは、人間関係に関してこの類の過ちをすることが増えた。人間関係全般に失敗するわけではない。ただ、ここぞというとき、重要なときに限ってそうしたタイプの失敗をする。


たとえば(あくまで一例であるが)、この関係を大事にしよう、とか、この人は傷つけないようにしよう、とか思って慎重に慎重に相手の気持ちを慮って行動……したときに限ってろくでもない結果になる。こうすれば相手はこう思うだろうからこう対応しよう、ああ言えばこの人はこう感じるだろう、と、慎重な推論に基づいて行動したはずだったのに、その結果関係が破綻する。またはその逆の場合もある。強い意志で関係を終了させようとしたのに失敗するような場合である。そしてそれらは後で考えれば、「なんであのときああした/言ったのか、あかんやろ、普通に考えたら分かるやん」と思うタイプの失敗なのである。

 

推論に基づいた行動が誤っているということは、一体何が誤っているのだろうか。
単に推論のどこかに理論的な誤りがあったということなのか。それとも、そもそも対人関係というものにおいて「推論」という手段を用いることが誤っているのか。
そうであるとすれば、それは、対人関係において重要であろう情を置き去りにして理だけを暴走させたことの誤りであるのか。あるいは、情を伴っていなかったのでなく、伏在したはずの自分の情を自分で認識できぬまま、何かを抑圧して捏ね上げた理であったからということか。
そうすると結局、なんであのとき靴下を切り刻んだのか、なんで砂山を蹴り崩したのか、というところへ戻ってくる。

 

私はサリーとアン課題について、求められる答えを出すことができる。
サリーとアンが玩具で遊んでいる。玩具を棚にしまってサリーは部屋を出ていった。サリーが不在の間にアンは玩具を籠の中に移す。戻ってきたサリーはどこを探すでしょうか。
棚の中です、と答えることができる。実際の玩具は籠の中だけれどもサリーはそれを知らないから、と、サリーの視点に立って答えることができる。ここまではできる。なんなら、棚に玩具が見当たらず困惑するサリーの気持ちも想像できる。だけどそのとき、アンは何を思っているんだろう。アンに何て声をかければいい?
精神科医内海健さんが、『自閉症スペクトラムの精神病理――星をつぐ人たちのために』(医学書院、2015)という本の中で、サリーとアン課題において、自閉症者にとって困難であるのは実はサリーの心の推論でなくてアンの方である、ということを書いておられ、なるほど、と思った。自閉症スペクトラム論であるから、自閉症の「心の理論仮説」への異議としての文脈で書いておられたことであるので、ここで引き合いに出してよいか分からないが、しかし自分のこれまでの躓きを思うとたしかにそれらは、対サリーではなく対アンの躓きである気がする。
サリーの心は「推論」という方略で理解できる。だが、玩具を隠したアンの心はブラックボックスだ。それは、その場面固有の文脈や雰囲気をふまえつつ直観でもって自然に「共感」することでしか理解できない何かなんだろう。対人関係でやらかしてしまう「考えたら(自然な共感ができたら)分かる」ような失敗は、もしかすると、「考えても(推論しても)分からない」あるいは「考えたら(推論したら)分からない」類の失敗なのかもしれない。


アンの心、他人の心はブラックボックスである。ただし自然な直観的共感があれば、スッと容易くアクセスできるブラックボックスである。でも、何かがその自然な共感を妨害する。よって間違えてしまう。妨害している何かはたぶん自分の中にある何かだが、そのとき自分もまたブラックボックスである。私はこの関係を本当に大事にしたい(したくない)のでしょうか、私はこの人を本当に傷つけたくない(傷つけたい)のでしょうか、もしや本当は✕✕✕✕なのでしょうか、私は本当に砂山を破壊したくないのでしょうか、本当に母が買ってくれた靴下を切り刻みたくなかったのでしょうか、とかなんとか言いながら、玩具を転々と隠し続けることになる。

蝉が死んでいく作文

たいした栄光のない人生の中で数少ない栄光は、小3のとき何かの作文コンクールで入選したことである。何のコンクールだったか、たぶん実家に未だにこのときの盾があるので見れば分かると思うがまあいい。しかしこの入選は特に嬉しいものでもなかった。

 

 

夏休みが終わってしばらくした頃、先生が言った。

「あなたの〇月〇日の日記がとてもよかったの。これを作文コンクールに出してみようと思うから、原稿用紙に清書してみない?」

夏休みには宿題として日記が課されており、毎日ではないがまあまあまめに書いていた。新学期にまとめてノート一冊を先生に提出した。そのうちのある一日の日記が良いと先生は言うのだが、私にとっては旅行に行った日でもなく友達と遊んだ日でもない、特筆すべきことのない平凡な日の記録のひとつに過ぎなかった。なぜ先生がわざわざそんな日記の清書を勧めるのかよく分からない。

 

それは、蝉が死んでいくという内容の日記だった。

近所の子の間で蝉取りは夏の遊びのひとつだった。私は、一緒に虫獲り網を持って走っても、運動神経がトロいためになかなか蝉を捕らえられなかったが、ある日、神社の岩の上にいた蝉を捕らえた。蝉を捕まえるなんて初めてのことで嬉しかった。だが、せっかく捕まえた蝉はだんだん弱ってきてしまい……。というような内容だった。かなり長い日記だったので実際はその間の細かな経緯や蝉の様子の観察や蝉をめぐる親との会話などが挟まれるのであるが、おおまかな筋はそんな感じだったと思う。

「最後、蝉をもとの場所に逃がしたあと、何度も何度も蝉のほうをふり返った、というところが、あなたの気持ちがよく出ていてとてもいいと思いました」

と先生は言ったが、よく分からなかった。

 

それは私にとってはそんなに劇的な出来事でもなかった。私に捕らえられる時点で、ある程度弱っている蝉だというのは薄々分かっていたし、弱っていた蝉を捕まえたらだんだん死にそうになっていった、という当然の経緯だったのである。そしていよいよ死にそうになったので、せっかく捕まえて愛着の湧いた蝉だし惜しくはあったけれども、最後は外で死なせてやろうと思ったのだったか単に持て余したのだったか、もとの岩の上に放置して去った、というだけのことであった。そんな作文がそんなに先生の心を打つとは予想外であったが、先生にコンクールに出すからと言われれば小3の子にはそれは絶対なので、ともかく「土日のあいだに蝉の日記を原稿用紙に清書してくること」が宿題となった。

 

 

原稿用紙10枚程度の文章だったと思う。既にある文章を書き写すだけなので10枚くらいさっさと済みそうなものだが、なぜかこの作業は難航した。小3にとっては400×10字書くのはそれなりに大仕事、ということもあっただろうが、面白くない作業だったからでもあろう。文章を書くのは好きだったが字を書くのは別に好きではなかった。自分では特にどこがよいのか分からない文章をもう一度書き写すというのは、苦痛な単純作業でしかなかった。

原稿用紙にひと文字ひと文字書き写す作業をしながら、そこに書かれていた(自分が書いた)はずの蝉を捕らえたときの喜びや、手の中で弱りゆく蝉への気持ちや、蝉と別れるときの寂しさや哀惜や気がかりな思いは、もはや単に色をもたないひと文字ひと文字に解体されていき、その文字の海をまっすぐ泳ぐだけの作業は終わりが見えないかのようで、私はただただだるかった。机に向ってはすぐにだらける私を見て、親は「さっさとしてしまいよし」と怒った。「作文を先生がコンクールに出さはるんやって」と言ったときは誉めてくれたのに。

土曜の午後に始めた清書は、日曜になっても終わらず、私はひたすらだらだらしていた。日曜は、親戚のTさんのおばあさんのお見舞いに行くことになっていた。私も本当は皆と出かけたかったが、「うちは清書が終わらへんから行けへん」と拗ねた。父が「うちのおじいちゃんが具合悪いときTさんちの子らもお見舞いに来てくれたんやから、うちも行かなあかん」と言ったが、私が拗ね続けているので私を置いて行ってしまった。Tさんのおばあさんはほどなくして亡くなったので、会えないままの別れとなった。

 

清書はまる一日かかった。

帰ってきた母親にできあがった原稿を見せた。一通りチェックし終わった母が訊いた。

「何でこんなふうに直したん」

蝉を岩の上に置いていくくだりで、「鳥が来て食べられるかもしれないと思いました、今度からはもっと別の場所に逃がしてやろうと思いました」というような文があった。その二つ目の「思いました」を「心がけたいです」に直していたのだった。

「なんや『心がけたいです』ていやらしいわ」

と母が言うので、「『思いました』が2つ続くからおかしいと思った」と修正の意図を説明すると、

「べつにええやん、その方が素直な感じでずっとええわ」

と言われ、大人は子供の作文に、「素直さ」とかそういうものを求めるのだな、ということが分かった。いったん「心がけたいです」に直したのを「思いました」に戻すとマスが余ってしまう。また清書し直さなあかんのかとぞっとしたが、母は、「ええやんそれで、線を引いて消しといたら」と言うのでそのようにした。あんなに時間をかけて清書したのにそんなええ加減でいいのか、という気持ちになった。

 

 

ところで私は物持ちが良く、小学生時代の作文は入学直後に書いたものからほぼ実家に保管しているのであるが、この作文だけ見つからない。コンクールに送ってしまったからであろう。入選後、文集のようなものをもらったかもしれないが見当たらない。主催団体(まだあるのか分からないが)に問い合わせたら、保管されていたりするだろうか。30年も前のものだが。もう一度読んでみたい気はする。

翌年も、コンクールに応募するため作文を書かされた。今度は応募が前提だった。先生が転任する前の記念として、各児童の何らかの作品を何らかに応募すると言い出した。

「それぞれ得意なものを出そうと思うの、Kさんなら習字、Mさんなら絵、村田さんなら作文、というように」

と、わざわざ名指しで言われたので、二匹目の泥鰌を狙うというのか、入選を狙うつもりで書いた。しかし、書いてる途中に「これはなんか面白くないな」と悟った。「お母さんが妹ばかりひいきする」という内容で、妹に嫉妬する気持ちや淋しい気持ちを赤裸々に素直に描いたものではあったが、どうも大人ウケを狙いすぎたようでダメだった。「素直さを狙いすぎてもダメなんやな」と分かった。