ビー玉の金魚鉢

あれはなんというのか、シーグラス風のインテリア。曇り硝子状の濃いブルー、クリアな薄いブルー、それから透明のビー玉を透明な鉢や硝子瓶に詰めたあのオブジェ。名前があるのか分かりませんが、あれを見ると未だにときめく。いつも、永遠に80年代趣味やねと笑われるのであるが、その通り80年代的な建築やインテリアが好きで、中でもあの瓶詰ビー玉オブジェが好き。といってあれが80年代に発生したものかどうか知らないのだが。あれの発祥っていつ・どこなのかしらん。と、問題提起しておきながら今回はそれについては調べずあれの思い出を記す。

 

幼い頃は、男の子たちの中で遊ぶことが多かった。というと、紅一点とかなんとかサーの姫とかいった言葉が浮かぶが、自分は単に女の子の友達が少なかっただけであり、紅や姫としての扱いを受けることはなく、むしろダメ一点という感じで虐げられていた。というとまた気になるからこそいじめてしまう的なあれかと思われそうだが、たぶん単に本気でウザがられていたと思う。ウザがられていた理由としては、トロいうえにびびりだったからであろう。オタサーのダメである。今と同じか。

 

近所でよく遊んでいたのは、ケン君(仮名)とユウキ君(仮名)というひとつ年下の男の子たちだった。ケン君は乱暴者でやんちゃ、ユウキ君はおっとりしていた。優しいのはユウキ君だったが、私はケン君のほうが好きだった。私は乱暴者が好きなのだった。しかし、これが難しいところで、乱暴者は好きだが乱暴は嫌いだった。三人で遊ぶと、だいたい私が途中でギャーとかキャーとか泣きわめいて終わる。ケン君は「これやから女は嫌や」とやれやれし、ユウキ君がなだめてくれる。私には年上のお姉さんとしての威厳は無かった。泣きわめいた具体的な理由は覚えていないが、だいたいケン君が何か乱暴なことをしてそうなるのだった。

 

あるとき、ケン君の5歳の誕生日パーティーに招かれた。ケン君の家にはそれまでも何度か遊びに行っていた。白亜のような玄関を入ると、広いフローリングの居間があり、テーブルに食事が並んでいた。テーブルの周りは10名ほどの子どもたちがいた。いつもはケン君とユウキ君と私の三人だけだが、習い事などケン君の他のコミュニティの友人たちであったのだろう。全員男の子であり、ユウキ君以外は知らない子だった。知らない子たちの中に女子ひとりである私は隅っこで小さくなった。

それぞれがケン君に誕生日プレゼントを贈呈した。私も何か親が見つくろったものをプレゼントしたと思われるが、覚えていない。覚えているのはその後、ケン君のご両親からのプレゼント贈呈である。ご両親が、ラッピングされた大きな包みを渡した。ケン君は包みを開け、

「わあ! ほしかったんや!」

と歓声を上げた。野球のバットだった。野球は当時男の子たちの一番メジャーな遊びだった。 ケン君はそれを担ぎ何度か得意げに素振りした。そして言った。

「これ、金属バットやぞ!」

 

そのバットが実際に金属バットだったのかどうかは分からない。もっとちゃちな、おもちゃのようなバットだった気もする。しかし、このひと言で、私の身体は縮み上がった。当時「金属バット」という言葉には特別な含意があった。それは、1980年に神奈川で起こった金属バット殺人を連想させる言葉だった。今でいう「教育虐待」を受けていた浪人生が両親を金属バットで撲殺した事件であった。1980年当時私たちはまだ物心ついていないはずであるので、この頃判決が出たことで再び話題になりその事件名を耳にするようになったのであろう。といっても、事件の経緯や詳しいことはほぼ知らなかった。ただ「金属バット」という強そうな言葉と「殺人」が結びついたのである。「金属バット」は暴力的でちょっとカッコイイ言葉になったのである。

それが証拠にケン君は、金属(?)バットを振り回しながら何度も、

「金属バット! 金属バット!」

と言い、

「これで殴ったら死ぬんやで」

とも言った。まさかやんちゃなケン君でも人をバットで殺すようなことはしないだろう、第一あれが本当に金属バットか分からない、と思いながらも身体は強張った。殺すつもりはなくても、当たってしまうかもしれない。ケン君はリビングの一番奥でバットを振り、私は入口近くにいた。広いリビングであるから、どう考えてもバットが当たることはない。しかし、なんかの間違いで当たってしまったら、あるいはケン君が突然おかしくなって、こっちに走って殴りにきたら。そんなことを想像するうちにさあっと手足は冷たくなった。誕生日パーティーに来たことを後悔した。

 

食事にするからそれは置いて、とお母さんがバットを片付けさせ、私は心からほっとした。その後、お母さんが作った食べ物やお菓子が運ばれてきて、ケーキも出てきたと思う。が、その間じゅう私は気が気でなかった。

今は手にしていないとはいえ、同じ部屋にあのバットが在るのだ。部屋の隅に置かれたそのバットが、食べているときもその後にゲームをしているときもずっと目に入り、それはきれいなリビングの中のくろぐろとした異物のような存在感を放ち、この部屋からなくなったらええのに、どっかにやってくれへんかな、なんでバットなんかあげるのか、ケン君のおっちゃんとおばちゃんがバットなんかあげなければ、とそればかり頭に浮かぶ。今はケン君はバットを手にしていないし、手にしたからといってたぶんあれは金属バットじゃないし、金属バットだったとして本当にそれで人を殺すことなんて無いはずだと分かっているのに、そいつが在る側に向いた身体の半分がぴりぴりと緊張して、腹から胸にかけての中がずっとざわざわと落ち着かぬ。

そのざわざわになることがよくあった。たとえば親に琵琶湖に連れていかれた際。父に手を取られ泳いでいたときに、父がふと、「下、気いつけや、黒いのあるぞ」と言った。水面下でよく見えなんだが、水の底にたしかに黒い小さい何かがあって、尖った石か何かのゴミであったのだろうが、父が「ジョーズやで、なんてな」と言ったのである。ジョーズでないことは5歳児でも分かった。そんなジョーズがあるはずない。黒くて一部尖っていることしか共通点は無い。しかし、その後はもうダメで、泳いでいても、底に足をついてしまえば大変なことになってしまうような恐怖でいっぱいであり浜に上がってもあのジョーズが沈んでいたあたりが気になって恐ろしくてしょうがない。腹や胸の中がざわざわして顔面が白くなっているのが自分でも分かる。ジョーズと言ったのは、父のどうでもいい冗談であったはずなのに。

 

結局その後、私は金属バットと同一空間に存在し続ける緊張感に耐えられなくなったのであろう、ボードゲームをしている最中にまた何らかのやんちゃをきっかけにキャーとかギャーとか泣きわめき出し、ケン君にしてみれば自分の誕生日パーティーでご機嫌にしているところへ面倒臭い年上の女子がキレ始めたので面白くなくますます意地悪なことを言い、私はますます泣きわめいた。

「よしよし、おばちゃんと一緒に二階行こ」

ケン君の家で私が泣きわめいたことは初めてではなく、お母さんは手慣れたものであった。これが始まると二階の小部屋へ連れていってくれる。私はお母さんに連れられ階段を上った。あのバットのある部屋から離れられてほっとした。男の子たちは面倒なやつが去ったのでまたにぎやかに遊び始めた。

二階の寝室の隣の小部屋には、大きな熱帯魚の水槽があった。私がこのモードになると、お母さんはこの部屋へ連れて水槽を見せてくれるのだ。ブルーの水槽、水草の中に、赤く光る小さな魚たちやしましまの魚たちがいた。私はこの水槽を見るのが好きだった。家でも何度も「ケン君の家で水槽を見せてもらった」という話をした。今思えば、ケン君の家は、広いフローリングでパーティーをしたり大きな水槽があったりお金持ちの家だったのだろうが、当時は特にそんなことも意識せず、大人になったらこういう水槽のある家に住めるのかと思っていた。ケン君の家がお金持ちだと知ったのはけっこう成長してからで、「ケン君はええとこ受験せなあかんで大変らしい、あそこはちゃんとしたお家やからな」と大人たちが話すのを聴いて、あんな乱暴者だったのにお坊ちゃんだったのか、と知ったのだった。一方その頃には、おっとりしていたユウキ君はグレていた。

「男の子ばっかりやしいややんなあ、ここでおばちゃんとゆっくりしてよ」

お母さんは、水槽の前の白いソファに一緒に座ってくれた。ソファの前には小さなガラスのテーブルがあり、金魚鉢が置かれていた。金魚鉢の中には、曇り硝子状のブルー、クリアな薄いブルー、そして透明のビー玉がキラキラしていて、私はそれを眺めるのも好きだった。これなんなん? なんで青のと水色のと白のがあるん? ビー玉出してもいい? とりとめない質問に、そやねえ、これはまあ、ただの飾り、なんでかなあ、きれいやから、ええよ、と答えつつ、おばちゃんは私の背に目線を合わせて一緒に、取り出したビー玉を眺めてくれるのだった。

 

通信添削の思い出(ガッツ石松)

ツイッターでまた、「中年になっても昔の模試の成績の話をし続ける人」がバカにされていた。この件では、それ自体がバカにされていたというよりは他に批判される文脈があった中でのことのようだが、ともあれ、いつまで模試の順位やら偏差値やらの話をしてるんや、みたいな嘲笑はしばしば目にする。

しかし、自分は過去の栄光にこだわる人を見るのは嫌いではない。もちろん直接自慢話を聞かされるのはうっとうしいけど、よそに眺めている分には、まあそれがその人の心の支えであるのだな、ならばしょうがないのでは、と思う。誰もが今を生きられるわけではない。学業成績に限らず過去の栄光にこだわる者は全般的に滑稽だが(それ以降何も成していないことを示していることになるので)、過去栄光執着者の中でも、やはり大学受験での栄光を語り続ける人はとりわけ嘲笑されがちな気がする。「大人になっても延々とセンター試験の得点の話をするやつ」はもはや愚かでウザいやつの典型像である。やや気の毒な気もする。バカにされる理由としては、大学受験というのは本来何らかの目的(大学で何々を勉強してその後何々をする、とか)のための手段であるからだろう。手段段階での栄光をそんな大事にされてもな、って感じだ。また、受験勉強というのは「本当の勉強」とみなされない傾向がある(よく「受験勉強と大学に入ってからor社会に出てからの勉強は違うんだよ」みたいなことが言われる)。これにはいろいろ思うところはあるけど、たしかに受験勉強がうまくいくとかいかないとかは、本人の努力や資質よりも環境や運の力が大きいとは思う。まあそれも受験勉強に限ったことでもないか。……となんか話が散らかってしまったけど、ともあれ、そんなこんなであっても、受験勉強時代の栄光が本人の心の拠り所であるならしょうがないし、私は彼らを笑えない、私もまた、いつまでも、Z会ネームが「牛姫様ホル子」であった過去を語り続けるものであるのだから……。

 

そんなわけでZ会の思い出について書きたい。

高校時代から浪人時代にかけて、一、二年ほどZ会の通信添削を受けていた。本当は、小学生の頃から「進研ゼミ」に憧れがあった。ご存じの通り、進研ゼミは子どもたちの心をつかむ広告をさかんに送ってくる。「進研ゼミで勉強し始めたら成績がみるみる上がったうえ気になる子とも両想いになってその他すべてがなんか知らんけどいろいろよくなってハッピー!!」みたいな広告漫画である。子どもたちは皆あの漫画を信じていたわけではなく、よく友人たちと「こんな上手くいくわけないやろ!」とつっこみを入れていたが、にもかかわらず「もしかしたら!」という思いで騙される友人は後を絶たなかった。私は、成績がみるみる上がってすべていろいろハッピーになる可能性以上に、進研ゼミに入ると送られてくるという諸々キャラクターグッズと、「赤ペン先生」とのやりとりができることに惹かれていた。私は文通好きの子どもだったので、赤ペン先生と文通がしてみたかった。赤ペン先生は可愛いイラストとかも描いてくれるという。しかし、自分は文通とグッズに惹かれているだけで勉強がしたいわけではない、という自覚があったので、親に進研ゼミをねだることはなかった。

大学受験となると、さすがにキャラグッズはどうでもいいので硬派なやつにしよう、と考え、通信添削の中では硬派であるらしいZ会にしたのだが、Z会にも添削者とコメントのやりとりをできるスペースがあったので嬉しかった。古文の答案に、なんちゃって古典的仮名遣いでコメントを書いてみたところ、添削者が正しい古典的仮名遣いに添削してきて「うわあっ」と思うなどした。

答案とともに、毎回会報のような冊子が送られてきた。これには受講者たちの投稿コーナーがあり、私はそれを教材以上に熟読していた。昔から雑誌の投稿コーナーが好きだったのだ。今ツイッターとかブログとかが好きなのもその延長だと思う。投稿コーナーではZ会用語のようなものが飛び交っていた。「今から白い悪魔をやっつけます!」「白い悪魔を退治しました」などとある。「白い悪魔」というのは届いたばかりの白紙の答案のことらしい。また「今回は日帰り答案です!」「日帰り答案は無理でした」などとあるのは、問題が届いたその日に解いて返送することを指す。私は毎回締め切りを過ぎて返送していたので、日帰り答案とか言ってる人たちはZ会ガチ勢だと思われた。「受験オタクや、やばいなあ」と思いながらガチ勢の投稿を読んでいた。Z会ではZ会ネームを設定でき、投稿が採用されたりランキングに入ったりするとZ会ネームで会報に掲載されるのだ。「牛姫様ホル子」は一度だけ何かで掲載され、他校の友人に発見されて「おまえやろ」的なことを言われた。

会報には、ライトな投稿を載せるコーナーとシリアスな投稿を載せるコーナーがあった(ように記憶しているが、同時期にロキノンを読んでいたためそれと混同しているかもしれない、ロキノンには普通の投稿コーナーと「リーダーズレビュー」コーナーがあったので)。シリアスな投稿コーナーに掲載された、医学部を目指す女の子の投稿を今でも覚えている。「みんな日々受験で大変な思いをしていると思います。しかし、私の友人は、医師になりたいのに、家庭の事情で大学を受験することができません。どうすればいいというわけではないけれど、こういう人がいるということも覚えておいてください」というような内容だった。

 

 

実は、Z会以前にも、短期間受けていた通信添削があった。しかし、そちらにはいい思い出が無い。

中学生の頃、あまりに勉強しない娘を心配した母が勝手に申し込んだのだったが、母は娘のレベルも知らずやたら難しいやつを申し込んだため、まったく手がつけられないまま放置された答案が雪だるま式に溜まっていった。母には「提出した」と申告していたが、白紙の答案を学習デスクの中に溜め込んでいたためバレた。ある日、友達と遊びにいこうとすると母に「今日は溜めてる答案を出してしまいよし」と申し渡され、友達との遊びを断ってしぶしぶ部屋にこもり机に向かったものの、基礎もできていないのにハイレベルな応用ばかりの問題が解けるわけがない。何も分からない。教科書でカンニングしようにも何をどう調べていいかも分からない。せめて比較的得意な国語だけでも手をつけようとしたが、それすら半分も分からない。私は親の前に行き、

「うわああああ」

と言いながらゴロンゴロン転がってみせた。雪だるま式に膨らんだ答案のプレッシャーによる心の叫びであると同時に、「こんなんムリ!なんでこんなんせなあかんねん!」のデモンストレーションでもあった。親がどう反応したか覚えていないが、その後の人生もずっとこのゴロンゴロンが続いているような気がする。

 

しかし、この通信添削の会報にも投稿コーナーがあり、それにはせっせと短文やらイラストやらを投稿して景品のナップサックをもらうなどしていた。これは、「仕事の〆切を破りながらSNSの投稿をする」パターンに似ている。

会報ではときどき、作文コンテストが開かれた。図書券かなんかがもらえるので私も投稿したが、入選しなかった。入選者の学校名を見ると、自分でも知っているような進学校だった。進学校の子なんて出木杉君みたいな優等生ばかりだろうと勝手にイメージしていたので、出木杉の作文なんて絶対面白くないやろ、うちの方がマシなはずや、と思って読み始めたその作文が、面白くてびっくりした。今でも覚えているのは、京都の某中学の男の子による「ガッツ石松」の作文である。

 

彼は、いつも、自分はちょっと人と違うんじゃないか、と悩んでいた。友人と喋っていても自分だけおかしなことを言ってしまっているような気がする。しかし、あるときテレビを観ていたら、

「トラックの『バックします』という声が『ガッツ石松』に聞こえてしまってしょうがない」

という人が出ていた。何度聞いても「ガッツ石松」に聞こえるのだという。彼はこのテレビ番組にとても励まされた。世の中にはいろんな人がいる。「バックします」が「ガッツ石松」に聞こえたっていいんだ。自分も、「ガッツ石松」に聞こえるんだ、と思いながら生きていこう。

 

と、記憶による要約ではあるがそのような内容だった。

私は、進学校の子なんて面白味のないマシーンのような秀才だとばかり思っていたので、こんなふうに悩んでる人もいるんや、みんなそれぞれ悩んでるんやな、とハッとした。かつ、その悩みを軽妙な文章で表現している点に感心した。そして、そのテレビ番組が見てみたいな、と思った。

数年後、私は、『探偵!ナイトスクープ』がその番組であったことを知る。「ガッツ石松」の回は、1992年に桂小枝探偵が担当した「爆笑小ネタ集」の中のひとつであったようだ(要確認)。私も総集編でその回を観ることができた。名作とされる「日本一周中の息子」回を母が泣き笑いしながら観ており、私も一緒に観るようになった。西田局長に代わってからのことはあまり知らず、最近は全然観なくなってしまったが、この頃(90年代後半頃)は、ほんとうに毎週この番組が楽しみだった。病弱キャラで薬に詳しい立原さん、渋いネタが多くどこか知的な越前屋俵太、「パラダイス」といえば桂小枝、など好きな探偵もこの頃が最も多かった。すなわち上岡龍太郎時代でもある。先日、上岡龍太郎の訃報を聞いた。ご冥福を、などという言葉はこの人には似合わない気がするので言わないが、私の中でナイトスクープといえば今でも上岡龍太郎局長である。「いつまでも受験時代の栄光にこだわるやつの話」だったはずがナイトスクープの話になってしまった。

 

 

 

おぢいに評価された絵

母方祖父(おぢい)の話はこれまでも何度かネットで書いているので「またか」とお思いの方もあるだろうが、そんな熱心に私の書き物をコンプリートしている読者がいるとも思えないし、また一定の年齢になると人は、同じ話を何度もするものだと思うので、まあよいとしてほしい。

 

母方祖父(おぢい)の家は、私が物心ついたころには、いろんな骨董(本人とその家族は「ガラクタ」あるいは「ごもく」と呼んでいた)、趣味の本、本人が作った彫刻や工芸品でいっぱいだった。おぢいは「ごもく集め」を趣味とし、手先が器用で、自らいろんなものを作る他、親戚が持ってくる壊れた時計だとか食器だとかの「直し屋さん」(といっても料金をとるわけではない)をしていた。おぢいは無口で、いつも小刻みに震え、部屋着の着物を着て、あまり家から出なかった。社交的ではなかったし、見た目も偏屈の仙人のようだったし、私はずっと、おぢいは「直し屋さん」をしたり彫刻を売ったりして生計を立ててるんやろうなあ、と思っていた。おぢいが普通にサラリーマンだったことを知ったのは、かなり大人になってからである。エッ、勤め人だったの!? あれで!!?? とかなり衝撃を受けた。

 

私はおぢいを敬愛してはいたが、しかしおぢいが自分の得意な人間のタイプかというと、微妙であった。身内ではあるので普通に戯れかかってはいたが、いつも何かを見抜かれているような、どこか緊張するような感じがあった。私には「敬愛できてかつ親しい人物」というのが少なくて「敬愛するが苦手な人物」がすごく多い。特に、男性で何か作品を作る人(作家とかミュージシャンとか)で好きな人物はほぼこのタイプだ。そのタイプの原初がおぢいだったといえよう。

 

特にその感じを感じるのは、描いたものをおぢいに見せるときだった。描いたものといってもべつにたいしたものではない。私は子供の頃から落描きが好きで、母の実家に行ってもよくチラシの裏に漫画のようなものを描いていた。そして母の実家で描いたものはおぢいの目を通ることになる。自分で見せにいったのか、周囲の大人が「こんなん描いてるで」と見せていたのかは覚えていないが、ともあれ、私のチラシの裏を受け取ると、そんなどうでもええ落描きには不釣り合いな真剣なまなざしでおぢいは、眼鏡を外したりかけ直したり、紙を近づけたり遠ざけたり、またたびたび裏返してみたりしながら、じっくり鑑賞する(裏返すのはおそらく骨董の銘を見るときの癖だったのであろう)。だんだんこちらは、そうまでして見てもらうものでもないので、もうええって、というようなこそばゆい気持ちになってくる。紙を持つ手はいつも小刻みに震えている。後で母に聞いたところでは、手が震えるのはあるとき急に始まったらしいので、加齢による何らかの不調であったのだろうが、当時の私にはそれも何かおぢいの仙人らしさというか芸術家らしさというかそういうものの表れに見えたのであった。紙を返してもらう頃には、すっかり気恥ずかしくなっている。おぢいは多くは語らないが、時々、「ここはちょっと変やな」「こうしたらええんちゃうか」というような真面目なコメントをした。気に入ったらしいときには、「面白いですがな、ホッホ」と言葉少なに笑った。

 

一度、窘められたこともあった。技術的なことではなく倫理的なことである。8歳くらいの頃、年下のいとこを揶揄うような絵ばかり描いていたことがあった。私としては、年下の子に注目が集まることが少し妬ましかったところもあり、また母の実家というのは自分の家と違って子供らしく「いちびる」ことができる場であったので、「〇〇(いとこ)はハゲ」とかそんな意地悪な絵ばかり描いていたのだが、それをおぢいが、

「あんたは将来漫画家になりたいんやろ、漫画ていうのは人を幸せにするものとちゃうんか、せっかく絵ェ描くんやったら人を喜ばせる絵ェ描かんと」

といつもの飄々とした調子ではあるが窘めたのであった。私は、「漫画家になりたい」というのはそんなに本気で言っていたわけではなかったが、芸術家で仙人であるおぢいにそんなふうに言われて「ウッ」と思った。しかし一方で、「漫画ていうのは人を幸せにするもの」という主張には、「そうかなぁ」と、何か納得いかないものもあった。

このことは、2015年、或るイラストレーターの「そうだ、難民しよう」が話題になったときに思い出した。絵の良し悪しは私には分からないが、人物の顔や身体、髪、服の皺がひとつひとつ描かれ影もつけてある。それは(写真のトレースとはいえ)時間のかかることだろうし、ソフトの操作を習得する労力も使ってきたことだろう。そんなせっかくかけた労力やせっかく得た技術を、こんなことに使うのか、と考えると、作者と「〇〇はハゲ」を描く自分が重なった。しかしそれでもやはり、「漫画家ていうのは人を幸せにするもの」ということには依然「そうかなぁ」と思うのであった。

 

 

話が逸れたが、そのように、おぢいは私にとって、慕わしい祖父でありつつ、どこか畏怖の対象であり緊張させられる人であった。私が大きくなると、子供の頃のようにチラシの裏に描いたものを見せることもそう無くなったが、我が家からの年賀状の絵は毎年私が描いていたので、毎年おぢいはそれを震える手で持ち、遠ざけたり近づけたり裏返したりしながら見ていたことだろう。正月には毎年挨拶に行っていたが、特にそれらについてのコメントは印象に無いので、たいしたことは言われなかったのだと思う。しかしそんな中で一度、後から伯母に、

「おぢいが今年のあんたの年賀状を気に入って、『これはええ、これはええ』て言うて飾って何度も見てはった」

と聞かされた年があった。

それが、これである。

 

 

 

 

何故!?!?!?

これは2000年の年賀状だが、家族からは「きもい」と不評であった。自分でもなぜこれを賀状にしたのかよく分からない。おぢいもこれの何を気に入ったのか分からない。伯母によると「おぢいはコチャコチャ描き込んであるのが好き」ということだったが。たしかにコチャコチャしてはいるが。しかし、晩年のおぢいが、正月に一枚一枚賀状を吟味し、ぷるぷるふるえる腕でこいつを持ち上げて「ホホッ」と笑って裏返してはまた「ホホッ」と笑ってくれていたであろう光景を思うと、今でも少し嬉しくならないこともない。

 

 

 

 

 

ふたりの優等生の思い出

小学校に、Aちゃんという女の子が転校してきた。三年生か四年生の頃だったか。

Aちゃんは、転校してくるやすぐにクラスの中心人物になった。

彼女は快活で明るい性格だった。女子はすぐに彼女をグループに迎え入れ、男子は早速「Aちゃんが好きになった」という者が現れた。Aちゃんは成績も良くしっかりしていて、勉強だけでなく運動もできて、どうやら家も裕福そうであった。完璧だ。かといって分け隔てもせず、クラスの中の目立たない子にも優しく接する。もともと学校にいた私などよりも学校に馴染んでいた。そうした性質は転校を繰り返す中で獲得されたものなのかもしれない。Aちゃんは何度目かの転校だった。「転校ってこわくない?」と私が尋ねると、

「全然こわくない、友達つくるのが特技だから」

とAちゃんは言った。この「友達をつくるのが特技」という感覚が、あれから30年経っても私にはまったく分からない。

 

さて、Aちゃんを陽の優等生とするなら、陰の優等生とでもいうべきはB君であった。

彼は別に転校生ではなく、入学時からこの学校にいたのだが、入学時から浮いていた。

B君は学業成績は抜群によく、その点では優等生であったが、それ以外の点ではむしろ問題児であったといえる。頭は良いし口にすることも正論であるが、いちいち厭味な言い方をするので皆はそれを嫌った。文集の作文に皆が読めない難しい漢字や皆が知らない難しい格言を書く。「これどういうこと」と尋ねると、鼻で笑うように解説された。つまり変人なのだった。彼は「終わりの会」の「今日誰々にいやなことをされました/言われました」コーナーにおける被糾弾の常連であった。ちなみにAちゃんとは違い、勉強はできるが運動はできなかった(私とビリを競っていた)。

 

しかしあるとき、陽の優等生・Aちゃんが、陰の優等生・B君を褒めたことがある。

ホームルームか休憩時間か場面は忘れたが、先生も交えて、「クラスの皆は将来何になるだろう」という話をしていたときだった。誰々は走るの速いからスポーツ選手やね、誰々はおうちのお店を継ぐんやろね、と目立った特徴のある何人かの名が挙げられる中で、B君の名はなかなか挙がらなかったのであるが、ふとAちゃんが、

「B君は弁護士になったらいいと思う、だってすごく正義感が強いもん」

と言ったのだった。

「弁護士」がどういう職業か私はよく知らなかったが、ハッとした。クラスの他の子も、虚を突かれたような感じだった。というのは、それまでB君の長所に言及することがあっても、皆「いやなやつやな、勉強はできるけど」「勉強はできるけど、勉強しかできひん」などというように、勉学のことにしか触れなかったのであり、そしてそれは勉学以外の面への貶めとセットになっていたのであり、公然とB君の人格面に肯定的に言及したのはAちゃんが初めてだったからだ。B君自身も、驚いたような表情をしていた。普段あまり表情を変えないのに。そしてたしかにB君は、厭味だがいつも正論を言うし、物事の評価は公平だし、Aちゃんが「正義感が強い」と言ったのは言われてみればなるほど、と思うポイントであった。さすが自らも長所だらけの人は、他人の長所を見つけるのも上手なのであるなあ、というようなことを私は思い感心した。その話題はそのまま流れて、Aちゃん自身はそんな発言は忘れてしまったかもしれないが、なぜかこのことはその後もずっと覚えていた。

 

やがて中学生になった。Aちゃんは同じ中学だったがほとんど交流はなくなった。B君はどこか賢い学校へ行った。

以前にも書いたが、中学時代というのは私にとって嫌な時代だ。

小学校は、「きれいごと」であるような理念、たとえば「人間は自由で平等だ」とか「誰もが自分らしさを大切に」とかそうした理念が、正しいものとして信じられている世界であった。もちろん現実が理念通りであったわけではないし、そんな理念を信じていられぬ事情のあった人もいただろうが、少なくともそれらは信じるべき建前として機能しており、かつ、小学校の優等生とは、そうした理念に自らを沿わせ理念を背負える子たちのことであった。彼ら彼女らは眩しかった。それが中学に入ると、そうした理念に反する「世俗」が急に正しいものとして台頭し始めた。部活動での理不尽な上下関係を先生が黙認していることや進学とか偏差値とかいうことが大事になり始めたことは「人間は平等」という理念の否定であったし、男子はズボンで女子はスカート、男子は技術で女子は家庭科、という突然のジェンダー規範は、「自分らしさを大切に」とかいう理念の否定であった。といっても理念は理念として一応残っていて、しかし完全に空疎な形になっていて、よってそれを非現実的で「小学生気分」(という揶揄を先輩や教師はよく用いた)の残る子供じみたものとして嘲笑しつつ、「世俗」に順応してゆける者が偉いことになる。小学校時代に理念を信じていたと思われた子たちが、続々と世俗に順応してゆくことに、私は戸惑った。べつに自分だけが正しい理念に生きていた、というわけでなく、自分もそこで薄汚れていった、あるいは前から既に理念に生きられていなかった(からこそ優等生たちが眩しかった)のであるが。

 

或るとき中学の廊下ですれ違ったAちゃんは、粗暴な男子のグループと喋っていた。女とみれば性的な冗談を投げてくるそやつらは、清潔なAちゃんと合わない気がしたが、Aちゃんは楽しそうに喋っていた。会話の中で、そやつらと一緒にAちゃんは、障害のある或る生徒を性的に貶めるような蔭口を言っていた。私はややショックを受けた。小学生の頃Aちゃんは、私の障害のある妹にもいつも親切にしてくれていたのに。それで先生に褒められるほどであったのに。

 

時間が流れ、なんやかんやあり、私は大学生になった。同じ大学の法学部に、B君の姿を見つけた。小学校の頃と驚くほど見た目の変わらぬ彼は、弁護士を目指して勉強していた。彼の選択が、あの日のAちゃんの言葉を受けてのものなのか、それとは関係ないのかは、尋ねたこともないので分からない。しかし、もしそこに、意識的であれ無意識的であれAちゃんの言葉が影響していたとするなら、人の何気ない一言というのは大きいものだなあと思う。もし、B君にとって何の影響もなかったにしても、少なくとも私は、たぶん本人が忘れているであろうAちゃんの言葉をなぜか覚え続けていて、おかげでB君を「正義感の強い人」として記憶し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逆転サヨナラ満塁五条別れ

この年齢になっても初めてのことはあるもので、初めて野球の試合を最後まで見た。これまで野球のルールを何度か人に教えてもらったが一向に覚えられない。小学生の頃にクラスでキックベースをさせられたことがあるが、まるでルールが分からずとにかく人から「走って」とか「止まって」とか指示されるままに動いていただけだった。漫画や小説、歌の歌詞やものの喩えに野球が出てくるときは、その都度調べるかあるいはなんとなく雰囲気で流していた。しかしそろそろ野球をちゃんと理解したい。一試合見ながら確認したら覚えられるのではないかと思った。それまで断片的に聴いたことのある、ファウルとかヒットとか三振とかが一応なんだか分かった。ビギナーなので細かいルールは分からないし、皆こんな複雑なものを理解して楽しんでるんだなと感心するばかりで、何が起こっているのかを自力で判断するまでは行けなかったが、家人に解説されながら見るとなるほどこれはこういう理由でこういう状態になっているのだなと一応理解することができた。話題の人であるがよく知らなかった選手のことも分かったし、観ているとなんとなく好きな感じの選手もできてきた。そして私が初めて最後まで見たその試合は、かなり良い試合であったらしい。もう駄目かと思われたJAPANは最後の最後で巻き返し、MEXICOに逆転勝ちをした。例によって私は自力ではJAPANの勝ちを判断できなかったのだが、走った選手がホームベースに帰ってくる(という言い方で合っている?)とベンチにいた選手たちがわらわらと現れ喜び合い始め、TVの中の人たちと家人が「うおおお」というような声を上げたため、これでJAPANの勝ちが決まったのか、と分かったのだった。9回の裏では相手方は抑えるのみだからもうどうしようもないのだそうだ。逆転サヨナラ勝ちだ! あ、これがサヨナラ勝ちか。

サヨナラ勝ちは勝たれたほう(「勝たれた」というのは迷惑受身か)すなわち負けたほうにしてみればサヨナラ負けであり、サヨナラ勝ち・サヨナラ負けという言葉は知っていたので、今回の試合で実際それを目にしてこれがそうかと思ったのだった。サヨナラ勝ちをした者たちは喜びに包まれ、何らかの液体をかけ合っていた。そうか、これがサヨナラか。私の思っていたサヨナラと少し違った。午前中は冷房を入れてはいけないというルールがなんとなくあって、冷房を入れるのは午後からだ。思えば子供時代の日本の夏は今に比べればずいぶん涼しかったのだ。やっと障子を締め切って冷房が効き始めた奥の部屋で、白い開襟シャツを痩せた胸に張り付かせながら、「うひゃあ、サヨナラ負けやあ」と野球中継を聴いていた祖父がいう。サヨナラ、と祖父が言った瞬間、ラジオの音が、古いエアコンの音が、外の通りの声が、ふわっと消えて窓の外の夏の空に吸い込まれていく。もう後がない。もう後がない。私たちはいつか永久に別れるときが来る。ラジオが消えて、走り回っていた選手たちの姿が消えて、祖父の姿が消えて、球場の上の空には白い雲だけが浮かんでいる。もう何もない。

「五条別れ」という地名もまた、「サヨナラ勝ち/負け」と似たイメージを喚起した。父の運転する車に乗りどこかへ行く。「こっち行ったら五条別れやな」「五条別れのほうから行こか」と両親が言う。そのたびに、キュッと胸の奥を掴まれるような感じがして、遠い道の向こうから、絣の着物に身を包んだ二人の女がやってきて、ひとりは年かさでひとりはまだ幼い。母娘なのか友人同士か姉妹なのかまたは恋人なのか分からないが、二人の運命はここで分かたれて、ずっと一緒に居たいはずなのに、ここで二人はそれぞれの途に分かれてゆかなくてはならない。年かさのほうの女が険しい途を歩き出し、幼い女を振り返る。雪が降っている。雪の中で幼い女は不安げに唇を開き、歩いてゆく年かさの女の背を見ている。もしかしたら戻ってきてくれる、と願っているのだろうしかし、歩き出した彼女は戻ることはないし、振り出した雪はようよう激しくなって二人の間を真っ白に染め互いの姿ももう見えない。ここで別れた二人は、二度と生涯会うことはない。かわいそうなゾケサたちのように。悲しい。悲しい。
「五条別れってなんなん?」

「場所の名前や」

「なんで別れっていうの」

「追分とおんなじや。片方の道は三条で、片方の道は五条に行くねん」

「それがなんで別れなん」

「だから、そういう名前やねん」

 どうも親の言っていることはよく分からない。しかし、この人たちともいつか別れなくてはいけないことは分かる。車はそこへ近づいている。いやだ、五条別れに行きたくない。二つの道を隔てる朽ちた標か有刺鉄線だけがあり、きっと荒涼とした、幾人もの涙を吸ってきた地。

「五条別れてどこなん」

「もうさっき通りすぎたで」

 普通の道路だった。

 

 

救急車が来る!

わが町内の民は、救急車が大好きだ。あるとき家に帰ると、近所の人たちが皆戸外に出てなんとなくワクワクとした感を醸していた。何か、と思ったら救急車が来ていたのだった。わが家の者も例外ではなく、救急車の音にはやたら敏感で、室内でのんびりしていても救急車の音がきこえると条件反射のように身体が動き、様子を見に行く。火事も大好きである。実家時代、学校か仕事に行こうとして、あれ、チャリがないな、と思うと、父か祖父が火事を見に行っているのであった。自転車を使うくらいの距離だから、自宅への延焼を心配して様子を見に行くとかではなく、ただ純粋に火事を見に行っているのである。もし燃えたのが自分ちだったら当然イヤだ。知った家で火事があったら同情するし悲しむし手助けもする。まったくの他人の不幸だと楽しい、かといえばそういうわけでもなく、見に行った先で燃えてる家を見ればやはり気の毒に思うしまして死人や怪我人が出れば心を痛める。しかし、それはそれとして、とにかく火事を見に行くのが好きなのである。

 

 

町内に救急車が来るときの標準的なパターンを、あるケースを例として書いてみる。

救急車が表の通りに入ってきた音が聞こえ、我が家のすぐ近くでストップした。我が家は夕食時であったが、父と祖父(祖父はもういないがこの二人が我が家の救急車大好き二大巨頭であった)がまず「お、近くや」「なんやなんや」と席を立った。少し遅れて母や私も覗きにいった(女性陣は比較的救急車に消極的であった。家事等で忙しかった事情もあるかもしれない。しかし結局は見に行くのだった)。

表の戸を開けると、同町内のおじさんが、ペッカー とした輝くばかりの笑顔で走っていた。こんな良い笑顔がこの世にあるのか。何かをやり遂げた後のスポーツ選手のような最上の笑顔。このおじさんは救急車番長で、救急車がやってくるといつも一番に飛び出してくる。どんなに早く外に出ても、必ずこのおじさんが先に飛び出しているのだった。

救急車は我が家のすぐそばで停まっていた。どうも、町内の奥の家らしい。我らに続いて町内の各戸からワラワラと人が出てきたので、誰が情報源ともなく、「奥のおうちの人が倒れてはったんやて」というのが伝言ゲームのように伝わってくるのだった。わが町内は現代の都市においてはつながりが緊密なほうではあるが、全員が顔見知りというわけではなく、付き合いのない人も多い。奥の家の人は、会えば挨拶くらいはするがほとんど知らない人であった。しかし、「誰々が見つけはったらしいで」「ご家族は?」「~で働いてはるらしい」「~で働いてはるんか」「もうおいくつくらいやろ」「子供さんが~歳やから~歳くらいちゃうか」などなど、急速に当該人物についての情報が交換されるのだった。

救急車番長のおじさんとうちの父がいつの間にかいない。気がつくと彼らは、交差点のところで交通整理をしていた。救急車が細い道で停まったため、他の車が道を通れない。よって他の車に迂回するよう自主的に案内をしているのだった。

町内の名物夫婦がフラフラと帰ってきた。彼らはよく二人で飲みに行っている。ときどき酔っ払いすぎて奥さんが電柱にぶつかったり路端で落ちてたりする。家に入るより先に「おお~、どないしたんや」と野次馬たちのところへ寄ってきた。「奥の家の●●はんが」と野次馬が説明する。酔っぱらってエエ気分の彼らには、救急車の赤いランプもネオンのように見えていただろう。今は気楽な野次馬側である我らだが、この夫婦の家に救急車が来たこともあるし我が家の者が倒れて救急車を呼んだこともある。そのときはこうして集まられる側であった。これがイヤで我が家は救急車に「サイレンを消してきてくれ」と頼んだのであったが、町内民たちはどうしてか察知してぞろぞろ出てきたのであった。

 

野次馬の中から、担架が運び出されてきた。担架が救急車に乗せられた。酔っぱらっていた奥さんが急にシッカリした眼になり、「あれはもうあかんわ、足の形がこう開いてたもん」と言った。奥さんは医療関係者なのだった。

 

救急車が去ると、救急車後社交が始まった。いったん戸外に出てきた一同はなかなか家に入りがたいようだ。考えてみれば、こんなに町内の者がこぞって戸外に出て顔を合わせるのは、祭りのときくらいなのである。なんとなしに目の合った者同士、〇〇はんもうリタイアしはったんやっけ? 今は悠々自適か? ええなあ、 いやもう毎日家にいてあかんわ、△△さんは今どっか勤めてはるん? へえ、お兄ちゃん大学上がらはったんや、ええとこやん、へえそう、うちんとこなあ、なかなか結婚せえへんねん、まあ今の若い人は昔と違うて遅いから、そうそう、好きにしはったらええわ、とかなんとかご近所情報が更新・交換される。交差点では、救急車番長のおじさんが停止していた車たちに礼を言い、通行止めを解除しているのだった。

 

どろぼう

 麦藁帽の老女。私。杖をついた老女。三名が順番に乗り込み扉が閉まろうというときに、
「ああ~ん、閉めちゃダメえ、待ってえ、乗せてえ」
 と若い女が乗り込んできた。
 妙に色っぽい発声だ。小さな駅のホームと改札階を行き来するだけのエレベータであるが、逃がしたら二度とは来ない天国行の列車が出てしまうかのように、大仰に息を切らしている。その芝居がかった一連の態度に反し、女はごく地味な風体だった。
 四名の女はエレベータの四隅にそれぞれ収まり改札階への到着を待った。四方を守る守り神のように。私は後方の一隅に、地味な女は私の前方に立った。
「ひぐっ、ううう、あはあん」
 突然地味な女が肩を大きく揺すり両手で顔面を覆った。泣き声が発されていた。
「あはあああん、✕✕だよぉ、✕✕よぉ、ああああ」
 麦藁帽の老女は何も見えぬかのように宙を睨んでいる。杖をついた老女は、女の泣き声にビクッと身体を震わせてみせたものの、無言である。何か声をかけたほうがよいのか。こうしたときは年嵩の者が何か声をかけるんじゃないのか。ほら、おばあさんってお節介だったりするし。だが老女たちは無言を貫いている。この雰囲気の中で声をかけられそうにない。それに声をかけるといって一体何と。「大丈夫ですか」?、いや大丈夫じゃないだろう。「✕✕よぉ」が「痛いよぉ」であれば「救急車呼びますか?」が使えるが、それは、「痛いよぉ」とも聞こえるし「ひどいよぉ」とも聞こえるし、「苦しいよぉ」「悔しいよぉ」と言っているようでもある。
 エレベータは改札階に着いた。ホーム階からわずか30秒もかからぬはずだが、ひどく長い時間を閉じ込められていたかに感じた。扉が開き、泣いていた女が降り、ボタン側後方に立っていた私が「開」ボタンを押して扉の開きを保持し、次いで二人の老女が軽く会釈しながら降りた。泣いていた女は何事もなかったように顔を上げ、普通の足取りでスタスタと歩いて改札の向こうへ消えた。「開」ボタンから指を離しながら最後に降りた私は、女の背中が見えなくなったのを確認し、やはり声をかけて何があったのか尋ねればよかった、と遅ればせながらに好奇心を覚えたがもう遅かった。


 改札を出、女が消えていった住宅街とは逆側へ折れる。仕事で疲れたので本来ならすぐに帰宅したいのであるが、今日は交番に寄らねばならない。盗難の被害届を出すのだ。
 先日、我が家の郵便受けに届いたはずの荷物が何者かによって盗まれた。昨今は、運送会社が投函してくれた時点で「配送が完了しました」という通知が送られてくるサービスがある。先日の昼間にその通知を受け取り、仕事から帰宅して郵便受けを覗いたが、届いたはずの荷物は無かった。運送会社に問い合わせたところ、間違いなく我が家の郵便受けに投函したという。

「ええ、確かにこのポストに投函したんスけどね、でも1ミリほどはみ出してたかもなんで、誰が引っぱり出しちゃったのかもっスね」

 わざわざマンションの集合ポストまで再度確認に来てくれた運送会社のドライバーは申し訳なさそうに言った。まだ若い金髪の青年だった。アルバイトかもしれない。
「とにかくこっちは投函はしたんで。あとは何もできないす」
 青年は簡潔に言い残して再びトラックで去った。自分宛ての荷物が自分が手にしないうちに消えてしまったというのは、なんとも頼りなく若干気味が悪い心持ちであるが、その心持ちに寄り添ってくれることを要求するのは、運送会社のサービスの範囲もアルバイトかもしれない青年の業務の範囲も超えていると思われるので、私はしばらく未練がましく集合ポストの前をウロウロしたのち部屋へ戻った。
 盗まれたと思われるものはたいしたものではなかった。通販で買った古着だ。特に高価でもない。しかし自分の郵便受けから誰かが荷物を引っぱり出したと思うと愉快でない。集合ポストのあるスペースの天井には監視カメラがついている。私はマンションの管理会社に頼み、監視カメラを確認してもらおうと思いついた。本当に盗難なのかどうかだけでも確認したい。

「えー? 監視カメラって、そちらのマンションについてましたっけ?」
 電話に出た管理会社の女性はそう言った。自分の会社の管理物件だというのにまったく自信無さげであった。
「ええ、集合ポストのスペースについています」
「そうだったかなあ、ついてなかった気がするんだけど」
 気がするも何も、カメラの存在はさっき見たのである。
「で、荷物が投函された時刻は分かりますんで、その後の様子を映像で確認していただくってできませんかね?」
「うーん、ちょっと見られるか分からないですね。もしかしたらダミーかもしれないし。前の担当者がやめちゃってそのカメラを誰がつけたのか分からないし、ダミーじゃなくても、映像の見方が分からないかもしれないです」
 女性は要領を得ないことを言った。映像の見方が分からないかもしれないなら、分かるか分からないかまず調べてくれればいいではないか。何のための監視カメラなのだ。この管理会社はいつもこうなのだ。以前、マンションの駐輪所の自転車がイタズラされたことがあった。ちょっと気味が悪いイタズラだったので、せめて注意喚起の貼り紙でもしてほしいと頼んだが、そのときも、「貼り紙ねえ、今ちょっと担当がいないんで、まあ担当に伝えるんで、様子を見て、必要があったら」と貼り紙程度のことで渋りまくり、結局うやむやになった。実際、人が次々辞めていく会社であるらしく、できるだけ人手を使いたくないのだろう。よほど労働環境が良くないのか、入居して四年で担当は五人以上交代しているし、この女性も本当に何も分からないのかもしれぬ。
「機会あれば担当に伝えておきますんで、盗難ならまずは警察に届けてくださいよ」
 まったくやる気のなさそうなことを言われ、じゃあそうします、ということにした。被害届を出すのは初めてだったので一応「盗難 被害届 出し方」で検索したところ、Q&Aサイトが見つかった。「盗難に遭って被害届を出したいんですがどうすればいいですか」という人に回答者たちが、「最寄りの交番で事情を話せば出せますよ」「印鑑を持っていきましょう」と親切に回答してやっている。しかし一名だけなぜか質問者にキレている奴がいた。
「被害届? あなたは正気ですか? やめておきなさい。そんな少額の盗難で被害届を出す人なんかいませんよ。いい笑い者になるでしょうし、市民の安全を守るため日々忙しい警察の方に迷惑です。第一、被害届を出したら出した側も無事では済みませんよ。被害者の側も指紋を取られますし私生活を根掘り葉掘り訊かれます。さらに自分の防犯意識の甘さを叱責されるでしょう。それでも被害届を出すんですか?」。
 なぜそんなに、おそらく他人と思われるこの質問者が被害届を出すのを阻止しようとするんだ、泥棒本人なのか?



「盗難の被害届を出したいんですが」
 交番に入ると、蒸し暑い駅前から一転冷房が効いていた。デスクに掛けていた若い警官が顔を上げた。
「盗難というのは、どういった?」
「自宅の郵便受けから荷物を盗まれまして」
「ほほう、どうして盗まれたということが分かりました?」
「運送会社から投函済みの通知が来たんですが、その荷物が入ってなかったんです」
「一戸建てですか、マンションですか」
「マンションです」
「マンションですと集合ポストですか」
「そうです」
「近隣に誤配されている可能性はないですかねえ?」
「運送会社のドライバーさんにも既に問い合わせたんですが、たしかにうちの郵便受けに投函したとのことでした」
「ふーむ」
「どうした?」
 上司らしきスキンヘッドの警官が奥から現れた。
「盗難だそうです。郵便受けから荷物を盗まれたとのことで」
「どうして盗まれたということが分かりました?」
 スキンヘッドの警官は若い警官と同じことを尋ねた。
「運送会社から投函済みの通知が来たんですが、その荷物が入ってなかったんです」
 私も同じ内容を繰り返した。
「一戸建てですか、マンションですか」
「マンションの集合ポストです」
「んー、近隣に誤配されている可能性はないですかね?」
「ないです。運送会社のドライバーさんにも既に問い合わせました」
 同じことを繰り返させられ、私は若干苛立った。最初にこちらの勘違いである可能性を排除しておかねばならないのは理解できるが。ひと通りの確認ののち、「では詳しく状況を聞かせてもらいます。まずはお名前、住所が分かるものを見せてください」とやっと若い警官がメモを取る姿勢に入り、私は免許証を出した。
「フモレスク荘の502号室、こちらの集合ポストで被害があったということですね。502号室ということは、お住まいは5階ですか」
「いえ、4階なんです」
「502なのに? 4階なんですか?」

 久しぶりに訊かれた。そう、私のマンションには「4階」が無いことになっていた。物理的な4階はあるのであるが、部屋番号にもエレベータの階数ボタンにも「4」は無い。4を抜かして3階の次は5階ということになっているのである。これは日本にはよくあることで、「死」に通ずる「4」、「苦」に通ずる「9」は忌み番号とされ、それを抜かしてナンバリングされることがある。子供の頃、近所の駐車場には4番が欠けており、親に「4は死に番だから避けているのよ」と教えられて以来、その駐車場の前を通ると背筋がゾワッと冷える感じがした。欠落しているということが逆に、不穏な何者かの存在を強く示しているように感じられたのだった。だがそんな習俗にもすっかり慣れて、最近は502号室が4階であることに特に何の感慨も抱かなくなっていた。

「失礼ですが、何か、思い当たるご近所トラブルは無いですか? こうした場合、単なる盗難というよりも、近所の人が怨恨で厭がらせをしているというケースもあるんです。たとえば騒音トラブルとか、マンション内の揉め事とか」

 ふと、302号室のおっさんの顔が頭をよぎった。
 302号室のおっさんは、階段やエントランスで遭うとやたらじっとりした視線でこちらを凝視してくる人物だ。302号室は3階であり、4階である我が502号室の真下である。もしかすると私の足音や声がおっさんの気に障っている可能性がある。私は一人暮らしであるからさほど喧しくすることはないはずだが、時折過去の腹立たしい記憶などを想起して、
「ああああ、ひどいよおおおおお、死にたいよおおお」
 と叫んでしまう悪癖があった。
 また、私はひそかに、以前に住民の自転車に変なイタズラをしたのもこのおっさんでないかと疑っていた。おっさんは日中にマンションのエントランスや駐輪所の付近を何をするでもなくウロウロしていることがある。痩せた背を丸めながら不審な挙動をし、目だけがいつも物言いたげだ。しかし、警察に言うほどの確証があるわけではなかった。

「いえ、無いと思いますね」
 と答えるしかない。若い警官は難しい顔でメモを取り、スキンヘッド警官も後ろでふむむと唸った。
「では、盗まれたものについて詳しく聞かせてください。その荷物の中身は何でしたか?」
「衣類です」
「ネット通販か何かで買われたんですかね? 新品ですか?」
「古着です」
「価格はいくらでしたか」
「古着なので安いもので……680円くらいです」
 警察二人の手を煩わせて被害を訴えるには少額であるので、私はやや恐縮した。
「680円くらい、と。ええと、どのような衣類ですか? トップスとかボトムとか、アウターとか」
 若い警官は若いだけあってオシャレな表現をした。
「シャツ……です」
「どんなシャツか詳しくお聞かせください。色は何色ですか」
「黒系、だったかな」
「何か模様は入っていますか」
「……ロゴが入っています」
「ロゴということは文字ですかね。ブランド名ですか? 英語?」
「日本語………だと思います」
「日本語のロゴね。何というロゴですか?」
「………エロ本は自分で買え」
「はい?」
「……エロ本は自分で買え、です……」


 これについては説明させてほしい。「エロ本は自分で買え」という文字がプリントされたシャツを、何も、外出着にしようと思って買ったわけではない。現に交番にいる今は特に変哲もないワンピースを着ている。この二年間、大学時代の友人らと月イチでオンライン女子会を開いている。その会のために購入したのである。
 この飲み会は、コロナ禍のあおりを喰って失職したA子を励ますという主旨で始めたのが最初であった。その際、さぞ落ち込んでいるだろうと思われたA子は、「同情するなら職をくれ!」と昔の人気ドラマのパロディの文言が墨字で大書きされたTシャツを着て画面に現れ、「そんなもんどこで見つけたんだ」「失職したのに無駄な金使うなよ」と爆笑をさらったのだった。幸いA子は無事新たな職を見つけたが、これを発端に、オンライン女子会の際は互いに面白Tシャツを見せ合うのが習いとなった。各自くだらないイラストやダジャレやネットミームが書かれたものを着て現れては、誰のものが一番笑いを誘うかを競うようになった。私も先月は、写実的なリンゴの絵の上に「バナナ」という文字がプリントされたシュールなTシャツで優勝を勝ち取った。次回も優勝を狙うべく「Tシャツ ネタ」「Tシャツ 面白」「笑いをとれるTシャツ」などの検索ワードでネットショップを徘徊する中で、「エロ本は自分で買え」Tシャツに巡り合ったのである。一時期、海外で日本語のグッズが流行り、作っている側も意味を知らない日本語を適当にプリントしたグッズが出回ったらしい。これはそうした、天然の面白Tシャツのひとつであるようだった。
 さらにその文言は、仲間うちで有名なB子の逸話と響き合っていた。惚れっぽいB子は学生時代、そこそこクズな彼氏と付き合っていた。サークルで同学年だった彼の愛嬌と優しさに惹かれて付き合い始めたのであったが、どうも彼氏が家に来た後に財布の中身が減っていることにB子は気づいた。恋人同士の気安さであろうと当初は大目に見ていたが、二度三度と続くと気になって信頼のおける先輩に相談したところ、先輩も、彼がサークル部屋の備品をいくつか失敬していることが気になっていたというのである。そこから、彼と懇意のサークルメンバーがことごとく盗難被害に遭っていることが判明した。中には、彼を家に招いた後、本棚からエッチな漫画だけが数冊なくなっていたという男子もいて、B子はそれを聞いて途端に情けなくなり別れを決めたそうだ。その後もB子はそこそこクズな男とばかり付き合っているが、そのたびに「エロ漫画泥棒よりはマシでしょ」「もしかしたらエロ漫画泥棒よりひどくね?」と彼を引き合いに出すのがわれわれのお約束であった。

 このようなコンテクストがあったうえでの「エロ本は自分で買え」であったのであるが、今はおそらく、そのコンテクストを詳細に説明することは求められていなかった。他にも通販で買ったものは多々あるのに、まさかピンポイントで「エロ本は自分で買え」シャツが盗まれるとは思っていなかった。


「すみません、ええと、確認ですが、そのシャツにはロゴが入ってるんですよね?」
「はい……エロ本は自分で買え、と……」
「エロ本は自分で買え? というロゴ? ですか……?」
「そうです」
「それがシャツに書かれてあるの?」
「そうです」
 二人の警官は、私の頭から爪先の間に素早く眼差しを往復させた。
「………」
「………」
「『エロ本』の『エロ』は片仮名、『本』は『本物』の『本』でよろしかったですかね。で、『は、自分で買え』……ですね?」
「はい……」
 若い警官とスキンヘッドの警官はいったん奥にひっこみ、何かを相談していた。私は壁に貼られている指名手配犯の特徴が書かれたポスターを見ながら待った。ポスターはずいぶん退色していた。冷房のパワーが落ちたのか、急に交番内が蒸し暑くなった。汗を拭こうとしたところで警官が奥から出てきた。

「お待たせしました。では、盗難ということだろうとは思われますが、まずは防犯カメラを調べます。防犯カメラの映像によって、たしかに盗難であることがはっきりしてから被害届を出していただくのがよいでしょう。管理会社には私どもから連絡を取ります。その後にお電話を差し上げますので数日お待ちください。どうもお疲れさまでした」

 若い警官がそう説明して目を伏せ、スキンヘッドの警官はスキンヘッドの汗を拭いた。


***


 なんとなく交番に相談した時点でひと仕事したような気になってしまっていたが、数日後の朝に電話がかかってきた。
「こちら、警察署の防犯カメラの係の者でございます」
 防犯カメラの係というのがあるのか。愛想の良さそうな、笑いを含んだ声音であった。
 防犯カメラ係の人は、先日私が交番で話した盗難発覚の経緯をもう一度改めた後、管理会社に連絡をして防犯カメラをチェックしたいので、それにあたって犯人との区別がつくように私の特徴を教えるように言った。
「髪は短くていらっしゃいますか、長くていらっしゃいますか」
「ボブカットといいますか……」
「ボブというのは長い髪型でございますかね?」
「いや、長くはないですが、ショートカットでもなくて……」
「オカッパヘアーということでよろしゅうございましょうか?」
 カリカリと音が聞こえた。「オカッパヘアー」とメモされているのだろう。声から推測するに初老の男性らしい防犯カメラ係は「ボブカット」の語彙を持たぬようであった。

 電話を切り、外出するためエントランスに降りると、ちょうど302号室のおっさんが入ってくるのとすれ違った。302号室のおっさんは、また駐輪所のあたりで何かゴソゴソしていたようだった。私は、少しワクワクするような気持ちになった。
 行きがかり上で被害届を出しはしたが、もともと届を出すほどの盗難でもないし――レアなネタTシャツが失われたのは無念であるが千円にも満たない少額であるし、管理会社の頼りなさからして防犯カメラがダミーである可能性も高いし、解決を期待してはいなかった。だが、防犯カメラ係の人から具体的に連絡があったことによって、もし犯人が写っているなら見てみたい、という気持ちが膨らみ始めた。運送会社の若いドライバーが荷物を投じてから、私が夜に郵便受けを覗くまでの間に、何者かが我が家の郵便受けの細い隙間から荷物を引っぱり出す、その瞬間の様子が写っているのだ。その映像を想像するとき、いつの間にか想像図の中の犯人は、痩せた猫背の中年男になっていた。それは302号室のおっさんの背中であった。


 数日は何事もなく過ぎた。その間に今月のオンライン女子会もあり、私は残念ながら、そこそこ面白くはあるが「エロ本は自分で買え」には及ばないTシャツで参加せざるをえなかった。このシャツについては語るほどの面白さでもないので省略する。だがいつものメンツで馬鹿話をできたことで気は晴れた。昨今は職場で気になっている悩みもいくつかあったのだった。そのひとつは後輩に関することなのだが、それについては特に、学生時代に心理学を専攻していたC子からの助言を得ることができたのが収穫であった。この問題については後で機会があれば述べる。


 数日後、警察署からの着信があった。私はすっかりワクワクしながら電話を取った。
「防犯カメラの係でございます、お疲れ様でございます。あの後ですね、無事に管理会社さんに連絡がつき、防犯カメラの映像を確認することができました」
 防犯カメラはダミーではなかったのだった。いい加減な管理会社だと思っていたがやるではないか。私が電話した際は要領を得なかったが、警察権力が働きかければ動かざるを得なかったようだ。期待が膨らんだ。
「ところがですね、何者かが郵便受けから荷物を盗む場面がですね、撮れておりませんでしたのです」
 防犯カメラ係はゆったりとしたテンポを崩さぬまま申し訳なさそうなトーンを作ってみせた。
「映像はですね、72時間で消えてしまうということでして、該当の場面はすでに残っておりませんでした」
 頭の中で膨らんでいた映像が、しゅうっと萎んでいった。

 既に、盗難があってから一週間が経っていた。だが、私が管理会社に電話をしたのは盗難の当日であり、交番に行ったのはその翌日である。電話をかけた時点で管理会社がデータを保全してくれていれば、交番に届けてすぐに警察が動いてくれていれば、映像は残っていたであろう。何のために早めに連絡したのだか分からない。しょぼい盗難事件だからよいものの、大事件であったら重大な初動の遅れじゃないか。
 失われたデータには、何者かが荷物を持ち去る瞬間がたしかに写っていたであろうに、その瞬間は、永久に失われてしまったのか。もともと期待してはいなかったはずなのに、そう考えると失われた映像がたまらなく惜しく感じられてきた。頭の中の想像の犯人像はへなへなと萎んで影になり、しかし集合ポストスペースの片隅に、灼け付くようにいっそう黒々と存在感を増した。

「そのようなわけで、犯人の姿を見るということは残念ながら相成りませんでした。しかし同じようなことがまた起こりますといけませんから、刑事課へ被害届をお出しになるのがよろしいかと存じます」
 防犯カメラ係は、慇懃ではあるがちっとも残念ではなさそうな口ぶりで言った。ならば最初に交番に行ったときに届を出させてくれればよかったのである。二度手間だ。
 慇懃に電話が切られた後、小一時間ほどして再び電話が鳴った。またも防犯カメラの係であった。何か新たな進展があったのかとかすかに期待して電話をとった。

「何度も重ねて失礼します。先ほどの件に関しまして、報告書を作成しなくてはなりませんので、少し詳しくお聞かせ願います。盗まれたのは衣類とのことですが、どのような衣類でしょうか?」
「シャツです」
「どのような模様のシャツでございましたか?」
「ロゴが書かれています」
「ロゴというのは文字でしょうか、何と書かれておりましたか?」
「エロ本は自分で買え、です」

 初老の防犯カメラ係に聴き取りやすいように私は、明瞭に発音した。電話を切った後、外出がてら集合ポストを覗いた。何も異変はなく当然ながら相変わらず犯人の痕跡もない。監視カメラはこちらを向いている。犯人の映像は失ったくせに撮らなくてもいい私の姿を録画している。私が降りてきた次の便のエレベータで、302号室のおっさんが降りてきたので少しドキリとした。おっさんはまたもこちらをじっとりと見やりながら外へ出て行った。ふと、部屋で警察と電話していた声は下階にも聞こえただろうか、と気になった。いつもより意味ありげな視線であった気がした。



****


 数日後、被害届を出すため警察署へ向かった。
 680円の変なTシャツにもうそこまでの執着はなかったが、防犯カメラ係の人が言ったようにまた同じことが起こらないとも限らず、そんなことが続くと気持ちが悪いし、もし同じマンション内に犯人がいるなら捕まえてほしいと考えたのだ。
 警察署内は広い。まずは総合受付のような窓口へ向かった。防犯カメラ係からは「こちらで記録は残しておりますので、あとは刑事課でそのことを仰ってください」と言われていたので、
「盗難に遭って被害届を出したいんですが、既に交番に相談し、こちらの防犯カメラ係の方ともお話させていただいております」
 とわざわざ経緯を話したのに、受付の女性は内線電話に、
「盗難に遭ったって人が来られてます」
 と、ごく簡潔に報告したのみだった。

 階段を上り刑事課のある階へ案内された。刑事課のある階では、赤ら顔の警官が待ってくれていた。室内ではなく、廊下に置かれたパイプ椅子に掛けさせられ、そこで話を聴かれるようだ。廊下には冷房が無く蒸している。
「盗難ということですが、なぜ盗難と分かったんですか?」
「郵便受けに配達完了したという連絡が運送会社からありまして」
「運送会社には問い合わせましたか? 誤配の可能性は?」
 私はまたも交番や電話でしたのと同じ説明を繰り返した。署内の記録を共有すれば話は早いだろうに。不思議なもので、同じことを何度も話しているうちに話し方が演技的になってきて、まるで自分がウソを言っているような気がしてくる。
「どうも暑い廊下ですみませんね、扇風機もなくて」
 話しながら汗が浮かんできたのを見てか、警官が謝った。警官もぎちぎちと制服を着込んで暑そうである。この赤ら顔の警官は、話の確認の際にやたらと小芝居を入れるのが特徴であった。また、こちらが語っていないディティールを勝手に付け加えてもきた。

「ほほう、では、運送会社から通知が来ておたくさんは『あら、届いたのね』と思われた、と。そして仕事から帰ってマンションの自動ドアを抜け――」
「自動じゃないです」
「自動じゃないドアを開け、ダイヤル錠を回して郵便受けを覗いたところ――あるはずの荷物が無い!となったと。そこで『おかしいわね、なぜかしら』とお思いになったけれどいったん階段で部屋に戻られて――」
「エレベータです」
「エレベータで部屋に戻られて、運送会社に電話を入れた、とこういうわけですね」
「はい」
「ところが運送会社のドライバーは『いいや、知らねえな、たしかに投函したよ』と言った、そこで『じゃあ盗まれたんだわ』とお気付きになった、と」
 運送会社のドライバーも私もそんな喋り方はしていないが、私は「はい、はい、そうです」と頷いた。赤ら顔の警官は、私の台詞を喋るときには心持ち声のトーンを上げ、女性的な抑揚とちょっとした仕草を加えてみせた。
「いや、暑い廊下ですみません」
 小芝居の際のオーバーアクションのせいで赤ら顔に汗をかいた警官はもう一度謝った。
「ちなみに、こうした場合は怨恨によるいやがらせというケースもありますが、これまでマンション内のトラブルや揉め事はありませんでしたか?」
「特にありません」
「類似の事件やイタズラは?」
「いえ、特に。強いていうならこれまで、駐輪所の自転車にイタズラ書きをされたということはありましたが、もうだいぶ前のことです」
「ほう、イタズラ書きとは?」
「私のだけでなくて、駐輪所にあった住民の自転車が全部、泥除けのところにナンバリングされていたんです」
「ナ、ナンバリング? どのようなことですか!?」
 警官は、上体を後ろに反らし両のてのひらを見せるオーバーアクションをした。地の反応も小芝居的なのであった。自転車のイタズラはもう一年ほども前のことだ。しかしその不可解さのため今でも印象的であった。
「意図は分からないんですが、一台ずつに、1、2、3……と番号が勝手に振られていまして。それだけなんですが、気味が悪かったんです」
「なんですかね、それは……!! たしかに気味が悪いですねえ!」
 警官は大袈裟に気味悪がってくれた。
「その犯人は思い当たらないですか? はっきり根拠がなくても、直観的にアイツが怪しい、とか」

 私の中では302号室の痩せた猫背の像が膨らんではいた。何かのマーキングなのか、何らかの呪術か単なるいやがらせなのか不明であるが、暗い目をした302号室が夕闇の駐輪所で1、2、3……と番号を振っていく。だがその想像は、直観というにしてもあまりに根拠が薄かった。

「いえ、ちょっと分からないです」
「そうですか。それで、今回盗まれたものですが、シャツ、ということですね。これはネット通販で買われたのでしょうか」
「そうです」
楽天か、アマゾンか、そのようなサイトを見て、『あら、かわいい服!』とお思いになってご自分で購入されたわけですね」
「そうです」
 正確には違ったが私は肯定した。
「では、被害届に詳細を記載しなければならないので、どんなシャツか教えていただけますか。まずはサイズを教えてください」
 これまでサイズの情報は訊かれなかった。地味に初出である。
「Sサイズくらいですかね」
「Sサイズね、小柄でいらっしゃいますからね。お色は?」
「黒系です」
「黒ですね。模様は入っていますか? 花柄とか、レースが縫い付けられているとか」
「ロゴが入っています」
「ほうほう、ロゴの入ったシャツですね。なんというロゴですか?」
「エロ本は自分で買え、です」
「はい?」
「エロ本は自分で買え、と書かれています」


***


 では被害届の文書を作成してきますので十五分ほどお待ちください、と警官は部屋の中へ退き、私は廊下に残された。じっとしていても汗が流れる。十五分が経ったが警官はまだ戻って来ない。部屋のドアが開いたのでやっとかと思いきや、出てきたのは別の警官たちで、そのタイミングで誰かが階段を上ってきた。年配の婦人が汗を拭きながら現れ、警官らの姿を見つけると軽く会釈をしたのち嬉しそうに訴えた。
「映ってたんです! やっと犯人が分かりました!」
 継続的に何かの被害を相談していた人のようだ。警官にUSBを渡している。自身で設置した防犯カメラのデータを持ってきたらしい。
「犯人の姿、ばっちり写ってたんです!」
「思った通りでしたか?」
「やっぱりそうでした!」
「分かりました。ではいったんデータをお預かりしてこちらでも保管させていただきます」
 詳しい事情は分からないが、嬉しそうな婦人の様子を見ていると羨ましさが湧いてきた。何の被害に遭われたのだか知らないが、その瞬間の様子を映像として得ることができるだけで靄が晴れることもあるだろう。
「でもね、悩んでるんです。やっぱり若い子なの。高校生か、もしかしたら中学生かしら。そんな自分の息子、いえ孫くらいの子でしょ。捕まえて懲らしめてやると思ってましたけれど、その子の将来のことを考えたらなんだか……」
「どうなってますんや! 植木のことは!!」
 次なる苦悩を語り始めた婦人の声は、新たにフロアに現れた男性の怒鳴り声で搔き消された。
「ほんまに! 困っとるんですわ! それを調べる調べるいうて、あんたらはちっとも! こっちは犯人ももう分かっとるんですわ!」
 また別の警官が対応に現れる。
「分かりました、分かりました、では改めてお名前、ご住所、ご年齢をお聞かせください」
「お名前、ご住所ぉ? こないだも別の奴に教えたがな!」
「改めて報告書を作成しますので」
「ご年齢は、当年とって七十八! ご住所は……」
 爺さんの個人情報が大音量で刑事課の廊下に響き渡る。その隙間から二重奏のように、婦人の哀切な声が聞こえる。婦人のUSBを預かって部屋に引っ込んだ警官が駆け出てきた。
「失礼します! 今映像をこちらでも確認しようとしたんですが……奥さん、写ってないです、肝心のところが写ってないですよ!」
「お待たせしました!」

 やっと赤ら顔の警官が書類をもって現れた。十五分ほどと言ったが三十分以上待たされた。

「少々作文に時間がかかっておりました、では一緒に被害届の文面をチェックしてください」
「そんなはずないですよ! 娘と一緒に家のパソコンで映像を観ましたから」
「その後、データをいじられませんでした?」
「ええからさっさと捕まえてくれや! これで何個目の植木やと思うねん!」
「私は、八月三日の夜、」

 婦人の戸惑いと爺さんの大声の中で、私の被害届もそこそこの音量で読み上げられることとなった。別に人に聞かれて困るような内容でもないが、個人情報保護の時代であるにもかかわらず、廊下にいる一同のプライバシーは互いに筒抜けであった。

「私は八月三日の夜、何者かに郵便受けから荷物を盗まれました――エー犯人が分かりませんのでここは『何者か』という表現にしております――。同日の昼、運送会社から『配達が完了しました』というメールが来てました。しかし私が夜に郵便受けを見ても、荷物は入ってませんでした。私は運送会社に確認の電話をかけ……」

 被害届の文章は、被害者の話をもとに警官が作文する。その際、被害者の一人称という形がとられる。しかしそういうフォーマットとはいえ、この私を指す「私」の一人称で他人が書いた文章を読み上げられるのは、奇妙な感じがした。それに、微妙に文章が下手だ。「私は」「私が」がやたら多いし、「来てました」「入ってませんでした」などの「い」抜き表現も気になる。仮に実際にこの「私」が書くなら、もう少し整った文章を書いてみせる。文書の性質上、表現の端正さを競うものではないのでよいのだが、自分が書くより下手な文章を自分の一人称のていで書かれるのは愉快ではなかった。
 同時に、被害届という本来味気ない文書でありながら、警官が書いた文章は、どこか色付けが感じられた。被害者が男性であれば、ひょっとすると彼はもっと上手い文体で書いたのかもしれない。どことなく、書き手が稚気や女性性を演じているような文体だ。そうだ、下手な一人称小説に似ている、と私は思った。実は私も趣味で小説を書いたことがあるのだが、そのときに躓いたのが、語り手の設定だった。

 例のオンライン女子会で「5兆円ほしい」とか言い合っていたときに、皆から「あんたは文章が上手いんだから小説でも書いて一発当てれば」「あたしらをネタに使ってもいいよ、売れたらモデル料分けてね」などと言われて、その気になって書き始めたのだった。しかし書き始めていきなり挫折した。三人称の語りにするとなんだか硬くなり、一人称の語りにするとわざとらしくなってしまう。自分より賢い語り手は作れないので、自分より知的に劣っている語り手を設定してしまうのだが、そうすると、中の人がその人物を侮ったうえでバカを演じているようなわざとらしさが出てしまうのだ。といってわざとらしさをなくそうとすると、語り手と自分が完全に同化してしまい、小説というよりエッセイのようになってしまう。小説の良い語り手とはなんだろう? 理想的には、作者と別個の人格と知性を持ちながら、作者に憑依してくれて、かつ、作者も知らない真実へと連れていってくれるような語り手が良い語り手なのだろうけれど――。そんな理屈を捏ねているうちにつまらなくなって筆は進まなくなり、翌月のオンライン女子会では一応「文豪」とプリントされたシャツを着てはみたものの、小説は書きかけのまま放っておかれていた。

 しかし赤ら顔の警官の書く一人称被害届には、そのような迷いは見られない。この「私」という別人格を演じることに、語り手の中の人はどこかはしゃいでいるような印象であった。
「運送会社のドライバーによると、マンションのダイヤル式――ダイヤル式でよろしかったですね?――の集合ポストに、1ミリはみだした状態で荷物を投函したということでした。被害にあった荷物は、私がインターネットの通販サイトで気に入って購入した衣類です。Sサイズで、黒で、日本語のロゴが入ったTシャツで、価格は680円(時価)でした。」
 ロゴの文言は記載されず「日本語のロゴ」として処理されていた。全文と受理番号が読み上げられたのち、私が押印し、被害届は受理された。用は済んだが、儀礼として、警官は何か訓示的なコメントをしなくてはならないようだった。
「しかし、これですぐに犯人が見つかるということはないと思います。実際、郵便受けから配達物が抜かれるという事件はしょっちゅう起こっておりまして、この区だけでも一日に何件もあるんですよ。先ほどは、マンション内での怨恨の場合もあると申しましたけれども、ほとんどは関係のない通りすがりの人間のしわざです」
「そうなんですか」
「手癖の悪いやつが通りすがりにひょいと覗いて盗っていく、そんなケースが多いですね、そうなると防犯カメラに写っていたとしても、犯人の特定は難しいのですよ」

 頭の中で、駐輪場の薄闇や集合ポストの傍らに黒い影を落としていた猫背の男のイメージが、途端にふよふよと崩れ始めた。差し込んだ日中の光の中で、彼はふよふよと姿を変え、やさぐれた青年になり、やんちゃな女になり、どこにでもいそうな真面目そうな会社員になり、悪戯盛りの子供になった。

「そんなに盗難が多いなら、どう対策するのがいいんでしょう」
「そうですねえ、誰もが出入りできるマンションとなるとなかなか、難しいですね。一番の対策としましては、郵便物が届くときには必ず家にいて郵便受けの前で受け取っていただく、というのがよいかと思います」
 私はにっこりと笑った。
「そうですよね」

 ふよふよと形を変えた人物は、やがて形をもたない風のような姿になり、スッとマンションの扉の隙間から透明の腕を伸ばし、軽やかに配達物を奪って去った。風のようだから防犯カメラもその姿を捉えられない。私は、先日のオンライン女子会で皆に相談したことを思い出した。職場の後輩のことであった。私に懐いてくれている真面目な男の子であるのだが、最近おかしなことを言い出した。当初は、取引先からのメールの誤字や、他の社員がドアを開閉するタイミングなど、やたら細かいことについて「不思議だと思いませんか?」と問うてくるだけであったので神経質な子だなと思っていただけだったが、仕事帰りに二人で茶をしたとき声を潜めて、自分はある大きな影の組織に監視されておりメールの誤字やドアの開閉はそれに関するメッセージだ、ということを打ち明けてきたのだった。どう考えてもありえない話であったが、
「見ました? 今、僕が話を始めたタイミングで奥の客が席を立ったでしょ? あれは組織の監視員です」
 と囁く彼の目はマジだった。
「最近はその妄想が気になって仕事中も上の空っぽいし、こっちも二人になるたび変な話を聴かされてストレスになってきたわ。なんとか、そんな話ありえないって説得できないもんかね」
 と愚痴った私にC子は、
「そういう妄想はね、絶対にこっちが何を言っても修正できないんだよ」
 と言った。
「どんだけ反証を挙げても、彼の中ではすべての現象が、自分の妄想が真実だっていう一点につながっていくんだから無駄だと思うよ。周囲にできるのは適当に話を聴き流して、あとは医療につなげることだけ。相談できる上司とか産業医っていないの?」
 心理学かそこらへんの知識があるだけあって、C子は「ネコ吸い番長見参――人間はネコ様の奴隷です」と書かれたTシャツを着ているわりに、的確そうなことを言った。
 そして今のコレは、その逆回しみたいだ、と私は思った。つまり、後輩において、メールの誤字、ドアの開閉のタイミング、席を立った人、目に映るすべての現象が、影の組織の存在の確信という一点へ集約されていくことが起こっているとするなら、私の中では、諸々の謎の煮凝りであった猫背の黒い影は今や薄れ、302号室のおっさんの意味ありげな目つきは意味を失い、光の中の透明な無数の人物へとほどけて拡散していった。その代りに、なぜかこれまで余り想像に上らなかった、風のような人物が手にとった私の荷物に、イメージはフォーカスされていった。風のような人物は、夏の光の中をふわふわと駆けながら、風のように盗みとった包みを開く。包みから、「エロ本は自分で買え」と書かれた黒い布が出てくる。風の怪盗は、なんだこりゃ、と呟き、その服を路上に、あるいはどっかの建物の植え込みに、あるいはコンビニのゴミ箱に捨てる。あるいは風の怪盗は、案外気に入った「エロ本は自分で買え」シャツを、部屋着として自宅で羽織っている。寝巻きにしてくるまっている。一年前、また別の風の怪盗が、キラキラ光る油性マジックを握りながら気まぐれにマンションの駐輪所に迷い込んだ。並んだ自転車の泥除けに、ピカピカ光る油性マジックで、1、2、3、と番号を振っていく。自転車の点呼を取る自転車の神様のような気分で、白い歯を見せて笑いながら。3、まで書いたところで怪盗は、「4は縁起が悪いから飛ばそうか」とためらったか、どうか。