尼崎toraの年越しの思い出

何年か前に、尼崎toraで年越しをした思い出を書く。なんで今書くかといえば、特に理由はなく、単に、面白かったなアと思い出したからである。

 

尼崎toraは、尼崎にある小さなライブハウスである。ぺぐれす(仮)のご縁でときどき行くようになった。出演するわけでなく客として観に行くだけであるが、いつもいろんな人が出ていて面白い。
立地も面白い。阪神の駅から長く伸びる商店街をずっと奥へ歩いた市場の一角に、ひっそりと、煤けた扉がある。最初に行ったときは、「こんなところにライブハウスが本当にあるのか?」と疑いながら商店街を延々と歩いた。辿り着いた市場はほぼシャッター街なので、ライブの始まる時間には既に闇の中である。暗い中手探りで入口を探す。

 

私は音楽は好きだがライブハウスはちょっと苦手だ。別にライブハウスが悪いわけでなく、単に人が集うところが苦手というこちら側の事情である。だがtoraは、なぜかあまり怖くない。理由は分からないが。スタッフさんたちが気さくであるためかもしれないし、手作り感のある雰囲気のせいかもしれない。ライブハウスというより「サークルの部室」的な雰囲気がある。サークルに属したことがないので実感のない喩えだが、サークルの部室が心地よくて入り浸る人というのは、こういう雰囲気を味わってるんやろな、という感じがする。


その尼崎toraの年越しイベントは、大みそかの明るいうちから始まり、日付が変わるまで続くというものだった。

昼間に着くと、フロアには畳が敷かれその真ん中にはちゃぶ台が置かれて皆が酒を飲んでいた。ライブハウスというか、「広い友達の家」感であった。
イベントは、日頃toraによく出演している演者が少しずつ持ち時間をもらい順番に演奏するという主旨であった。演者と客への一年の感謝を込めるという意味もあったらしく、
「2000円飲み放題(店の酒がなくなるまで)」
という触れ込みであった。
ステージに上がる人は、出る人出る人「はよ歌い終わって酒飲みたいです」と言い、実際降りるなり酒を飲んでいた。ライブというより「来た人が順繰りに歌っていく飲み会」のようだった。
私は酒を飲むとすぐ眠くなるので、途中で壁にもたれてうとうとしてしまった。その間の演者には悪いが、音楽が流れるところでうとうとするのは心地よかった。ライブハウスといえばでかい音であるが、騒がしい中で居眠りしてしまうくらいリラックスできるというのはふしぎなものだ。ぺぐれす(仮)が、轟音渦巻くライブハウスと誰もいない温泉は全然違うのに似てる、ということを言っており、それは、独りにさせてくれる場所、ということなのだと思う。片や音の中で、片や湯の中でではあるけれど、どちらも、ひととき外界から離れた孤独の場所を提供してくれるということだと思う。
私のライブハウス苦手というのも、おそらくは、来た人同士の社交とか皆で一体になって盛り上がろうみたいなノリが苦手なだけであり、本来そこは、音の中で独りになれる心地良い場所なのだ。

 


ライブハウスなのにカレーが異様に美味いというのもtoraの特徴である。レトルトのカレーでなくてちゃんと美味い肉が入っている(コロナ禍で営業できないときはカレーのデリバリーが行われていた)。この日もカレーを食べたが、昼から夜までの長丁場なので、カレーだけでは足りず、いったん抜けて近くの回転寿司で小腹を満たした。戻ってくると、いなかった小一時間の間に、場は更にぐでぐでになっていた。
皆ええ按配でステージに野次を飛ばし演者がいちいちそれに応えていた。この、野次によりステージとフロアに謎の一体感が生まれている、というのも、toraでよく見る風景である(たまたま私が行く回が野蛮寄りなだけで野次が飛ばない日もあるのかもしれないが……)。
toraはいろんなジャンルのいろんな人やバンドが出演するが、この日も、超上手いアコギ弾き語りの人、ピアノでポップソングを歌う人、「今どきこんな無頼派みたいな人がいるのか!」て感じのブルースマン、などいろんな人が出ていた。
そんな中で、私が特に見たかったのは「エンゲル係数」さんだった。
持参した大フリップをめくったりスクリーンに自作PVを流したりしながらギターを弾き語るステージであり、そのPVやフリップに異様に手間がかかっている。採算度外視なのである。そして、日常の些細な疑問や知識を歌った歌、といえばありがちなあるネタだと思われるかもしれないが、独自の視点の吸引力があり、魚卵について歌う歌やヒアリについて歌う歌が始まったときにはポカンとしていた初見の客たちは、秋刀魚の一生について歌う歌が始まる頃には次第にその世界に巻き込まれ、最終的には磁石と鉄について歌う歌で、一同拳をあげながらコール&レスポンスの大合唱となっていた。ええ大人たちが大晦日に何をしているのか? また、エンゲルさんの凄いのは、ギターも歌も妙に不安定なのに、本人には謎の安定感があるところである。その音楽にはときどき、全然違うはずなんだけど、ブルーハーツ的なポップ精神とパンク精神が感じられる。自分の世界をもっていてそれを淡々と表現する人は強い、と思わされた。


終盤には「スーパーギタリスト」が登場するとプログラムにあったので、「あー最後になんか上手い人が出るんやな」と思っていた。だが、クイーンの曲に合わせて登場したのは、紙袋で作ったへなへなの仮面をかぶったエアギターの人であった。いや、プログラムには「ギタリスト」とあるが、持っているのはベースであった。さらに、ストラップがないのでずっと左手で支えていなくてはならず、右手しか動かせないエアベースである。「誰やねん!」と野次が飛ぶ。

しかし、一曲弾き終えた(※弾いてない)スーパーギタリストが紙袋を脱ぎ「なんかすみません……」とステージを降りようとすると、まさかのアンコールが発生。 We are the champions が流され(※その前に別の曲が流れたが「それはできません」とスーパーギタリストが拒否したのだった……エアなのに)、再びエアギター(※エアベース・右手のみ)が始まると、場は異常な盛り上がりを見せた。「みんな立てや!」という声に煽られ、一斉に客たちが立ち上がり、何人かがステージに押し寄せた。ちなみに煽ったのは、別にスタッフでも演者でもなく一人の客であった。誰なんだ。ステージに乱入した人々は肩を組み満面の笑みで合唱を始めたが、一同サビしか歌えていない。

 めちゃくちゃやりにくい雰囲気の中、トリの演者が登場すると同時に、ライブハウス内には蕎麦の出汁の香りが充満し始めた。年越し蕎麦をふるまってくれるというのである。ますますライブハウスなのかなんなのか分からない。演奏途中で蕎麦が出来上がってしまい、トリの演者はギターを抱いたままステージで蕎麦を食べた。蕎麦に気を取られる客たちの前での熱唱、アウェイなはずなのに見事だった。

 

その後、年越しまで微妙に手持無沙汰な時間が余ってしまい、ギターを持つ人々がセッションを始めるものの、これもまた間がもたず、それぞれが「年越しまでまだ〇分もあるよ~」「それまで歌うことがない~」などと歌っていく形になる。それにしても音楽をやる人は皆即興でなんやかんやできるのがすごいなと思う。自分はこうした芸がないので、感心するばかりである。一方では、アーティストでもあるスタッフさんによるライブ・ペインティングが始まった。「俺の背中をキャンバスにしてほしい」と名乗りを上げた客がステージに上がり、「毛が絡んで描きづらい!」と言われながらも、背中に絵筆で絵を描かれてゆく。混沌のうちに年越しの瞬間となったが、スマホを見ながらそれぞれが「年越しまであと30秒!」「いや、あと1分!」「あと20秒」と違う時間を言い始める。時報を聴いてなんとか正確な時間にカウントダウン、その瞬間、背中をキャンバスにされていた彼がステージからフロアにダイブし、なんとそのまま突っ伏して爆睡し始めてしまった。半裸の背中にはこの年の干支であるイノシシが見事な筆で描かれていた。皆、足もとで赤子のように眠る彼の背中を見守った。エンゲルさんが、PVを投射していた白いスクリーンを、毛布代わりに着せ掛けた。

 

年が明け、皆で近くの神社に初詣することになり、演者も客もおかしなテンションのままゾロゾロと歩いた。こんな大勢での初詣は初めてだった。そのほとんどが誰だか知らない人であるが、記憶に残る年越しである。去年はコロナ禍の中、ライブハウスがなんだかウイルスと悪の巣窟である怖い場所のように言われたりもしたが、このように、音と孤と一時の愉快な縁の巣窟でもあるのだよ、と一応結び的なことを書いておきたい。

靴下を切り刻む

「考えたら分かるやん!」というのを昔からよく言われる。言われて痛いフレーズのひとつであるが、たしかに他人からすればそうも言いたくなるであろう失敗をしょっちゅうするのは事実なのでしょうがない。そこまで極端に論理的思考ができないわけではない(と自分では思っている)のだが、この年齢になってもまだ言われる。

 


4歳くらいの頃、靴下を切り刻んでしまったのも、「考えたら分かるやん」案件であった。
母に与えられた靴下で気に入っていたものだったが、自分で切り刻んだ。


最初は爪先の一部にハサミを入れて、さらにその横にハサミを入れて、とハサミを入れ続けていたらばいつのまにか靴下はズタズタになっていた。なっていた、というか自分がしたわけであり、そうなるのはまさに「考えたら分かる」ことであったのだが、惨状に気づいて泣き出した私は、それを母のもとへ持っていき、「靴下を切った」と訴えた。
自分でやったことを自分で号泣しながら訴える娘に母は、
「自分で切ったん? なんでそんなことしたん?」
と困惑&溜め息混じりに問うた。尤もな問いである。
「足がチクチクしたから」
とりあえず娘はそう説明したが、母は「はあ?」という反応であった。またも尤もな反応である。自分でも説明しながら「はあ?」と思っていたのだから。だが、じゃあどうして、といわれれば説明ができない。たしかに最初に「足がチクチクする」と感じたのは本当だったかもしれない。縫い目か何かが皮膚に障ったのだろう。しかし、だからといって生地を切る必要がないことは、自分でも薄々分かっていた。切ってしまっては履けなくなる。ましてや、一箇所だけならまだしも全体をズタズタにする必要はない。
「こんなんもう履けへんわ」
変わり果てた靴下を手に母は絶望的な宣告をし、娘は更に号泣した。自業自得である。
「おじいちゃんやったら直せる?」
と私は訊いた。母方祖父は器用な人で、何かが壊れるたび母は祖父に修理していってもらっていたので、そこに一縷の望みをかけたのであったが、
「こんなんはおじいちゃんにも直せへんわ」
と言われ、不可逆のことがこの世にあることを娘は知った。


「切ってしもたんはしゃあないし、また新しいの買うわ」とかなんとか母が慰めてくれてこの件は終わった。しかしこの記憶はその後も、ことあるごとに苦い気持ちで思い出されることになった。それは、そんな「考えたら分かる」ようなことを自分がなぜしてしまったのか、ずっと説明がつかず、その説明のつかなさがずっと引っかかっていたからだと思う。その説明のつかなさは、自分にとって大事なものである気がした。
「チクチクするからその原因を排除するため」という、一応子供なりの理屈は立っていたはずだが、それだけではない。切り刻みながら自分でも、「これは違うな」と思っていたはずなのだ。何なら最初のハサミを入れた時点で既に、それが解決法として不適であるという自覚はあったはずなのに、その過ちを糊塗しようとしてなぜか同じことを重ねてしまった。そして何がそんなふうに自分を動かしたのか分からない。

 

類似の思い出は他にも数多ある。たとえば砂山蹴り崩し事件。幼稚園の砂場で皆で砂山を作っており完成間近となったとき、立ち上がって足で蹴り崩し(当然ながら)皆に糾弾された。
これには、「手で固めるより足で固めるほうが早いと考えた」という理屈が一応あった。手より足のほうが力が強いので合理的に思えたのだ。それを主張すると幼稚園の先生は「わざとやったんとちゃうんやね、みんなのためと思ったんやね」とかばってくれた。
しかしこれも、一応はその理屈を主張しつつ、またかばってくれた先生を有難く思いつつ、何かその理屈では動機の半分しか説明できていない感じもしていた。立ち上がって足を出した時点で既に、「これは違うな」とどこかで感じてもいて、だがそれにも関わらず蹴り崩してしまった、ような気がする。しかしその、もう半分の動機の正体が何なのか、自分でも分からない。

 


子供の頃は誰でもこういったことがあるのでないかと思う(知らんけど)。だが大人になってもちょくちょく類似の過ちをする。「考えたら分かる」ようなことを、うすうす「これは違うな」と思いながらやってしまう、という過ちである。
とりわけ長じてからは、人間関係に関してこの類の過ちをすることが増えた。人間関係全般に失敗するわけではない。ただ、ここぞというとき、重要なときに限ってそうしたタイプの失敗をする。


たとえば(あくまで一例であるが)、この関係を大事にしよう、とか、この人は傷つけないようにしよう、とか思って慎重に慎重に相手の気持ちを慮って行動……したときに限ってろくでもない結果になる。こうすれば相手はこう思うだろうからこう対応しよう、ああ言えばこの人はこう感じるだろう、と、慎重な推論に基づいて行動したはずだったのに、その結果関係が破綻する。またはその逆の場合もある。強い意志で関係を終了させようとしたのに失敗するような場合である。そしてそれらは後で考えれば、「なんであのときああした/言ったのか、あかんやろ、普通に考えたら分かるやん」と思うタイプの失敗なのである。

 

推論に基づいた行動が誤っているということは、一体何が誤っているのだろうか。
単に推論のどこかに理論的な誤りがあったということなのか。それとも、そもそも対人関係というものにおいて「推論」という手段を用いることが誤っているのか。
そうであるとすれば、それは、対人関係において重要であろう情を置き去りにして理だけを暴走させたことの誤りであるのか。あるいは、情を伴っていなかったのでなく、伏在したはずの自分の情を自分で認識できぬまま、何かを抑圧して捏ね上げた理であったからということか。
そうすると結局、なんであのとき靴下を切り刻んだのか、なんで砂山を蹴り崩したのか、というところへ戻ってくる。

 

私はサリーとアン課題について、求められる答えを出すことができる。
サリーとアンが玩具で遊んでいる。玩具を棚にしまってサリーは部屋を出ていった。サリーが不在の間にアンは玩具を籠の中に移す。戻ってきたサリーはどこを探すでしょうか。
棚の中です、と答えることができる。実際の玩具は籠の中だけれどもサリーはそれを知らないから、と、サリーの視点に立って答えることができる。ここまではできる。なんなら、棚に玩具が見当たらず困惑するサリーの気持ちも想像できる。だけどそのとき、アンは何を思っているんだろう。アンに何て声をかければいい?
精神科医内海健さんが、『自閉症スペクトラムの精神病理――星をつぐ人たちのために』(医学書院、2015)という本の中で、サリーとアン課題において、自閉症者にとって困難であるのは実はサリーの心の推論でなくてアンの方である、ということを書いておられ、なるほど、と思った。自閉症スペクトラム論であるから、自閉症の「心の理論仮説」への異議としての文脈で書いておられたことであるので、ここで引き合いに出してよいか分からないが、しかし自分のこれまでの躓きを思うとたしかにそれらは、対サリーではなく対アンの躓きである気がする。
サリーの心は「推論」という方略で理解できる。だが、玩具を隠したアンの心はブラックボックスだ。それは、その場面固有の文脈や雰囲気をふまえつつ直観でもって自然に「共感」することでしか理解できない何かなんだろう。対人関係でやらかしてしまう「考えたら(自然な共感ができたら)分かる」ような失敗は、もしかすると、「考えても(推論しても)分からない」あるいは「考えたら(推論したら)分からない」類の失敗なのかもしれない。


アンの心、他人の心はブラックボックスである。ただし自然な直観的共感があれば、スッと容易くアクセスできるブラックボックスである。でも、何かがその自然な共感を妨害する。よって間違えてしまう。妨害している何かはたぶん自分の中にある何かだが、そのとき自分もまたブラックボックスである。私はこの関係を本当に大事にしたい(したくない)のでしょうか、私はこの人を本当に傷つけたくない(傷つけたい)のでしょうか、もしや本当は✕✕✕✕なのでしょうか、私は本当に砂山を破壊したくないのでしょうか、本当に母が買ってくれた靴下を切り刻みたくなかったのでしょうか、とかなんとか言いながら、玩具を転々と隠し続けることになる。

蝉が死んでいく作文

たいした栄光のない人生の中で数少ない栄光は、小3のとき何かの作文コンクールで入選したことである。何のコンクールだったか、たぶん実家に未だにこのときの盾があるので見れば分かると思うがまあいい。しかしこの入選は特に嬉しいものでもなかった。

 

 

夏休みが終わってしばらくした頃、先生が言った。

「あなたの〇月〇日の日記がとてもよかったの。これを作文コンクールに出してみようと思うから、原稿用紙に清書してみない?」

夏休みには宿題として日記が課されており、毎日ではないがまあまあまめに書いていた。新学期にまとめてノート一冊を先生に提出した。そのうちのある一日の日記が良いと先生は言うのだが、私にとっては旅行に行った日でもなく友達と遊んだ日でもない、特筆すべきことのない平凡な日の記録のひとつに過ぎなかった。なぜ先生がわざわざそんな日記の清書を勧めるのかよく分からない。

 

それは、蝉が死んでいくという内容の日記だった。

近所の子の間で蝉取りは夏の遊びのひとつだった。私は、一緒に虫獲り網を持って走っても、運動神経がトロいためになかなか蝉を捕らえられなかったが、ある日、神社の岩の上にいた蝉を捕らえた。蝉を捕まえるなんて初めてのことで嬉しかった。だが、せっかく捕まえた蝉はだんだん弱ってきてしまい……。というような内容だった。かなり長い日記だったので実際はその間の細かな経緯や蝉の様子の観察や蝉をめぐる親との会話などが挟まれるのであるが、おおまかな筋はそんな感じだったと思う。

「最後、蝉をもとの場所に逃がしたあと、何度も何度も蝉のほうをふり返った、というところが、あなたの気持ちがよく出ていてとてもいいと思いました」

と先生は言ったが、よく分からなかった。

 

それは私にとってはそんなに劇的な出来事でもなかった。私に捕らえられる時点で、ある程度弱っている蝉だというのは薄々分かっていたし、弱っていた蝉を捕まえたらだんだん死にそうになっていった、という当然の経緯だったのである。そしていよいよ死にそうになったので、せっかく捕まえて愛着の湧いた蝉だし惜しくはあったけれども、最後は外で死なせてやろうと思ったのだったか単に持て余したのだったか、もとの岩の上に放置して去った、というだけのことであった。そんな作文がそんなに先生の心を打つとは予想外であったが、先生にコンクールに出すからと言われれば小3の子にはそれは絶対なので、ともかく「土日のあいだに蝉の日記を原稿用紙に清書してくること」が宿題となった。

 

 

原稿用紙10枚程度の文章だったと思う。既にある文章を書き写すだけなので10枚くらいさっさと済みそうなものだが、なぜかこの作業は難航した。小3にとっては400×10字書くのはそれなりに大仕事、ということもあっただろうが、面白くない作業だったからでもあろう。文章を書くのは好きだったが字を書くのは別に好きではなかった。自分では特にどこがよいのか分からない文章をもう一度書き写すというのは、苦痛な単純作業でしかなかった。

原稿用紙にひと文字ひと文字書き写す作業をしながら、そこに書かれていた(自分が書いた)はずの蝉を捕らえたときの喜びや、手の中で弱りゆく蝉への気持ちや、蝉と別れるときの寂しさや哀惜や気がかりな思いは、もはや単に色をもたないひと文字ひと文字に解体されていき、その文字の海をまっすぐ泳ぐだけの作業は終わりが見えないかのようで、私はただただだるかった。机に向ってはすぐにだらける私を見て、親は「さっさとしてしまいよし」と怒った。「作文を先生がコンクールに出さはるんやって」と言ったときは誉めてくれたのに。

土曜の午後に始めた清書は、日曜になっても終わらず、私はひたすらだらだらしていた。日曜は、親戚のTさんのおばあさんのお見舞いに行くことになっていた。私も本当は皆と出かけたかったが、「うちは清書が終わらへんから行けへん」と拗ねた。父が「うちのおじいちゃんが具合悪いときTさんちの子らもお見舞いに来てくれたんやから、うちも行かなあかん」と言ったが、私が拗ね続けているので私を置いて行ってしまった。Tさんのおばあさんはほどなくして亡くなったので、会えないままの別れとなった。

 

清書はまる一日かかった。

帰ってきた母親にできあがった原稿を見せた。一通りチェックし終わった母が訊いた。

「何でこんなふうに直したん」

蝉を岩の上に置いていくくだりで、「鳥が来て食べられるかもしれないと思いました、今度からはもっと別の場所に逃がしてやろうと思いました」というような文があった。その二つ目の「思いました」を「心がけたいです」に直していたのだった。

「なんや『心がけたいです』ていやらしいわ」

と母が言うので、「『思いました』が2つ続くからおかしいと思った」と修正の意図を説明すると、

「べつにええやん、その方が素直な感じでずっとええわ」

と言われ、大人は子供の作文に、「素直さ」とかそういうものを求めるのだな、ということが分かった。いったん「心がけたいです」に直したのを「思いました」に戻すとマスが余ってしまう。また清書し直さなあかんのかとぞっとしたが、母は、「ええやんそれで、線を引いて消しといたら」と言うのでそのようにした。あんなに時間をかけて清書したのにそんなええ加減でいいのか、という気持ちになった。

 

 

ところで私は物持ちが良く、小学生時代の作文は入学直後に書いたものからほぼ実家に保管しているのであるが、この作文だけ見つからない。コンクールに送ってしまったからであろう。入選後、文集のようなものをもらったかもしれないが見当たらない。主催団体(まだあるのか分からないが)に問い合わせたら、保管されていたりするだろうか。30年も前のものだが。もう一度読んでみたい気はする。

翌年も、コンクールに応募するため作文を書かされた。今度は応募が前提だった。先生が転任する前の記念として、各児童の何らかの作品を何らかに応募すると言い出した。

「それぞれ得意なものを出そうと思うの、Kさんなら習字、Mさんなら絵、村田さんなら作文、というように」

と、わざわざ名指しで言われたので、二匹目の泥鰌を狙うというのか、入選を狙うつもりで書いた。しかし、書いてる途中に「これはなんか面白くないな」と悟った。「お母さんが妹ばかりひいきする」という内容で、妹に嫉妬する気持ちや淋しい気持ちを赤裸々に素直に描いたものではあったが、どうも大人ウケを狙いすぎたようでダメだった。「素直さを狙いすぎてもダメなんやな」と分かった。

うちの信仰論争

生まれてほどなく妹の病気が見つかり長期入院になった。母も付き添ったため、その間の何か月間、父の実家に預けられた。
祖父母に甘やかされ口うるさく怒られることもない日々は、それなりに快適であった。だが周囲の大人は「お母さんと離れて淋しいやろうに我慢してえらいね」と誉めてくれるので、これまた快適であった。
夜、表に出て酒のケース(うちは酒屋だった)に座り、「あのお星さまにお母さんがいるのかしら」と空を眺めていると、それを見た近所の人が、「あんな小さいのに、かわいそうで涙が出そうになったわ」と祖母に話し、それを聞いた祖母がまた涙したそうだ。昼間に見たアニメのマネをしてみただけであり、更にいえばお星さまもなにも、車で割とすぐの病院に母はいたのであるが。

 

ところでその何か月間で身についたのは、「仏壇に拝む」「神棚を拝む」「お地蔵さんを拝む」習慣だった。
祖父母、特に祖母は信心深い人だった。
毎日早朝五時に起き、バスで寺に通っていた。私も何度か一緒に連れられた。妹の入院していたのは冬だったので、寒い冬のバス停を覚えている。
帰ると、また仏壇の前に座り朝食前の読経、夕にも夕食前の読経。「朝に礼拝、夕に感謝」(京都人しか伝わらんのかな…)である。
祖父母と暮らした何か月間で、私は「般若心経」を暗誦できるようになった。当時4、5歳であった私は吸収もよかったのであろう(今はすっかり忘れてしまった)。祖父が仏壇の前に座りお経を上げ、その後ろに祖母が正座し目を伏せて唱和する、その後ろに私も座るのだった。「〇〇(妹)ちゃんが早う退院できるように、仏さんにいっしょけんめ拝むんえ」と祖母は言った。
お仏飯を運ぶのも私の係になった。お仏飯は、人間のごはんをよそうより先によそい、人間が食べるより先にあがってもらわなくてはならない。そのままでは背が届かないが、仏飯運び専用の延長触手みたいなやつ(名前があるはずだが知らない)があり、それを使うのが楽しかった。仏飯を供える台は三か所あった。端から置こうとすると「真ん中から置かんとあかん」と注意された。「真ん中の仏さんが一番えらい仏さんやから」。仏さんにも順番があるんや、と思った。


仏壇に手を合わせた後は、神棚に手を叩く。天照大神その他に祈るのも日々の恒例であった。神棚に接する天井には「雲」と書いた紙が貼られていた。
祖母は「神さん」「仏さん」にくわえ、「お地蔵さん」も信仰していた。散歩中に地蔵に出遭うと足を止めて一礼した。祖母はいつも言うのだった。「両肩には帳面を持ったお地蔵さんが乗ってはって、ええことをしたら右、悪いことをしたら左のお地蔵さんがそれを帳面に付けはる。あんたのことをずっと見てはるんえ」。
わざわざ遠くのお地蔵さんを拝みに行くこともあり、私もしばしば連れられた。甘い煎餅をくれるところもあった。特定の病に効くとされる地蔵のところには足繁く通っていた。妹のことを祈るためである。後年祖母は、若い頃の些細な悪事を思い出しては「〇〇ちゃんが病気になったんは私のせいやった」と言うことがあった。祖母の熱心な信仰行動の背景には、そうした罪悪感(それは誇大感と一体ともいえる)があったのかもしれない。信仰と罪悪感のどちらが先かは分からないが。
妹が少し良くなったと聞くと祖母は、「おばあちゃんやらあんたやらが、毎日いっしょけんめ神さん仏さんに拝んでるからえ」と言った。

 


祖母は信心深い人だったが、厳密な意味で「宗教」を信仰していた、とはいえないかもしれない。「宗教」の定義にもよるだろうが。またそれは祖母に限らず日本人の一般的傾向なのだろうが。ともあれ祖母において、仏さん、神さん、お地蔵さんへの信仰は、その他、ご先祖さん、天皇陛下、某修養団体、町内の地位の高い人……などなどへの崇拝と地続きであり、それらは超越的なものをめぐる信仰というよりも、それぞれ道徳的なものの一環という感じで、そうした「なんか道徳的なもの」がひと連なりの道徳宇宙を形成していたというか。
たとえば「美容」なんかも、道徳宇宙を形成する一環だった。「冬も顔は水で洗わなあかん」とか「手作りの米ぬか石鹸が一番ええ」とかいう教えは、単なる美容上の注意というよりも、「なんか道徳的なもの」だった。理屈上は「お湯で洗うとシワができるから」「米ぬかは肌がつるつるになるから」ということなのだが、それよりも重要なのはおそらく、水で洗う冷たさや石鹸を作る手間であって、それは何か「婦徳」的なものと結びついており、かつうっすらと、マゾヒズム的色彩を帯びていた(そもそも美容という領域が一般的にそういうものなのかもしれない……というのは暴言か)。

 

よって、私にとっても「仏さん」や「神さん」を信じること、それを拝むことは、そういうものとして受容された。
それのために早起きしたり、仏壇にご飯を上げ下げしたりすることは、祖父母の言葉で「信仰」と呼んではいたけれど、同時に大人に誉められる「なんか道徳的なこと」であった。かつそこには――痺れる足で正座したり寒い冬の朝に寺に行ったりすることには、健気な自分へのマゾヒズム的自己愛があったと思われる。


ともかくそのようなわけで、妹が入院していた何か月かの間に、私はすっかり「信仰」のある少女になった。
妹が退院すると再び母と住むようになったが、祖父母の家とはほぼ毎日行き来があったため、信仰少女活動は続いた。
祖父母にもらった本を母に勧めたこともあった(それは仏教の本であることも某修養団体の本であることもあったが区別はついていなかった)。何か良いこと悪いことをするとしょっちゅう、「肩のお地蔵さんが見てはるんやろか」と思った。
母方祖母に、「もっと仏さんを拝まんとあかんで」と説教したこともあった。母の実家にも仏壇はあったが、父の実家のように熱心に信仰している気配はなかった。母方祖母はくだけた人で、私がそんなふうに言うと「へえへえ、〇ちゃんは偉いなあ」と笑っていた。あとで父方祖母が、

「向こうのおばあさんに会うたら、あんたに怒られたて言うてはったわ。うちのおばあちゃんみたいにもっと信仰せなあかん、て言うたんやてな」
と嬉しそうに報告してきた。

 

 

 

そんなある日のことであった。
自宅で母と何かの話をしていたときのことである。どういう文脈だったかは忘れた。
私が「神さん、仏さんがどうのこうの」といつもの教えを披露していると、母が堪りかねたように、そして厳しい声で、「神様や仏様はいない」と言い出したのである。

母に「信仰」がないことは、以前から知ってはいた。私が祖母から聞いた話をするたびに母は、自分はそれを信じないということを言葉の端々に表していたので、私は母を折伏せねばならないという使命感をもっていた。

「〇ちゃんはいつも神さん、仏さんて言うけどな、そんなんはいーひんのやで」

「なんでそんなこと言うん!」。私は激昂した。母はこう返した。

「ほな、〇ちゃんはなんで神さんがいると思うん。どこにいはるん、仏壇の中にいはるんか、神棚にいはるんか、空の上にいはるんか。〇ちゃんは見たことあるん。どこで見たん」

問われて私はウッとなった。
仏壇に向かって拝むとき、仏様の絵が描いてある布をいつもなんとなく見ていて、あそこに仏さんがいはるんかなあとなんとなく思っていたが、あれは絵だ。
「仏壇の中にいはるん見たもん」
と言うと母も
「それは絵やろ」
と言い、たしかに絵や、と思った。
「自分の目で見てもいーひんのに、何でいはるて思うん? 神様や仏様がいない証拠はないけど、いはるていう証拠もないやろ?」

今思えば、4、5歳児相手に徹底的な詰め方である。折伏するはずだった娘は、折伏されつつあった。家庭内宗教戦争である。

そういえば自分は、神様や仏様の存在の証拠になるものを特に持っていない。祖父母が存在すると言っていた、それだけである。そもそも子供とはいえ私とて、本当に神仏の「実在」を信じていたかといえばそこは微妙で、そのことは薄々自分でも気づいていたのだった。ただそれを信じること、信じる身振りをすることが、祖父母に誉められることで正しいことで気持ちのよいことだったのだった。一方で母の言うことは大変なショックだった。信仰していたものが崩れていくショック、正確にいえば信じていた道徳的価値が崩れるショックである。これまで唯一正しげに思われていた何かは母にとってはそうではないらしく、私は混乱した。敗戦後の日本国民もこうだったのだろうか。
私は動転し、号泣しながらなおも言い募った。

「仏さんを信じひんと地獄に落ちるておばあちゃんが言うてはった」

「地獄とか極楽とかは、この世の人間が気やすめに考えたもんやとお母さんは思ってるわ」

「でも仏さんも神さんもいはるもん!」

「信じるんは自由や。せやけどお母さんは〇ちゃんに、自分の頭で考える人になってほしいねん。分からへんことを、神様のせいや、で終わらせる人になってほしくないねん。疑うことは大事やで。疑うことから科学は発展したんやで」


私は号泣しながら家を出て祖父母のもとへ行った(徒歩ですぐの距離だったのだ)。冷蔵庫を整理していた祖母は何事かと驚いた。「お母さんが仏さんを信じてへんて言わはるねん」と訴えると、祖母は「そんな人いるわけがない、お母さんもほんまはどっかで信じてはるんやで」と言った。だいたい予想した答えだった。しかし私は、「(そんなこともなさそうや)」と思った。

 

***


さて2020年の今となっては、宗教/科学を切り分けて対置するのもまたシンプルすぎるとは思うが、しかしこのとき呈示された「科学」という世界観は、当時の私にとってまったく新たな世界観であり、母は別にフツーの主婦であったが、4、5歳の子相手にそんなことをよく言い聞かせたものだと思う。


ところで、この、「信じる・疑う」という言葉はその後、別の文脈でも現れた。


小学生の3、4年生になった頃である。
Fちゃんという女の子と仲良くなり、一緒に風呂屋に行く約束をした(この頃「友達同士で風呂屋に行く」という娯楽が流行っていたのだった)。
その頃、女子の間では、「私とだけ仲良くして、他の子と浮気しないで」とかいう疑似恋愛みたいなものが蔓延していた。Fちゃんは、前から仲良しだったYちゃんにそのように言われていたが、「でもトンちゃん(※当時の私のあだ名・肥ってないのにデブキャラだった)とも仲良くしたいねん」と言ってくれた。
だが! 連れ立って風呂屋へ行く途中でなぜかYちゃんに見つかり、Yちゃんが「私以外と遊ばんといてって言ったのに!浮気や!」と激怒し、FちゃんはYちゃんをなだめながら私を残して去ってしまったのだった。
洗面器を抱えたまま置き去りにされた私は、家に帰るやいなや泣き出した。何事やねんと驚く親に経緯を話し、「Fちゃんのこと信じてたのに……」と呟いた。


父は、
「女子は陰湿でイヤやな、男の喧嘩はさっぱりしててええぞ」
と言った。今思えば、子供にそんなジェンダー観を植え付けないでほしいものだが、当時は「(そうかあ、男子はええな)」と思った。

一方母は、傷心の私に対してこう言ったのだった。

 

「あのな、『信じる』っていう言葉は聞こえはええけど、ほんまはすごいアホなことなんやで。『信じて裏切られた』なんていうのはしょうもないことやねんで。疑うことは大事やで」


ああ、小さいときにもこんなやりとりがあった……と思い、今度は私は、かつての母の教えを忘れていた自分の愚かさを恥じた。しかし今思うと、当時まだ若い女性であった母に、「信じること」をめぐって、一体何があったんだろうとも思う。 

 

シャーペンの消失の話

九十年以上生きた祖母が、去年亡くなった。
(このブログは何か身内が死んだ話ばかり書いている気がするが実際身内は死ぬのだからしょうがない)
祖母と孫の付き合いとしては平均より長いであろう年月、祖母のことでは色々あり、葬儀となればさぞいろんな感情が湧くことだろうと思ったが、祖母への感情は祖母が生きているうちに使い果たしてしまったのか、普段以上に心は平静だった。

 


祖母のことで最後に泣いたのは、祖母が施設に入る前のことなので、もう何年も前のことだ。
このときはまだ祖母と同居していた(わが実家は三世代同居、多いときは四世代が同居しており、小さな頃からしばしば家族について、「この人と家以外で知り合っていたら友達になれたやろか」「たぶんなれへんかったそんな人たちと同じ家の中で寝起きしてるんやなあ」と想像しては不思議な気持ちになっていた)。

ある日、祖母から「あんた、これ着よし、あげるさかい」と大きな紙袋いっぱいの衣類を渡された。検分してみると、汚れた肌着や伸び切った靴下、どう見ても高齢者用のデザインのパンツなど、到底使えそうにない衣類が大量に入っていた。「これは私は使わへんかなあ、おばあちゃん、まだ着れそうなやつは着たら?」。やんわりと断ろうと試みたのであったが、「あげる言うてんねから貰うときよし」と祖母は頑ななのだった。

この頃、もう祖母の認知症は始まっていた。ただ身体は元気だったので、アルツハイマー認知症初期の人の多くがそうであろうように、元気に動き回っては要らんことをしでかしていた。
そこへ来て、もともとの祖母の性格もあった。祖母は日頃、控えめな性格だと思われがちであったし本人の自己認識もそうだったと思うが、一方で、過度な謙遜や自己犠牲や過度な親切という形を借りて自己主張をする傾向があった。それは、女性が自己主張を禁じられてきた時代と環境によって育まれたものだと思う。こちらが「しなくていい、むしろしてほしくない」というようなことを、「私はええけど、あんたのためやから」と何度も押しつけることはしばしばあった。殊に信仰や民間宗教の実践をめぐるそれは、我が家で小さな波風を起こしてきた。そして、「こちらが要らないというものをさも有難いもののように押しつけてくる」というこのときの行為は、それまでのそうした歴史の延長上にあったので、私は「またか」と感じたのではあったが、しかしボケ始めた今では尚更反抗しても詮無いことであるし、さしあたって表面上は有難く受け取っておき、ほとぼりのさめた頃になんとかしよう、と判断したのだった。


しかし、「なんやこれは」と当該の紙袋を見つけた父が、私の説明を訊くと、猛然と祖母に突き返しにいってしまったのだった。「こんなん着られへんもんばっかりやがな、誰もこんなん要らんがな」。そんなん言うても仕方なし、貰ったことにして黙って処分すれば誰も傷つかないものを、なんでわざわざ! と私は思った。祖母がたびたび「この子は反抗期がなかった」と語ったほど優しい息子であり、ずっと祖父母に尽くす親思いの人であったはずの父は、この頃からそんなふうに怒ることがみられ始めた。息子であるがゆえの、ボケていく親を認めたくないという思いと介護疲れのためだったのだろう。祖母はただでさえクヨクヨしやすい性質であったが、息子に怒られてうろたえ、「すまんなあ、すまんなあ」と悲しそうに謝り始めた。私は「いやいや、まだ使えそうなもんもあるし、ええのんあったら貰うとくわ」と穏便に収めようとした。
数時間後、祖母からそっと手紙を渡された。何か嫌な予感がしたので、その場では読まず、誰もいない部屋に行ってひとりでそれを開いた。1万円札が包まれていた。手紙には「いつもやさしくしてくれてありがとう」というようなことがいつの間にかずいぶんたどたどしくなった字で書かれ、最後には「だんだん字も忘れてきました、もうじき書けなくなります」とあった。私は泣いた。1万円札は、返そうとしたはずだが、結局どうなかったか覚えていない。

 

このときに、祖母に対する感情は全て使い切ってしまったような気がして、葬儀のときは何も新しく感慨が湧くことがなかった。そしてこれは、人が死んだ後に多くの人が経験することだと思うが、それまでは思い出す隙のなかった古い記憶が、新しい記憶とまったく平等にフラットに甦ってきた。

 

祖母からは、不要な衣類を詰めた紙袋や有難い本や何だかよくわからんお守りだけでなく、本当に嬉しい贈り物をもらったことも、そういえばあったのだった。
10歳か11歳の誕生日にもらった、便箋のセットである。

当時、私は手紙を書くのが好きだった。手紙の相手は、学校の友人や転校した子や雑誌の文通欄で知り合った子、それから愛知県のおじいさんだった。小学校から花の種と手紙をつけた風船を飛ばすというイベントがあり、それを拾った愛知県のおじさんが返事をくれたのだった(今では住所を書いた紙をあてもなく飛ばすなんてアウトだろう)。
せっせと文通する様子を見て祖母が、「あんたは手紙を書くんが好きやさかい」とレターセットを10セットほど誕生日にくれたのである。ささやかなプレゼントと思われるかもしれないが、これは今でも、人生で嬉しいプレゼント上位に入るプレゼントである。それまでは、懸賞で当たったものを使ったりノートの切れ端を便箋代わりにしたりしていたが、祖母のくれたレターセットは色とりどりで夢のようであった。テイストの違う様々なデザインがあり、可愛いもの、大人びたもの、メルヘンなもの、コミカルなものなど、相手や内容によって使い分けられそうだった。小学生女児が喜びそうなものを、祖母はどこで買い求めたのだろうか。デパートか近所の文具店か。自分で選んだのか、ポップなセンスがある人ではなかったから店員さんに見繕ってもらったのか。レターセットはその後、少しずつ大事に使った。


レターセットと一緒に、ボールペンとシャープペンシルのセットももらった。
どちらも静かな薄桃色に金色のラインが入り、金色のクリップがついていた。控えめなピンクが大人ぽく上品に思えて、「このペンで好きな人に手紙を書いたら素敵だろうなあ」と思った。私を知る人は私がそんなことを考えたのを意外に思うかもしれないが、そんな乙女ティックな一面もあったのだった。この思いは実際一年後に叶えられた。小学校の先輩(「Kのお兄ちゃん」)に年賀状を書いたのだった。年賀状も、ピンクで背景を塗り金色で枠線を書いて、もらったペンセットと同じ色合いにした。
この先輩はいわゆる「好きな人」というのではなかったけれど、縦割り班で世話になった人だった。縦割り班というのは、一年生から六年生までが所属するように作られた班で、通常は兄弟姉妹は異なる縦割り班に所属させられるのだが、私の妹は障害があり、私はその面倒見役としていつも妹と同じ班に所属させられていた。縦割り班ごとにタイムを競うウォークラリーや山登りのイベントでは、身体が弱く苦手なことの多い妹はなかなか先に進むことができない。面倒見役のはずの私も、とはいえ自らも不器用で運動神経がない。この「自分も苦手なことでいっぱいいっぱいなのに、かつ妹を気にかけねばならない」状況というのはなかなか過酷であったが、そこへきて、われわれのあまりのトロさに、班の面々が苛立ち始める。前の班長は舌打ちしてキレて先に行ってしまったし、途中までは付き合ってくれていた優等生も、途中で溜め息をついて去っていってしまい、まあ彼らも子供だからしょうがないのだが、妹と置き去られた私はもう泣きそうであった。しかし、Kのお兄ちゃんは違ったのだった。Kのお兄ちゃんが班長になったときは、妹が泣いてもまるでイヤな顔をせずにわれわれに付き合ってくれて、険しい道では励ましてくれて、なおかつ他の子もちゃんとまとめていたのだった。
われわれ姉妹は「Kのお兄ちゃんはほんまにええ人や」と言い合い、私はペンセットをもらってから、(私の誕生日は2月なので次の正月まで一年近くあったわけだが)「そや、今度、もらったボールペンでKのお兄ちゃんに年賀状を書こう」と思っていたのだった。

 

そのボールペンのほうは使い切ると同時にどこかへ行ったか捨てたかしたが、シャープペンシルのほうはずっと残っていて、なんと、三十年以上の時を経てずっと筆箱の中にあった。ずいぶん色あせて当初のピンク色がどんなだったかもはや分からなくなったし、金色部分も禿げてしまったが、ずっと使っていた。といっても(祖母には悪いが)別にそこまで思い入れがあって大事にしていたわけでもなく、途中で何度か失くしている(その後どこからか出てきた)。また私はそもそも物持ちがよく、筆箱も中学生から使っているものだし、定規に至っては小学2年生のときに地蔵盆のくじ引きで当てたものを未だに使っており、何なら文具だけでなく未だに小学生のときの服を着ている。
よってこのシャープペンシルが特別というわけでもないのだが、さまざまな何やかんやをともにしてはきたことになる。祖母が死んだとき、「いよいよシャーペンだけが残ったなあ、これもいつ壊れるか分からんな」と思って一度写真を撮った。だがスマホのカメラではピンク色が上手く写らなかった。と、そんなシャープペンシルなのであるが、ついに先日、紛失した。鞄の外ポケットに適当に挿して出かけたので、どこかで落としたのだろう。その日は街を歩き回っていたからどこで落としたかも分からないしおそらく見つかるまい。
なんなら鞄に挿したときに「これは落としそうやな」と少し頭を掠めた、にもかかわらず挿して出かけたということは、お馴染みのフロイト的失錯行為なのかもしれない。しかしそんな解釈こそ合理化というやつかもしれないし、自分の行為をあれこれ分析するのは不毛だろう。上述のように、このシャーペンには思い出はあるがそこまで思い入れがあったわけではない。もう充分使って古びていたし、何かゲン担ぎ(「これで書くと試験に受かる」的な)があったわけでもないし、高価なものでもなかっただろうし、ただなんとなく筆箱に入り続けていたので使い続けてきただけのものなのであるが、祖母がいなくなって何か月という意味ありげでも意味なさげでもあるタイミングでシャープペンシルもいなくなったことに、感慨というほどでもない感慨があるといえばあるが、別に文章に書くほどのことでもない気もするし、というそんな気分をとりあえずここに記録しておく次第である。

叔母の死

先日、四十九日も過ぎた。「あれ、〇〇ちゃん今日来てはらへんの?」と言おうとして、ちゃうやん! 今日は〇〇ちゃんの法事やん!と気付き、〇〇ちゃんはあんま喋らん人やったけどいないとなると違和感があるものだなと思った。親族一同も同様の錯覚にたびたび陥るらしく、互いに「あんた頭大丈夫か、しっかりしいや」と言いながらゲハゲハ笑っては、「これ、もひとつもらお」と茶菓子をつまむ。この一族は、法事やら葬式やらいろいろ大変なことがあっても、基本的にいつもゲハゲハ笑っているのでホッとする。

母方の一族の家には、子供の頃は、週末ごと長期休暇ごとに遊びに行っていた。いとこたちと遊び回った近くの広場や寺や神社には、学校や父方の家で過ごす平日とは違った時間が流れていた。子供時代というのはけっして、そんなよいものでもなかったが、それらの寺の石段や神社の草原は、ユートピアとしての子供時代を過ごした場所だといえる。

そんないわばユートピア的な土地の登場人物が一人いなくなったのは、仕方ないことだけれど淋しいものがある。そこへいけばいつでも、母の数多いきょうだいたちが、ときどきはなんやかんやありつつもわいわい仲良くやっていた。子供の頃から全員セットだった母きょうだいが一人欠ける、そんな日は、もっと先のことだと思っていた。


***

 

本人たちは否定するだろうがこの一族は皆なんだか少し変わっていて……いや個性的な人たちで、世間からずれた自分もそこでは落ち着けるような感じがあった。親族の集いに行くと今でも、親族の集いというよりは自助グループに来たような感覚を覚える。といっても、アホな話、昔のしょうもない思い出、政権の悪口、小学生のような下ネタで盛り上がるだけであるが。たくさんいるいとこたちのうち、結婚・生殖している者が少ないのも特徴的で、これは父方親族たちが就職して数年後には結婚して子を設けているのと対照的である(私にも子供はいない)。亡くなった叔母は、そんな親族の中でもとりわけ変わってい……個性的であった。おしゃべりなきょうだいの中で一人だけ無口で、たまに喋っても不貞たようにぶっきらぼうで、いつまでもまるで思春期の子のようだった。


昔、大学近辺を指導教員と歩いていると、犬を連れた叔母に遭遇したことがある(大学は一族の家の近所だった)。「こちら、研究室の先生」。普通なら「姪がお世話になっております」とかなんとか言うところであろうが、叔母は「へい、そらどうも」と目を見ずに挨拶をした。教授は一瞬面食らった様子だったが、「どちらにお散歩に行かれるんですか?」と社交っぽい会話を試みた。叔母は、

「へいへい、犬の向くまま!」

と言い放って去っていった。教授は自身もかなり変わった人であったが、しばらく沈黙の後言葉を選ぶように「お、叔母さんは……少し変わった方なんですね」と言った。
しかし叔母は、人間(成人)に対して口下手なだけで、動物や子供は好きだったと思う。私も子供の頃、童謡のレコードを何度もねだっては聴かせてもらい、一緒に歌った記憶がある。「かわいいかくれんぼ」が一曲目に入っているレコードだった。

 

***

 

大人になってからは叔母とそれほど濃密な交流があったわけではないが(会っても叔母はほとんど喋らなかったし)、知らせを受けて葬儀場に向かう日は憂鬱だった。最初に病気を知らされたのも急であったが、その日からあまりにもほどなくのことだった。しかし電車が川を越え、京都に近づくうちに、だんだん「なんか知らんけど」そういうもんなんやな、という気持ちになり、心が落ち着いてきた。


母方親族は皆、病院や検査が異様に嫌いである。祖父は15年前に米寿を目前にして死んだが、倒れて運ばれた際「病院に来るんは戦争の後以来や」というようなことを言っていた。(だが往診は受けていたらしいのでこれはちょっと「盛り」であった。)
叔母が亡くなったのは、病気の判明からわずか5日後であった。チャリで病院の入り口まで行ったところで痛みで動けなくなり、そのまま入院となったという。そんな状態になっているのに病院までチャリで行ったのだった。
本当はもっと前から痛みがあったのだろうが、誰にも言わなかったのだろう。予防医療は重要です、日頃から検診を受け、異変があれば早めに受診し、早期発見早期治療、そうすれば長く生きる可能性は上がるし周囲の人を悲しませることも減るし医療費の削減にもつながります、というのが現代の主流の考え方だと思う。私も医学部受験小論文を指導していたときなどは、そんなふうに書かせていた。しかし、「なんか知らんけど」そうしない(できない)人たちもいるのだな、と思う。
叔母たちは、べつに明確に「反医療」のような意見をもっているわけでもなく、過剰診断を怖れているとか医者に不信感があるとかいうわけでもない。ただ、なんか知らんけどできるだけ病院に行きたくないのである。もちろんそれは、純粋に自由意志による選択ではなかったかもしれない。もしかしたら、口下手な叔母は医療場面でのコミュニケーションにハードルがあったのかもしれず、あるいは金銭面で不安があったのかもしれず、そうした面への何らかのサポートがあればもっと早くに受診し、もっと長く生きられていたかもしれない。あるいはパートでなく正社員であれば、定期的に健康診断を受けられていたかもしれない。医療へのアクセスは平等でなく格差がある。そうした格差は是正されるべきだとは思う。しかしそれとは別に、予防が重要だとか、健康がよいことだとか長生きがよいことだとか、そういう価値の軸とは違う世界も「なんか知らんけど」あって、おそらく叔母はそういう世界の住人だったのであり、それはもう、「なんか知らんけど」そういうもんやと思うしかないんやな、とも思う。診断を受けた叔母は(内心は分からないが)飄々とした様子だったらしい。

 

 

葬儀場に着くと、いつもの面々が、沈痛な面持ちかと思いきや普段と変わらぬ様子でわいわい騒いでおりほっとした。コンビニで菓子を買っていったところ皆も菓子を買ってきており、大量の菓子が控室の卓袱台に盛られ、「お菓子ばっかりやん!」と笑いつつつまむ。お茶会か。

われわれは菓子をつまみつつ、叔母の部屋と病室からもってきた荷物を開け、お棺に入れるものを選ぶ作業をした。入院はわずかな期間だったが、叔母は病室に、色々可愛いものやかつての愛犬の写真を持ちこんでワールドを形成していた。見舞いで会った叔母は、普段のポーカーフェイスで、普通に人生の途上という風情だった。だが周囲のきょうだいたちに、友人への連絡や事務的な用を指示しており、叔母が長いフレーズを喋っている姿を初めて見た私は、「こんなに喋れたんや」と驚いたものだった。

遺品の中に、叔母の友人が病室にもってきてくれた手紙やお花があった。愛想のない人だとばかり思っていた叔母に、そんなに友達がいたのは意外だった。叔母は手芸を趣味としており、ハンドメイド市で知り合った仲間がいたようだった。お棺に収めることになった手紙に目を通した。手紙の中で叔母は「○○ちゃん」と本名ではない名で呼ばれていた。それは亡き愛犬の名だった。趣味の活動での屋号かペンネームみたいなものとして使っていたらしく、仲間たちにはその名で呼ばれていたらしい。それが本当の叔母の名だったのかもしれないな、と思った。
手紙には、叔母の強さと優しさ、美しい生き方を尊敬していること、叔母に力づけられて自分も創作を続けてきたという感謝などが書かれていた。「母きょうだいの問題児」としての叔母しか知らなかったわれわれの、知らない叔母の姿があった。叔母が誰かを力づけたり誰かに慕われていたりするなんて、普段の様子からは想像できなかった。
死の一、二日前に渡されたその手紙は、「これからもずっとずっとよろしく」というような言葉で結ばれていた。一見空虚な言葉のようだけれど、私も、叔母が死んで初めて、知らない彼女に出会えたような、「初めまして」のような気持ちになった。亡くなるときや亡くなった後になって初めて、知らなかったその人の一面を知ることがあるのだ。よくあることかもしれないが。


葬儀に来たいとこのひとりは、叔母の作ったブローチをつけていた。ちりめんの小さなお花を寄せ集めたもので、精密に丁寧に作られていた。叔母はそれを300円で売っていたらしい。周囲は「安すぎる」「手間を考えたらもっと高く売ったほうがいい」と言ったが、叔母は「最初にその値段で出してしもたから」と頑なに値上げをしなかったらしい。

最近はネットでも、「クリエイターは相応の報酬を要求すべき、不当に安い報酬は他のクリエイター全体のためにもよくない」という意見をよく見る。たしかにその通りだと思うのだが、叔母はおそらく、何かを作ってそれで以て人と交流することに、換金できない愉しみを見出していたんだろうなあとも思う。そのせいで周囲は、金のことでやきもきさせられることもあったが、しかしそれも、「なんか知らんけど」そういう人やったんやな、と思うしかない。


「勝ち組で金持ち」とか「長生きして子や孫に囲まれる」とかが分かりやすい幸せの形だとすると、叔母は多くの人には幸せに見えなかったかもしれない。独身だったし、金や名誉もなかったし、世間付き合いも不器用だった。しかしカツカツで悲愴だったわけではなかった。その生活の中で犬の思い出を大事にし、細かな手作業を愉しみ、好きなことを通して友人を作り、心豊かに生きていた人だったのだな、ということが、葬儀屋の一室で初めて分かった。

メキシコの思い出

「行きつけの店」的な存在に憧れる一方、飲食店で「いつもありがとう」などと言われると途端に足が遠のいてしまう、という現象がある。なんとなく、飲食店で顔を覚えられるのがイヤなのだ。お店の人は好意で言ってくれているのに申し訳ないこととは思うが、性格的なものなのでどうしようもない。しかしメキシコは別で、メキシコで「おっ、こりゃまた古株が来てくれたなあ」とあの飄々とした口調で言われると、ああまだ覚えていてくだすったのかと嬉しくなってしまう。

 

メキシコは、実際はメキシコという名前ではない。メキシコ料理の居酒屋でメキシコ的な内装なので、われわれが勝手にそう呼んでいる。

初めてメキシコを訪れたのは、(私はこういう日付をやたらに記憶しているのだが)2006年の3月であった。当時、研究室で、自主研究会を開いており、その後の飲み会で訪れたのだった。自主研究会といえば堅く聴こえるかもしれないが、みんながリレー形式で自分の好きなテーマ(「オタク論」「ボーイズラブ」「石ノ森章太郎家畜人ヤプー」「まれびと」などのテーマがあった)についてレジュメを作ってあれこれ語り、実質その後の飲み会を主体とするようなものだった。

第一回の研究会はなかなか議論が白熱し、残った何人かがじゃあ飲みにでも行こうということになった。当初、先輩の薦めでちょっと高そうな和風居酒屋を当たったのであるが満席で、行き場を失ったわれわれは、その向かいの薄暗い雑居ビルに、なんや怪しげな看板が出ているのを見つけ、「もうここでええんちゃう」というノリで入ったのが、メキシコであった。

 

メキシコは、メキシコ的な内装でありつつわれわれの通された部屋は畳座敷に卓袱台が置かれており、混沌としていた。この日は他に客はいなかったと思う。いたのかもしれないが、見るからに喧しい学生であったわれわれは誰もいないほうの部屋(店はふたつの部屋に分かれていた)に隔離されたのかもしれない。まあともかく、みんなそれぞれメキシコ的なビールなどを注文した。口ひげを生やし髪を束ねた、メキシコの街頭でバンジョーでも弾いてそうな(※メキシコの勝手なイメージ)おじさんが陽気に接客してくれた。その人がマスターであるようだった。私は酒が飲めないので、ココナッツジュースを頼んだところ、マスターが、

「ごめんなぁ~、せっかく頼んでくれたけど、ウチのココナッツジュースまずいんやあ。他のんにしとき~」

と言った。それで私はもう、「この店………好きーーー!!」となったのだった。

 

 

その日は遅くまでメキシコの座敷で飲み続けた。思えばわれわれはメキシコの正確な閉店時間を把握していなかったが(今に至るまで把握していない)、とうに閉店時間を過ぎていたのでないかと思われる。だがマスターは快く歓待してくれて、しまいにはサービスのツマミまで出してくれた。スルメなど、もはやメキシコ的でもなんでもないツマミであり、明らかに隣のコンビニで買ってきてくれたものだった。民宿のようなもてなしだねと言い合った。われわれはその畳部屋に数時間ですっかり馴染んでしまった。

以来、月に一度の研究会の後は、メキシコへ移動するのが定番となった。メキシコの正式名称が覚えられなかったため(※別にそんな難しい名前ではなく私以外は覚えていたと思われるが)、「メキシコ」という呼び方が定着した。

 

店に入るとまず、テカテやらコロナやらアボカドジュースやらのメキシコ的な飲み物を頼む。マテ茶を頼むとマスターに「マテ茶ね。ちょっと待て茶」と言われる。初回に断られたココナッツジュースはその後改良されたらしく注文可となった。その後、ナチョス、パパス、タコス、エンチラーダスなどの定番メニューを頼む。パパスを頼むと「はい、パパス・ママス」と言われる。ダジャレにしづらいメニューに関しては特にダジャレはない。日によっては料理はなかなか来ないが気長に待つ。メニューは基本的に変わらなかったが、時折思い出したように「メキシカンチキンラーメン」(チキンラーメンサルサソースがかかっている)などの新メニューが登場するのだった。

 

 

われわれとメキシコとの付き合いは、何期かに分類できるが、最盛期は、メキシコ飲み会参加人数も増えテキーラが流行を見せた頃であろう。研究会が盛り上がり、そのままメキシコになだれ、それぞれテキーラを注文し本場の飲み方(留学生の研究室員が教えてくれたことから流行り出したと記憶している……塩を舐め、ライムを齧って飲む、みたいな飲み方)で飲むと、皆、議論(やしょうもない話)を闘わせながら次々に潰れてゆくのだった。潰れた果てにどうなったか、という話は私(や一部の人)にとっては面白いが世間的にはよくある酔っ払い話だと思うので詳述はしない。地獄絵図を表す端的な話としては、酔っ払った者二人をタクシーの後部座席に乗せて送っていった先輩の、「タクシーが止まると同時に後部座席の両側のドアが開き同時に嘔吐が始まった」という話などがある。他にもいろいろろくでもない事件はあるのだが、たぶんここに詳細に書いてもなんも面白くないと思うので(面白く書ける筆力がないので)省略する。メキシコはそういう事態には慣れているようで、酔っぱらった者たちが迷惑をかけたことを勘定時に謝ると、

「あらー、また救急車呼ばんとあかんかと思うたけど大丈夫そうやねえ、よかったわあ」

とのんびり言っていた。その口ぶりから、どうやらメキシコはたびたび救急車を呼んでいるらしいことが分かった。

 

なぜあの頃はああだったのか分からないが、研究や勉強の充実に、皆の個人的な人生のターニングポイントが重なり、なんとなくいつも昂奮したような浮かれたような雰囲気になっていたのでないかと今振り返ると思う。少なくとも自分はそうだった。私は酒が飲めないのでテキーラでダメになってゆく人々を見ているだけの立場だったはずだが、なぜかメキシコでは自分も、いつも酔っていたような記憶がある。

 

 

メキシコの特徴として、「誰が従業員で誰が関係ない人か分からない」ということもあった。マスターはマスターだとはっきり分かるのだが、日によっていろんな人が注文を取ったり運んだりしており、一度見かけたきりの人もいた。週とか日とかの単位でゆるくいろんな人が手伝っていたのかもしれない。

一度、そんな「短期の手伝い」的な人に、真面目なXさんがちょっとした暴言を吐かれ喧嘩になりそうになったことがあった。結局は、Xさんがキレるのを我慢し喧嘩は不発に終わったのだが、酔っぱらって転がっているのを店員(?)に「邪魔やから鴨川に捨ててこよか」と言われ、なんで知らない人にそこまで言われねばならないのだとムカッとしたらしい。しかしこれも後から思えば、この暴言を吐かれたとき時間は深夜2、3時になっており、本来の閉店時間(上述の通り何時だか正確には知らない)をはるかに過ぎていたので、そんな時間まで酔っ払いに居座られた(寝座られた)この店員(?)はいいかげんイライラしていたのであろう。普段のメキシコが寛容過ぎたのである。

この頃は、そんなふうに、メキシコに行けば深夜の2、3時までだべり続けるのが日常のようになっていたのだった。しかし1、2年経つと、皆それぞれに忙しくなったり立場や住まいが変わったりして、メキシコに長居することも少なくなり、そのうちに、年に数回何らかの機会に訪れるだけになってしまった。先日の飲み会ではついに、「われわれももう年齢的に遅い時間は無理なので」という理由で早めの集合早めの解散となり、しょっちゅうメキシコから熊野神社横のからふね屋(当時24時間営業だった)に流れて朝を迎えていた頃を思うと隔世の感を覚えるが、とはいえそれでもそうして年に何度かはメキシコを訪れているわけであり、そのたびに、変わらず飄々とした風貌のマスターが、変わらずのんびりした口調で、

「こりゃまた久しぶりの顔が来てくれはったなあ」「マテ茶はちょっとマテ茶」

と言ってくれると、一気に年月を忘れてサークルの部室に戻ってきたような気持ちになるし――私はサークルというものに所属したことがないがサークルの部室というのはメキシコみたいな感じかなと思う――、冒頭に述べたような性向の所為でひとつの店に通いづらい自分にも、知らん間に「行きつけの店」ができてたんやな、となんとなく誇らしい気持ちになる。マスターにはいつまでもお元気でいてほしいと思う。先日、研究室の後輩にあたる人に会った(私はもう研究室とは関係がなく、研究室も当時とは体制が変わっており、この方とはSNSで知り合った)。その際に、今でも研究室の飲み会といえばメキシコであること、メキシコは今でも「メキシコ」と呼ばれているらしいことを聞き、小さな感動を覚えた。