おぢいに評価された絵

母方祖父(おぢい)の話はこれまでも何度かネットで書いているので「またか」とお思いの方もあるだろうが、そんな熱心に私の書き物をコンプリートしている読者がいるとも思えないし、また一定の年齢になると人は、同じ話を何度もするものだと思うので、まあよいとしてほしい。

 

母方祖父(おぢい)の家は、私が物心ついたころには、いろんな骨董(本人とその家族は「ガラクタ」あるいは「ごもく」と呼んでいた)、趣味の本、本人が作った彫刻や工芸品でいっぱいだった。おぢいは「ごもく集め」を趣味とし、手先が器用で、自らいろんなものを作る他、親戚が持ってくる壊れた時計だとか食器だとかの「直し屋さん」(といっても料金をとるわけではない)をしていた。おぢいは無口で、いつも小刻みに震え、部屋着の着物を着て、あまり家から出なかった。社交的ではなかったし、見た目も偏屈の仙人のようだったし、私はずっと、おぢいは「直し屋さん」をしたり彫刻を売ったりして生計を立ててるんやろうなあ、と思っていた。おぢいが普通にサラリーマンだったことを知ったのは、かなり大人になってからである。エッ、勤め人だったの!? あれで!!?? とかなり衝撃を受けた。

 

私はおぢいを敬愛してはいたが、しかしおぢいが自分の得意な人間のタイプかというと、微妙であった。身内ではあるので普通に戯れかかってはいたが、いつも何かを見抜かれているような、どこか緊張するような感じがあった。私には「敬愛できてかつ親しい人物」というのが少なくて「敬愛するが苦手な人物」がすごく多い。特に、男性で何か作品を作る人(作家とかミュージシャンとか)で好きな人物はほぼこのタイプだ。そのタイプの原初がおぢいだったといえよう。

 

特にその感じを感じるのは、描いたものをおぢいに見せるときだった。描いたものといってもべつにたいしたものではない。私は子供の頃から落描きが好きで、母の実家に行ってもよくチラシの裏に漫画のようなものを描いていた。そして母の実家で描いたものはおぢいの目を通ることになる。自分で見せにいったのか、周囲の大人が「こんなん描いてるで」と見せていたのかは覚えていないが、ともあれ、私のチラシの裏を受け取ると、そんなどうでもええ落描きには不釣り合いな真剣なまなざしでおぢいは、眼鏡を外したりかけ直したり、紙を近づけたり遠ざけたり、またたびたび裏返してみたりしながら、じっくり鑑賞する(裏返すのはおそらく骨董の銘を見るときの癖だったのであろう)。だんだんこちらは、そうまでして見てもらうものでもないので、もうええって、というようなこそばゆい気持ちになってくる。紙を持つ手はいつも小刻みに震えている。後で母に聞いたところでは、手が震えるのはあるとき急に始まったらしいので、加齢による何らかの不調であったのだろうが、当時の私にはそれも何かおぢいの仙人らしさというか芸術家らしさというかそういうものの表れに見えたのであった。紙を返してもらう頃には、すっかり気恥ずかしくなっている。おぢいは多くは語らないが、時々、「ここはちょっと変やな」「こうしたらええんちゃうか」というような真面目なコメントをした。気に入ったらしいときには、「面白いですがな、ホッホ」と言葉少なに笑った。

 

一度、窘められたこともあった。技術的なことではなく倫理的なことである。8歳くらいの頃、年下のいとこを揶揄うような絵ばかり描いていたことがあった。私としては、年下の子に注目が集まることが少し妬ましかったところもあり、また母の実家というのは自分の家と違って子供らしく「いちびる」ことができる場であったので、「〇〇(いとこ)はハゲ」とかそんな意地悪な絵ばかり描いていたのだが、それをおぢいが、

「あんたは将来漫画家になりたいんやろ、漫画ていうのは人を幸せにするものとちゃうんか、せっかく絵ェ描くんやったら人を喜ばせる絵ェ描かんと」

といつもの飄々とした調子ではあるが窘めたのであった。私は、「漫画家になりたい」というのはそんなに本気で言っていたわけではなかったが、芸術家で仙人であるおぢいにそんなふうに言われて「ウッ」と思った。しかし一方で、「漫画ていうのは人を幸せにするもの」という主張には、「そうかなぁ」と、何か納得いかないものもあった。

このことは、2015年、或るイラストレーターの「そうだ、難民しよう」が話題になったときに思い出した。絵の良し悪しは私には分からないが、人物の顔や身体、髪、服の皺がひとつひとつ描かれ影もつけてある。それは(写真のトレースとはいえ)時間のかかることだろうし、ソフトの操作を習得する労力も使ってきたことだろう。そんなせっかくかけた労力やせっかく得た技術を、こんなことに使うのか、と考えると、作者と「〇〇はハゲ」を描く自分が重なった。しかしそれでもやはり、「漫画家ていうのは人を幸せにするもの」ということには依然「そうかなぁ」と思うのであった。

 

 

話が逸れたが、そのように、おぢいは私にとって、慕わしい祖父でありつつ、どこか畏怖の対象であり緊張させられる人であった。私が大きくなると、子供の頃のようにチラシの裏に描いたものを見せることもそう無くなったが、我が家からの年賀状の絵は毎年私が描いていたので、毎年おぢいはそれを震える手で持ち、遠ざけたり近づけたり裏返したりしながら見ていたことだろう。正月には毎年挨拶に行っていたが、特にそれらについてのコメントは印象に無いので、たいしたことは言われなかったのだと思う。しかしそんな中で一度、後から伯母に、

「おぢいが今年のあんたの年賀状を気に入って、『これはええ、これはええ』て言うて飾って何度も見てはった」

と聞かされた年があった。

それが、これである。

 

 

 

 

何故!?!?!?

これは2000年の年賀状だが、家族からは「きもい」と不評であった。自分でもなぜこれを賀状にしたのかよく分からない。おぢいもこれの何を気に入ったのか分からない。伯母によると「おぢいはコチャコチャ描き込んであるのが好き」ということだったが。たしかにコチャコチャしてはいるが。しかし、晩年のおぢいが、正月に一枚一枚賀状を吟味し、ぷるぷるふるえる腕でこいつを持ち上げて「ホホッ」と笑って裏返してはまた「ホホッ」と笑ってくれていたであろう光景を思うと、今でも少し嬉しくならないこともない。