ビー玉の金魚鉢

あれはなんというのか、シーグラス風のインテリア。曇り硝子状の濃いブルー、クリアな薄いブルー、それから透明のビー玉を透明な鉢や硝子瓶に詰めたあのオブジェ。名前があるのか分かりませんが、あれを見ると未だにときめく。いつも、永遠に80年代趣味やねと笑われるのであるが、その通り80年代的な建築やインテリアが好きで、中でもあの瓶詰ビー玉オブジェが好き。といってあれが80年代に発生したものかどうか知らないのだが。あれの発祥っていつ・どこなのかしらん。と、問題提起しておきながら今回はそれについては調べずあれの思い出を記す。

 

幼い頃は、男の子たちの中で遊ぶことが多かった。というと、紅一点とかなんとかサーの姫とかいった言葉が浮かぶが、自分は単に女の子の友達が少なかっただけであり、紅や姫としての扱いを受けることはなく、むしろダメ一点という感じで虐げられていた。というとまた気になるからこそいじめてしまう的なあれかと思われそうだが、たぶん単に本気でウザがられていたと思う。ウザがられていた理由としては、トロいうえにびびりだったからであろう。オタサーのダメである。今と同じか。

 

近所でよく遊んでいたのは、ケン君(仮名)とユウキ君(仮名)というひとつ年下の男の子たちだった。ケン君は乱暴者でやんちゃ、ユウキ君はおっとりしていた。優しいのはユウキ君だったが、私はケン君のほうが好きだった。私は乱暴者が好きなのだった。しかし、これが難しいところで、乱暴者は好きだが乱暴は嫌いだった。三人で遊ぶと、だいたい私が途中でギャーとかキャーとか泣きわめいて終わる。ケン君は「これやから女は嫌や」とやれやれし、ユウキ君がなだめてくれる。私には年上のお姉さんとしての威厳は無かった。泣きわめいた具体的な理由は覚えていないが、だいたいケン君が何か乱暴なことをしてそうなるのだった。

 

あるとき、ケン君の5歳の誕生日パーティーに招かれた。ケン君の家にはそれまでも何度か遊びに行っていた。白亜のような玄関を入ると、広いフローリングの居間があり、テーブルに食事が並んでいた。テーブルの周りは10名ほどの子どもたちがいた。いつもはケン君とユウキ君と私の三人だけだが、習い事などケン君の他のコミュニティの友人たちであったのだろう。全員男の子であり、ユウキ君以外は知らない子だった。知らない子たちの中に女子ひとりである私は隅っこで小さくなった。

それぞれがケン君に誕生日プレゼントを贈呈した。私も何か親が見つくろったものをプレゼントしたと思われるが、覚えていない。覚えているのはその後、ケン君のご両親からのプレゼント贈呈である。ご両親が、ラッピングされた大きな包みを渡した。ケン君は包みを開け、

「わあ! ほしかったんや!」

と歓声を上げた。野球のバットだった。野球は当時男の子たちの一番メジャーな遊びだった。 ケン君はそれを担ぎ何度か得意げに素振りした。そして言った。

「これ、金属バットやぞ!」

 

そのバットが実際に金属バットだったのかどうかは分からない。もっとちゃちな、おもちゃのようなバットだった気もする。しかし、このひと言で、私の身体は縮み上がった。当時「金属バット」という言葉には特別な含意があった。それは、1980年に神奈川で起こった金属バット殺人を連想させる言葉だった。今でいう「教育虐待」を受けていた浪人生が両親を金属バットで撲殺した事件であった。1980年当時私たちはまだ物心ついていないはずであるので、この頃判決が出たことで再び話題になりその事件名を耳にするようになったのであろう。といっても、事件の経緯や詳しいことはほぼ知らなかった。ただ「金属バット」という強そうな言葉と「殺人」が結びついたのである。「金属バット」は暴力的でちょっとカッコイイ言葉になったのである。

それが証拠にケン君は、金属(?)バットを振り回しながら何度も、

「金属バット! 金属バット!」

と言い、

「これで殴ったら死ぬんやで」

とも言った。まさかやんちゃなケン君でも人をバットで殺すようなことはしないだろう、第一あれが本当に金属バットか分からない、と思いながらも身体は強張った。殺すつもりはなくても、当たってしまうかもしれない。ケン君はリビングの一番奥でバットを振り、私は入口近くにいた。広いリビングであるから、どう考えてもバットが当たることはない。しかし、なんかの間違いで当たってしまったら、あるいはケン君が突然おかしくなって、こっちに走って殴りにきたら。そんなことを想像するうちにさあっと手足は冷たくなった。誕生日パーティーに来たことを後悔した。

 

食事にするからそれは置いて、とお母さんがバットを片付けさせ、私は心からほっとした。その後、お母さんが作った食べ物やお菓子が運ばれてきて、ケーキも出てきたと思う。が、その間じゅう私は気が気でなかった。

今は手にしていないとはいえ、同じ部屋にあのバットが在るのだ。部屋の隅に置かれたそのバットが、食べているときもその後にゲームをしているときもずっと目に入り、それはきれいなリビングの中のくろぐろとした異物のような存在感を放ち、この部屋からなくなったらええのに、どっかにやってくれへんかな、なんでバットなんかあげるのか、ケン君のおっちゃんとおばちゃんがバットなんかあげなければ、とそればかり頭に浮かぶ。今はケン君はバットを手にしていないし、手にしたからといってたぶんあれは金属バットじゃないし、金属バットだったとして本当にそれで人を殺すことなんて無いはずだと分かっているのに、そいつが在る側に向いた身体の半分がぴりぴりと緊張して、腹から胸にかけての中がずっとざわざわと落ち着かぬ。

そのざわざわになることがよくあった。たとえば親に琵琶湖に連れていかれた際。父に手を取られ泳いでいたときに、父がふと、「下、気いつけや、黒いのあるぞ」と言った。水面下でよく見えなんだが、水の底にたしかに黒い小さい何かがあって、尖った石か何かのゴミであったのだろうが、父が「ジョーズやで、なんてな」と言ったのである。ジョーズでないことは5歳児でも分かった。そんなジョーズがあるはずない。黒くて一部尖っていることしか共通点は無い。しかし、その後はもうダメで、泳いでいても、底に足をついてしまえば大変なことになってしまうような恐怖でいっぱいであり浜に上がってもあのジョーズが沈んでいたあたりが気になって恐ろしくてしょうがない。腹や胸の中がざわざわして顔面が白くなっているのが自分でも分かる。ジョーズと言ったのは、父のどうでもいい冗談であったはずなのに。

 

結局その後、私は金属バットと同一空間に存在し続ける緊張感に耐えられなくなったのであろう、ボードゲームをしている最中にまた何らかのやんちゃをきっかけにキャーとかギャーとか泣きわめき出し、ケン君にしてみれば自分の誕生日パーティーでご機嫌にしているところへ面倒臭い年上の女子がキレ始めたので面白くなくますます意地悪なことを言い、私はますます泣きわめいた。

「よしよし、おばちゃんと一緒に二階行こ」

ケン君の家で私が泣きわめいたことは初めてではなく、お母さんは手慣れたものであった。これが始まると二階の小部屋へ連れていってくれる。私はお母さんに連れられ階段を上った。あのバットのある部屋から離れられてほっとした。男の子たちは面倒なやつが去ったのでまたにぎやかに遊び始めた。

二階の寝室の隣の小部屋には、大きな熱帯魚の水槽があった。私がこのモードになると、お母さんはこの部屋へ連れて水槽を見せてくれるのだ。ブルーの水槽、水草の中に、赤く光る小さな魚たちやしましまの魚たちがいた。私はこの水槽を見るのが好きだった。家でも何度も「ケン君の家で水槽を見せてもらった」という話をした。今思えば、ケン君の家は、広いフローリングでパーティーをしたり大きな水槽があったりお金持ちの家だったのだろうが、当時は特にそんなことも意識せず、大人になったらこういう水槽のある家に住めるのかと思っていた。ケン君の家がお金持ちだと知ったのはけっこう成長してからで、「ケン君はええとこ受験せなあかんで大変らしい、あそこはちゃんとしたお家やからな」と大人たちが話すのを聴いて、あんな乱暴者だったのにお坊ちゃんだったのか、と知ったのだった。一方その頃には、おっとりしていたユウキ君はグレていた。

「男の子ばっかりやしいややんなあ、ここでおばちゃんとゆっくりしてよ」

お母さんは、水槽の前の白いソファに一緒に座ってくれた。ソファの前には小さなガラスのテーブルがあり、金魚鉢が置かれていた。金魚鉢の中には、曇り硝子状のブルー、クリアな薄いブルー、そして透明のビー玉がキラキラしていて、私はそれを眺めるのも好きだった。これなんなん? なんで青のと水色のと白のがあるん? ビー玉出してもいい? とりとめない質問に、そやねえ、これはまあ、ただの飾り、なんでかなあ、きれいやから、ええよ、と答えつつ、おばちゃんは私の背に目線を合わせて一緒に、取り出したビー玉を眺めてくれるのだった。