熟練の胃液

私は酒に大変弱く、酒が嫌いではなくむしろ好きなのだが酒を飲んでよいことはほぼ無いと最近気づいたため、酒を飲む店に入ってもできるだけウーロン茶等を頼むようにしている。これまでごく少量の酒で数々の失態を経験してきた。飲んでも出てしまうなら飲ま…

ビー玉の金魚鉢

あれはなんというのか、シーグラス風のインテリア。曇り硝子状の濃いブルー、クリアな薄いブルー、それから透明のビー玉を透明な鉢や硝子瓶に詰めたあのオブジェ。名前があるのか分かりませんが、あれを見ると未だにときめく。いつも、永遠に80年代趣味やね…

通信添削の思い出(ガッツ石松)

ツイッターでまた、「中年になっても昔の模試の成績の話をし続ける人」がバカにされていた。この件では、それ自体がバカにされていたというよりは他に批判される文脈があった中でのことのようだが、ともあれ、いつまで模試の順位やら偏差値やらの話をしてる…

おぢいに評価された絵

母方祖父(おぢい)の話はこれまでも何度かネットで書いているので「またか」とお思いの方もあるだろうが、そんな熱心に私の書き物をコンプリートしている読者がいるとも思えないし、また一定の年齢になると人は、同じ話を何度もするものだと思うので、まあ…

ふたりの優等生の思い出

小学校に、Aちゃんという女の子が転校してきた。三年生か四年生の頃だったか。 Aちゃんは、転校してくるやすぐにクラスの中心人物になった。 彼女は快活で明るい性格だった。女子はすぐに彼女をグループに迎え入れ、男子は早速「Aちゃんが好きになった」とい…

逆転サヨナラ満塁五条別れ

この年齢になっても初めてのことはあるもので、初めて野球の試合を最後まで見た。これまで野球のルールを何度か人に教えてもらったが一向に覚えられない。小学生の頃にクラスでキックベースをさせられたことがあるが、まるでルールが分からずとにかく人から…

救急車が来る!

わが町内の民は、救急車が大好きだ。あるとき家に帰ると、近所の人たちが皆戸外に出てなんとなくワクワクとした感を醸していた。何か、と思ったら救急車が来ていたのだった。わが家の者も例外ではなく、救急車の音にはやたら敏感で、室内でのんびりしていて…

どろぼう

麦藁帽の老女。私。杖をついた老女。三名が順番に乗り込み扉が閉まろうというときに、「ああ~ん、閉めちゃダメえ、待ってえ、乗せてえ」 と若い女が乗り込んできた。 妙に色っぽい発声だ。小さな駅のホームと改札階を行き来するだけのエレベータであるが、…

電話に関する思い出2件

「援助交際」を介するものとしてのテレクラが話題になったのは、ちょうど私が高校生くらいの頃であったが、私も子供の頃に、テレクラに電話をかけたことがある。 当時、河原町へ行くと、あちこちでテレクラの電話番号が入った宣伝ティッシュが配られていた。…

コンタクト屋のチラシ配りの思い出

長らく派遣会社に登録して、試食販売やイベントスタッフなど日雇いのバイトをしていた。その派遣会社の主な派遣先に、コンタクト屋のチラシ配りがあった。 コンタクト屋のチラシというのは、街角で配られて嬉しくないもののひとつであろう。ティッシュならま…

嘘の思い出

初めて嘘をついたのはいつのことか覚えていないが、初めて「なんぼでも嘘がつける!」と悟ったときのことをよく覚えている。 幼稚園の送迎バスから、祖母に連れられて家に帰る道である。幼稚園でこんなことがあってん、と報告する中でカズミちゃんの話をした…

満月

月と同じに満ち欠けする俺たちの黒目は、廻る黒い円盤に合わせて広がったり縮んだり、同じ刺激-反応を何度も何度も阿呆みたいに、パブロフの犬は尾も振っていたの? 日曜の朝起きて頭の中で流れていた歌をふと口ずさんだら、ぺぐれす(仮)がTechnicsのプレ…

尼崎toraの年越しの思い出

何年か前に、尼崎toraで年越しをした思い出を書く。なんで今書くかといえば、特に理由はなく、単に、面白かったなアと思い出したからである。 尼崎toraは、尼崎にある小さなライブハウスである。ぺぐれす(仮)のご縁でときどき行くようになった。出演するわ…

靴下を切り刻む

「考えたら分かるやん!」というのを昔からよく言われる。言われて痛いフレーズのひとつであるが、たしかに他人からすればそうも言いたくなるであろう失敗をしょっちゅうするのは事実なのでしょうがない。そこまで極端に論理的思考ができないわけではない(…

蝉が死んでいく作文

たいした栄光のない人生の中で数少ない栄光は、小3のとき何かの作文コンクールで入選したことである。何のコンクールだったか、たぶん実家に未だにこのときの盾があるので見れば分かると思うがまあいい。しかしこの入選は特に嬉しいものでもなかった。 夏休…

うちの信仰論争

生まれてほどなく妹の病気が見つかり長期入院になった。母も付き添ったため、その間の何か月間、父の実家に預けられた。祖父母に甘やかされ口うるさく怒られることもない日々は、それなりに快適であった。だが周囲の大人は「お母さんと離れて淋しいやろうに…

シャーペンの消失の話

九十年以上生きた祖母が、去年亡くなった。(このブログは何か身内が死んだ話ばかり書いている気がするが実際身内は死ぬのだからしょうがない)祖母と孫の付き合いとしては平均より長いであろう年月、祖母のことでは色々あり、葬儀となればさぞいろんな感情…

叔母の死

先日、四十九日も過ぎた。「あれ、〇〇ちゃん今日来てはらへんの?」と言おうとして、ちゃうやん! 今日は〇〇ちゃんの法事やん!と気付き、〇〇ちゃんはあんま喋らん人やったけどいないとなると違和感があるものだなと思った。親族一同も同様の錯覚にたびた…

メキシコの思い出

「行きつけの店」的な存在に憧れる一方、飲食店で「いつもありがとう」などと言われると途端に足が遠のいてしまう、という現象がある。なんとなく、飲食店で顔を覚えられるのがイヤなのだ。お店の人は好意で言ってくれているのに申し訳ないこととは思うが、…

食パンと食パンにまつわる諸々の思い出

子供の頃、家での朝食はもっぱら洋食であった。具体的には、食パンであった。母が、朝が苦手であったため、和食より比較的手間のかからないものということで、そういう習慣になったのだと思う。 たいていは、トーストした食パンに何かを塗るかのせるかして食…

「姉」たちの思い出

自分は同性と対等な関係を築くのが何か苦手なのだが、これは、幼少の頃から「面倒を見てくれるお姉さん役の女の子」が周囲にいたからではないか、ということにふと思い至った。実際の家庭内ポジションは長女だが、公園や幼稚園や学校ではいつも「姉」的な役…

ヤフオクの思い出

もう長いことヤフオクを使っている。ヤフオクというのは、書かなくても分かると思うがヤフーオークションのことである。使い始めたのは2002年か2003年かそんな頃だったか、絶版になっていた本を入手したくて使い始めたのだったが、その後、本や服を買ったり…

シルバニアの便器の思い出

父は繁華街が嫌いだ。子供の頃、山や川へ連れていかれた思い出はあるが、街へ連れていかれた思い出はほぼない。一度だけ、学校で必要な何かを買うため河原町の百貨店についてきてもらった記憶がある。その日は母の都合が悪く、父に託されたのだろう。だが、…

光の礫

シンバルを打ったような鋭い音に顔を上げると、蒼天からの陽射しをそのまま粉々にしたような光の礫がスローモーションで降り注いで、何が起こったか分からない。隣席の人が顔を伏せたのは眩しさのせいでなく、秋空の破片かと思われたそれは砕け散ったフロン…

ノーフォーク

野原の落し物や列車内の忘れ物を満載したトラックが、イギリス中から列をなしてこのノーフォークという場所に来る。わたしたちはそう信じていました。写真もないノーフォークは、とても神秘的な場所でしたから。 ばかげているとお思いですか? でも、当時の…

小学生時代の一番楽しかった思い出

小学生時代の一番楽しかった思い出を書きたい。 六年生の遠足の日のことだ。われわれの学年は、奈良の飛鳥に行くことになった。季節は初秋だっただろうか。ちょうど社会で歴史を習っていた頃だったから、その勉強の意味もあったのだろう。この遠足では、全員…

おつまみの思い出

その店はもうないけれど、私の実家はかつて酒屋を営んでいた。古く小汚い小売店であり、家族全員たいして店に愛着はもっておらず、私も積極的に店を手伝うこともなかったが、夜にシャッターを閉めた後のしんとした店の雰囲気は好きで、今でも思い出すことが…

ハンサムの思い出

「イケメン」という語の台頭によってすっかり「ハンサム」が駆逐されてしまった。「イケメン」が現れた頃はこんなに長持ちする言葉になるとは思わなかったが、2018年現在も「イケメン」は現役であり、その勢いは衰えることがない。「イケメン」登場以前は、…

誠実さの思い出

詳細は省くが、昔、或る人との関係がこじれたときのことを時々思い出す。そのこじれに関しては、私の責任によるところが大きかったので、私は精一杯誠実に対応しようとした。誠実に対応する、というのは私の苦手とするところである。普段すぐ誤魔化したり投…

虫恐怖の発生とその予後

思春期に入った頃、幼い頃には普通に虫を追っかけてた子たちが、次第に虫を気持ち悪がるようになり始めたのが不思議であった。だが、かく言う私もまもなくそうなってしまった。 幼い頃はむしろ虫好きで、蟻やダンゴムシを捕まえて飼ったり、道で拾ったミミズ…