ノーフォーク

野原の落し物や列車内の忘れ物を満載したトラックが、イギリス中から列をなしてこのノーフォークという場所に来る。わたしたちはそう信じていました。写真もないノーフォークは、とても神秘的な場所でしたから。

ばかげているとお思いですか? でも、当時のわたしたちには、ヘールシャムの外が御伽噺の世界も同然だったことをご理解ください。そこがどんな場所で、何かできて、何ができないか……すべては漠然としていました。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋正雄訳、ハヤカワepi文庫、p.105)

 

4年前まで、犬を飼っていた。溺愛犬であったため、犬が死んだときはもちろん悲しかったが、同時に、「ああ、もう心配せんでええんやな」とほっとする感を覚えたことも否定できない。
犬が生きている間、私は心配ばかりしていた。ちょっと具合悪そうにすると、大病だったらどうしようと心配になり、自分が旅行などで不在のときは、その間に犬に何があるのでないかとことあるごとに(いや、ことはなくても)不安になり、「犬大丈夫?」と家族にメールするのだが、そのメールの返信が遅れたら遅れたで、「(ああ、やっぱり何かあったのでは……旅先の私にそれを知らせまいとして返信が遅れているのでは……)」と更なる心配が始まるのだった。たまに犬と一緒に寝ることがあったが、そんなときは夢うつつの中で「寝返りを打った拍子に犬を下敷きにしてしまい潰してしまったらどうしよう……」とわけのわからん心配をしながら寝入っていた。ならばいっしょに寝なけりゃよかろう(なお下敷きになって潰れるサイズの犬ではなかった)。
そんな佐々木光太郎かおれかってくらいの心配症を患い続けていたので、犬が往生したときは、悲しいながらも、老衰による比較的穏やかな往生であったこともあり、「ああ、幾多の心配を乗り越えて飼い遂げることができた、もうこんな心配はしばらくええわ」という気持ちになったのだった。


犬に対して過剰な心配をすることとなった理由のひとつとしては、この犬が、元々素性の分からぬ迷い犬であり、またいつふらりと旅立ってしまうか知れなかったということがある。既に自立した大人(成犬)であった彼女は、何を考えているのやら測りがたく、独自の世界をもっているふうで、実際我が家に来た最初の頃は二、三度脱走を未遂している。我ら飼い主は脱走対策に、名札はもちろん柵を買ったり囲いを作ったりと腐心したものだった。犬を飼い始めて当初私は、「犬が出ていってしまう」「もとの飼い主が犬を連れ戻しに来る」系の夢を何度も見た。(これは私だけでなく、父もまた「まめ子がブラジルに戻ってしまう夢を見てん」と淋しそうにしていたことがあった。なんでブラジルやねん。ちなみにめっちゃ和犬ぽい雑種だった。)

 

そんな夢の中で、印象的な夢がある。犬がトイレに流されてしまうという夢である。犬は既に、上半身を水流に飲み込まれており、私は尻尾をひっぱり懸命に引き留めようとしていた。そういえば現実にも、あわや逃げそうになる犬を、尻尾をつかんで引き留めたことがあった。夢の中で私は、ひっぱるのはかわいそうだがここで手を離せば二度と会えなくなってしまう、と必死であった。だけれどふと、

「あ、流されてしまっても淀川までいって探したらまた会えるやん」

と考え、急にほっとした気持ちになり手を放す、という夢だった。

 

 

起きてまずほっとして、それからしばらく考えて或ることに気づき、笑ってしまった。「淀川を探せばまた会える」という発想がおそらく、子供の頃のファンタジーに由来していることに気づいたのだった。

思えば私は子供の頃から心配性だったようで、トイレや洗面台や風呂場の排水溝に流される・または大事なものを流してしまう、というのが心配事のひとつであった。流れた水がどこへ行くのかを尋ねると母は、

「流れた水は鴨川に行く。鴨川の水は、大阪まで流れて淀川になる。淀川で全部の川の水が一緒になるんえ」

と教えてくれた。それを聴くと、じゃあ水に流されても、何かを水に落としても、最終的にその淀川というところへ行けばええんや、とちょっと安心できたのだった。家の近くを流れる鴨川はよく知っていたが、それよりずっとでかいという淀川は見たことがなかった。だが、そこへ行けば失われたものたちすべてと再会できる、たとえるなら浄土のようなイメージが、このとき形成されたのだった。犬を飼い始めた頃は既に大人で、そんな淀川幻想は忘れていたわけだが、幼少の頃に得たそのイメージがまだ自分の中に残ってたんや、と気づいて、可笑しくなったのだった。

 

犬が死んで、しばらくした頃、生まれた頃より長年住んだ鴨川の傍を離れ、その下流に住むことになった。川を流れてゆくのは犬ではなく自分であったわけである。今年突然、「川の合流地点を見る」ことに凝り始め、自転車でいろいろ見に行った。鴨川と桂川の合流地点はよく見晴らせて面白かったが、桂川・木津川・宇治川が合流して淀川になる地点は、それぞれの川がでかすぎてよく分からなかった。淀川が海に流れ込む地点も見にいった。「河川管理境界」という人工的な表示はあったが、どこまでが川でどこからが海だという境目は(当たり前だが)よく分からない。晴れた日であったので水面が光って綺麗だった。これだけ広いところに出てしまえば、落とし物も落とし犬も到底見つからないだろう。