祖父をドライアイスで冷やすの巻

もう七年前の話なのだが、母方祖父が死んだ。
母方祖父は病院で死んだので、病院から家まで、葬儀屋が遺体を運んでくれた。
葬儀屋は、きれいに布団を敷いて、遺体を寝かせてくれた。
その手際に感心し、おぢいのために何から何までありがたや……とわれわれは感謝した。しかしそこで、葬儀屋が口を開いた。

「さて、私たちがさせていただけるサービスはここまでになります。本来でしたら、このままでしたらご遺体が傷んでしまいますので、ご遺体の周囲にドライアイスを入れなくてはなりません。しかし、それは、葬儀を当社でとご契約いただいた方にしかさせていただけないことになっております」


それまでありがたやムードだった一同の表情に不穏な影が差し、一同はその顔を見合わせた。

「まだ葬儀をどこに頼むかなんて何も決めてへんで……急なことでしたし……」
「では申し訳ありませんが、私たちがさせていただけるのはここまでになります」
ドライアイスだけ買わせてもろたらだめですか?」
ドライアイスは、ご契約いただいた方だけのサービスということになっておりますので」


そのような問答の結果、とりあえずドライアイスは諦め、葬儀屋には帰ってもらうこととなった。「ひと晩くらいドライアイス入れんでも大丈夫ですよね?」と訊くと、「冬場のことですので大丈夫とは思いますが分かりません、ご遺体に変化が出るかもしれません」と言い残して葬儀屋は去っていった。

 

葬儀屋が去るとわれわれは、「なんやねんあれ!!感じ悪いわー!!」と大騒ぎした。
わたしも、怒りのようなかなしみのような気分にとらわれた。人が悲しんでるときになんやねん、という怒りと、祖父の遺体――遺体になってしまったけれどもそれは依然われわれに親しいものであり、ちょっと前まで敬愛する魂が入ってたものやった――を取引に使われてしまったことで、故人が侮辱されたような、自分たちの思慕を利用されたような、なんともいいがたいきもちになった。しかし一方でわたしは、葬儀屋さんも仕事で来ているのであって、あの台詞もマニュアル通りの台詞なのであろうのであって、べつに祖父やわれわれを侮辱したくて言っているわけでなく、仕事として言わざるをえないのだ、ということは分かっていた。
病院も、葬儀社も、ビジネスであって、われわれの生き死にやかなしみはそれらのビジネスの中で処理される(処理してもらってる、というところもある)ものなのだし、仕方ないのや、と納得していた。
かましい叔母たちも、「あの葬儀屋! 人が死んだこんなときにえらそーに!!」「あいつのとこにだけは頼まんわ!あほがー!」「塩撒いたろか!」と(どこか祝祭的に)罵詈雑言を吐きながらも、「まあでも、あの人らも仕事やからな」と納得していた。

 

しかし、母方祖父の死から七年経って、今日帰り道を歩きながらふと、「あのときあんなふうに納得しなくてよかったのだ!」とおもった。なんか知らんけど、急におもった。
それはべつに、「あのとき葬儀屋と争うべきであった!」とか「葬儀屋は仕事の枠を越えてわれわれのおじいちゃんに敬意を表すべきだった!」とかいうことではない。葬儀屋さんは仕事としてすることをしただけだ、とおもうのは変わらない。
ただ、なんとゆーか、そんなふうに世界をそういうものとして納得、しなくてもべつによかったのだ(いいのだ)、ということに気づいたのだった。てか当たり前のことなのだが、七年の間一度もそれに思い至らなかった。

 

なお、罵詈雑言を吐いたにもかかわらず、結局葬儀はこの葬儀社に依頼することになった。身内の知り合いが社内におり、「葬儀二割引」が使えることが判明したからである。