着床出血

ちょっと早いが生理かね、と思って処置をしておいたのであったがそれきり出血は止まってしまい、とはいえちょっと出血して止まってしばらくして本格的に出血する、というのもままあるパターンであったので、別にさほど気にしてはいなかったのだが、ふと着床出血という現象があるのを思い出し、急に心配になり出した。

 

友人が妊娠したときに、最初、生理だと思ったら着床出血だったみたいでねえ、と聞いたことがあった。懐胎したらば例月月経のある頃に、着床を知らせる出血があるのであるという。まあそんな可能性はほぼないんだけど、と思いつつも仕事もちょうど暇だったものだから、目の前のPCで開いていたインターネットブラウザの検索窓に、なんとなく「着床出血」と入れて検索ボタンを押してみると、Q&Aサイトがトップにヒットして、「着床出血ってどんな感じでした?」という質問に何人かの人が答えている。

 


着床出血っていうのは、受精卵が着床する際に起こる出血で、ごく少量です。生理の開始と間違える人も多いらしいですよ」

「私のときはごく少量でしたよ、生理のときとは違う、薄いピンク色のような血液でした」

「下着に血がちょっとだけつきました。生理にしては予定より早いし、おかしいな~と思ったら妊娠してました」

 


など。生理にしては予定より早い、少量、薄いピンク。


さっき昼休みにトイレで見た血の色を思い出してみようとするが、薄いピンクだったといえばそんな気もするが、生理の初めはいつもあんな色のような気もするし、そもそも薄暗い照明の中で見た血の色は、もはやはっきり思い出せない。血のついたパンティライナーティッシュにくるんで捨ててしまった。あの出血は今やうっすらした記憶の中にしかなく、そのものとしてはもうない。いつもの経血の色と同じだったような気もするが、違ったような気もしないでもない。

 

生理にしては予定より早いのはたしかなのだ。

デスクの下で、指を折って考える。


妊娠した可能性があるとすれば、いつだっけあれは、恋人とはしばらく会っていないから、あれは3週間前の週末だ。これを疑惑の日と呼ぶとしよう。

で、排卵日はいつだろうか。
まず、これが着床出血だと仮定して考えてみよう。すると、それは生理が来るはずの日より少し早いらしいから、で、排卵日ってたしか生理の2週間くらい前だった気がするから――昔は基礎体温を測ってたけれど最近忙しいし面倒になってやめちゃったんだよね―― から、そうすると、排卵日は今から2週間以内前であると推定され、疑惑の日と排卵日は1週間以上の開きがあることになり、おそらく精子は1週間以上も生きないであろうから、仮定は棄却される。よし。
次に、これが生理の出血だと仮定して考えてもみよう。すると排卵日は、今から約2週間前ということになり、これだと疑惑の日とやや近くなるから、妊娠の可能性が考えられなくもない……ん? あっでも、そもそも生理の出血だと仮定したわけだから仮定に基づけば妊娠の可能性はないわけか。んん!

小学生の頃からずっと計算が苦手だった私の頭はパンクしそうである。同じフロアには数字が得意で頭の切れる同僚がいるが、しかし、こんな計算は頼めない。


それにそもそも――
―― こんなあれこれ考えたってそもそも私は生理周期が一定しないのである。きっかり28日周期という友達もいるけれど、私は20日だったり30日だったりまちまちなのだ。今の計算はあくまで標準的な月経と排卵の周期に基づいたものであって、実際はずれがあるかもしれないし、そうすれば計算も変わってくるし、第一精子だってなんかのミラクルですごく長命なやつがいたかもしれないではないか、人間の身体のことなんて、何が起こるか分からないのだから!

色々計算して考えてみたって、妊娠なんて、してるかしていないか、二つに一つなのだ。

 

今度は、疑惑の日のことを思い出してみる。避妊は毎回しているはずだ、だが、それだって何が起こるか分からないし、何度かひやっとしたこともあった。もしかしたらあのとき、もしかしたらあのとき、といくつかの場面を思い返してみる。避妊具に破損はなかったであろうか、ちょっと洩れたりしなかったろうか、と思い出そうとしてみるものの、3週間前の、それも夜の記憶なんて既に靄の向こう側であり、いくら遡って再現してみようとしても、不確かな記憶に基づく事後的な再現でしかなく、そう、その瞬間もやはり「そのものとしては、もうない」。
生命が生まれる原因になりうるかもしれないその瞬間が、ここに現前するものとしては「もうない」のである。


嗚呼、こんなことならもっと目を見開いて、精子の行方を一匹残らず確認しておけばよかったぜ。いやそんなのムリか。てか、ちょっとした失敗で妊娠とか、そうそうある話なのかね?


生命の誕生が、自分の身体の最重要事項が、自分自身では把握できないなんて! そこで私はまたもインターネットという外部知識媒体に頼ることにする。
職場のPCだしあとで検索履歴消しておかなきゃな……と人目を憚りながら、「避妊 失敗」「避妊したのに 妊娠」などなどのワードで検索をかけると、性や妊娠・出産についての悩みをもつ中高生のためのBBSがヒットした。なかなか息の長いBBSらしく、何十個もスレッドが立っている。

「生理きません(泣) コンドームつけたのに妊娠するってありますかぁ?」という中学生の女の子の質問に、同世代らしき子たちがいくつかレスをつけている。「あるよ~ 気づかないうちに破れたりするからね」というレスの次に、「ありえません、コンドームでの避妊は正しく使えばほぼ100%です、正しく使えてなかったのでは?」というレス。ほぼ同様のレスが交互についているような状態だ。結局どちらか、誰にも分からないのだ。

ネットで調べるといつもこうなんだよね、と思う。以前、飲み会の幹事を任されたとき、店の口コミをネットで調べたが、良い店だという口コミとあそこはダメだという口コミが同じくらい出てきて、しかも双方が全く逆の内容で、結局何を信じたものか分からなかった。

と思いつつ、画面をスクロールしていく。中に、ずいぶん攻撃的なレスもある。

「妊娠オメwww 厨房が軽率にSEXした報いだねww 彼氏には逃げられるだろうねw 中卒でシングルマザーになってくださいww」


見ず知らずであろう人物がなぜ質問者をこんなに攻撃しているのかは分からないけれど――私はふと考える、この子は中学生だから「軽率」と言われているが、20代の私が妊娠しても、やはり同じように言われるのでないか。未婚だし、結婚の予定は無い。恋人はまだ学生なので、もし今結婚したり出産したりするとなると私が稼ぐことになるが、現在の派遣の給与では難しそうだ。非正規雇用だから産休もとれない。しかし、一体いつだったら妊娠は「軽率」ではないんだろう?
暗い気分になってきた。トップページに戻り、スレッド一覧を見る。いろいろなスレッドがあるが、思わずつっこみたくなるものもある。「排卵日って何月何日なんですか?」という質問や、「中で出しても洗ったら大丈夫だよね?」という質問。今の子って、教育を受けてるはずなのに、全然正しい性知識無いじゃん! と思うけれど、一方で、自分の身体のことであるのに何も分からずこんなBBSを彷徨っている私も同じなのだ。

 

そんな中に、ひときわレスの伸びているスレッドがある。開いてみると、「水子の祟りについて」というタイトルであった。

「去年に望まぬ妊娠をして、中絶をしました。お腹の赤ちゃんには今でもゴメンナサイって思っています。最近、家族が二回も事故にあいました。これってやっぱり水子の祟りでしょうか?」

というスレッド主に対し、「私も中絶をして水子に祟られている」というレスが続々とついている。
なんてことだ。これがIT革命後の世界なのか? これが21世紀なのか?
溢れ返る情報の中で、ほんとうにこの子たちに必要な情報だけがすっぽりと抜け落ちているんだ。


スレッドは途中から、スレッド主たちを叩くいわゆる「荒らし」によって荒らされていた。
「中絶女は人殺し」というハンドルネームをもつその「荒らし」は、「人殺し死ね人殺し死ね人殺し死ね」と同じ文言を繰り返している。その合間を縫うように、少女たちの発言がある。このスレッドの書き込みは、他のスレッドの文体とどこか違って、何とはなしに神妙な文体だ。どうも使い慣れないらしいその文体で少女たちは、「私は赤ちゃんを殺しちゃったこの罪を背負って生きていかなくちゃいけないんです」「私は幸せになってはいけないんです、笑顔には戻れないんです」と一様に語る。実際は、色んな事情でそれぞれがそこに到ったのだろう。しっかり避妊したはずが失敗しちゃったとか、何か産めない事情が生じたとか。しかし、皆の語り口は一様に、「騙されて遊ばれた軽率な女」というイメージに忠実で、その文体からは、一様に、「堕胎した女」というスティグマとそれにまつわるクリシェで作られた、青白い泥人形の像しか浮かんでこない。そういえば中学生の頃の道徳の時間、あれは当時の性教育の一貫だったんだろうか、暗い短い小説を、女子だけ読まされた記憶がある。男の先輩に遊ばれて中絶することになった女の子の話だった。読んだ後、「いやだねー」「こわいねー」「この男最低」と友達と感想を言い合った記憶があるけど、その中で妊娠中絶というのは、それによって市民社会から追放されて二度と帰ってこれないような、そんな怖ろしいものとして書かれてた。女の子はクラスでも家でも爪はじきにされて、ひとり落ち込んでいるところで小説は終わったんじゃなかったっけ。
当時の友達は去年妊娠して、
「でも妊娠したの知らずにしばらく薬飲んでたからさ、産むのどーしますか? って医者に訊かれたよー」
と軽く語っていたけれど。

 

女の子たちの告白と、「荒らし」の罵倒を交互に読み流しながら、私も妊娠してたらやっぱ中絶することになるのかな、と考える。これがあと数年遅かったら、産むかもしれない、けど。
そうしたら私も、青白い真面目な文体で、「幸せになってはいけないんです」と書くのだろうか、それ以外の文体を許されなくなってしまうのだろうか。
ところで妊娠していたら、恋人には何て報告しようか。もうすぐ大事な試験らしいから、今告げたら混乱させるかもしれない。でも告げるなら早いほうがいいよなあ。ああ身体は、試験のスケジュールなんて関係ないんだよなあ。こんなときに私の身体がややこしいことになって恋人に申し訳ない。いや、なんで申し訳ながらなきゃいけないのか。そうだとしたら、半分はあんたの精子じゃん。いや、しかし私がもっとちゃんと気をつけているべきだったのか。私一人で婦人科に行くべきか、彼には隠しておこうか。考えるうちに、更に暗い気分になってくる。ていうかそもそも、私、孕んでいるのであろうか?


で、思考は元の血の色に戻る。ピンクの瞬間に思考は固着し、何度もそこに戻っていくけれど、でもそれはごく弱い網膜の記憶にあるだけで、「そのものとしてはもうない」のだ。何度も思い返すうちに、ピンクは薄くなったり濃くなったりしてる。

そうこうしているうちに、体調がおかしくなってきた。動悸がするし、気分が悪い。これはやはり、ちょっと普通ではないのでないか。もしや妊娠初期の症状ではないだろうか?いや、悪阻ってもう少し後のはずだっけ……

とりあえずトイレに立つと、すれ違った同僚が、「あれ?顔色悪くない?」と言う。手洗いの鏡の前を通りすぎるとたしかに、本格的に血の気の無い顔をしている。これはおかしい。


とかく個室に入って下着を下ろすと、出血していた。


この出血量は、経血である、間違いない。
月経開始は憂鬱なものだが、雲が晴れていくような、小躍りしたいような気持ちであった。
そうか、動悸がしたり気分が悪かったり顔色が白かったりしたのは、月経に伴う症状であったのか。

あれ、そもそも、何で妊娠してるかもなんてぐるぐる考え出したんだろう。冷静に考えたら、そんな可能性はほとんど無いんだよね。ネット見てるうちになんか変になっちゃった。ああそっか、こうやって、不合理なことをぐるぐる考えてしまうのって、私、生理の前にやってしまいがちなんだよね、これもPMSの一種なんじゃないかな? PMSって「ああ、今のはPMSだったんだ」っていうふうに、いつも事後的にしか、それと分からないんだよねえ。


個室から出て手を洗うと、鏡に映る顔にやや赤みが戻っている。顔色が悪かったのは、BBSの変な書き込みを見て、心配したり暗い気持ちになったりしたせいもあったのかもしれない。


そろそろ仕事に取りかかろうとデスクに戻る。席を外していた間にウイルスソフトが不穏な音を立て、スキャンを始めており、PCの動作が重い。