嘘の思い出

初めて嘘をついたのはいつのことか覚えていないが、初めて「なんぼでも嘘がつける!」と悟ったときのことをよく覚えている。


幼稚園の送迎バスから、祖母に連れられて家に帰る道である。
幼稚園でこんなことがあってん、と報告する中でカズミちゃんの話をした。カズミちゃんとは同じ園に通う近所の子であった。今日カズミちゃんがこんなことしはってん、と私は話し、へえそんなことしはったんか、と祖母は相槌を打ったのであるが、カズミちゃんはそんなことはしていない。要はウソの話をしたのだった。
特に自分の得になるようなウソでもなく、何か面白いウソでもなかったと思う。なんの理由でそんなウソを言ったかは分からないが、言ってしまって、「ああ、ウソを言うてしまった!」と怖くなった。ウソをつくのは悪いことだと日頃習っていたからだ。(その可能性は低かったが)祖母がカズミちゃんに「こんなことがあったんやて?」などと話してカズミちゃんが「そんなことあらへんかったで」と言えば、私の話がウソだと知れてしまう、と不安になった。そうなったらどうしよう、と考えてその瞬間、悟ったのだった。

もし祖母がカズミちゃんに確認しカズミちゃんが「そんなことあらへんかったで」と言ったとしても、もう、過去に遡ってどちらが真実か確認するということは絶対にできない。だから「カズミちゃんはたしかにそうした、私は見た」と言い張れば、それが本当かもしれないことになるのだ。
あるいは、嘘をついたやろと責められたとしても「私はそんなことは言っていない」と言い張ればいい。そのとき――私が嘘を言った瞬間――は既に過ぎ去って失われたのであり、そこに戻って確かめることはできないのだから、私が「言っていない」と言えば言ってないことになるのだ。
――と、4歳か5歳なのでこんなに筋道立った言葉で考えたわけではないが、だいたいこの通りのことを思った。
これは、大変な発見だった。過去は、過ぎてしまえばそのものとしてはもうなくなってしまう。だから誰もそこに戻って真実を確かめることはできない。だからなんぼ嘘をついてもそれが嘘でない可能性が残るのであって、じゃあ私はなんぼでも嘘をつくことができるのだ。それを考えるとクラクラッと気が軽くなった。


とはいえ、現実にはやっぱり、嘘は嘘とバレてそれで諸々の不都合が起きたり嘘をついたやつが信用を失ったりする。というのは世界には記録や証拠や私の言葉と相反する真実を知る信憑性ある他者の証言というものがあるからであって、嘘はなかなか万能を保ってはくれない。が、時折、偉い大人の人や地位ある人が、あたかもなんぼ嘘をついてもバレないと思い込んでいるかのような嘘のつき方をしたり、そんでもってすぐバレる嘘をついたりする場面に行き遭うことがある。そのたび、あ、この人の感覚、私が4歳のときに悟ったやつと同じなのでは? 分かるぜ! と思うのである。

 

ところでそれはそれとして、上述の「別に何の得にもならないウソをついてしまう」という現象はなんだったのか。実はこの癖はその後も続いて私を悩ませた。意図せずしてどうでもいいウソが口から出てしまい、どうでもいいことで、「ウソを言ってしまった」という罪悪感に苦しむことになる。
どのくらいどうでもいいかといえば、たとえば、小学生のときのどうでもいいウソ2選は以下のようなものである。(本当にどうでもいいので読んでも面白くないと思う。)

(1) 小学校の廊下の床には拭き掃除でも取れない細かなシミが浮いていた。それについてクラスの友人に、「いとこの学校でも同じ現象があるらしく、いとこが調べたところ他の学校でも有名らしい。そしてそれは霊のしわざという噂らしい」という話をした。そもそも床のシミ自体がどうでもいいことであり(誰も気にしない程度のシミだった)、作り話としても別に面白くない全くどうでもいいウソだった。「霊」という概念は当時クラスで流行っていたので、友人は「そうなん」と納得したようだったが、このウソはそれ以上展開することもなかった。だが「万が一いとこと友人が会ってしまってこの話になったらどうしよ」「友人が親に相談して霊現象でないと分かったらどうしよ」としばらく心配していた。

(2)「同級生Nちゃんの家はおせちにパンの耳を揚げたやつを入れる」というウソ。子供の頃しばしば、祖母がパンの耳を細かく切って揚げて砂糖をまぶしたものをおやつに出してくれることがあり、まあまあ気に入っていた。あるときそれを食べながら、「Nちゃんちはこれを正月のおせちに入れはるんやって」という話をした。別にその話をしたからといって、祖母がそのおやつを作ってくれる頻度が上がるわけでもないし、何か笑いがとれたり自慢になったりする類の作り話でもない。祖母は「へえ、家によっておせちもいろいろやな」とコメントしたものの薄い反応だった。例によってその後しばらく、「Nちゃんが遊びに来たときに祖母がこの話をしたらどうしよ」と不安を抱え続けていた。

 

以上、本当にどうでもいい嘘の話であり、本当にどうでもいいのだが、こうした嘘がバレるんじゃないかと不安になったときはいつも、「もし嘘だとバレたとしても、最後にはみんな死ぬんや」と考えて心をなだめていた。みんな死んでしまえば、何が嘘かどうかなんてどうでもよくなるし、嘘がバレて恥ずかしいとか後ろめたいとかもなくなってしまう、と、皆の死に期待をかけていた。どうでもよすぎるほどにどうでもいい嘘には不釣り合いに重い期待であった。