虫恐怖の発生とその予後

思春期に入った頃、幼い頃には普通に虫を追っかけてた子たちが、次第に虫を気持ち悪がるようになり始めたのが不思議であった。
だが、かく言う私もまもなくそうなってしまった。


幼い頃はむしろ虫好きで、蟻やダンゴムシを捕まえて飼ったり、道で拾ったミミズを振り回したりしていた(ミミズはいい迷惑である)。近所のおばちゃんに「ようそんな気持ち悪いもん触るわ!」と言われ、「なんで? 可愛いのに」と、おばちゃんの気持ちがさっぱり分からなかった。
「私は虫は大嫌い、とてもさわれへんわ」
おばちゃんが言うので、
「トンボとかチョウチョなら大丈夫?」
と尋ねると(トンボやチョウチョは綺麗な虫とされることもあるため)、
「トンボでもチョウチョでもダメ!虫はぜんぶ気持ち悪い!」
と激しい拒否に遭い「そんな人いるんやー!」と驚いたものである。


以前(二十年ほど前か)、テレビで、小学生高学年の男児と女児に虫を見せてその反応を比較する調査をしていた。男児は冷静な反応だが、女児は殊更大声でキャーキャー騒ぎ逃げ惑う、という調査結果で、「女の子は高学年になると、異性の目を気にして、虫を怖がってみせるというジェンダー役割を演じるようになる」というような結論が下されていた。
この論には納得できるところもないではない(異性の目を気にしてかはどうかは別にして、対外的アピールとして過剰に怖がって盛り上がる、ということはあるだろう)し、安易に「自然な女らしさの発露」として説明しなかった点は立派であると思う。しかし、この年代の虫恐怖をジェンダー規範だけで説明できるかといえば、どうも、それだけではないものがあるように思った。
というのは、私の周りには、虫嫌いの男子もいたし(彼らも幼い頃は平気だったという)、また、自分が虫を怖がり始めた頃の心理を思い出しても、「女性的役割として怖がるようになった」という単純なプロセスで説明できるとは思えない。


あんなに平気でむしろ好きだった虫を、気持ち悪く感じ始めたときのことは、少し覚えている。
エピソードとしてはっきり覚えている事件は二つあり、ダンゴムシ事件とアオムシ事件である。


ダンゴムシ事件は、まだ低学年の頃の事件であるが、私が虫と距離を置き始めたきっかけである。その頃、私は家の周囲でダンゴムシを見つけてはせっせと集めポケットに山盛り詰めて家に持ち帰っていた。今思えば、親はさぞイヤであっただろう。収集している最中に近所の虫嫌いおばちゃんに遭遇して悲鳴を上げられたりもしたが、私はご機嫌だった。持ち帰ったダンゴムシはベランダのバケツに入れて飼っていた。
しかし或る朝、前の日にバケツに入れておいたダンゴムシの様子を見にベランダに出、私はショックを受けた。
いつもは土と一緒に入れていたのだが、このときはバケツに土を入れずダンゴムシたちだけを入れていたためだろうか、全員白く変色して死んでしまっていたのだ。その姿を見ると急に恐ろしくなり、咄嗟にダンゴムシたちの遺骸をベランダから撒き棄てた。
彼らが変わり果てた姿になっていたこと、それが自分のせいでそうなったにもかかわらず気持ち悪いと感じてしまったこと、昨日まであんなに可愛く思っていた彼らが急に恐ろしく思えたこと、すべてがショックであったが、同時に、「おばちゃんが虫は気持ち悪いって言うてたのは、こういうことやったんや」と、大人の気持ちをひとつ学習したようでもあった。

 

この事件をきっかけにダンゴムシ収集をやめ、虫との縁もあまりなくなった。しかしまだ、虫嫌いというほどにはなっていなかった。中学年になっても、相変わらず学校で「毛虫クラブ」という謎のクラブを結成し(学校内の毛虫の多い中庭を「毛虫、毛虫」と言いながら歩き回るだけのクラブ、友人4人が参加していた)、虫嫌いになり始めた周囲の子に、「毛虫なんて気持ち悪いわ」と蔑まれたりしていた。
はっきり自分が虫嫌いになったと分かったのは、アオムシ事件においてである。高学年になった頃だった。周囲の友人らは既に、立派な虫嫌いに育っていた。或る日のこと、理科の教科書か何かを眺めていると、アオムシの大きな写真が載っていた。それを見ているうちに、身体にウニョウニョとした違和感を感じてぞわぞわと気持ち悪くなり、思わず教科書を投げてしまったのであった。それからその頁を見るのが怖く、頁を開かないようにホチキスで留めてしまった。
このとき、「虫が気持ち悪い」というのが感覚としてハッキリ分かり、「皆が虫が気持ち悪いというのはこういうことだったのか!」「なぜ子供の頃は平気でこんなのを触っていたのだろう、さっぱり分からない」と思ったのである。かつては虫嫌いのおばちゃんの気持ちを「さっぱり分からない」と思っていたはずだったのに!
この頃から私は、虫が出てくる怖い夢を見るようになった。


このとき感じた嫌悪感は生理的・感覚的なものであり、社会規範だけで説明できるものではなさそうだ。とはいえ、生理的・感覚的と思われたものも実は、社会規範によって規定されている面もあるし、恐怖の原因が本質的に何であるか、などということは決定的な答えの出し難い問いであろうけれど、自分の体験から考えられる虫恐怖についての仮説としては、それは、大人になっていくこと、人間になっていくことと関係があったのだろうと思う。人が大人として、人間として統制されていく中で排除されるべき動物性や官能性やウニョウニョやモゾモゾが、虫に投影されるのかもしれない。(精神分析的に考えれば恐怖症とはすべてそういうものなのかもしれないが。)


同時に自分の感覚では、虫恐怖は、大人になっていく自分の身体とも関係していたような気がする。第二次性徴期に起こる、気持ちの悪い諸々もまた、虫に投影されていたのではないか。
と思うのは、私は高校生になって、再び虫を克服したからである。


この時期のことはよく覚えている。
小学校高学年から中学時代の自分は、大人になっていく自分の身体がとにかくイヤだった。月経だの皮下脂肪だの周囲から期待される「女性らしさ」だの生殖だのそういうグチュグチュしたものがどうにも気色悪く、それらが削ぎ落されたツルリとした何かなりたいよ~と切望していたのであったが、高校生になった頃、何か急に、「それらを受け容れる戦略に変えよう」と思い立ったのであった。
その受け容れ戦略の一環として、なぜか、虫恐怖の克服もあった。つまり自分の中では、嫌悪すべき身体性と「虫」は同一視されていた、少なくとも隣接するものであったのであろう。もちろん自分の場合はこうだった、というだけなので、一般化できるかは知らない。ただ自分の場合は明らかに、この頃若干わざとらしく始めた、月経と向き合ってみたり、育児書に興味をもってみたり、という活動の一環として、虫との再触れ合いもあった。
学校の宿題として妹が飼っていたアオムシにこわごわ接近し始めたところ、次第にアオムシが可愛く思えてきて、やがて、かつて幼年期にそうしていたように、自分でアオムシを捕らえてきて飼い始めた。あんなに可愛かったものがこんなに気持ち悪くなってしまった、からの、一周廻って、あんなに気持ち悪かったものがこんなに可愛くなってしまった。以降、毎年せっせとアオムシを捕らえては羽化させるようになった。そうしているうちに、妹が虫嫌いになってしまった。