河野多惠子の「蟻たかる」「臺に乗る」が面白かったの巻(第1回)

最近、河野多惠子をずっと読んでおりまして、いくつか既読の作品もあったのだが初めて読む作品もあり、その中でも、「蟻たかる」「臺に乗る」という二作がとりわけ「面白いーー!!」と感じたのですが、何が面白いか説明しようとするとなかなか難しいので、以下、ちょびっとずつその説明を試みたいと思います。
いずれも、『河野多惠子全集』第3巻(新潮社)で読みました。
初出はそれぞれ、
-「蟻たかる」:『文学界』1964年6月号
-「臺に乗る」:『文学界』1965年7月号
とのことです。


以下、まず、あらすじを紹介します。(いわゆるねたばれ含)

 

まず、「臺に乗る」。
奇妙なタイトルのこの「臺」とは、産婦人科の、内診台のことです。
「臺」はラストシーンでやっと出てきます。
この物語は、主人公・丈子が内診台に上がろうとするところ、そして丈子の、

「わたしのような奇妙な願いからこの診察台に上がった女があったかしら」


という感慨で終わります。では、奇妙な願いとは何か。ということで、物語全体を見てみましょう。

 

丈子は30代後半の中年女という設定(ちなみに、私も、丈子より少し年下ですが同年代です)。既婚ですが、以前にも二年間一緒に暮らした男性がいました。だが、産みたい気持ちが「兆しはじめたかもしれない頃」、肺結核を発病します(この肺結核の設定は河野の作品に頻出します、作者本人も肺結核の体験をお持ちです)。そのままその男性とは喧嘩別れをし、のちに今の夫・戸川と婚姻届を出したものの、子供は無し。医者は、ほしいならひとりくらい産めそうだと言ったものの、丈子は、常人並みの健康は取り戻せそうもないし、そもそも、子供に対する執着がないのです。
とはいえ丈子と戸川は特別に避妊を対策するでもなく、丈子の正確な生理周期にのみ頼っています。


近所の電柱が火を噴いて、消防車が呼ばれる騒ぎとなったある日(この火事のモチーフも河野作品に頻出なのです)、丈子はその月の生理を見ます。このときの丈子の心情の描写は、女の人にはわりと「あるある」なのではないでしょうか。

安堵と鬱陶しさが同時に胸を掠め、鬱陶しさだけが拡がった。

うんうん。
しかし、それに続いて、丈子は次のように自問します。

が、水洗の鎖を引っ張り、威勢のよい水音が低くなるのを聞きながら外へ出たときだった。彼女はふと思った――訪れがあってよかったと、わたしに思う資格があるのかしらと。


このとき丈子は、「まだ一度も妊娠したことのない自分をそのとき初めて顧み」るのです。つまり、自分はこれまで生理周期にのみ頼る危うい方法で子供を避けてきたのに、今まで一度も失敗したことがない。世間では望まない失敗をする者もあるのに。もしや自分はそもそも不妊であり、受胎する能力がないのでないか。だとすれば、生理の訪れに安堵することに、一体どんな意味があるのか、と。

 

ここでまず私は、「おもろーーー!!」と思ったのでした。
何が面白かったのか説明します。
不妊というのは、ひとつの顕然とした事実であるとふつう想定されている、とおもいます。
子無きは去るべき時代・文化では、石女であることは大きなスティグマであったろうと想像しますし、今日でも、不妊治療のトピックや、晩婚化のための(とされる)不妊の話題がしばしば云々されています。それらは、明確にそこにある事実のように扱われています。
が、そもそも、不妊というのは、妊娠しようと試みた(それも継続的に試みた)ときにしか明らかにならないことなのである、ということがこの丈子の述懐の描写の中でぱっと点滅しているところが面白かったのです。産める・産めないの生理的問題が、じつは、産みたい・産みたくないの欲望の問題ありきなのであります。
――ここにぴぴっときたのは、私自身の現状が丈子と似ており、まさにこのようなことを昨今感じていたからだ、ということもあるでしょう。私も丈子と同年代で、生殖可能年齢も半ばを過ぎたようですが、思えば自分が妊娠可能であるのかどうか分からないのであります! 自分の身体が妊娠可能であるということは、(産むか産まないかは別にして、つまり、それが望まない妊娠であっても)妊娠してみせることでしか分からないではないですか。――
そもそもが妊娠できない身体であったのであるとすれば、これまでの、鬱陶しい生理のたびの安堵、および、ひやりとした夜から続く一連の心配の数々、はまったく無意味であったということになりますが、しかし、それ(無意味であったこと、つまり自分が不妊であること)を証明することは(妊娠しようとすることでしか)できないわけです。避妊というのは妊娠を避けることですが、避妊を続ける限り、そもそも避けるべき妊娠が可能なのかどうか分からないわけです。

 

――とはいえまあそんなことはまあふつうなことといえばふつうなことであって、また、べつに不妊に限らず、世の中に無限にあることであります(「近視は、眼鏡の無い世界にあって初めて障害になる」「数III・Cを履修していないことは、数III・Cが受験科目にある大学を受けるときにしか問題にならない」)。
ではさらに、どこが面白かったのかといえば、先ほど、「産める・産めないの生理的問題が、じつは、産みたい・産みたくないの欲望の問題ありき」だった、と書きましたが、その産みたい・産みたくないの欲望自体が、40歳近くなっても丈子にとっては、なんだか茫漠とした混乱したものである、という点、それとその茫漠っぷりであります。
以前のパートナーとの間で出産の希望が持ち上がったときの描写も、産みたい気持ちが「兆しはじめたかもしれない頃」とあいまいですし(「兆しはじめた」にしかも「かもしれない」付き!)、子供を避けながらも、避妊を生理周期にのみ頼るというやり方も実にあいまいで、保健体育の授業なら、「オギノ式と性交中断法(膣外射精)は避妊法に入りません!」と教えるべきところです。

 

では、話を物語の筋に戻します、
と、続きを書こうとしおもたのですが、目がちかちかしてきたので続きは次回にします。ちゃーお。