シルバニアの便器の思い出

 父は繁華街が嫌いだ。子供の頃、山や川へ連れていかれた思い出はあるが、街へ連れていかれた思い出はほぼない。一度だけ、学校で必要な何かを買うため河原町の百貨店についてきてもらった記憶がある。その日は母の都合が悪く、父に託されたのだろう。だが、覚えているのは、商品を見る私の後ろで、階段寄りの壁に、腕組みした父が不機嫌そうに寄りかかっている姿だけである。挙句、まだ品物を買わないうちに、

「もうええか、帰るで、俺やっぱりこういうところはイヤやわ」

と言うので驚いた。結局必要なものを買って帰れたかどうかは覚えていない。

 

一方、父の父である祖父は買い物や外食が好きだった。休日のたびに河原町に出かけ、百貨店をはしごし、地下食品店を巡り、帰り道にある喫茶店に寄って帰ってくる。平日でも、祖母に店番を押し付けてひとり出かけてしまうこともあり、祖母は閉口したらしい。 

祖父はかつて、本当はこんな店は継ぎとうなかった、喫茶店をやりたかった、と子供たちに語っていた、ということを先日初めて知った。どの程度本気だったのかは分からない。ちょっと言ってみただけなのかもしれない。しかし、人の集まる華やかなところが好きだったのだろう。

父も子供の頃は週末ごとに祖父に百貨店に連れられ、帰りは食堂で洋食を食べていたらしく、現在の様子を見ていると、とてもかつての我が家にそんなライフスタイルがあったとは思えない。父によると、あるとき、「(あ、自分はこんなんは好きやないんや、もう行きたくないわ)」と気づいたらしく、その瞬間のこと、縁側でラジオを聞きながら「今日は行かへん」と言ったときのことを今でもよく覚えているそうだ。

 

その縁側は、私が祖父に最後に百貨店に連れられた帰りに、ゲロを吐いた縁側でもある。祖父は孫、すなわち私や妹ができると、ときどきわれわれを百貨店に連れていってくれた。最後に連れていってもらったのは、11、2歳の夏だった。その日は私はまだ慣れない生理痛がひどく、祖父の誘いに気が進まなかったのであるが、断るのも悪い気がしてついていったのだった。しかし、百貨店のいろいろな売り場を歩く間も、腹が痛く気分が悪くて何も目に入らず、ずっと早く家に帰りたかった。同行した祖母に、「そんな、股の間に何やはそんでるみたいな歩き方してからに」と怒られたが、実際何やはそんでる(挟んでる)のでしょうがない。何か買ってもらったのか、何か食べたのか、まるで記憶にない。帰りのタクシーの中でどんどん具合が悪くなり、家に着くと同時に縁側に走って縁側から盛大に嘔吐した。祖父は「あんた、そんな具合悪かったんやな、言うてくれたらよかったのに」と言った。これが、祖父に最後に百貨店に連れられた思い出である。

 

そもそも、祖父に百貨店に誘われるのは、私としてはどこか緊張するイベントでもあった。嫌だったわけではなかったが、私もまた父と同じく人ごみはそんなに好きではなかったのだ。また、しばしば何か買ってやるという話になることがあり、今から思えば有難い話なのだが、買ってほしいものを選んでねだるという行為が私は苦手だった。積極的に欲しいものはそうなかったし、また私は、本当に欲しいものはねだれないタイプの子であった。うちがそんなに裕福でないことも分かっていたので、遠慮もあったかもしれない。

だが、シルバニアのおうちの「便器」を買ってもらったときの嬉しさはよく覚えている。シルバニアのおうちは、妹たちとの共用のおもちゃとして、母から買い与えられたものだったが、私はずっと、そこにトイレがないことが気がかりでしょうがなかった。ずっと、トイレを設置しなくては、トイレがないと困るやんか、と思い続けていた。その正月、祖父に百貨店に連れていかれ、お年玉として何か買ってもらえるという話になり、玩具売り場に連れられると、シルバニアの家具たちが売られていた。妹の分も私が選んでやるように言われ、妹たち用には、パステルカラーで塗り分けられた小さな家具を選んだと思う。そして最後に、私は便器を見つけた。「やっぱりあったんや!」と思った。輝かんばかりの白い便器を握りしめ、自分用にはこれ、と祖父のところへもっていくと、祖父は、

「こんなんでええんか!? もっとほんまに欲しいもん言いよしや」

と言った。どうやら、私が遠慮して便器を選んだと思ったようだった。だが私は、このときばかりは、本当に便器が欲しかったのだ。というか、家にはトイレがないと困るではないか。

その旨を言うと、祖父は、

「家にはトイレがないと困るか、はは、たしかにそうやな」

と納得し、便器を買ってくれた。私は家に帰ってさっそく便器をおうちにセットし、ほっとした。祖父はその日はしばらく、「変なもん欲しがりよるわ、ほんまにそれでええんか訊いたら、『おじいちゃん、家にはトイレがないと困るやろ』やて、その通りやわ、はは」と皆に便器のことを話していた。

 現在、シルバニアのおうちのトイレは、ちょっと豪華なセットになっているようだが、私の買ってもらったのは、白一色でシンプルなまさに便器らしい便器だった。