たつぞうといねこ(1)

 

石川達三の『結婚の生態』を読んだ。母の本棚にあったのでなんとなく。

『結婚の生態』は、1938年の作品とのこと(文庫化されたのは戦後)なのだが、これは面白い! 或る意味で。奇妙な読後感を得た。

 

amazonを見ると、レビューが一件だけあって、星ひとつ。

 「全く面白くない小説,」とする2005年のレビューで、ただの「男のご都合主義」だとし、現代なら誰も見向きもしない小説であると惨憺たる評価である。

わたしも石川達三についてはほぼ何も知らないのだが(第一回芥川賞受賞者だったはず、あと、「生きてゐる兵隊」が発禁になったという話から反戦作家のイメージのみ)、以下、上記の奇妙な読後感を記録する。

 

 

◇◇◇

 

 

この小説は、タイトル通り、主人公(中年期にさしかかった男)の結婚生活を書いたもの。当初結婚を否定していた男であるが、妻を迎え、理想的な家庭を作ることをめざす。

主人公は作家で、作品が新聞紙条例で発禁にされる、などという場面もある。話はこの男の一人称で進む。

  

そして、この男の語り・言動が、現代においてみると、もう「パロディ」にしか見えないのである! パロディとは、現代における「フェミニズム的にNGな男」のパロディである。

たとえば、彼は妻を「教育」するのだが、そのたびに並べるごたくが、いちいち、もう、おもろい。 

 

いや、彼は粗暴な家父長ではない。むしろ進歩的な男である。彼の理想は、大正~昭和初期のデモクラシー、リベラリズムの思想・風潮に則ったものだろう。何でも話し合える夫婦を理想とし、進歩的な自分の妻にふさわしいようにいちいち妻を教育する。妻を、夫と家庭のことだけを考えるのではない「賢明な女に育て」「理性の力をもたせる」ために、女子教育において軽視されている数学を勉強させたりする。そして彼は言う。

 

良き理智を習練するのに好都合なものはないか。私は数学を選んだ。数学のなかでも代数のような抽象的なものは女の頭には興味が少ないだろう。(知識をとりいれようとするならばそれをうまがって食わなければ駄目だ) 数学のなかで一番女の頭で興味をもてるのは具体的なもの、結局私が考えついたものは初等幾何学であった。(pp.141-2) 

 

うっわー! 現代においてみてみれば、典型的な「進歩的を自認しながら偏見まみれの古臭い男」である。理屈っぽくしかもひとりよがり。いわゆる「パターナリズム」というやつである。「(知識をとりいれようとするならばそれをうまがって食わなければ駄目だ)」というご丁寧な注釈もいい味を出している。(2chコピペ「目は四つもない」みたいな)

あまぞんの書評の人の苛立ちも尤もであるのがお分かりいただけよう。

 

そして彼は、そうして理想の賢明な妻を育てるべく教育しながらも、それは相手にとって負担にすぎず自分の理想はひとりよがりなのでないかと時折淋しさに襲われる。また、妻が勉強することを勧めておきながら、彼女が外へ出て個人教授を受けようとすることは許さない。「嫉妬」と「子供をかかえて留守番をする私の姿はなにかしら自尊心を傷つける」ためである(p.143)。その矛盾は本人にも薄々気づかれている。

 

考えてみれば、私の教育方針は結局は彼女を女でないものにしてしまおうとするものであったかもしれない。客観的な思考方法、冷静な反省力、虚栄心の抹殺、絶えざる進歩性、透徹した理解力、それらはみな男性の属性であって女性には欠乏したまたは僅少な能力しか与えられていないものである、しかもなお私は妻にむかって女性的であることを要求していた。山羊から角と蹄をとって犬にしてしまいながら、なおも山羊であれと望むことの矛盾を犯していた。(p.149)

 

彼は、結婚生活の中で、何度も苦悩する。苦悩しては考え、己の気持ちを分析し、苦悩の理由を発見し、それを理屈っぽく述べてみせる。

 

妻を殴ったとき。 

私は「女は擲らなくては駄目だ」と歎いた友達の言葉を思いだし、その意味がよくわかる気がした。自分の不正を正常化するための横暴から出たものでさえなければ、多少の手荒な行為も一概に否定されるべきものではなかったようだ。しかし度々くり返すとそれが悪い習慣になってしまう。擲ることの意味を常に新鮮に保たなければならない。(pp.77-78) 

 

「擲ることの意味を常に新鮮に」!

 

 

妻を外に出したくない。 

やはり私は其志子を束縛しすぎていたようだ。彼女をひとりで外へ出すことに道徳的な危険があるとは思わないが、どこか頼りなげにみえる彼女を交通機関の危険や他人の迫害から護ろうとする気持は勢いひとりの外出をよろこばないことになるのであった。家庭の仕事の都合やその他の口実を設けて私はなるべくひとりで遠くへは出さないようにしていた。その中には妻を公衆の眼に晒したくない嫉妬心や一種のエゴイズムも加わっていたであろう。彼女の乱暴なふざけた言葉は私にすくなからず恥かしい思いをさせた。(p.104) 

  

女中が気に入らない。

 

とうとう私は実に不思議な自分の感情を発見した。あのふてぶてしい女が家庭のなかでのさばることを不快に思う心は、妻の厳然たる主権をまもり彼女の位置を侵させまいとする感情であったのだ。このひよわな年若い遠慮がちな妻が、あの女中にかかってはひとたまりもなく気押されそうに思われ、其志子が女中のために追いつめられていきそうな気がしてならない、そのための不快であり待遇を悪くしてはっきりと区別をつけようとする気持であった。(p.133) 

 

 

結婚を嘆く。

 

家族制度がなぜ美風であるかといえば、生活の安定があり秩序がありそれゆえに社会全体の安定と秩序があるからだ。この美風のかげに絶えざる重圧に苦しむ良人というあわれな犠牲者がある。(略)妻と言うものがこういう存在(引用者注:自分の足場をもたず良人の負担の上で生活する存在)であるかぎり良人はやはり妻に賢明さと貞淑とを要求し、その要求がみたされることによって自分の道徳性を維持することができれば充分なのではなかろうか。この考えは少なからず打算的であり、愛情が報酬を求めている態度でもある、私が最初に意図していた奪わざる愛、相手に与え育てる愛という最高の愛の定義は、一片の空想にちかい怪しげなものになってきはじめた。しかしまだ私はその考えに執着していた。(略)メエテルリンクの青い鳥は捜せどもさがせどもまだみつからない。(p.140) 

 

 なんでこれらの箇所にわたしは笑ってしまうのだろう?といえば、それは、現在ではほぼテンプレ化された「フェミ的にNGな男」の述懐が哲学的語彙で仰々しく飾られているからやとおもう。いやNGというよりも、もはや「ありがち悩み」というか、現代でもyahoo知恵袋とかで相談されてそーな、「彼女を殴るってやっぱダメですか?」「彼女を束縛しすぎてしょうか><」みたいな悩み、「ダメに決まってるでしょ」とか「それはDVです」とかさっくり回答されてしまいそうな悩みが、眉間に皺を寄せた「進歩的な男」によって鹿爪らしく語られているから、それが「パロディ」のように見えてしまうのだろう。

また彼は、上の引用のように、女が良人に寄りかかって生活をすることを嘆き、あるいは、男性が結婚によってさほど変化しないのに対し「女性は全身と全霊とを結婚のなかに投げ込んでしまうようにみえる。精神的には良人のなかに没入して、妻の心以外の心をもてなくなってしまい、肉体的にも新しい成長と発達と交替とがなされて行く」(p.59)ことに驚き、そのたびに、「ああ!女というものはそういうものなのか!」的に感嘆するのであるが、それもまた、こんにちの「人は女として社会的に構築される」論に馴れたわれわれからすれば、「イヤ、『女とはそういうもの』でなくて、女が結婚生活に依存せざるをえない社会であったからそーなってるのではないですか」とツッコミを入れたくなるのであり、そうした発想がまるでないように見える彼の感慨はまるで、そうした「ツッコミ待ち」のネタのように見えてしまうのである。

 

 で、「奇妙な読後感」というたのはここであって、最後までわからないのは、そうした発想がまるでないのは、この主人公になのか、それとも作者になのか? というところである。言葉を換えれば、戦前の作品であるこの小説をもはやわたしは現代の読者としてしか読めない、という事実のせいで(もちろん当時の読者の声や批評を調べることで、ある程度当時の受容を知ることはできる。あまぞんはないけど)、どーしても「パロディ」に見えて笑ってしもうたけど、それは作者の意図した滑稽なのかそれとも作者は笑わせる意図はなかったのか?ということ。

 

 亀井勝一郎の解説に書かれているように、「滑稽」は作者も意識しているのであろう。作者が完全にひとりよがりにこの主人公に没入しているわけでなくて、理想家だが理屈っぽい主人公は、ときにちょっぴり神経質すぎるように描かれる。が、どのレヴェルの滑稽を作者が目指しているのかが分からない。理想を目指す人って時には苦労するよねという滑稽なのか、この主人公の理想自体の滑稽なのか。

最後までずっと判断がつかず、だが現代の読者であるわたしには、後者にしか見えなかったので、ずっと、最後になんか「どんでん返し」が用意されているのかと予想しながら読んでいたのであった。妻の猛烈な反発にあって理想が独善的であったことに気づく、とか、あるいは妻が不貞をはたらくなどして妻の自我の存在に気づく、みたいな妊娠小説(c:斎藤美奈子)的なオチを。が、そのようなオチではなかった。(なんかに気づくのではあるが、上記のようなことではない。)

  

さらに読者(わたし)を混乱させるのが、「妻の台詞」である。

上の引用のように、地の文は、硬く仰々しい文体で書かれるのだけれど、妻の台詞(だけはリアルに生き生きとして、まるで何十年先の女の子のようなのである。

 

「結婚すると乳が黒くなるって聞いてはいたけど、本当なのねえ。嫌だなあ。元のからだにして返せ!」(p.59)

  

「だってうまいんだもの。困っちゃったなあ」

  つづけざまに三つも食べてなくなると、

「もっとほしい!」と叫んだ。

「何を、畜生。もう一生焼売を食わさん」

「いやだ、明日も食う」

(80頁)

  

「わたし二十四よ、まだ青春よ。もっとお洒落をして誰かに口説かれたいなあ」

「そんなおなかをしてかい?」

すると彼女は頭を掻いて「いけねえ」と乱暴な口を利いた。「こいつさえいなけりゃ君なんか離婚してまた結婚するんだがなあ」

(102頁)

  

「君は僕を一歩も外へ出さないつもり? 閉じこめておく気? ひどいわ。黴が生えてやるから。たまには虫干しさしてよ。僕が早くお婆さんになったら君嬉しい? くすぶってると早く皺くちゃになるんだけど、それでもいい? いいならいいっていいなさい。覚悟しちゃうから…。ああ青春が惜しいなあ」(104頁)

  

地の文の語り手である鹿爪らしい男の妻とは、男が語りの中で言及する「妻」という概念の具現物とは思えないのである。妻の登場部分は、漫画の中に作画の違う登場人物がひとりいるような印象を受ける。

作者はこの、主人公の語りによる地の文と妻の台詞のギャップをどう意図していたのだろう。ということも作品からはまるで見えてこない。そんなギャップはないかのように淡々と進んでゆく。或いはこのギャップも、現代の読者であるわたしだけが感じるギャップなのかな?

 

 

気になって、他の石川作品も読まねば……と思い、古本屋で石川本を何冊か買ってきて『蒼氓』を読み始めた。こんなにわたしのハートを掴むとは、たつぞうよ。

  

※ どうでもいい余談だが、この夫婦の会話を想像すると、福満しげゆきとその妻の図が浮かんでしまう。理屈っぽくごちゃごちゃと何やかや言い続ける夫に、「クソブタ」の一言で返す妻。

  

◇◇◇

 

いねこのことは次回書きます。