たつぞうといねこ(2)

こないだ石川達三の『結婚の生態』について書いたけど、同時期に、佐多稲子の『くれなゐ』を読んだので、そちらについても記。

 

べつに両作品はなんも関係ないのだが、だいたい同年齢の作家の、同時代に書かれた、どちらも結婚生活に関する話ということで、へー とおもった。
(達三は1905生れで『結婚の生態』は1938年、稲子は1904年生れで『くれなゐ』は1938年。今気づいたが、どちらもわたしくらいの年齢の頃に書かれてるのか! うわー)
なのだが、とても同時代の夫婦の話とは思えない。
正確にいうと、『結婚の生態』に登場する妻と、『くれなゐ』に登場する妻が、同時代の女とは思えない。もちろん、前者は夫である男性の一人称で書かれており、後者は三人称で妻の心理が描写されているという違いはあるし、そもそも全然違う作品なんだけれども。

 

『くれなゐ』は、明子と広介という、やはり作者自身がモデルらしき夫婦が物語の中心。
『結婚の生態』のカップルは文筆家と主婦だったが、こちらは夫婦二人ともがプロレタリア文学者である。で、そのことが、二人の結婚生活にはネックになっている。明子は、「夫婦ともに作家である」ことの困難を女友達に語るのやが、それはこんな具合。

「些細な例でおかしいけど、広介が誰かと討論している時には、私は黙ってお茶を汲んでいるわね。黙ってお茶を汲まざるを得ないのよ。何んだか亭主と一緒になって言うようでおかしいのよ。一緒の時にはどうしても、外から見れば女房は女だと言う気があるでしょうからね」(16頁)

「自分の成長が、女房的なものにどうしても掣肘されそうなの。これはきっと、広介がこの頃のように家で仕事を始めたからだと思うの。以前はつまり、文筆の仕事をするのは、私が主だったでしょう。」(17頁)


家の中の重心が広介にすっかり移っている感じなのであった。それには作家としての明子の生活の根本が侵蝕されてゆくような不安が伴なっているのであった。広介の意志に関わりなく男と女の一軒の家の中で要求されているものの力でもあった。いつまで、女、女、ということにかかずらわねばならないのだろう。(41頁)


「自分の成長が女房的なものに掣肘される」!
ウーマンリブよりずっと以前にこんな言葉が女性作家によって書かれてたなんて! とおどろいた。今でも充分共感を呼ぶ言葉でなかろーか。
明子は、文筆家である自分と、妻として夫の補助的役割に留まる自分との間に、葛藤を感じている。妻役割は自分の仕事の邪魔であり、自分の仕事は妻役割の邪魔である。
その葛藤の記述におどろいたのはやはり、同時代の『結婚の生態』を先に読んでいたからということもあって、そこでは、妻は、夫の対等な(←使いたくないセンスの言葉だが)ライバルなどではありえず、夫に教育される存在であり、夫の補助的役割を果たすために存在していることは大前提であったし、そのこと自体に妻が意義を唱える場面もなかった。夫を邪魔する妻の自我が顔を出したとて、それは新しい着物を買えとかレインコートを買えとかいうわがままの形で現れるに過ぎんかった。「自分の成長」と「女房であること」が矛盾をきたすことはなく、彼女の成長とはすなわち良き女房となることであった(但し、主人公である夫にとって、である。彼女本人の内面においてどうであったかは語られない)。
だが『くれなゐ』では、明子の友人である画家の女性も、同業者の夫の仕事をライバル視し、「私を常に苛立たせ、いつも敗北的な感情を強く感じさせる一つのものは彼です」(55頁)と語るし、明子は、夫が拘留されていた二年間を(注:明子夫婦はプロレタリア文学者であるゆえに二人とも拘留歴を持つ)、こう振り返るのである。

二年間の留守中に、私はほんとうに、ひとりで暮らす自由さを味わった。
それは何という悲しいことだったろう。夫を愛していながら、独り暮しの自由さを希ませる矛盾は、女の生活の何処にひそんでいるのであろう。見開いている目に涙が一杯あふれて来た。(28-9頁)

 


そんな夫婦に、あるとき転機が訪れる。広介がある日突然明子に告げる。

「広介には女が出来たんだよ」言い終わると同時に、明子の顔を両手で押えて彼女の返事を唇で蔽うてしまった。(72頁)


なんで自分のこと三人称でいうねん、とかいろいろ衝撃の場面である。広介は明子と別居し、その女と新しい生活を始めるつもりだと告げ、明子もそれを承諾する。

「もうもう、私のように、折角仕事を計画しているのに水をぶっかけたり、意地悪く突っついたりする女房ではなくて、広介の世話ばかりしている細君が傍にいるのね。いゝなあ」
「そんな風に言うのはおよしよ。何だか辛くなってくるから。俺だけが好い気になっているようで。(略)明子にもいゝ助手になってくれる人があるといゝねえ」
「とても! 女にそんな助手だけしてくれる人なんて出来る筈はないわ」
(75頁)


ここもすごい。別居するのは互いの仕事のためだといいながら、しかしそこには男女の非対称性が横たわっている。男の仕事を支えてくれる細君はありえても、女の仕事を支えてくれる細君はありえない。明子はそれに気づいている。
他にもこんな場面がある。見知らぬ未亡人の自殺のニュースを聞いた明子が感極まって泣く場面(それにしてもこの明子、作中で一体何回泣くのや)。

男の寡り暮しよりも、働いて養わねばならぬ寡婦の方にこの弱点が考えられるのは、女の力の弱さや、女に辛い社会制度の欠陥なのであろう。明子は階下に新聞記者の待っていることが気になりながらも、おいおい声を挙げて泣いた。(92頁)


『結婚の生態』の主人公が、「そりゃその時代の社会制度のせいやろが」と思うようなこと(女が結婚後すっかり家庭に頼りきってしまうことなど)に対していちいち、「女って神秘!女とは!」と無邪気に感動していたのと同時代に書かれた言葉とは、やはり思えない。なんでこの男は社会や時代という背景に思い至らないのか? とむずむずしながら読んだものだが、『くれなゐ』には、ここではっきりと「女に辛い社会制度」という言葉が登場する。
ちなみにこの非対称性には広介も気づいていないではないけれど、彼の言葉はどこか他人事のよう。広介は、別居に至る事情を友人にこう話す。

「僕に女が出来たんだ」「僕は今、その女と新しく家を持とうとしている。このことは僕にとってはもう絶対なのだ。だからつまり今度の契機は僕にあるんだ。然し、その根源はね、二人の生活にずっと根差しているんだ。子供も老人もいる狭い家の中で、二人が、一緒にどちらも原稿を書くというような仕事を、しかも相当どちらも激しい量の仕事をやってゆくということは到底出来得ないことなのだ。明子の方が女なので困難の度合いが大きく、この頃ではずっと明子が別居を考えていた位なのだ。」(85頁)


「明子の方が女なので困難の度合いが大きい」と彼は言う。分かってんならおまえどーにかしたれや、とつっこみたくなるのだが、それが別居以外にどうにもならないことは彼の中では自明らしい。彼がその困難を、男女の自然な差に基づくものだと考えているのか、社会構造のせいだと考えているのか、二人の関係のせいだと考えているのか、そこんとこはよく分からない。

 


さらに、しかし、だ。
こうした非対称性があるとはいえ、明子と広介はどこか共犯的。明子は、広介の共犯であることで、自分の男性性を担保しようとしているというか、自分を男性の側に置こうとしているふしがあるように見える。たとえば、別居の話は、そもそも以前から二人の間で出ていたものであったのだが、そのとき二人はこんなやりとりをしていた。

「明子も早く次の大きな仕事にかゝらなくちゃしようがないねえ。上半期あまり書かなかったろう」
「引っぱられたりしたしねえ」
「それもある。然しやっぱり女の人はどこか男ほどのねばりが無いからね」
「生活が損だからねえ」
「勿論そりゃそうだが。然し……」
広介は軽くおどすように、
「俺がどんどん仕事をやりだすようになったら困るよ明子は。いつのまにか俺の仕事に巻きこまれてしまう。がん張らなきゃ」
「だから困っているのよ。あなたにも精いっぱい仕事をさせたいし」
(略)
「実際、ものを書く人間が狭い家に二人居るなんて辛い話だからね。どっちからか遠慮してるからね。運動の盛んな時分には俺が終始外に出ていたからやってゆけたんだなあ」
「どうすればいゝと思う?」
「まあ、別居するより他に方法は無いね」
(略)
「この頃少し俺が明子の生活を邪魔しているように思ったからさ。俺は俺でたくさん仕事をしようとしてるしねえ」
「ほんとうにそうね。別居しか方法はないと私も思っている」
「然しね。他人じゃあ心から世話をしてくれないんでねえ。別居しても明子に余計世話をかけるようじゃ何にもならんし」
「私もいゝ細君でいればよかったなア。あなたの助手になってねえ。きっと模範的な奥さんになっていてよ」
そう言ってしまってから明子は、そゝるような強い視線で広介を捕えるようにして、いいわ、奥さんをお持ちなさい、と囁いた。(pp.64-5)


広介よなんであんたは女に世話してもらうこと前提なんだ、と現代の読者としては思ってしまうが、それは明子も同様である。「(世話してもらうための)奥さんをお持ちなさい」と囁く明子は、広介に互して成さねばならぬ仕事をもつ自分とは違う、夫の世話をするためだけの「奥さん」の存在に疑問をもたない。広介の新しい女の存在が告げられたときも、明子は、自分が仕事をもつゆえに広介の良き助手に留まることができなかったことに葛藤するが、この新しい女が葛藤なく広介のよき助手となるであろうことには、疑いをもたない。

 

『結婚の生態』と『くれなゐ』を比較して、『結婚の生態』では妻の内面が男側からしか書かれないが『くれなゐ』では妻の内面が豊かに描かれていると言った。これは最初に述べたとおり、物語の構造上の理由も大きいだろう。『くれなゐ』では明子の視点と地の文がほぼ重なるのに対し、『結婚の生態』は主人公の一人称小説であり妻は彼に対していわゆる「他者」や。中に何が入ってるのか分からん、ブラックボックスのよう。とすれば、『くれなゐ』でそうしたたしゃに当たるのは、まだ見ぬ「奥さん」であろう。葛藤や苦悩のない、内面や人格をもたない、つるりとした、<良い細君>の切り絵のような奥さん。(で、明子は、広介に、その女と暮らしながら籍は自分と夫婦のままであることを提案したりする。)
明子と『結婚の生態』の妻が同時代の女性とは思えないというたけれども、それもまあそんなもんであって、現代でも「女っていってもいろいろいるよね」というだけの話かもしれん、が、ただ、『結婚の生態』の妻の側から妻版『結婚の生態』がもし書かれればどんなもんだろう、と想像はする。同じように、『くれなゐ』で、広介の新しい女の側から物語が書かれたら、どんなもんだろう。


……
と考えるのだが、しかし! 実はこの女に関しては、「女は存在しない」的なオチが!
オチは書かないでおく。

 

____

 

それにしても、『くれなゐ』は、明子の葛藤がまったくリアルでイヤになる。仕事を持つ私はいい妻にはなれない!という引け目と、開き直りと、でもそんな私がこんなに気を遣ってるのに!というどっか恩着せがましくなるまいと思いつつ恩着せがましくなってしもうて要らんことねちねちと言うてしまう感じとか。さらにそんな妻に対する夫の苛立ちとか。

明子は堪えていたが、とうとうぽろぽろっと涙をこぼしていた。話してゆくうちに、十年の自分の一生懸命な姿が、今は我が身ひとつなので、よけにいとしく思い出された、広介との生活を、いつでも真っ先に立てていた。偶然のように自分が広介より先に作家になってしまっていたが、そのことは却って明子の妻としての心づかいを大きくさせるばかりであった。いつでも家庭的な些事から広介を守ろうとし、彼の俗世間には当てはまらぬような性質も、彼の詩なのだとおもい、純粋に保とうとして努力した。今になって見れば、彼は明子のこの心づかいにさえ反抗しているようなものだ。(87頁)


「なんだって、小説なんか書いたんだろう、とおもうわ。仕事を持っていた女房だからこそ、余計に、気をつかって、旦那様にもしていたとおもうんだ。なんて馬鹿々々しい。そんな微妙なことは誰も知りゃしない。あなただって知りゃしない。そうおもうと、私は自分が可哀想になるんですよ」
「よさないか。黙っていればいゝ気になって。自分だけが悲劇の主人公だと思っている。いつでもそうなんだ。俺はいつも御前に迷惑だけかけて、ノホホンとして来たということになるんだ」「なんだと、よくも言ったな。小説なんか書かせて悪かったね。やめろ、やめろ。傲慢な。よくもそんなこと俺にむかって言えたよ。そんな傲慢は、ちゃんと自分の本も持っている人間が自信をもっている上で初めて言えるんだ」
(134頁)


うわー、今でもこんな夫婦、まわりの研究者夫婦とかでいそうやなー とおもう。ていうか、おれけっこんしたらこんなふーになりそう。「もっと素直な女のほうがいいんでしょ!」とか卑屈なこといいそう。卑屈なこといいながら「もっと素直な女を好むおまえ」を暗に責めそう。いやぢゃいやぢゃ。とか思いながら読んでしまった。

 


結婚の生態 (新潮文庫 い 2-1)

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くれない (新潮文庫 さ 4-1)

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追記)その後、石川達三の代表作『蒼氓』も読んだ。よかった。『結婚の生態』の文体はやはり意図的に滑稽味を出してあるんやなーとはわかった。


蒼氓 (新潮文庫)

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