数学といとうちゃんと私


二年生になって数学の担当教師が変わったとき、皆がっかりした。
新しい教師は、「いとうちゃん」という、初老の男性教師だった。
いや、当時は「初老」と思ったが、今思えばいとうちゃんは意外に若かったのではないかと思われる。まだ40代だったかもしれない。今の私とそう変わらなかったのでないか。
いとうちゃんは背が低くぽってりとした小太りの体型に、地味な色のズボンとワイシャツ、髪の毛を七三に分け、正直いわゆる「ださい」風貌だった。
最初の授業でいとうちゃんが声を発したときの衝撃は、未だに忘れられない。
いとうちゃんは、とてもベテラン男性教師のものとは思われない、少し高く、かつヒソヒソ話をするようなか細い声で、


「お分かりのとおり、私はこの学校で一番、声の小さな教師です……」


と囀った。
みんなはぽかーんとした。

 

「教室がやかましいと全然聞こえませんので、できるだけ、静かにしてください。静かにしても、前二列くらいまでしか聞こえないかもしれませんが……」

 

事実上の「私の授業は聞かなくていい」宣言であった。これを受けて、皆ここぞとばかりに私語を始めた。
以降、いとうちゃんの授業は、実質、私語と内職の時間になった。
実際いとうちゃんの声は前二列くらいまでしか聞こえず、それに耳を澄ませてまで数学を学ぼうという生徒は、わが文系クラスにはいなかった。私語のせいでさらにいとうちゃんの声はかき消され、ただでさえ聞こえないものが余計聞こえなくなり、最前列の三人くらいしか授業を聞いていないという有様になった。午後の授業では、ときには全員寝ていた。
それでもいとうちゃんは、私語を注意するでもなく、あるいは生徒の気をひくために何か気の利いた雑談をするでもなく、淡々と小声で二次関数を説明し続けた。説明が特に上手いわけでもなかった。
その様子が気の毒に思えて、自分だけでもなんとか起きていてあげようとがんばったこともあったが、これでは寝ざるをえなかった。

 

ところでこの頃、私はやっと少し数学ができるようになった。
数学ができなすぎて一年生時の数学教師に一年間存在しないことにされ続けたことは以前に書いた通りであるが、苦手な数学も自分で予習をしてみると、どこが分からないのかくらいは分かるようになり、その部分を先生に質問しに行くようになった。
われわれのクラスを担当する数学教師は、実はもう一人いたのだが、私はもっぱらいとうちゃんに質問に行った。というのは、いとうちゃんのほうが人気がないので、競争率が低く捕まえやすかったからである。


質問にいくと、普段生徒から話しかけられ馴れていないいとうちゃんは、ちょっと嬉しそうに見えた。自分が呼ばれていると分かると、軽く驚いた様子で、困ったような笑みを浮かべていそいそと駆けてくる。いとうちゃんはいつも丁寧な言葉遣いで喋る。ときどきその声が聞こえなくなるので再度聞き直すと、いとうちゃんは、まだまだ小さいがちょっとだけ大きな声で言い直す。いとうちゃんは小柄なうえ猫背なので、背の低いはずの私が腰をかがめるような格好になる。
初回の授業での、授業を聴かせる努力を端から放棄するかのような宣言のときは、「分かってるんならなんとかしろよ!」と少しくイラッとしたはずであったが、こういったやりとりをするうちに、だんだんいとうちゃんがけなげに見えてきた。

 

或る時、他の先生に用があって職員室に行くと、よそのクラスの男子がいとうちゃんを呼んでいた。


「おーい、いとう、おるけ!」


男子は、ポケットに手を突っ込んだまま偉そうに怒鳴った。
隣にいた女の先生が、「こら、呼び捨てにしたらあかん。いとう先生、でしょ」と窘めたが、その先生も顔は怒っていなかった。むしろ、窘めてみせた後で生徒と目を合わせ、困ったような表情を作って、くすっと苦笑してみせた。その先生と生徒の間には、共犯意識というか、「(そりゃあんな情けない奴、呼び捨てにするよなあ)」とでもいうような暗黙の合意が漂っていた。その暗黙の合意は、学校全体に漂っているものでもあった。
呼ばれたいとうちゃんは、呼び捨てにされたのにそれを怒るでもなく、いつもの困ったような気弱そうな笑顔を浮かべたまま出てきて、怒鳴るように何かを尋ねる男子に対し、いつものか細い声と丁寧な口調で何かを囁いていた。


いとうちゃんは、職員室でもダメな大人だったのだろう。
生徒にはナメられるし、先生同士の付き合いにもうまく溶け込めていないように見えた。
小学校から高校にいたるまで、生徒の中では、皆と同じようにふるまう権利を得ている者と、なんとなくそこからはみ出す者が、集団生活をするうちに自然と分かれてくる。後者は、バカにしてもいい者と見なされる。スクールカーストという語は私が生徒のときにはまだなかったが、軽く扱われやすい・いじめられやすい者とそうではない大勢との区別は厳然とあった。大人になるとそんなものはなくなり、皆、対等になって誰もが堂々とできるかのようになんとなく思っていたが、大人の世界でもそれは一緒なのだなあ、とこのとき知った。しかも、教師という、人の上に立つ職業に就いてもそうなのだ。バカにされるやつは、いつまでもバカにされるのか。
私はいとうちゃんに、同族意識を覚えた。

 


そんないとうちゃんだったが、実は剣道がものすごく強いという噂があった。
剣道部は我が校で唯一強い部活だったのだが、いとうちゃんはその剣道部の顧問であり、剣道部の生徒から「すごく強いらしい」という情報を耳にしたのである。
いとうちゃんは相手をこてんぱんにしたあとに、あの細い声で丁寧に「ありがとうございました」と囁くのだ、とわれわれは噂し合ったが、そう言い出した生徒もいとうちゃんの剣道を実際に見たわけではなかったので、噂の真偽は不明であった。

 

いとうちゃんは、自分の私生活の話などはまったくしなかった。そもそも雑談をしないので、何歳なのか、既婚なのか独身なのかすら分からなかったが、あるとき、最寄駅だけが判明した。
いとうちゃんが教室に来ると、まだ前の時間の古典の板書が残っていたことがあった。
背伸びして黒板を消そうとしたいとうちゃんは、ぴたっと動きを止めた。黒板の文字を読んでいるふうだった。
古典では、誰かが出家してどうのこうのという物語を読んでおり、墨染の衣のなんとかかんとか、という和歌が板書されていた。「墨染」は僧侶の衣の色を表す言葉である。
普段無駄な話はしないいとうちゃんだが、なぜかその和歌に興味を持ったらしく、風紀委員のSさんの席へトコトコと歩いていって囁き尋ねた。


「あそこに書いてある墨染って何でしょうか」


わざわざSさんの席まで出向いたのは、クラスでいとうちゃんの授業をまともに聞いているのが、真面目なSさんくらいだったからであろう。
Sさんは、
「墨染の衣というのは僧侶の服を指していて、あれは出家のことを歌った和歌です」
というようなことを答えた。
するといとうちゃんは、「そうなんですか」と感心し、


「私は〇〇なんです。〇〇の和歌はないんでしょうか……」


と呟いて何事もなかったかのように教壇に上がっていった。
〇〇は京阪電鉄の駅名である。京阪には「墨染」という駅があるので、自分の最寄駅も和歌に出てこないのか、といとうちゃんは言ったのだった。それで、いとうちゃんは〇〇に住んでいることが判明したのだった。
Sさんは、真面目だが少し萌えツボが独特な人だったので、「そのとき、いとう先生のことすっごく可愛いって思ってん!」と授業後に熱く語った。

 

二学期になると、私は、従姉に時々勉強を教えてもらうようになった。
従姉はこのとき大学生で、哲学を専攻していた。
問題の解き方だけでなく、「ギリシャの哲学者が無限についてこう言った」とか「1と2という有限の間に√2という無限があるのはどういうことだ」とかそんな話をしてくれたので、私もおぼろげながら、数学って単なる数の操作でなくて、もとは哲学なんやなあ、ということが分かってきて面白く思えるようになった。「文系だから数学が苦手」と思い込んでいる人は、意外にこういう話を聴くと数学を好きになる可能性があるのでないかと思う。


従姉のすすめで、Z会の通信添削を始めた。Z会の数学の問題にはしばしば、入試本番にも出ないような難しい問題が出た。
あるとき、従姉も解けない問題があった。
順列組合せの問題で、何色かに色分けされたタイルの並べ方が何通りあるか、というような問題だったと思う。並べ方をいちいち数えていると大変な数になりそうだし、試験でそんなことはしてられない。よって何らかの式を立てて解を導くべきだ、ということは分かるが、その式の立て方がどうしても分からない。
従姉が考えてもついに答えが出なかったので、学校でいとうちゃんに訊いてみることにした。


わたしは翌日、その問題を、いとうちゃんに見せにいった。
今思えば、解けなくてもひと月後に解答が送られてくるのでそれを待てばよさそうなものだが、一刻も早く解き方が知りたかったのだろう。見上げた勉学意欲だが、学校の先生にとっては迷惑な話だ。


「これ、通信添削の問題なんですけど、どうしても解けなくて」
「これはむずかしいですね」


いとうちゃんはしばらくその場で考えてくれたがやはり解けず、「ちょっと持って帰って考えさせてください……」とその問題をコピーした。私は恐縮すると同時に、数学の先生なのに解けないのか……恥ずかしい思いをさせたかもしれない、といとうちゃんの心中を思いやった。

 

その日、また従姉の家に行くと、従姉は例の問題の答えが分かったとはしゃいでいた。
「理学部の友達に訊いたら一瞬で解けた! 簡単なことやったんや!」
それは一見複雑な問題だが、ある考え方を思いつけばごく簡潔な式を立てることができ、その式に数字を当てはめると一発で答えが求まる。
答えは、「300通り」とかそれくらいであったと思う。なので、いちいち数えていると膨大な時間がかかるが、或る発想が得られれば、途中式が三行ほどというごく簡単な操作で答えの出る問題なのだった。

問題が解けたことをいとうちゃんに言わねばと思ったが、いとうちゃんは、翌日の授業のときもその問題について何も言わなかったので、あのまま忘れているのかも、とも思った。
しかし、土日休みが明けた日、いとうちゃんが私を職員室に呼んだ。


「このあいだの問題、遅くなってすみません……」


いとうちゃんは覚えてくれていたのであった。
そして、得意気に、コピーした答案を持ってきた。


「やっと答えが出ましたよ」


いとうちゃんの、その声と同じく薄い弱々しい文字で、小さく回答が書き込まれていた。
その答えは、従姉が教えてくれたものと同じだった。
私は思わず、「あ、私もあの後、他の人に聞いて分かったんです。同じ答えでした」と言ってしまった。
するといとうちゃんは寂しそうに、「そうですか……」とうつむいてしまった。
しまった、言わなきゃよかった、いとうちゃんに訊いたのに他の人にも教えてもらったなんて失礼だったかな、「解けたんですか!先生すごい!」と驚けばよかった……、私は変な気を遣った。

 

とにかく、お礼を言って職員室を出、「答えの求め方は裏に書いておきました」とのことだったので、教室に帰って、裏を見てみた。
いとうちゃんもあの式を思いついたんだなー、さすが数学の先生だー、と思いながら裏を返すとそこには!
タイルの並べ方のパタン、300数通りのパタンが、几帳面にこまごまと、鉛筆によってびっしり図示されていたのであった!
いとうちゃんは結局、式を思いつくことができず、全ての並べ方を図に描いて数えるという極めて原始的かつ受験では絶対に採ってはならない方法を採ったのである。
しかも、そのやり方で答えが合っているというのもすごい。
いとうちゃん………土日を使って私のために、(あるいは数学教師としての意地のために、)タイルを数えてくれていたんだ………。
この紙は今でも、我が家のどこかに残っていると思う。

 

二年生の三学期には修学旅行があった。修学旅行はそれほど楽しくなかったが、途中立ち寄ったわさび農園は良いところだった。いとうちゃんは、他の先生からも生徒たちからも離れてひとりでわさびソフトクリームを食べていた。私とSさんが「あっ、いとう先生」と言うと、ソフトクリームをなめながら小さく手を振ってくれた。農園の隅っこでソフトクリームを手にする小柄ないとうちゃんは、おじさんだが妖精のようだった。私はその様子を写真に撮った。

 

三学期の期末テストで、初めて数学で99点をとった。しょうもない計算を間違えて1点ロスしたが、前年、クラス最低点をとって教師に無視され続けたことを思えば快挙である。テストでよい点をとって喜ぶなんてダサいことのような気もしたが、いとうちゃんにがんばったと思われたかったので、ふつうにうれしかった。
テストを返すとき、いとうちゃんが、やはり細い声で「がんばりましたね」と言ってくれた。

 

クラスの生徒たちは、受験が近づくほど、ますますいとうちゃんの授業を聞かなくなった。ほとんどの生徒は受験に数学が必要なかったからである。いとうちゃんの授業は、以前からもそうであったが、完全に内職と私語と睡眠の時間となった。必要ない授業となると、その教師までウザくなってくるものなのか、いとうちゃんは今まで以上に蔑ろにされるようになった。
イキがった男子たちは始業ベルが鳴っても廊下でたむろするのをやめず、授業にやってきたいとうちゃんが廊下を通ろうとすると、「なんやねん、いとうかよ、邪魔やねん」と邪険にした。いとうちゃんは、礼儀正しく、「あっ、すみませんね」と謝りながら、でっかい男子たちの間をちょこちょこ潜り抜けて教室に入ってきた。 

私は、噂の真偽も分からないのに、「おまえらそんな態度取ってるけど、いとうちゃんはほんまは剣道がめっちゃ強いんやで」と思い、いとうちゃんが剣を振るってそやつらをこてんぱんにした後で、累々と折り重なった男子たちの背に片足をかけ、「あっ、すみませんね」と礼儀正しく謝っている姿を勝手に思い浮かべ、勝手にすかっとしていた。
実際にいとうちゃんが剣道が強かったのかどうかは分からないままだった。
自分もバカにされる側の道を歩んできて、今後も冴えない大人になる確率の高い私は、自分の幻想を、勝手にいとうちゃんに投影していたのかもしれない。

 


その後、私は浪人し、大学に受かった際に高校に挨拶に行ったのだが、このとき、いとうちゃんに会ったかどうか覚えていない。お礼を言った記憶がないので、このときはいとうちゃんは不在で会えなかったのではないかと思う。 

それから何年かして、四月の教職員異動情報を新聞で見、いとうちゃんが退職したことを知った。
転任でなく、退職欄にいとうちゃんの名前があった。まだ定年退職の年ではなかったから、自主的に退職したようであった。
やはりあの小さな声と小さなハートでは、人前に立つ教師など向いていないと思ったのだろうか(今更?)、あんなふうに生徒や同僚にバカにされ続けるのに疲れたのだろうか、と私は想像した。
でも、単に、もうお金があって働かなくてよい、とかかもしれない。何か事情があって他の仕事をすることになったのかもしれない。それとも、健康上の理由だろうか。年齢的にもありえないことではない。


などなど、考えながらもわたしの中には、教師をやめて一人の剣士となったいとうちゃんが、刀を一本携えて流離の旅に出るようなイメージが、勝手に沸いてきたのであった。

終わりから考える癖/追悼文の練習をする癖

こういうのもポスト・フェストゥム人間というのか、いつの頃からだろうか、「終わったとき」の視点から考えてしまう癖がある。


ある土地にいたりある人とつきあっていたりというその最中にいるとき、その時代のことを、「思い出として眺めたい」という気持ちが生じることがある。今その真っ只中にいるはずなのに、その時代を水晶玉の中に閉じ込めて外側から眺めているような気分になる。何かを終わったこととして愛でるのが、安心すること、好きなことなのかもしれない。


それとは少し違うかもしれないが、これもいつの頃からだろうか、小物や洋服や文房具、きれいなもの、気に入ったものを買うとき、それが使い古されて汚くなってしまったり壊れて使えなくなってしまったりする姿を想像してから買うようになった。他の人もそうなんだろうか? 更に、そのときに言うべき言葉まで頭の中に浮かんできてしまっている。たとえば、お店で素敵だなと思う食器を見つける、それが割れてしまったときのことを想像する、そのときは言うだろう、「しょうがない、しょうがない、もう充分使ったよ」。自分の持ち物に対してだけでなく、ときに、人が大事にしているものや人にプレゼントするものに対してもこの癖は及ぶ。大事にしているあれが壊れたらあの人は落ち込むだろう、そのときなんて声をかけよう、「形あるものはいつか壊れるからね」。

 

そうだ、いつの頃からだろうか、私は「頭の中で追悼文が生成されてしまう」癖がある。現在生きている身近な人、動物、好きな有名人、について、まるで予行練習のように追悼文を考えてしまっていることがある。
その人/動物たちに、死んでほしいと思っているわけではもちろんない(少なくとも意識レベルでは)。むしろ、死んでほしくない、大事な人/動物たちばかりだ。


まめ子を飼っているとき、まめ子がいなくなったら、と何度も考えた。それは、犬や猫、ペットを飼っている人なら皆考えてしまうことだと思う。だがそのとき、「そうなったら自分はどんな気持ちになるだろう」と想像するより先に、「そうなったとき自分が書くであろう文章」が先に頭の中に湧いてくる、ということが頻繁にあった。
別に実際に「どこどこにこれを書こう」という予定として考えているわけではない。知人へのメールか、ブログか、手紙か、何に書くかは分からないが、「近い将来私はこういう感情になるだろう(こういう感情を表明したくなるだろう)」ということが、文章として生成されてくるのだった。
先回りすることで失うことのショックを防衛しているのか、といえばそれだけでない気がするし、文章を書くことを生業にしているわけではないから、職業病というのも違う。
そして、そうすると涙が流れてくるのだが、その涙が、いつかいなくなる犬に対してのものなのか、自分の文章に感動してのものなのか、もはや分からないのだった。

 

そしてまた、そんなふうにいつも、大事なものや人や動物がなくなってしまうことを考えているようでいても、なぜだろうか、実際のお別れはいつも突然にしか起こらない。

 

 

夫婦同姓について尋ねてきた学生さんに関する後悔

あれはツイッターを始めた頃であるのでかなり前のことだろうか。どういう文脈かは忘れたが、その頃の何らかのニュースを受けてか、TLでは夫婦別姓を認めるか認めないかというような議論が起こっていた。というか主に、強制的同姓への非難がなされており、私もそれにのっかる形で何かひとこと書いたのだと思う。

 

するとそれに対して、見知らぬ人からリプライが飛んできた。「夫婦同姓がいやな人は、なんでそんなにいやなんですか? 全然想像つかないので教えてください」というようなものであった。

 

私は「うぐぐ……」と思った。
知らない人で、SNS上の共通の知り合いもいなさそうだったので、どうやって私にたどり着いたのかは分からない。(おそらく「夫婦同姓」とかで検索して適当に見つけた相手にコメントしたのであろう。)
プロフィールを見ると、男子学生で、いわゆる「意識高そう」な印象であった。

 

「なんでそんなにいや」と問われても困る。
夫婦同姓が「いや」な人の中にも、多様な人がいるだろう。一方だけが改姓を強制されるのが屈辱的だとか、アイデンティティを失うみたいだとかいう人もいるだろう。(女性が改姓することがほとんどであるので)男性中心主義的だからイヤだという人もいるだろうし、特に思想はないけど不便だったり手間がかかったりするからやめてくれという人もいるだろう。その複合的な立場の人もいるだろう。そもそもイエ制度とか結婚制度自体がイヤなんだよ、結婚するならせめて別姓がいいんだよ、という人もいるだろうし、それ自体には特に問題を感じてない人もいるだろうし、むしろ自分の生まれたイエに誇りをもっていて姓を守りたい!とかいう人もいるであろう。程度についても、できれば別姓も許容してほしいな……くらいの人もいれば絶対同姓反対!という人もいよう。
そして私は別に、それらの人全体を代表するわけではない。なんで俺に訊くんだ。それに、である。


当時うまく言語化できなかったのだが、私は以下のようなことを思い、少しくイラッとした。
それに、である。そんなふうにいろんな人がいることくらい、ちょっと調べれば分かるだろう。それを、おそらく自分は姓を変えさせられることはないだろう立場の人が、「なぜいやなのか分かりません」ってなんなんだ。そんならまず考えるか調べるかしてくれよ。なんでそれを他者(=女)の問題として切り離したうえで自分は関係ないみたいな顔をして「なんで君たちそんな怒ってんの?」みたいなことを見ず知らずの人に言うてくるんや。


というようなことを私はふわっと思ったものの、SNSとはそういうものであろうと思ったし、また職業柄若い学生さんには親切にせねばならないという思いもあって、「~という人もいるでしょうし、また~という人もいると思います」的なリプライをした。
そしてそれには何のレスポンスもなかった。
この自分の対応は、関係ない知らん人相手とはいえ未だにかなり後悔している。

 

『生きづらさの自己表現』、病理と創造と安定と生活、私にとっての文章書きについて


最近読んだ本でよかったのは、藤澤三佳『生きづらさの自己表現』(晃洋書房、2014)。
精神病院での造形教室、今村花子の食べ物アート、雨宮処凛の人形作りや河瀨直美のセルフドキュメンタリー、などさまざまな事例を挙げながら、「芸術療法の視点とアートの視点の違い/交差」「アールブリュットとは」「表現することでの他者との相互作用」など、諸々気になっていたテーマが語られており、興味深い本だった。
何よりも、豊富な事例の中で、知らなかった作家・作品や詳しく知らないが気になっていた作家・作品について知ることができたのが良かった。

 

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

 

で、気になった箇所や知ったことを読書メモとして紹介しようと思ったのだが、それよりも、個人的な感慨と結びつけて思うところがあったので、それを整理しておきたい。(よって以下はこの本とはあまり関係のない私の個人的な話であって、書評的なものではない。)

 

上記に挙げたいくつかのテーマのうち、私がもっとも興味をもってきたのは「セラピーとアート」の関係である。
芸術で何かを表現することで精神的な困難が癒えていく過程がある。それはどういうプロセスなのか、ということはずっと自分のテーマであり続けているところである。一方でしかし表現には、それに留まらない何かもある。たとえば創造行為によってストレスを抱える人その中で病んでいく人、または症状と創造が一体であるような人もある。
そしてそのメカニズムへの興味は、しょぼい体験ではあるけれども自分自身の文章体験に基づいていたのだなあということを、この本を読んで思い出した。

 


私は現在べつにプロの売文家ではないし、文章が上手いわけでもないのだが、なぜか子供の頃から、いろんなことが苦手である中で、文章を書くことは比較的好きであり、ある時期からはその行為に深い思い入れをもってきた。その思い入れをもつに至った転機は二つあった。


ひとつは、小学四年生のときである。
それまでも作文を誉められたことはあったが、誉められたものを自覚的には良いと思ったことがなかった。たとえば、三年生のときに入選した作文は、「蝉をせっかく捕まえたのに死んだ」ということを書いたものだったのだが、自分では実際にあったこととそのときの気持ちをありのまま書いただけだし、つまらない作文だと思っていた。その他、授業で作文を書くと先生が気に入った箇所に赤で波線を引いてくれるのだが、なぜそこが誉められるのかいつもよく分からず「大人はこういうとこを評価するんやなあ」くらいに思っていた。自分では、作文というのは、道徳的なこととか立派なこと、きれいなことを書くものだと思っていた。
しかし或る日、「これからはちゃんと整理整頓したいと思います」みたいなことを書いた作文を母に見せると、母が「あんたの作文はきれいごとばっかりやん」と言ったのだった。(※私は整理整頓が超苦手であり、学習机の上も中もぐっちゃぐっちゃであった。この苦手は現在に至る。)
その母の言葉は私には衝撃だった。それによって、「えっ、作文ってきれいごとを書くもんとちゃうかったんや! 文章って、自分の思うことをありのままに書いてもええんや!」ということを知ったのだった。母の言いたいのはむしろ「きれいごとを書いたんならちゃんとそれを実行して整理整頓しろ」ということだったと思われるが、相変わらず整理整頓はしないまま、これを機に文章を書くという行為の意味付けが自分の中で転換されると同時に明確になったのであった。

 

ふたつめは、小学六年生のときである。
思春期真っ只中の時期で、学級が荒れていた。当時そんな言葉はまだなかったが学級崩壊の状態であった。学級の中での序列(いわゆるスクールカースト)が形成され始め、イジメのようなことも起こり始めた。私はカーストの下層に在りつつ、色々ドロドロした思いを抱えていた。
先生が見かねて授業時間を一時間潰し、全員に作文を書かせた。(このとき全員マジメに書いたわけであるから、今思えば皆溜まっているものがあったのだろう。)私は原稿用紙20枚に渡って、ドロドロした思い、クラスメイトに対する劣等感、焦燥感、云々をぶちまけた。(この頃既に「作文とはありのままを書くもの」という自然主義的(※日本的意味での)芸風が確立されており、日々先生に提出する日記には「生理で血がどろっと出る感触がイヤだ」「陰毛が生えてきた」「寝る前こんな妄想をする」などなど先生も反応に困ったであろうことまで書いていた。)
それから数日、ホームルームで先生が、「書いた本人は『皆の前で読まないでほしい』と書いているけれど、ごめんなさい、どうしても皆に紹介したいので読みます」と宣言し、私の20枚を朗読し始めたのであった。今思えばひどい話だが、これは結果的には良かった。自分の20枚が読み上げられる間は気が気ではなかった。皆に読まれるなんて思ってもいなかったから、「私は○○さんや○○くん(イジメっ子の名前)がうらやましく、いつも妬んでいます」など、個人名を挙げてあまり本人に知られたくないことも書いていたのだった。
先生が読み上げ終わった後、皆に何と言われるかとびくびくし、生きた心地ではなかった。しかし教室は無音になり、ホームルームが終わると、普段交流の無かった子やイジメっ子グループに属していた子がわらわらとやってきて、「うち、感動したわ」「あんなこと考えてたんやね、感心した」というようなことを口々に言ったのだった。
普段であれば対等に接することができない子と、文章を介してであればコミュニケイトすることができた! しかも普段接点のない子を「感動」させることもできた! ということは、中毒性ある体験だった。
先生は保護者懇談会でもその作文を読み上げたという。友達のお母さんにも「あなたの作文感動したわ」と言われ、文章だったら大人とも対等に渡り合えるんや!と驚いた。

 

この感覚が、私が文章を書くときに長らくもっていた感覚だった。
自分は口下手だし、見た目や挙動やいろいろがいろいろダメなので、子供の頃から他人に「一段低いもの」として扱われ続けてきた。自分でもそのような意識を持ってきた。
しかし文字を書くとき、自分と世界の間にある溝が、一文字ずつ埋まっていくような感覚を覚えた。

 


中高生の頃は、あれこれ雑文を書いては冊子にして人に読ませたりしていたし、インターネットに触れるようになってからは、個人サイトを作ってあれこれ書いていた。文章を読むと、それまでダメ扱いしていた人たちが、一目置いてくれたり人間扱いしてくれたりした。それは子供の頃から一貫していた。まとまった作文だけでなく、学級日誌やクラスの子への年賀状に添える文章(キモいほどハイテンションでそれらを書いていた)もそうだった。普段の「一段低いもの」としてではなく、それによって人間として皆と関われる感じがした。
だが、高校生くらいからたびたび、「こんなことをしていてはいけない、文章を書くなんてすっぱりやめなくてはならない」という危機感を感じるようになった。
その危機感が何だったのか、上手く説明することができない。ただなぜか、「こんなことをやってたらマトモな社会生活が遅れなくなる、ちゃんとした仕事とか結婚とかできない大人になる」と思っていた。
その感覚はなんだったんだろう。書くことは自分と社会の溝を埋める、人とコミュニケーションする手段だったはずだ。でもそれだけではない、自分を食い潰したりコミュニケーションや社会生活を阻害したりする要素もそこに感じていたのだろうが、その要素ってなんなんだろう。昇華したはずが、またゴミが出てくる、みたいな。

 

ということを思い出したのは、『生きづらさの自己表現』の中で、いくつか、社会生活と創作との葛藤をめぐる語りを読んだからである。
たとえば、第二部で、木村千穂さんという画家が紹介されている。彼女は摂食障害やアルコール依存の経験を美しい絵画作品として描いた人で、テレビ番組で紹介されたこともあるという人だが、現在はもう絵を描いていないという。
これに関して、取材の中での言葉がいくつか紹介されている。彼女は自助グループの中で、それまで絵でしか表現できなかった苦しさを言葉で語れるようになったという。(著者によると、音楽やダンスで自己表現していた人にも、自助グループで苦しみを言語化できるようになると自然と「それらを取り上げられる」状態になることがあるそうだ。)また、フルタイムの仕事も見つかった今、「今でも感じる心は自分の中にありますがもう描くことは手放してしまいました」(p.135)。苦しいときは面白いほど描けたのに、今は「絵の具はただの絵の具、鉛筆はただの鉛」にしか見えないという。
社会との接点であった絵画表現は、苦しみの言語化や生活の安定とともに必要とされなくなっている。創作はそれらを得るまでの臨時の代替手段であった、と言っていいのだろうか。

 

第一部では、精神病院の造形教室(平川病院の安彦講平によるアトリエ)の作家が何人か紹介される中、「すぎもと」という女性の絵が紹介されている。虐待経験をもち社会不安やリストカットの症状から描き始めた「すぎもと」さんは、「絵に支えられている」という。絵が注目されるも、お金が絡むと「純粋に絵と向き合えなくなる」という理由から商売にはしない。
彼女は仕事をもってもいて、会社では自分の病を知らない仕事仲間の中でよいストレスを得ているという一方で「一番恐ろしいのは、このまま、まともな社会人になってしまわないかということ」(p.43)とも言う。「自立して生活安定していく事と絵に没頭することの両立はとても難しいのです」とも語っており、それは時間の余裕など物理的事情だけのことではないのだろう。
本来、絵を描くのが治癒的価値を期待して始められたことであって、それが生きる支えとなっているというのならば、描かなくとも生が安定すればそれでいいはずである。しかし「すぎもと」さんは安定した「まともな社会人」になることを「恐ろしい」ことと言い、安定の中で描いたものを「つまらない」「どん底に堕ちなきゃ何も生まれません。今は幸せで、自分らしくないです」というのである。
描くことはセラピー的でありながら、セラピー以上の意味をもっていることが解る。

 

この、「描くこと」の両義性に、私は、自分の高校生の頃の、「書くこと」をめぐる両義的な思いを思い出したのだった。
自分と社会をつなぐもの、生を支えるもの、精神を安定させるもの、というセラピー的意味をもちながら、それだけに留まらず、「自立して生活安定していく事」と両立しない・相容れないような破壊的力をもっており、だから表現や創作は単なる安定した社会生活の代替ではありえなくて、しかし「すぎもと」さんはおそらく、その破壊的力に描くことの本質のようなものを見出し、それを重視しているのだろう。

 

かつ、本書を読んで気付いたこととして、そんなふうに私たちは表現のセラピー的側面と非セラピー的側面を対立させて考えがちであり、つまりそれは、セラピー的視点とアート的視点の対立であって(「治癒的価値をとるかアート的価値をとるか」=「社会に適応できるほどほどのところでやめとくか自壊しても表現を追求するか」)、本書でもその二つの視点が対立的に書かれている面もあるのであるが、しかし実は本書の随所で示唆されている通り、「セラピーにもいろいろあるよな」ということに思い当たったのだった。画一的な社会的スキルを身につけて社会適応しおおせることだけが「治癒」であるのか?といえばそうではなく、「治癒」の考え方も本来さまざまで、もっと豊穣であるはずなのではなかったか。

 

で、自分の文章書き歴の話に戻ると、自分の場合もこの「セラピーか(=ほどほどにしとくか)アートか(=もっとやるか)」みたいな葛藤があったのかもしれないんだけど、その後大学で論文(=別に商売ではないが義務で書かねばならない文章でかつ一定のルールに則って書かねばならず自己表現的な部分もあるといえばあるんだけど自己表現であってはいけない)を書かなあかん羽目になったので、自分と文章との付き合いはちょっと違うフェイズに入ってしまったのだが、それについてはあんまり考えたことがないのでとりあえずここで終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老人と嘘

祖父(父方)は、善人でも悪人でもなかったが、ナチュラルに嘘を言うことがあった。嘘、という言い方は適切ではないのだが、なんといってよいか分からない。微妙に話を盛るというか、いや、これも違うな。

 

私が大学院に通っていた頃、祖父が「この間、あんたの先生にばったり会うた」と言い出したことがあった。祖父が病院へ行く道で、私の指導教官が、「はっ、これは〇子クンのお祖父様ではありませんか」と声をかけてきたのだという。
祖父が、孫がたいへんお世話になって、というような挨拶をすると、教授は、
「我が大学院の学生は皆それぞれに優秀ですが、とりわけ△子クンは優秀で期待しておりますぞ、あっはっは」
と言ったのだそうだ。


しかしこの話はどう考えてもありえないのである。
まず、私はまったく優秀ではなかったし、いやそれ以前に、教授は「~クン」とか「~ですぞ、あっはっは」とかいう喋り方をする人ではなかったし、さらにそれ以前に、祖父も教授も互いに会ったこともないのだからもし本当にすれ違ったのだとしても互いに識別できるはずがないのである。
よって、祖父のファンタジーと見るのが妥当なのであるが、祖父にとってこの出来事はありありと体験されていたらしく、それを修正することはできそうになかった。

 

祖母の方は老いてから重度の認知症を発症し、われわれを戸惑わせたものであったが、祖父は死ぬまで頭はハッキリしており、ボケていたわけではなかった。虚言癖というほどのものでもないし、人格的にそれほど大きなトラブルもなく、そこまで妄想じみたことを言うわけでもなかった。ただ、しばしば、こうしたモードになるのだった。というか、普段からナチュラルにこうしたモードなのであった。

 

この十年ほど前、私が大学に入った頃だっただろうか、家に帰ると、祖父の字で書かれた「ご学友の〇〇氏より電話あり」というメモがあった。
(当時私はまだケータイ電話をもっておらず、友人らは自宅電話に連絡しなくてはならず、そのたびに祖父が出るので緊張したという。)
それが、友人の名前が仮に「吉本圭介」だったとすると、「吉元敬助」のような微妙に違う字が当てられており、しかもそれが特に迷いなく堂々と書かれているのだった。
「おじいちゃん、吉本くん(仮名)から電話あったん?」と確認すると、祖父は、
「おう、『わたくし△子さんの学友の吉元であります、共に勉学に励んでおります』て言うてはったわ」
と答えるのだったが、吉本くん(仮名)は「わたくし…」とか言うキャラではないし、そもそも一緒に勉学に励んでもなかった。しかし祖父の中では、吉本くん、いや吉元くんはたしかにそう言ったらしい。

 

このような祖父の嘘というか心的現実の中で、最も黒いもののひとつは、私の学資保険を使い込んだことを母のせいにした件である。ひどい話であるが、祖父はこれもまた「嘘」をついているつもりはなかったのであろう。

被害を訴えられるとき

被害を訴えられ、かつ、その被害の内容が事実か分からない場合の対応の仕方に、いつも失敗し続けているように思う。

 

まず、人から何らかの被害を訴えられたり相談されたりするとき、聞かされた人は「これはウソかもしれない」とか「大袈裟に言ってるのかもしれない」とか「この人が悪いんじゃないか」とか思ってしまう傾向があることは、常に肝に銘じておいたほうがよいと思っている。
(どうでもいいけど「肝に銘じる」という慣用表現がなんか嫌いであるのだが他に適当な言葉がないので使ってしまった。ほんまにどうでもいいな)
これはおそらく防衛反応であって、誰かがひどい目に遭っているということを聞くとき、自分が同じ目に遭う可能性があると考えたくなかったり、或いは、同じ目に遭っていない自分が責められているように感じたりして、そうした気持ちゆえに、そのひどい目に遭っている人の訴えを聴くのにバイアスがかかってしまうものだと思う。何らかの事件報道のたびに、「被害者にも落ち度があったのでないか」的な論や自己責任論が出てくることはその証左だと思う。みんな、被害者にも落ち度があったと思うことで、落ち度のない自分はそんな目には合わないはずだと安心したい・万能感を保ちたいのだと思う。
(今聖書読書会でヨブ記を読んでるんだけど、ヨブにふりかかる理不尽な災いの数々を、ヨブの友達たちが「お前がなんか悪いことしたんちゃうか」みたいに責め続けており、ああ、これよくあるやつや……と思う。というかそいつらは友達なのか、という話である。)

 

そのような人間心理のバイアスを考慮に入れると、何らかの被害を訴えられたときは、極力それはすべて真実だと思って聴くくらいでちょうどいいとは思うのだが、その内容が、およそありそうもない場合、たとえば認知症や精神病性の妄想などによると思われる(がちょっとくらいは事実である可能性がなくもない)内容であった場合、いつも態度を誤ってしまう。


まず、あるべき態度としては、世の中にはまさか本当にそんなことがあるとは思えないことがけっこう起こっていることを思えば、一概に妄想であると断定することは危険であるかもしれず、一応は事実である可能性も念頭においておかねばならない、ということがひとつ。(実際これまで、妄想であったと思われていた被害の訴えが実は事実であったり、あるいは故意に妄想ということにされて握りつぶされた訴えがあったりしてきた。)
また、たとえ妄想であったとしても、その人がその妄想の結果苦しんでいるということは本当であるから、訴えの内容を認めるかどうかは別にしてその苦しみは認めなくてはならない、ということがひとつ。
かつ、それが妄想であったとしたら、「そんなの妄想だよ」と修正しようとしても多くの場合修正されることはないので、それは医療に任せるべきであるとして、正しい態度としては、「事実であるという可能性を念頭に置きつつ・妄想であったとしても修正できないので内容への判断は保留にして・その人の苦しみだけは認めそれを聴く」ことである、とは分かっているのだが、いつもこれに失敗する。
たとえば「AさんがBさんに被害を受けた」と訴えているがAさんもBさんもともに自分の友人であり、Aさんに寄り添うことがBさんを疑うことになりBさんに悪いと感じられてしまう、ような場合である。

 

 

 

モモコ、姉になる

モモコ、姉になる
ついに姉になりやがった―――。

モモコの嘘には既に馴れてしまったが、何故姉にまでなる必要がある?
母は呆れ果てながらしばらく、インターフォンの前に立ち尽くしていたという。

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