被害を訴えられるとき

被害を訴えられ、かつ、その被害の内容が事実か分からない場合の対応の仕方に、いつも失敗し続けているように思う。

 

まず、人から何らかの被害を訴えられたり相談されたりするとき、聞かされた人は「これはウソかもしれない」とか「大袈裟に言ってるのかもしれない」とか「この人が悪いんじゃないか」とか思ってしまう傾向があることは、常に肝に銘じておいたほうがよいと思っている。
(どうでもいいけど「肝に銘じる」という慣用表現がなんか嫌いであるのだが他に適当な言葉がないので使ってしまった。ほんまにどうでもいいな)
これはおそらく防衛反応であって、誰かがひどい目に遭っているということを聞くとき、自分が同じ目に遭う可能性があると考えたくなかったり、或いは、同じ目に遭っていない自分が責められているように感じたりして、そうした気持ちゆえに、そのひどい目に遭っている人の訴えを聴くのにバイアスがかかってしまうものだと思う。何らかの事件報道のたびに、「被害者にも落ち度があったのでないか」的な論や自己責任論が出てくることはその証左だと思う。みんな、被害者にも落ち度があったと思うことで、落ち度のない自分はそんな目には合わないはずだと安心したい・万能感を保ちたいのだと思う。
(今聖書読書会でヨブ記を読んでるんだけど、ヨブにふりかかる理不尽な災いの数々を、ヨブの友達たちが「お前がなんか悪いことしたんちゃうか」みたいに責め続けており、ああ、これよくあるやつや……と思う。というかそいつらは友達なのか、という話である。)

 

そのような人間心理のバイアスを考慮に入れると、何らかの被害を訴えられたときは、極力それはすべて真実だと思って聴くくらいでちょうどいいとは思うのだが、その内容が、およそありそうもない場合、たとえば認知症や精神病性の妄想などによると思われる(がちょっとくらいは事実である可能性がなくもない)内容であった場合、いつも態度を誤ってしまう。


まず、あるべき態度としては、世の中にはまさか本当にそんなことがあるとは思えないことがけっこう起こっていることを思えば、一概に妄想であると断定することは危険であるかもしれず、一応は事実である可能性も念頭においておかねばならない、ということがひとつ。(実際これまで、妄想であったと思われていた被害の訴えが実は事実であったり、あるいは故意に妄想ということにされて握りつぶされた訴えがあったりしてきた。)
また、たとえ妄想であったとしても、その人がその妄想の結果苦しんでいるということは本当であるから、訴えの内容を認めるかどうかは別にしてその苦しみは認めなくてはならない、ということがひとつ。
かつ、それが妄想であったとしたら、「そんなの妄想だよ」と修正しようとしても多くの場合修正されることはないので、それは医療に任せるべきであるとして、正しい態度としては、「事実であるという可能性を念頭に置きつつ・妄想であったとしても修正できないので内容への判断は保留にして・その人の苦しみだけは認めそれを聴く」ことである、とは分かっているのだが、いつもこれに失敗する。
たとえば「AさんがBさんに被害を受けた」と訴えているがAさんもBさんもともに自分の友人であり、Aさんに寄り添うことがBさんを疑うことになりBさんに悪いと感じられてしまう、ような場合である。