終わりから考える癖/追悼文の練習をする癖

こういうのもポスト・フェストゥム人間というのか、いつの頃からだろうか、「終わったとき」の視点から考えてしまう癖がある。


ある土地にいたりある人とつきあっていたりというその最中にいるとき、その時代のことを、「思い出として眺めたい」という気持ちが生じることがある。今その真っ只中にいるはずなのに、その時代を水晶玉の中に閉じ込めて外側から眺めているような気分になる。何かを終わったこととして愛でるのが、安心すること、好きなことなのかもしれない。


それとは少し違うかもしれないが、これもいつの頃からだろうか、小物や洋服や文房具、きれいなもの、気に入ったものを買うとき、それが使い古されて汚くなってしまったり壊れて使えなくなってしまったりする姿を想像してから買うようになった。他の人もそうなんだろうか? 更に、そのときに言うべき言葉まで頭の中に浮かんできてしまっている。たとえば、お店で素敵だなと思う食器を見つける、それが割れてしまったときのことを想像する、そのときは言うだろう、「しょうがない、しょうがない、もう充分使ったよ」。自分の持ち物に対してだけでなく、ときに、人が大事にしているものや人にプレゼントするものに対してもこの癖は及ぶ。大事にしているあれが壊れたらあの人は落ち込むだろう、そのときなんて声をかけよう、「形あるものはいつか壊れるからね」。

 

そうだ、いつの頃からだろうか、私は「頭の中で追悼文が生成されてしまう」癖がある。現在生きている身近な人、動物、好きな有名人、について、まるで予行練習のように追悼文を考えてしまっていることがある。
その人/動物たちに、死んでほしいと思っているわけではもちろんない(少なくとも意識レベルでは)。むしろ、死んでほしくない、大事な人/動物たちばかりだ。


まめ子を飼っているとき、まめ子がいなくなったら、と何度も考えた。それは、犬や猫、ペットを飼っている人なら皆考えてしまうことだと思う。だがそのとき、「そうなったら自分はどんな気持ちになるだろう」と想像するより先に、「そうなったとき自分が書くであろう文章」が先に頭の中に湧いてくる、ということが頻繁にあった。
別に実際に「どこどこにこれを書こう」という予定として考えているわけではない。知人へのメールか、ブログか、手紙か、何に書くかは分からないが、「近い将来私はこういう感情になるだろう(こういう感情を表明したくなるだろう)」ということが、文章として生成されてくるのだった。
先回りすることで失うことのショックを防衛しているのか、といえばそれだけでない気がするし、文章を書くことを生業にしているわけではないから、職業病というのも違う。
そして、そうすると涙が流れてくるのだが、その涙が、いつかいなくなる犬に対してのものなのか、自分の文章に感動してのものなのか、もはや分からないのだった。

 

そしてまた、そんなふうにいつも、大事なものや人や動物がなくなってしまうことを考えているようでいても、なぜだろうか、実際のお別れはいつも突然にしか起こらない。