老人と嘘

祖父(父方)は、善人でも悪人でもなかったが、ナチュラルに嘘を言うことがあった。嘘、という言い方は適切ではないのだが、なんといってよいか分からない。微妙に話を盛るというか、いや、これも違うな。

 

私が大学院に通っていた頃、祖父が「この間、あんたの先生にばったり会うた」と言い出したことがあった。祖父が病院へ行く道で、私の指導教官が、「はっ、これは〇子クンのお祖父様ではありませんか」と声をかけてきたのだという。
祖父が、孫がたいへんお世話になって、というような挨拶をすると、教授は、
「我が大学院の学生は皆それぞれに優秀ですが、とりわけ△子クンは優秀で期待しておりますぞ、あっはっは」
と言ったのだそうだ。


しかしこの話はどう考えてもありえないのである。
まず、私はまったく優秀ではなかったし、いやそれ以前に、教授は「~クン」とか「~ですぞ、あっはっは」とかいう喋り方をする人ではなかったし、さらにそれ以前に、祖父も教授も互いに会ったこともないのだからもし本当にすれ違ったのだとしても互いに識別できるはずがないのである。
よって、祖父のファンタジーと見るのが妥当なのであるが、祖父にとってこの出来事はありありと体験されていたらしく、それを修正することはできそうになかった。

 

祖母の方は老いてから重度の認知症を発症し、われわれを戸惑わせたものであったが、祖父は死ぬまで頭はハッキリしており、ボケていたわけではなかった。虚言癖というほどのものでもないし、人格的にそれほど大きなトラブルもなく、そこまで妄想じみたことを言うわけでもなかった。ただ、しばしば、こうしたモードになるのだった。というか、普段からナチュラルにこうしたモードなのであった。

 

この十年ほど前、私が大学に入った頃だっただろうか、家に帰ると、祖父の字で書かれた「ご学友の〇〇氏より電話あり」というメモがあった。
(当時私はまだケータイ電話をもっておらず、友人らは自宅電話に連絡しなくてはならず、そのたびに祖父が出るので緊張したという。)
それが、友人の名前が仮に「吉本圭介」だったとすると、「吉元敬助」のような微妙に違う字が当てられており、しかもそれが特に迷いなく堂々と書かれているのだった。
「おじいちゃん、吉本くん(仮名)から電話あったん?」と確認すると、祖父は、
「おう、『わたくし△子さんの学友の吉元であります、共に勉学に励んでおります』て言うてはったわ」
と答えるのだったが、吉本くん(仮名)は「わたくし…」とか言うキャラではないし、そもそも一緒に勉学に励んでもなかった。しかし祖父の中では、吉本くん、いや吉元くんはたしかにそう言ったらしい。

 

このような祖父の嘘というか心的現実の中で、最も黒いもののひとつは、私の学資保険を使い込んだことを母のせいにした件である。ひどい話であるが、祖父はこれもまた「嘘」をついているつもりはなかったのであろう。