終わりから考える癖/追悼文の練習をする癖

こういうのもポスト・フェストゥム人間というのか、いつの頃からだろうか、「終わったとき」の視点から考えてしまう癖がある。


ある土地にいたりある人とつきあっていたりというその最中にいるとき、その時代のことを、「思い出として眺めたい」という気持ちが生じることがある。今その真っ只中にいるはずなのに、その時代を水晶玉の中に閉じ込めて外側から眺めているような気分になる。何かを終わったこととして愛でるのが、安心すること、好きなことなのかもしれない。


それとは少し違うかもしれないが、これもいつの頃からだろうか、小物や洋服や文房具、きれいなもの、気に入ったものを買うとき、それが使い古されて汚くなってしまったり壊れて使えなくなってしまったりする姿を想像してから買うようになった。他の人もそうなんだろうか? 更に、そのときに言うべき言葉まで頭の中に浮かんできてしまっている。たとえば、お店で素敵だなと思う食器を見つける、それが割れてしまったときのことを想像する、そのときは言うだろう、「しょうがない、しょうがない、もう充分使ったよ」。自分の持ち物に対してだけでなく、ときに、人が大事にしているものや人にプレゼントするものに対してもこの癖は及ぶ。大事にしているあれが壊れたらあの人は落ち込むだろう、そのときなんて声をかけよう、「形あるものはいつか壊れるからね」。

 

そうだ、いつの頃からだろうか、私は「頭の中で追悼文が生成されてしまう」癖がある。現在生きている身近な人、動物、好きな有名人、について、まるで予行練習のように追悼文を考えてしまっていることがある。
その人/動物たちに、死んでほしいと思っているわけではもちろんない(少なくとも意識レベルでは)。むしろ、死んでほしくない、大事な人/動物たちばかりだ。


まめ子を飼っているとき、まめ子がいなくなったら、と何度も考えた。それは、犬や猫、ペットを飼っている人なら皆考えてしまうことだと思う。だがそのとき、「そうなったら自分はどんな気持ちになるだろう」と想像するより先に、「そうなったとき自分が書くであろう文章」が先に頭の中に湧いてくる、ということが頻繁にあった。
別に実際に「どこどこにこれを書こう」という予定として考えているわけではない。知人へのメールか、ブログか、手紙か、何に書くかは分からないが、「近い将来私はこういう感情になるだろう(こういう感情を表明したくなるだろう)」ということが、文章として生成されてくるのだった。
先回りすることで失うことのショックを防衛しているのか、といえばそれだけでない気がするし、文章を書くことを生業にしているわけではないから、職業病というのも違う。
そして、そうすると涙が流れてくるのだが、その涙が、いつかいなくなる犬に対してのものなのか、自分の文章に感動してのものなのか、もはや分からないのだった。

 

そしてまた、そんなふうにいつも、大事なものや人や動物がなくなってしまうことを考えているようでいても、なぜだろうか、実際のお別れはいつも突然にしか起こらない。

 

 

夫婦同姓について尋ねてきた学生さんに関する後悔

あれはツイッターを始めた頃であるのでかなり前のことだろうか。どういう文脈かは忘れたが、その頃の何らかのニュースを受けてか、TLでは夫婦別姓を認めるか認めないかというような議論が起こっていた。というか主に、強制的同姓への非難がなされており、私もそれにのっかる形で何かひとこと書いたのだと思う。

 

するとそれに対して、見知らぬ人からリプライが飛んできた。「夫婦同姓がいやな人は、なんでそんなにいやなんですか? 全然想像つかないので教えてください」というようなものであった。

 

私は「うぐぐ……」と思った。
知らない人で、SNS上の共通の知り合いもいなさそうだったので、どうやって私にたどり着いたのかは分からない。(おそらく「夫婦同姓」とかで検索して適当に見つけた相手にコメントしたのであろう。)
プロフィールを見ると、男子学生で、いわゆる「意識高そう」な印象であった。

 

「なんでそんなにいや」と問われても困る。
夫婦同姓が「いや」な人の中にも、多様な人がいるだろう。一方だけが改姓を強制されるのが屈辱的だとか、アイデンティティを失うみたいだとかいう人もいるだろう。(女性が改姓することがほとんどであるので)男性中心主義的だからイヤだという人もいるだろうし、特に思想はないけど不便だったり手間がかかったりするからやめてくれという人もいるだろう。その複合的な立場の人もいるだろう。そもそもイエ制度とか結婚制度自体がイヤなんだよ、結婚するならせめて別姓がいいんだよ、という人もいるだろうし、それ自体には特に問題を感じてない人もいるだろうし、むしろ自分の生まれたイエに誇りをもっていて姓を守りたい!とかいう人もいるであろう。程度についても、できれば別姓も許容してほしいな……くらいの人もいれば絶対同姓反対!という人もいよう。
そして私は別に、それらの人全体を代表するわけではない。なんで俺に訊くんだ。それに、である。


当時うまく言語化できなかったのだが、私は以下のようなことを思い、少しくイラッとした。
それに、である。そんなふうにいろんな人がいることくらい、ちょっと調べれば分かるだろう。それを、おそらく自分は姓を変えさせられることはないだろう立場の人が、「なぜいやなのか分かりません」ってなんなんだ。そんならまず考えるか調べるかしてくれよ。なんでそれを他者(=女)の問題として切り離したうえで自分は関係ないみたいな顔をして「なんで君たちそんな怒ってんの?」みたいなことを見ず知らずの人に言うてくるんや。


というようなことを私はふわっと思ったものの、SNSとはそういうものであろうと思ったし、また職業柄若い学生さんには親切にせねばならないという思いもあって、「~という人もいるでしょうし、また~という人もいると思います」的なリプライをした。
そしてそれには何のレスポンスもなかった。
この自分の対応は、関係ない知らん人相手とはいえ未だにかなり後悔している。

 

『生きづらさの自己表現』、病理と創造と安定と生活、私にとっての文章書きについて


最近読んだ本でよかったのは、藤澤三佳『生きづらさの自己表現』(晃洋書房、2014)。
精神病院での造形教室、今村花子の食べ物アート、雨宮処凛の人形作りや河瀨直美のセルフドキュメンタリー、などさまざまな事例を挙げながら、「芸術療法の視点とアートの視点の違い/交差」「アールブリュットとは」「表現することでの他者との相互作用」など、諸々気になっていたテーマが語られており、興味深い本だった。
何よりも、豊富な事例の中で、知らなかった作家・作品や詳しく知らないが気になっていた作家・作品について知ることができたのが良かった。

 

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

 

で、気になった箇所や知ったことを読書メモとして紹介しようと思ったのだが、それよりも、個人的な感慨と結びつけて思うところがあったので、それを整理しておきたい。(よって以下はこの本とはあまり関係のない私の個人的な話であって、書評的なものではない。)

 

上記に挙げたいくつかのテーマのうち、私がもっとも興味をもってきたのは「セラピーとアート」の関係である。
芸術で何かを表現することで精神的な困難が癒えていく過程がある。それはどういうプロセスなのか、ということはずっと自分のテーマであり続けているところである。一方でしかし表現には、それに留まらない何かもある。たとえば創造行為によってストレスを抱える人その中で病んでいく人、または症状と創造が一体であるような人もある。
そしてそのメカニズムへの興味は、しょぼい体験ではあるけれども自分自身の文章体験に基づいていたのだなあということを、この本を読んで思い出した。

 


私は現在べつにプロの売文家ではないし、文章が上手いわけでもないのだが、なぜか子供の頃から、いろんなことが苦手である中で、文章を書くことは比較的好きであり、ある時期からはその行為に深い思い入れをもってきた。その思い入れをもつに至った転機は二つあった。


ひとつは、小学四年生のときである。
それまでも作文を誉められたことはあったが、誉められたものを自覚的には良いと思ったことがなかった。たとえば、三年生のときに入選した作文は、「蝉をせっかく捕まえたのに死んだ」ということを書いたものだったのだが、自分では実際にあったこととそのときの気持ちをありのまま書いただけだし、つまらない作文だと思っていた。その他、授業で作文を書くと先生が気に入った箇所に赤で波線を引いてくれるのだが、なぜそこが誉められるのかいつもよく分からず「大人はこういうとこを評価するんやなあ」くらいに思っていた。自分では、作文というのは、道徳的なこととか立派なこと、きれいなことを書くものだと思っていた。
しかし或る日、「これからはちゃんと整理整頓したいと思います」みたいなことを書いた作文を母に見せると、母が「あんたの作文はきれいごとばっかりやん」と言ったのだった。(※私は整理整頓が超苦手であり、学習机の上も中もぐっちゃぐっちゃであった。この苦手は現在に至る。)
その母の言葉は私には衝撃だった。それによって、「えっ、作文ってきれいごとを書くもんとちゃうかったんや! 文章って、自分の思うことをありのままに書いてもええんや!」ということを知ったのだった。母の言いたいのはむしろ「きれいごとを書いたんならちゃんとそれを実行して整理整頓しろ」ということだったと思われるが、相変わらず整理整頓はしないまま、これを機に文章を書くという行為の意味付けが自分の中で転換されると同時に明確になったのであった。

 

ふたつめは、小学六年生のときである。
思春期真っ只中の時期で、学級が荒れていた。当時そんな言葉はまだなかったが学級崩壊の状態であった。学級の中での序列(いわゆるスクールカースト)が形成され始め、イジメのようなことも起こり始めた。私はカーストの下層に在りつつ、色々ドロドロした思いを抱えていた。
先生が見かねて授業時間を一時間潰し、全員に作文を書かせた。(このとき全員マジメに書いたわけであるから、今思えば皆溜まっているものがあったのだろう。)私は原稿用紙20枚に渡って、ドロドロした思い、クラスメイトに対する劣等感、焦燥感、云々をぶちまけた。(この頃既に「作文とはありのままを書くもの」という自然主義的(※日本的意味での)芸風が確立されており、日々先生に提出する日記には「生理で血がどろっと出る感触がイヤだ」「陰毛が生えてきた」「寝る前こんな妄想をする」などなど先生も反応に困ったであろうことまで書いていた。)
それから数日、ホームルームで先生が、「書いた本人は『皆の前で読まないでほしい』と書いているけれど、ごめんなさい、どうしても皆に紹介したいので読みます」と宣言し、私の20枚を朗読し始めたのであった。今思えばひどい話だが、これは結果的には良かった。自分の20枚が読み上げられる間は気が気ではなかった。皆に読まれるなんて思ってもいなかったから、「私は○○さんや○○くん(イジメっ子の名前)がうらやましく、いつも妬んでいます」など、個人名を挙げてあまり本人に知られたくないことも書いていたのだった。
先生が読み上げ終わった後、皆に何と言われるかとびくびくし、生きた心地ではなかった。しかし教室は無音になり、ホームルームが終わると、普段交流の無かった子やイジメっ子グループに属していた子がわらわらとやってきて、「うち、感動したわ」「あんなこと考えてたんやね、感心した」というようなことを口々に言ったのだった。
普段であれば対等に接することができない子と、文章を介してであればコミュニケイトすることができた! しかも普段接点のない子を「感動」させることもできた! ということは、中毒性ある体験だった。
先生は保護者懇談会でもその作文を読み上げたという。友達のお母さんにも「あなたの作文感動したわ」と言われ、文章だったら大人とも対等に渡り合えるんや!と驚いた。

 

この感覚が、私が文章を書くときに長らくもっていた感覚だった。
自分は口下手だし、見た目や挙動やいろいろがいろいろダメなので、子供の頃から他人に「一段低いもの」として扱われ続けてきた。自分でもそのような意識を持ってきた。
しかし文字を書くとき、自分と世界の間にある溝が、一文字ずつ埋まっていくような感覚を覚えた。

 


中高生の頃は、あれこれ雑文を書いては冊子にして人に読ませたりしていたし、インターネットに触れるようになってからは、個人サイトを作ってあれこれ書いていた。文章を読むと、それまでダメ扱いしていた人たちが、一目置いてくれたり人間扱いしてくれたりした。それは子供の頃から一貫していた。まとまった作文だけでなく、学級日誌やクラスの子への年賀状に添える文章(キモいほどハイテンションでそれらを書いていた)もそうだった。普段の「一段低いもの」としてではなく、それによって人間として皆と関われる感じがした。
だが、高校生くらいからたびたび、「こんなことをしていてはいけない、文章を書くなんてすっぱりやめなくてはならない」という危機感を感じるようになった。
その危機感が何だったのか、上手く説明することができない。ただなぜか、「こんなことをやってたらマトモな社会生活が遅れなくなる、ちゃんとした仕事とか結婚とかできない大人になる」と思っていた。
その感覚はなんだったんだろう。書くことは自分と社会の溝を埋める、人とコミュニケーションする手段だったはずだ。でもそれだけではない、自分を食い潰したりコミュニケーションや社会生活を阻害したりする要素もそこに感じていたのだろうが、その要素ってなんなんだろう。昇華したはずが、またゴミが出てくる、みたいな。

 

ということを思い出したのは、『生きづらさの自己表現』の中で、いくつか、社会生活と創作との葛藤をめぐる語りを読んだからである。
たとえば、第二部で、木村千穂さんという画家が紹介されている。彼女は摂食障害やアルコール依存の経験を美しい絵画作品として描いた人で、テレビ番組で紹介されたこともあるという人だが、現在はもう絵を描いていないという。
これに関して、取材の中での言葉がいくつか紹介されている。彼女は自助グループの中で、それまで絵でしか表現できなかった苦しさを言葉で語れるようになったという。(著者によると、音楽やダンスで自己表現していた人にも、自助グループで苦しみを言語化できるようになると自然と「それらを取り上げられる」状態になることがあるそうだ。)また、フルタイムの仕事も見つかった今、「今でも感じる心は自分の中にありますがもう描くことは手放してしまいました」(p.135)。苦しいときは面白いほど描けたのに、今は「絵の具はただの絵の具、鉛筆はただの鉛」にしか見えないという。
社会との接点であった絵画表現は、苦しみの言語化や生活の安定とともに必要とされなくなっている。創作はそれらを得るまでの臨時の代替手段であった、と言っていいのだろうか。

 

第一部では、精神病院の造形教室(平川病院の安彦講平によるアトリエ)の作家が何人か紹介される中、「すぎもと」という女性の絵が紹介されている。虐待経験をもち社会不安やリストカットの症状から描き始めた「すぎもと」さんは、「絵に支えられている」という。絵が注目されるも、お金が絡むと「純粋に絵と向き合えなくなる」という理由から商売にはしない。
彼女は仕事をもってもいて、会社では自分の病を知らない仕事仲間の中でよいストレスを得ているという一方で「一番恐ろしいのは、このまま、まともな社会人になってしまわないかということ」(p.43)とも言う。「自立して生活安定していく事と絵に没頭することの両立はとても難しいのです」とも語っており、それは時間の余裕など物理的事情だけのことではないのだろう。
本来、絵を描くのが治癒的価値を期待して始められたことであって、それが生きる支えとなっているというのならば、描かなくとも生が安定すればそれでいいはずである。しかし「すぎもと」さんは安定した「まともな社会人」になることを「恐ろしい」ことと言い、安定の中で描いたものを「つまらない」「どん底に堕ちなきゃ何も生まれません。今は幸せで、自分らしくないです」というのである。
描くことはセラピー的でありながら、セラピー以上の意味をもっていることが解る。

 

この、「描くこと」の両義性に、私は、自分の高校生の頃の、「書くこと」をめぐる両義的な思いを思い出したのだった。
自分と社会をつなぐもの、生を支えるもの、精神を安定させるもの、というセラピー的意味をもちながら、それだけに留まらず、「自立して生活安定していく事」と両立しない・相容れないような破壊的力をもっており、だから表現や創作は単なる安定した社会生活の代替ではありえなくて、しかし「すぎもと」さんはおそらく、その破壊的力に描くことの本質のようなものを見出し、それを重視しているのだろう。

 

かつ、本書を読んで気付いたこととして、そんなふうに私たちは表現のセラピー的側面と非セラピー的側面を対立させて考えがちであり、つまりそれは、セラピー的視点とアート的視点の対立であって(「治癒的価値をとるかアート的価値をとるか」=「社会に適応できるほどほどのところでやめとくか自壊しても表現を追求するか」)、本書でもその二つの視点が対立的に書かれている面もあるのであるが、しかし実は本書の随所で示唆されている通り、「セラピーにもいろいろあるよな」ということに思い当たったのだった。画一的な社会的スキルを身につけて社会適応しおおせることだけが「治癒」であるのか?といえばそうではなく、「治癒」の考え方も本来さまざまで、もっと豊穣であるはずなのではなかったか。

 

で、自分の文章書き歴の話に戻ると、自分の場合もこの「セラピーか(=ほどほどにしとくか)アートか(=もっとやるか)」みたいな葛藤があったのかもしれないんだけど、その後大学で論文(=別に商売ではないが義務で書かねばならない文章でかつ一定のルールに則って書かねばならず自己表現的な部分もあるといえばあるんだけど自己表現であってはいけない)を書かなあかん羽目になったので、自分と文章との付き合いはちょっと違うフェイズに入ってしまったのだが、それについてはあんまり考えたことがないのでとりあえずここで終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老人と嘘

祖父(父方)は、善人でも悪人でもなかったが、ナチュラルに嘘を言うことがあった。嘘、という言い方は適切ではないのだが、なんといってよいか分からない。微妙に話を盛るというか、いや、これも違うな。

 

私が大学院に通っていた頃、祖父が「この間、あんたの先生にばったり会うた」と言い出したことがあった。祖父が病院へ行く道で、私の指導教官が、「はっ、これは〇子クンのお祖父様ではありませんか」と声をかけてきたのだという。
祖父が、孫がたいへんお世話になって、というような挨拶をすると、教授は、
「我が大学院の学生は皆それぞれに優秀ですが、とりわけ△子クンは優秀で期待しておりますぞ、あっはっは」
と言ったのだそうだ。


しかしこの話はどう考えてもありえないのである。
まず、私はまったく優秀ではなかったし、いやそれ以前に、教授は「~クン」とか「~ですぞ、あっはっは」とかいう喋り方をする人ではなかったし、さらにそれ以前に、祖父も教授も互いに会ったこともないのだからもし本当にすれ違ったのだとしても互いに識別できるはずがないのである。
よって、祖父のファンタジーと見るのが妥当なのであるが、祖父にとってこの出来事はありありと体験されていたらしく、それを修正することはできそうになかった。

 

祖母の方は老いてから重度の認知症を発症し、われわれを戸惑わせたものであったが、祖父は死ぬまで頭はハッキリしており、ボケていたわけではなかった。虚言癖というほどのものでもないし、人格的にそれほど大きなトラブルもなく、そこまで妄想じみたことを言うわけでもなかった。ただ、しばしば、こうしたモードになるのだった。というか、普段からナチュラルにこうしたモードなのであった。

 

この十年ほど前、私が大学に入った頃だっただろうか、家に帰ると、祖父の字で書かれた「ご学友の〇〇氏より電話あり」というメモがあった。
(当時私はまだケータイ電話をもっておらず、友人らは自宅電話に連絡しなくてはならず、そのたびに祖父が出るので緊張したという。)
それが、友人の名前が仮に「吉本圭介」だったとすると、「吉元敬助」のような微妙に違う字が当てられており、しかもそれが特に迷いなく堂々と書かれているのだった。
「おじいちゃん、吉本くん(仮名)から電話あったん?」と確認すると、祖父は、
「おう、『わたくし△子さんの学友の吉元であります、共に勉学に励んでおります』て言うてはったわ」
と答えるのだったが、吉本くん(仮名)は「わたくし…」とか言うキャラではないし、そもそも一緒に勉学に励んでもなかった。しかし祖父の中では、吉本くん、いや吉元くんはたしかにそう言ったらしい。

 

このような祖父の嘘というか心的現実の中で、最も黒いもののひとつは、私の学資保険を使い込んだことを母のせいにした件である。ひどい話であるが、祖父はこれもまた「嘘」をついているつもりはなかったのであろう。

被害を訴えられるとき

被害を訴えられ、かつ、その被害の内容が事実か分からない場合の対応の仕方に、いつも失敗し続けているように思う。

 

まず、人から何らかの被害を訴えられたり相談されたりするとき、聞かされた人は「これはウソかもしれない」とか「大袈裟に言ってるのかもしれない」とか「この人が悪いんじゃないか」とか思ってしまう傾向があることは、常に肝に銘じておいたほうがよいと思っている。
(どうでもいいけど「肝に銘じる」という慣用表現がなんか嫌いであるのだが他に適当な言葉がないので使ってしまった。ほんまにどうでもいいな)
これはおそらく防衛反応であって、誰かがひどい目に遭っているということを聞くとき、自分が同じ目に遭う可能性があると考えたくなかったり、或いは、同じ目に遭っていない自分が責められているように感じたりして、そうした気持ちゆえに、そのひどい目に遭っている人の訴えを聴くのにバイアスがかかってしまうものだと思う。何らかの事件報道のたびに、「被害者にも落ち度があったのでないか」的な論や自己責任論が出てくることはその証左だと思う。みんな、被害者にも落ち度があったと思うことで、落ち度のない自分はそんな目には合わないはずだと安心したい・万能感を保ちたいのだと思う。
(今聖書読書会でヨブ記を読んでるんだけど、ヨブにふりかかる理不尽な災いの数々を、ヨブの友達たちが「お前がなんか悪いことしたんちゃうか」みたいに責め続けており、ああ、これよくあるやつや……と思う。というかそいつらは友達なのか、という話である。)

 

そのような人間心理のバイアスを考慮に入れると、何らかの被害を訴えられたときは、極力それはすべて真実だと思って聴くくらいでちょうどいいとは思うのだが、その内容が、およそありそうもない場合、たとえば認知症や精神病性の妄想などによると思われる(がちょっとくらいは事実である可能性がなくもない)内容であった場合、いつも態度を誤ってしまう。


まず、あるべき態度としては、世の中にはまさか本当にそんなことがあるとは思えないことがけっこう起こっていることを思えば、一概に妄想であると断定することは危険であるかもしれず、一応は事実である可能性も念頭においておかねばならない、ということがひとつ。(実際これまで、妄想であったと思われていた被害の訴えが実は事実であったり、あるいは故意に妄想ということにされて握りつぶされた訴えがあったりしてきた。)
また、たとえ妄想であったとしても、その人がその妄想の結果苦しんでいるということは本当であるから、訴えの内容を認めるかどうかは別にしてその苦しみは認めなくてはならない、ということがひとつ。
かつ、それが妄想であったとしたら、「そんなの妄想だよ」と修正しようとしても多くの場合修正されることはないので、それは医療に任せるべきであるとして、正しい態度としては、「事実であるという可能性を念頭に置きつつ・妄想であったとしても修正できないので内容への判断は保留にして・その人の苦しみだけは認めそれを聴く」ことである、とは分かっているのだが、いつもこれに失敗する。
たとえば「AさんがBさんに被害を受けた」と訴えているがAさんもBさんもともに自分の友人であり、Aさんに寄り添うことがBさんを疑うことになりBさんに悪いと感じられてしまう、ような場合である。

 

 

 

モモコ、姉になる

モモコ、姉になる
ついに姉になりやがった―――。

モモコの嘘には既に馴れてしまったが、何故姉にまでなる必要がある?
母は呆れ果てながらしばらく、インターフォンの前に立ち尽くしていたという。

続きを読む

アルバム『PAN』再訪(20年前について)

去年に、友人のバンドが出るというので、ブルーハーツ縛りのコピーバンド大会に行った。バンドが10組くらい出るので、コピバンばかりそんなに観てもなぁ……と思っていたのだが、演奏者たちの思い入れが伝わる良いイベントだった。フロアの客たちが

僕たちを縛り付けて一人ぼっちにさせようとした
全ての大人に感謝します
1985年 日本代表ブルーハーツ


と喉を涸らして大合唱するのを見て(というか私も合唱に加わってしまっていたのだが)、「何やってるんやろ」と思いもした。われわれはもう既に「大人」やし、今は1985年じゃないし、そもそもお前らブルーハーツやないがな! そうだ、1985年からもう30年経っていて、48億のブルースは70億に膨れあがっているわけで、でも今でもまったく「今」のものとしてその音楽を愛してる人らがこんなにいるんや、ということが、なんだかとても不思議な気がした。
そのイベントで印象的だったことがあり、ブルーハーツメンバーのコスプレで出てきたバンドがあったのだが、演奏中にベースの人が上着を脱ぐと「幸福の科学」Tシャツが……!という小ネタがあったのだった。
勿論ライブハウスは笑いに包まれたのであるが、「ああ、こうして笑いに昇華せなあかんほど、ファンの間では未だもってトラウマなのだ!」と私は思ったのだった。ファンの間で語られるブルーハーツの解散理由のひとつは、ベースの「河ちゃん」の宗教問題だとされている。

 

私は14歳の頃、ブルーハーツが好きになり、それから一年くらい彼らのCDばかり聴いていた。
それまで、「リンダリンダ」などが流行っていることは知っていたけれど、クラスのイケてる子たちが聴くような音楽なんだと思っていた。でも、ギターのマーシーのソロ『RAW LIFE』を聴いて詩情とユーモアとアイロニーに衝撃を受け、バンドのほうも聴き始めたのだった。
『STICK OUT』『DUG OUT』はぎりぎりリアルタイムで聴くことができた。テスト期間で午前中に下校できた7月10日、レコード屋に寄って買って帰った『DUG OUT』、「ヴァージニア・ウルフの瑪瑙ボタン♪」で始まるそのアルバム聴いたときの幸福感は、今でも覚えている。
でも、『DUG OUT』を聴いたとき、子供心にも「このバンドは解散するんじゃないかな」とも思ったのも覚えている。こんな傑作を作ってしまって、この次に何をするのかまったくイメージできなかったのだった。でも、彼らのことだから、また何か新しいことをするんだろう、とも思った。


それから2年のブランクを経て、解散アルバム『PAN』が出たのは1995年のことだった。
1995年の春のことはよく覚えている。地下鉄でサリンが撒布され、オウム真理教強制捜査が入った。その日からマスメディアは、オウム一色になったのであった。
ご多分に漏れずオウム情報の中毒になった私は(ちなみにこのオウム体験はのちの自分史に影響を及ぼし続けるのだがそれは今は措いておく)、日々オウム情報を求めて本屋に通っていたのだが、ちょうどその頃、ふらりと入った本屋で、ブルーハーツのインタビューが載った音楽雑誌を見つけた。その頃はもう、以前ほど、彼らの音楽ばかり聴くという状態ではなかった(し何よりもオウムのことで頭がいっぱいだったのだが)、「復活!ブルーハーツ」の文字に、あ、解散するのかと思ってたけどまた何か始めるんだー、と頁を繰った私が目にしたのは、思いもよらない発言だった。

 

「僕凄い信じてるものがあって。まあそれは大川隆法幸福の科学っていう宗教団体なんですけれども」
ロッキングオンJAPAN、1995年6月号)

 


!??
ベースの河ちゃんのインタビューであった。この発言に対してインタビュアーからの直接的なつっこみは何もなく、そのまま話が流れてインタビューは閉じられていたので、それが、冗談なのか本当なのか分からないままであった。
幸福の科学って、「科学」って言ってるけどなんか宗教団体だよねえ? あの『太陽の法』のやつだよねえ? くらいの認識はあり、またオウム報道を通じて、大川という人が麻原と前世合戦を繰り広げたとかそういうことを耳にしてはいた。まさかあのバンドのメンバーが、そんな胡散臭そうなものを信じるとは思えない。なんといっても「神様に賄賂を贈り天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか?」と歌った人たちである。が、冗談を言っているふうでもないし、だいたいそんな冗談を言う理由もない。(後で知ったところによると、既にファンの間では彼の信仰は有名だったらしいが、私はライブにも行ったことがなかったしファンの友達も身近にいなかったので知らなかった。)


その半月ほど後だったであろうか、文通(!)をしていたファンの子から、「ブルーハーツが解散するんだって」とわざわざ電話があった。私は、どっぷり聴いていた2年前は、「このバンドが解散したら自分はどうなってしまうのであろう……」とまで思っていたのに、さほど驚かず、「そうかあ」と思った。
雑誌の翌月号は、ブルーハーツ解散号であった。巻頭インタビューで河ちゃんは、「解散にあたってメッセージ」を問われ、こう答えていた。

インタビュアー 「で、ファンの人にメッセージをくれって言ったらヒロトマーシーもドライなんだ。あったかいのをお願いします。」
河口 「……まだ先のことは全然決まっていない。でもどうするか考えないとね、無職ですから(笑)。ただ一番みんなに伝えたいことっていうのは、やっぱりいまお釈迦様がこの地上に降りられてると、仏陀が下昇(※ママ)されてってことかなぁ(笑)。それも、この日本で。だからそれが大川隆法大先生であり、ほんと先生に出逢えて……感無量です! 感謝してます、ありがとうございます、としか言えないですね(笑)」
ロッキングオンJAPAN、1995年7月号)



そこでインタビューは終わっていた。
「本気やったんや……」と私は思った。

 

新しいアルバム『PAN』をとりあえず発売日に購入はしたものの、いつもの、新しいCDを再生するときのわくわく感はまるでない、変な感じだった。
歌詞カードを開いてみると、メンバー全員で写っている写真は一枚もない。メンバーそれぞれの写真は、それまでとファッションや写り方も微妙に違うようで、なんだか知らないバンドのようだ。河ちゃんページには、おそらく宗教的な主張を表わすなんだか不気味な写真もあった(当時は分からなかったが、今見ると、マルクス主義ダーウィン主義への批判が象徴的に表現された図像である)。
それまで慣れ親しんで聴いてきたバンドが急に別ものになったようなよそよそしさを覚えた。
オウム事件の中での離人感とあいまって、あの変な感じは未だに曰く言い難い。


『PAN』は、名義は「ブルーハーツ」だけれども、四人で演奏している曲は一曲もない。
四人がそれぞれ個別に作詞作曲し、バンド外のメンバーと演奏し、それぞれがヴォーカルをとった曲を寄せ集めたアルバムである。(ジャケットはビートルズホワイトアルバムを模してある。)
インタビューによると、もう四人で演奏する気にはなれないもののレコード会社との契約が残っていたために、こういう形で作らざるをえなかったようだ。


一曲目はいきなりドラムの梶くんの「ドラマーズ・セッション」で始まる。その名の通り、ドラマーたち(当時の有名ドラマーが集められている)のセッションである。これについてのおもしろ発言として、やはりブルーハーツファンであった友人は、「今やったら面白さが分かるけど、俺、当時は音楽っていうのはメロディがあって歌があるものやと思ってたから、『いつ歌が始まるんやろ?』て思いながら7分聴き続けてた」と語っていて笑った。たしかに私もそうやった! 二曲目はヒロトの曲「ヒューストン・ブルース」。これは、当時ヒロトが別バンドで演奏していた曲で、今聴くと凄くかっこいいのだが、当時、ブルーハーツヒロト曲には無かったパターンの曲であった。マイナー調でブルースぽく、やばい感じ。ハイロウズを経た後では、「ああこういうのがこの人は好きなんだな、ブルーハーツで見せてたポップ性は彼の一面に過ぎないんだな、こういうのがやりたかったんだな」と分かるのだが、それまでのブルーハーツのイメージと違い過ぎて、これもなんだか分からなかった。とにかく「なんか暗いし怒ってる!」という印象だけであった。
そして、河ちゃん以外の三人の曲が三曲ずつ織り交ぜられながらアルバムは進み、最後に河ちゃんの曲だけ四曲まとめて収録されている。当時の私はもう、それらの楽曲群に対して、脳の処理が追いつかなかった。
こんなめちゃくちゃなアルバムを、当時多くの中高生ファンたちが買って聴いたのかと、今思えばシュールすぎる。おそらく多くの人が、私や友人のように、なんかわけのわからんままそっとCDを抜き取り、しまい込み、ときどき「歩く花」(※アルバム中で唯一ブルーハーツぽい曲)だけを聴くために取り出すのみになったであろう。こうして『PAN』は、みんなのトラウマとなった。


で、今年、そのトラウマ語り会をしたことをきっかけに、『PAN』を改めて聴いてみた。
結果、当初聴いたときよりも更に、めちゃくちゃなアルバムであることが分かった。
こんなアルバムは世間にそうはあるまい!!


まず、ヒロト曲は、今聴くとめっちゃかっこいい。「ヒューストン・ブルース」は当時は分からんかったけど、アルバム中一番かっこいい。だが、何故、「ヒューストン・ブルース」(やばくてかっこいい)「ボインキラー」(やばくてかっこいいんだけどふざけてるようにしか聞こえない)「歩く花」(急にほのぼのとして往年のブルーハーツ風)の三曲をセレクトしたのか、意味が分からない。どういう方向性を目指しているのか、見えない!
梶くんの曲は、微笑ましいしドラムのアレンジなどはそれまでのブルーハーツになくて面白いと思う。でも、普通なら世に出ない習作みたいな感じだ。
マーシー曲は、この人だけがいつもの安定感であった。それまでもソロアルバムを出していたからか、切なさを湛えた独自の世界観で完結していて、ブルーハーツぽくはないけど普通にいい。今回、指摘されて初めて、「もどっておくれよ」(終わった恋への後悔の歌)→「バイバイBaby」(「思い出だけがきらめくようじゃ白けた人になりそうだ」)→「休日」(「いつの日かこの街を出ていく僕等だから」)と、解散を受け容れるような曲順に配列されていることに気づいた。別に意図してないのかもしれないけど。ストリングスのアレンジも、今聴くととてもきれいでぐっとくる。ただし、このアレンジに金をかけて赤字を出したため、低予算で仕上げた河ちゃん(※幸福の科学の人の助けを借りたから)のわがまま(自分の曲だけ最後にまとめて入れたいという希望)を受け容れる羽目になったという説があり(wikipediaによる説なので真相は不明だが)、友人曰く「『戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない』って歌ったバンドの最後が!金に勝てへんかったとは!」。


そして、最後にまとめられたその河ちゃん曲。
当時は脳がシャットアウトしてしまっていたのか、「そうは言ってもさすがに、ブルーハーツ名義で出す音楽にそんなこと(彼の信じる教団の教義云々)は反映させないであろう」という思いもあったのだが、今聴くと、あまりにもあんまりである!!


宗教音楽風のイントロ(なんでこう荘厳な感じになるのであろう)で始まる「幸福の生産者」では、

Right Right Right
Right Mind


世界中の心に 今も輝いてる
誰もが皆憧れてる 幸福の生産者


奪い合うものには後に 悲しみが待ち受けている
取り戻そう叡智を この世に神の夢
遥か彼方に超える夢 (念いに)涙は溢れてきた

 

とか歌っている。
まず「叡智」という言葉がブルーハーツの歌詞に出てきたことに驚きを覚えつつ、当時は「いや、音楽を創り出してファンを幸せにしてきた自分たちのことを歌っているのかも!」と解釈しようとがんばっていたものだが、いやいや、「幸福の生産者」って明らかに隆法やん。「誰もが皆憧れて」ねえよ!!
「Good Friend(愛の味方)」はなんかねばねばしたヴォーカルがちょっとむかつくものの、ギターソロはかっこいいし、アップテンポでいわゆるブルーハーツのパブリックイメージっぽい曲。だが、

最悪の事態にならなけりゃ 君は目もくれない
死んだらそれで 何も無いさと わかったふりをする
わかったふりして 暮らしても ふりに振り回わされ
廻るはずの大切なことを 止めてしまうよね


(おそらく他のメンバーに対する)説教!!
(ちなみにずっと、「廻るはずの大切なこと」て何だろうと思っていたが、今回「輪廻」のことか!とやっと気づいた。)


で、これに対して「ヒューストン・ブルース」は、

天国なんかに行きたかねえ
神様なんかに会いたかねえ


である。ロック的常套フレーズとはいえ、当時の別バンドでのライブverを聴いているとこの部分は本当に怒った声で叫ぶように歌われており、ぞわぞわする。
さらに、「Good Friend」が、

信じてゆく心 この世 あの世 つらぬいて


と歌えば(これも今回知ったが「この世とあの世を貫く幸福」は幸福の科学のキャッチフレーズである。ロックにハマりたての少年が覚えたばかりのかっこいいフレーズを自作の曲に引用するように、彼はハマった宗教の言葉を散りばめずにいられなかったのだろう)、「ヒューストン・ブルース」は、

生れ変わったら ノミがいい
生れ変われるなら ノミにしてくれ


である。
一枚のアルバムの中でメンバー同士で大喧嘩!! ラモーンズKKK超えや。こんなアルバムは滅多にないのでないだろうか。


勿論両者とも「これは○○のことを歌った」などとは明言していないし、たとえばインタビューしてみたならきっと、「音楽と実際の私生活は関係ない」と言うだろう。当人たちのキャラも、思想の是非をめぐって喧嘩しそうなキャラではない(知らんけど)。解散も、当人たちによって「宗教が原因」と語られているわけではなく、単に「このバンドでこれ以上のことができるとは思えないから」というように語られており、それは別に綺麗事でなく、本当に当人たちの感覚としてはそういうことなのだろうと思う。
よってつまらん勘繰りではあるのだが、人情としては勘繰らずにはいられないし、今聴くといっそう、もう殴り合いにしか聞こえない。こんなものが、「リンダリンダ」や「トレイントレイン」といった、ポップなヒット・ナンバーを産んだ「ブルーハーツ」の名義で出されていたのだと思うと、今となってはシュール過ぎて、面白くてならない! 前衛的すぎるよ……


さらに喧嘩は場外乱闘に至り、音楽雑誌に寄せた新アルバムについてのコメントの中で河ちゃんが

「ヒューストン・ブルース」は、神や輪廻を信じないというヒロトの無知な部分によって作られた曲であり、ファンの皆さんに申し訳ない。


といったようなコメントを寄せているのを本屋で立ち読んだ私は、いったい何が起こっているのか理解できず、事態についていけないまま、雑誌を棚に戻しふわふわと本屋を去ったのであった。


「さよならする、ダサい奴らと」と歌ってザ・ハイロウズがデビューするのは、麻原も逮捕されてずいぶん経った、その年の秋のことであった。