救急車が来る!

わが町内の民は、救急車が大好きだ。あるとき家に帰ると、近所の人たちが皆戸外に出てなんとなくワクワクとした感を醸していた。何か、と思ったら救急車が来ていたのだった。わが家の者も例外ではなく、救急車の音にはやたら敏感で、室内でのんびりしていても救急車の音がきこえると条件反射のように身体が動き、様子を見に行く。火事も大好きである。実家時代、学校か仕事に行こうとして、あれ、チャリがないな、と思うと、父か祖父が火事を見に行っているのであった。自転車を使うくらいの距離だから、自宅への延焼を心配して様子を見に行くとかではなく、ただ純粋に火事を見に行っているのである。もし燃えたのが自分ちだったら当然イヤだ。知った家で火事があったら同情するし悲しむし手助けもする。まったくの他人の不幸だと楽しい、かといえばそういうわけでもなく、見に行った先で燃えてる家を見ればやはり気の毒に思うしまして死人や怪我人が出れば心を痛める。しかし、それはそれとして、とにかく火事を見に行くのが好きなのである。

 

 

町内に救急車が来るときの標準的なパターンを、あるケースを例として書いてみる。

救急車が表の通りに入ってきた音が聞こえ、我が家のすぐ近くでストップした。我が家は夕食時であったが、父と祖父(祖父はもういないがこの二人が我が家の救急車大好き二大巨頭であった)がまず「お、近くや」「なんやなんや」と席を立った。少し遅れて母や私も覗きにいった(女性陣は比較的救急車に消極的であった。家事等で忙しかった事情もあるかもしれない。しかし結局は見に行くのだった)。

表の戸を開けると、同町内のおじさんが、ペッカー とした輝くばかりの笑顔で走っていた。こんな良い笑顔がこの世にあるのか。何かをやり遂げた後のスポーツ選手のような最上の笑顔。このおじさんは救急車番長で、救急車がやってくるといつも一番に飛び出してくる。どんなに早く外に出ても、必ずこのおじさんが先に飛び出しているのだった。

救急車は我が家のすぐそばで停まっていた。どうも、町内の奥の家らしい。我らに続いて町内の各戸からワラワラと人が出てきたので、誰が情報源ともなく、「奥のおうちの人が倒れてはったんやて」というのが伝言ゲームのように伝わってくるのだった。わが町内は現代の都市においてはつながりが緊密なほうではあるが、全員が顔見知りというわけではなく、付き合いのない人も多い。奥の家の人は、会えば挨拶くらいはするがほとんど知らない人であった。しかし、「誰々が見つけはったらしいで」「ご家族は?」「~で働いてはるらしい」「~で働いてはるんか」「もうおいくつくらいやろ」「子供さんが~歳やから~歳くらいちゃうか」などなど、急速に当該人物についての情報が交換されるのだった。

救急車番長のおじさんとうちの父がいつの間にかいない。気がつくと彼らは、交差点のところで交通整理をしていた。救急車が細い道で停まったため、他の車が道を通れない。よって他の車に迂回するよう自主的に案内をしているのだった。

町内の名物夫婦がフラフラと帰ってきた。彼らはよく二人で飲みに行っている。ときどき酔っ払いすぎて奥さんが電柱にぶつかったり路端で落ちてたりする。家に入るより先に「おお~、どないしたんや」と野次馬たちのところへ寄ってきた。「奥の家の●●はんが」と野次馬が説明する。酔っぱらってエエ気分の彼らには、救急車の赤いランプもネオンのように見えていただろう。今は気楽な野次馬側である我らだが、この夫婦の家に救急車が来たこともあるし我が家の者が倒れて救急車を呼んだこともある。そのときはこうして集まられる側であった。これがイヤで我が家は救急車に「サイレンを消してきてくれ」と頼んだのであったが、町内民たちはどうしてか察知してぞろぞろ出てきたのであった。

 

野次馬の中から、担架が運び出されてきた。担架が救急車に乗せられた。酔っぱらっていた奥さんが急にシッカリした眼になり、「あれはもうあかんわ、足の形がこう開いてたもん」と言った。奥さんは医療関係者なのだった。

 

救急車が去ると、救急車後社交が始まった。いったん戸外に出てきた一同はなかなか家に入りがたいようだ。考えてみれば、こんなに町内の者がこぞって戸外に出て顔を合わせるのは、祭りのときくらいなのである。なんとなしに目の合った者同士、〇〇はんもうリタイアしはったんやっけ? 今は悠々自適か? ええなあ、 いやもう毎日家にいてあかんわ、△△さんは今どっか勤めてはるん? へえ、お兄ちゃん大学上がらはったんや、ええとこやん、へえそう、うちんとこなあ、なかなか結婚せえへんねん、まあ今の若い人は昔と違うて遅いから、そうそう、好きにしはったらええわ、とかなんとかご近所情報が更新・交換される。交差点では、救急車番長のおじさんが停止していた車たちに礼を言い、通行止めを解除しているのだった。