逆転サヨナラ満塁五条別れ

この年齢になっても初めてのことはあるもので、初めて野球の試合を最後まで見た。これまで野球のルールを何度か人に教えてもらったが一向に覚えられない。小学生の頃にクラスでキックベースをさせられたことがあるが、まるでルールが分からずとにかく人から「走って」とか「止まって」とか指示されるままに動いていただけだった。漫画や小説、歌の歌詞やものの喩えに野球が出てくるときは、その都度調べるかあるいはなんとなく雰囲気で流していた。しかしそろそろ野球をちゃんと理解したい。一試合見ながら確認したら覚えられるのではないかと思った。それまで断片的に聴いたことのある、ファウルとかヒットとか三振とかが一応なんだか分かった。ビギナーなので細かいルールは分からないし、皆こんな複雑なものを理解して楽しんでるんだなと感心するばかりで、何が起こっているのかを自力で判断するまでは行けなかったが、家人に解説されながら見るとなるほどこれはこういう理由でこういう状態になっているのだなと一応理解することができた。話題の人であるがよく知らなかった選手のことも分かったし、観ているとなんとなく好きな感じの選手もできてきた。そして私が初めて最後まで見たその試合は、かなり良い試合であったらしい。もう駄目かと思われたJAPANは最後の最後で巻き返し、MEXICOに逆転勝ちをした。例によって私は自力ではJAPANの勝ちを判断できなかったのだが、走った選手がホームベースに帰ってくる(という言い方で合っている?)とベンチにいた選手たちがわらわらと現れ喜び合い始め、TVの中の人たちと家人が「うおおお」というような声を上げたため、これでJAPANの勝ちが決まったのか、と分かったのだった。9回の裏では相手方は抑えるのみだからもうどうしようもないのだそうだ。逆転サヨナラ勝ちだ! あ、これがサヨナラ勝ちか。

サヨナラ勝ちは勝たれたほう(「勝たれた」というのは迷惑受身か)すなわち負けたほうにしてみればサヨナラ負けであり、サヨナラ勝ち・サヨナラ負けという言葉は知っていたので、今回の試合で実際それを目にしてこれがそうかと思ったのだった。サヨナラ勝ちをした者たちは喜びに包まれ、何らかの液体をかけ合っていた。そうか、これがサヨナラか。私の思っていたサヨナラと少し違った。午前中は冷房を入れてはいけないというルールがなんとなくあって、冷房を入れるのは午後からだ。思えば子供時代の日本の夏は今に比べればずいぶん涼しかったのだ。やっと障子を締め切って冷房が効き始めた奥の部屋で、白い開襟シャツを痩せた胸に張り付かせながら、「うひゃあ、サヨナラ負けやあ」と野球中継を聴いていた祖父がいう。サヨナラ、と祖父が言った瞬間、ラジオの音が、古いエアコンの音が、外の通りの声が、ふわっと消えて窓の外の夏の空に吸い込まれていく。もう後がない。もう後がない。私たちはいつか永久に別れるときが来る。ラジオが消えて、走り回っていた選手たちの姿が消えて、祖父の姿が消えて、球場の上の空には白い雲だけが浮かんでいる。もう何もない。

「五条別れ」という地名もまた、「サヨナラ勝ち/負け」と似たイメージを喚起した。父の運転する車に乗りどこかへ行く。「こっち行ったら五条別れやな」「五条別れのほうから行こか」と両親が言う。そのたびに、キュッと胸の奥を掴まれるような感じがして、遠い道の向こうから、絣の着物に身を包んだ二人の女がやってきて、ひとりは年かさでひとりはまだ幼い。母娘なのか友人同士か姉妹なのかまたは恋人なのか分からないが、二人の運命はここで分かたれて、ずっと一緒に居たいはずなのに、ここで二人はそれぞれの途に分かれてゆかなくてはならない。年かさのほうの女が険しい途を歩き出し、幼い女を振り返る。雪が降っている。雪の中で幼い女は不安げに唇を開き、歩いてゆく年かさの女の背を見ている。もしかしたら戻ってきてくれる、と願っているのだろうしかし、歩き出した彼女は戻ることはないし、振り出した雪はようよう激しくなって二人の間を真っ白に染め互いの姿ももう見えない。ここで別れた二人は、二度と生涯会うことはない。かわいそうなゾケサたちのように。悲しい。悲しい。
「五条別れってなんなん?」

「場所の名前や」

「なんで別れっていうの」

「追分とおんなじや。片方の道は三条で、片方の道は五条に行くねん」

「それがなんで別れなん」

「だから、そういう名前やねん」

 どうも親の言っていることはよく分からない。しかし、この人たちともいつか別れなくてはいけないことは分かる。車はそこへ近づいている。いやだ、五条別れに行きたくない。二つの道を隔てる朽ちた標か有刺鉄線だけがあり、きっと荒涼とした、幾人もの涙を吸ってきた地。

「五条別れてどこなん」

「もうさっき通りすぎたで」

 普通の道路だった。