食パンと食パンにまつわる諸々の思い出

子供の頃、家での朝食はもっぱら洋食であった。具体的には、食パンであった。母が、朝が苦手であったため、和食より比較的手間のかからないものということで、そういう習慣になったのだと思う。

たいていは、トーストした食パンに何かを塗るかのせるかして食べる。それに+αでフルーツやヨーグルトやヤクルトをつけてもらったこともあったと思う。

 

私は当初、「食パンの耳」という概念が理解できず、「食パンの骨」と呼んでいた。「骨」と呼ぶと「あれは骨じゃなくて耳」と訂正されたが、魚の食べられないところは「魚の骨」なのに、なぜパンの食べられないところがパンの骨ではないのか理解できなかった。「骨」の概念を理解したのがいつ頃かは覚えていない。

 

そう、これもいつ頃までか覚えていないが、私はパンの骨が堅くて食べられなかった。骨を取り外してもらって真ん中のふわふわの白いところだけを食べ、骨は細かくちぎってビニール袋に詰め、近所の神社のハトにやりに行っていた。この神社にはハトがたくさんいたのだが、その神社が近くにあるというだけの理由で(しかもそこまで近いわけでもない)、遠方に住むいとこたちは、我が家のことを「ポッポのおじちゃんの家」と呼んでいた。「ポッポのおじちゃん」とは家長である祖父を指していた。30歳くらいになった頃、やはり30歳くらいになったいとこから用事があり電話がかかってきたのであるが、「ポッポのおじちゃんいる?」と言われ、「まだその名で呼んでんのか!!」と驚愕したことがある。

 

出されるので毎日食パンを食べていたが、食パンがそんなに好きなわけではなかった。だが、食パンを焼いて、その焼き色に母があれこれ言うのは楽しかった。

うっすら色づいた食パンは「きつね」と呼んでいた。「もっと焼いてほしい」と言うと、「ほなタヌキくらいにしよか」と言われ、焦茶色になるまで焼いてくれる。さらに焼いたものは「クマ」と呼ばれており、クマは少し焼きすぎであるとされていたので、母が席を外すときは「クマにならんようにトースター見といてや」と言われるのだった。さらに焼いたものは「スミ」、そして「ガン」と呼ばれていた。焦げは癌のもとになるとされていたからである。

 

食パンには、バターを塗るのがスタンダードだったが、だいぶ後になって知ったことだが、我が家で「バター」と呼ばれていたものは実際にはマーガリンであった。マーガリンのほうがバターより身体にいいという当時の言説(最近覆されつつある)と価格の安さによる選択だったのであろうが、マーガリンをバターと呼んでいたせいで、私はかなり大人になるまで、両者の違いを知らなかった。「バター」の分類のひとつが「マーガリン」くらいに思っていた。

冬は、マーガリンが固まってなかなか容器から掬い取れず、塗ろうとしても塗りづらいのでイヤだった。暖かくなるとマーガリンが塗りやすくなるので嬉しかった。

「マーガリンを塗ったパン」ばかり毎朝食べるのは単調で、それに何をのせるかだけが私の愉しみであった。だいたい、ジャム(ストロベリーやブルーベリー)、チーズ、ハム、海苔、のローテーションでたまにどれかが長期間流行るのだった。海苔をパンにつけるのは一般的だと思っていたけれど、あるとき小学校の友達に言うと驚かれたので、一般的ではないことを知った。母の実家に泊まりにいくと、ピーナッツバターや、チョコクリームとホワイトクリームがマーブル状に混じったようないかにも美味そうなクリームがあり、そういうものは大好きだったのだが、我が家では「朝からそんな甘いもん」と言われあまり買ってもらえなかったので、母実家での朝食の際にはここぞとばかりに塗りたくり、瓶から直接食べてもいた。

 

平日は学校に行く前の慌ただしい時間に、そうして簡単な食事をするだけであったが、休日は時間があるので、パンの上に少し特別なものをのせることもあった。たとえば、7歳くらいの頃に爆発的に流行った(※我が家でのみ)のは「ムース」である。これはその当時うちの店で売り出したもので、いろんなフルーツの味のものがあった。本来どうやって食べるためのものなのかは知らないが、われわれはそれを食パンにのせていた。平日は時間がないので、「日曜になったらパンの上に、まずマーガリンを塗って、その上にジャムを塗って、その上にチーズをのせて、その上に〇〇味のムースをのせて、その上に××味のムースをのせて……」など、「全部のせ」的な食パンを夢想し、その想像図を描いたりして、日曜を楽しみにしていた。想像図を親に見せると、「こんなん気色悪いわ、美味しないわ」と言われたが、そうしてあれこれ夢想するのが愉しかったのであろう。

 

食パンと一緒に飲んでいたのは、牛乳だったと思う。

我が家は牛乳の消費量が異様に多く、今でも冷蔵庫に大量の牛乳が入っている。実家にいる頃は、牛乳というのは生命の必需品なのだと思っていたが、実家を出てから、一年に一、二本しか牛乳を買わないし、買わなくても何ら困ることはないし、むしろその一、二本をなかなか消費できなかったりするので、なんぼ家族成員数が多いといえあの人たちは何にあんなに牛乳を使っていたのかと思う。

子どもたちはパンと一緒に牛乳を飲まされていたが、大人は珈琲を飲んでいた。子どもは珈琲禁止だったので、私はよく、母が珈琲を飲むのを横で見ていた。

母は珈琲に微量のミルクを入れた後、それをかき混ぜない。私が「かき混ぜたげる」と言うと、かき混ぜさせてくれることもあったが、「ええねん、かき混ぜんといて」と言われることが多かった。「なんで?」と尋ねると、「お母さんは、このままにして、だんだん混ざっていくんを見ながら飲むんが好きやねん」と言われた。

当時母は、あまり自由に出かけたり、喫茶店やレストランにいったりもできなかっただろうが、そうしたささやかなことで心を束の間ゆったりさせていたのかなと思う。私も現在、珈琲にミルクを入れるときは、基本的にかき混ぜず、白い靄が模様を描いて少しずつ広がっていく様子を眺めることとしている。