蹴上浄水場の思い出

この季節になると、京都・蹴上浄水場はつつじが満開になり、同時に一般公開が行われる。
今年は、その姿は見ていないけれど、初夏の新緑の中、小高い斜面に並んだこんもりと丸い樹々に、紫、白、ピンク、赤が咲き乱れる様子は大変美しい。
蹴上浄水場の近くには、東山ドライブウェイの入口がある。子供の頃、しばしば父の車に乗せられてドライブウェイを走ったのであったが、当時はなぜか、そのこんもりのひとつひとつを人のお墓だと思っていた。

 

蹴上浄水場にはいくつか、良い思い出がある。
ひとつは、小学校四年生のとき、社会科見学に行った思い出である。
なぜか日にちまで覚えていて、4月30日だった。
別に普通の社会科見学であり、私は学校行事にはしんどい思い出のほうが多いのだが、この日はなんだかとても楽しかった。つつじの咲く中に座り、班ごとにお弁当を食べた。班は男女二人ずつ、四人の斑で、女の子は当時一番仲の良かった友達、男の子二人も意地悪じゃない優しい二人で、いい人たちに囲まれ、天気も良く、「幸せだな! ずっとこの日が続けばいいな!」と思った。


大きな貯水槽を見せてもらい、「ここの水が皆さんのおうちの水道へ行きます、だからここには絶対に物を落としたりしないように」と職員さんに言われた瞬間、H君という男子が鉛筆を落としてしまい、大騒ぎになった。
考えてみればそんな絶対に物を落としてはならないようなところを無防備に子供に公開しないであろうから、たいした問題ではなかったのだろうが、しばらくの間われわれは「何日かは水道の水飲んだらあかんで」「水道からH君の鉛筆が出てくるぞ」と言い合った。

 


もうひとつは、大人になってからの、母との思い出である。
母方の祖父が亡くなった後、母は体調を崩した。
体調はなかなか良くならず、母は重病を疑い始め、大病院で検査を受けに行くことになった。今思えば、これは、敬愛する祖父への母の同一化の心理によるものであったのだろう。愛する者を失うことは、それだけ、エネルギーを使い現世的リビドーを奪われるものであるのだと思う。
私も当初、たいしたことないだろうと思っていたが、母があまりに言うので、ほんまに母は重病なのでないかと心配し始め、覚悟をしながら検査が終わるのを待っていた。元来私は心配性なのである。
検査が終わり、父の車で母を迎えにいった。しばらく車は通りを走ったが、母は何も言わなかった。
昔よく通った、東山ドライブウェイを通ろうと父が言い出し、蹴上浄水場の前に差し掛かったときやっと父が「そんで、どやったんや」と訊いた。母は、「うん、どうもなかったわ」と答えた。「どうもなかったんか」と父が言った。


われわれは、近くの店で買ったコロッケを、齧りながら浄水場の横を走った。
五月も終わり頃で、もうつつじは咲いていなかったが、このとき窓から見えた青空の下の蹴上浄水場の緑は、つつじの満開時にも増して、はればれと輝くようだった。

 

その数年後、母と浄水場の一般公開に行った。
つつじの間を抜けて斜面のてっぺんまで登り、てっぺんからつつじ越しに町を見下ろし、母は、「子供の頃に遊んだ町や、懐かしわあ、懐かしわあ」と何度も言った。