おつまみの思い出

その店はもうないけれど、私の実家はかつて酒屋を営んでいた。
古く小汚い小売店であり、家族全員たいして店に愛着はもっておらず、私も積極的に店を手伝うこともなかったが、夜にシャッターを閉めた後のしんとした店の雰囲気は好きで、今でも思い出すことがある。
誰もいない店の中、棚と棚の間や、狭いレジカウンターの中に身を隠すようにして蹲ると、冷えて湿った匂いがする。時折、シャッターの向こう側でカランと音がして、自販機から誰かが何かを買っていく。
閉店後の暗い店でひとりその音を聴くのは酒屋の子どもの特権のような気がして、嫌いでなかった。中学のとき、「短歌を作る」という国語の宿題でも、その様子を詠んだ記憶がある(どんなのだったか忘れたが、冬の夜シャッター越しに自販機の音云々、みたいな感じ)。


酒屋の子どもの実質的な特権としては、店の商品を飲んだり食ったりできる、ということがあった。
勿論仕入れ値は家が払っているわけであるし、好き勝手に持っていけるわけではないが、一日に缶飲料一本くらいなら、「これもらっていい?」と許可を得てもらうことができた。
といっても、興味ある商品はそんなになかった。子どもなので酒は飲めないし(というか我が家は全員酒が飲めなかった・それゆえに酒屋という家業になんの愛着もなかったのだった)、ジュースも限られたラインナップでさほど変わったものは置いていない。よく「本屋の子だったら読みたい本がたくさんあるしいいなあ」と思っていた(私は本好きな子だった)。そんな中、おつまみ棚には、時折光る商品が現れた。

 

私は当初、おつまみ棚にあまり興味はなかった。おつまみであるから、スルメだのイカだの子どもには興味のない渋い食べ物ばかりで、私の心を捉えるような商品はなかった。ところがあるとき、「チータラ」というものが我がハートを射抜いたのだった。チータラとは(説明するまでもないが)魚のすり身的なもので少量のチーズをサンドしたつまみであり、チーズ好きな私はもともと少し気になってはいた。
チータラに目覚めたのは、小学生の頃、曾祖母の通夜のときであった。90代で大往生した曾祖母の死は、私にとって初めての身内の死であったが、通夜では親戚たちが飲み食いしながら楽しそうに笑い続けているので、「えっ、お通夜ってこんなんなの!? もっと悲しそうにするものではないの? 笑ったりしてええもんなんや!」と大変驚いたのを覚えている。当時は葬祭場もまだ少なく、通夜も葬儀も自宅で行った。食べ物がなくなると、店のおつまみ棚から適当なつまみの袋をもってきて、それを菓子皿に盛って出した。
愉快そうにビールを飲み続けていた親戚のおっちゃんが、赤い顔で私を呼び、「なんか食べるか? 好きなん食べ」と自分の前にあったつまみの盛り合わせを勧めた。私はスルメやらなんやらの中に、以前から少し気になっていたチータラが存在するのを認め、この機会にとそれを食べた。そして思った。
「うまーーー! こんな美味しいもんやったんや!」
曾祖母の葬式以降、私は頻繁におつまみ棚のチータラをねだることになり、しばしば「チータラはもう在庫のうなるからあかん! スルメやったらええで」と断られることになった。

 

しかし我がおつまみ棚歴における最大の衝撃は、「アメリカからやってきた髭」であろう。
それは中学生のときだった。90年代初頭である。仲のいい友人宅に泊まりに行くことになり、父が「これ皆で食べよし」と、おつまみ棚から袋をいくつかとって渡してくれたのだが、平凡なラインナップに加え、
「これも持っていくか? なんやアメリカのポテトチップスで、日本ではまだあんまり売られてへんらしい。俺もまだ食うてへんし、美味いか知らんけどな」
と、珍しいスナック菓子を出してきた。新たに売ることになった商品だという。
パッケージの種類は三色あり、どれも派手で、筒状の容器には髭を生やした王様的なキャラクタが描かれていた。たしかに見たことのない菓子だった。
「なんや、プリングルスていうらしいわ」
私は三色のうち、チーズ味だという黄色を選んでもっていくこととした。

 

友人宅でそれを披露すると、友人たちも見たことがないと珍しがった。早速パッケージを開け、われわれは衝撃を受けた。
一枚のポテトチップス上に、チーズのパウダーがこってりと、数ミリの層を成して積もっているのだった。それまで食ったことのない種類のスナック菓子であった。パウダーの色は不自然なオレンジ色で、いかにも大陸からやってきた菓子という感じである。我が家はどちらかというと、味の濃いものや不自然な食べ物を禁ずる傾向があったので、そのきつい色とごてごてぶりは、開けてはいけない箱を開けてしまった的な罪の香を感じさせた。
口に入れると、口内から、癖の強いチーズと油の臭気が感ぜられた。チータラのチーズとは質的に異なるチーズであった。黒船来航である。「(これが、アメリカの味なんだ……さすが戦勝国、自由の国、アメリカ……)」。敗戦国の中学生は、だいたいそんなような感慨を覚えた。初めて中学の友人の家に泊まり夜更かしするというシチュエーションも、背徳感を増していたのであろう。
さらにその菓子は、食べているときは「こんな味が濃くて身体に悪そうなもの、もういいや」という気分になるのだが、食べ終わるとまたすぐに食べたくなるという中毒性もあった。体型も気になり始めるお年頃であり、こんなもんは明らかにダイエットの大敵も大敵なのであるが、もう食うまいと思ってもしばらく離れていると口と身体が彼を欲してしまう。私は日々「あのアメリカのやつまたもらっていい?」とねだるようになった。当時、他のつまみが100円程度であったのに対し、プリングルスは300円ほどで割高であったので、申し訳なさがあったが、しょうがなかった。しまいには、親に断りなく店からプリングルスを持ち出し、あのパウダー層を搭載したチップスを憑りつかれたように口に運び、一人で隠れて食べつくしては後悔するようになった。こうなると本格的に罪の味であった。

 

その後、プリングルスはコンビニやスーパーでも普通に見かけるようになった。しかし今では日本向けに改良されているのか、ずいぶんパウダーが減量され、もうあの分厚く身体に悪く罪の味のする数ミリの層を載せていない。

 

 

 

ハンサムの思い出

「イケメン」という語の台頭によってすっかり「ハンサム」が駆逐されてしまった。
「イケメン」が現れた頃はこんなに長持ちする言葉になるとは思わなかったが、2018年現在も「イケメン」は現役であり、その勢いは衰えることがない。
「イケメン」登場以前は、何か違うと思いつつ「ハンサム」を用いている人も多かったのではないか。たしかに、「イケメン」は「ハンサム」より広い範囲を示しうる語である。「ハンサム」と形容しうる日本人男性はそう多くないと思われるが、「イケメン」にはより広いイケメンが含まれるので、カジュアルな誉め言葉として用いることができる。


そんな死語となった「ハンサム」についての思い出がある。
小学校4年生頃、母のもっていた昔の少女漫画にハマったのだが、わけても惹かれたのはそのセリフ回しだった。6、70年代の少女漫画は、少しレトロでかつ心憎い言い回しが多く、新鮮であった。気に入ったものは、台詞を暗記するほど読んだ。
その中で印象的だった場面のひとつは――『ポーの一族』の一場面だっただろうか?――おしゃま(これまた死語)な女の子が素敵な男性を見て「ま、ハンサム!」と驚く場面である。
ストーリーの筋には特に関係のない、なんてことない場面だったのだが、女の子のおしゃまぶりがよく出ていて、可愛らしい場面だった。また自分の周りには、「ま、ハンサム!」と驚くような男子なんていないので、小粋でおしゃれなセリフに思えたのだった。

 

私は「ま、ハンサム!」を一度使ってみたくなったが、特に使いどころはなかった。上述のように、周囲に「ハンサム」と形容できるような人物はいなかったし、また、日々会う異性はクラスの男子・先生・用務員さん・父と祖父・近所のおっちゃんのみであり、そもそも誰かと新たに出会うということがないのである。
そんな或る日、社会の授業で、日本の名産物かなんかの勉強として、視聴覚室で茶のビデオを見せられた。茶が茶畑でどんな風に作られ収穫されるか、という過程を追ったビデオだった。茶摘みの場面で、茶農家のおじさんがインタビューされ、茶摘みの工程を語っていた。頭にタオルを巻いたその中年の男性は、別に悪いルックスではなかったと思うが、まったく普通の日本のおじさんだった。
私は「(いや、ここは違うよな、明らかにその場面ではないよな……)」と思ったが、「ま、ハンサム!」を使ってみたい気持ちがそろそろ最高潮に達しており、「(ここで使うのか……違うとは思うけど……でも……)」と納得できない気持ちのままながらも、隣に座っていたサッちゃんの耳もとに口を寄せ、

 

「ま、ハンサム!」


と言ってみた。


サッちゃんの反応は特になかった。

誠実さの思い出

詳細は省くが、昔、或る人との関係がこじれたときのことを時々思い出す。
そのこじれに関しては、私の責任によるところが大きかったので、私は精一杯誠実に対応しようとした。
誠実に対応する、というのは私の苦手とするところである。普段すぐ誤魔化したり投げ出したりしてしまうし、真摯な話し合いが面倒臭くなってしまう。また、自分では必死に考えて誠実に対応しているつもりが、裏目に出て相手を傷つけたり、人から見ればとんちんかんなことを言ってしまっていたり、ふざけているように見られたりすることもよくある。
でもその人は恩義のある大切な人でもあったので、できる限りそういうことのないよう、できるだけ誤魔化したり投げ出したりすることなく、ふざけてるように見られそうなことも避け、矢継ぎ早に送られてくるメールにも、すべてちゃんと考えて返事をした。関係を最後まで大事にしたかった。


その件はしばらくして沈静化した。
何か月かして、昔のメールを整理していたときに、ふと、未開封のメールがあるのに気付いた。
それはその、こじれていた頃に相手から送られてきたメールのうちの一通だったが、私はなぜかそれを、開封していなかったのだった。普段大事なメールを見過ごすなどということは滅多にないのに。その内容は、当時送られてきたメールの中でも最も切実なもので、人間の心があるならば絶対に返信しなくてはならないような種類のものだった。

 

普通に考えれば、メールを見過ごしたことは単なるミスなのだろうが、果たしてそうなのだろうか。あれ以来、自分の「誠実さ」というものを、一切信用していない。

 

虫恐怖の発生とその予後

思春期に入った頃、幼い頃には普通に虫を追っかけてた子たちが、次第に虫を気持ち悪がるようになり始めたのが不思議であった。
だが、かく言う私もまもなくそうなってしまった。


幼い頃はむしろ虫好きで、蟻やダンゴムシを捕まえて飼ったり、道で拾ったミミズを振り回したりしていた(ミミズはいい迷惑である)。近所のおばちゃんに「ようそんな気持ち悪いもん触るわ!」と言われ、「なんで? 可愛いのに」と、おばちゃんの気持ちがさっぱり分からなかった。
「私は虫は大嫌い、とてもさわれへんわ」
おばちゃんが言うので、
「トンボとかチョウチョなら大丈夫?」
と尋ねると(トンボやチョウチョは綺麗な虫とされることもあるため)、
「トンボでもチョウチョでもダメ!虫はぜんぶ気持ち悪い!」
と激しい拒否に遭い「そんな人いるんやー!」と驚いたものである。


以前(二十年ほど前か)、テレビで、小学生高学年の男児と女児に虫を見せてその反応を比較する調査をしていた。男児は冷静な反応だが、女児は殊更大声でキャーキャー騒ぎ逃げ惑う、という調査結果で、「女の子は高学年になると、異性の目を気にして、虫を怖がってみせるというジェンダー役割を演じるようになる」というような結論が下されていた。
この論には納得できるところもないではない(異性の目を気にしてかはどうかは別にして、対外的アピールとして過剰に怖がって盛り上がる、ということはあるだろう)し、安易に「自然な女らしさの発露」として説明しなかった点は立派であると思う。しかし、この年代の虫恐怖をジェンダー規範だけで説明できるかといえば、どうも、それだけではないものがあるように思った。
というのは、私の周りには、虫嫌いの男子もいたし(彼らも幼い頃は平気だったという)、また、自分が虫を怖がり始めた頃の心理を思い出しても、「女性的役割として怖がるようになった」という単純なプロセスで説明できるとは思えない。


あんなに平気でむしろ好きだった虫を、気持ち悪く感じ始めたときのことは、少し覚えている。
エピソードとしてはっきり覚えている事件は二つあり、ダンゴムシ事件とアオムシ事件である。


ダンゴムシ事件は、まだ低学年の頃の事件であるが、私が虫と距離を置き始めたきっかけである。その頃、私は家の周囲でダンゴムシを見つけてはせっせと集めポケットに山盛り詰めて家に持ち帰っていた。今思えば、親はさぞイヤであっただろう。収集している最中に近所の虫嫌いおばちゃんに遭遇して悲鳴を上げられたりもしたが、私はご機嫌だった。持ち帰ったダンゴムシはベランダのバケツに入れて飼っていた。
しかし或る朝、前の日にバケツに入れておいたダンゴムシの様子を見にベランダに出、私はショックを受けた。
いつもは土と一緒に入れていたのだが、このときはバケツに土を入れずダンゴムシたちだけを入れていたためだろうか、全員白く変色して死んでしまっていたのだ。その姿を見ると急に恐ろしくなり、咄嗟にダンゴムシたちの遺骸をベランダから撒き棄てた。
彼らが変わり果てた姿になっていたこと、それが自分のせいでそうなったにもかかわらず気持ち悪いと感じてしまったこと、昨日まであんなに可愛く思っていた彼らが急に恐ろしく思えたこと、すべてがショックであったが、同時に、「おばちゃんが虫は気持ち悪いって言うてたのは、こういうことやったんや」と、大人の気持ちをひとつ学習したようでもあった。

 

この事件をきっかけにダンゴムシ収集をやめ、虫との縁もあまりなくなった。しかしまだ、虫嫌いというほどにはなっていなかった。中学年になっても、相変わらず学校で「毛虫クラブ」という謎のクラブを結成し(学校内の毛虫の多い中庭を「毛虫、毛虫」と言いながら歩き回るだけのクラブ、友人4人が参加していた)、虫嫌いになり始めた周囲の子に、「毛虫なんて気持ち悪いわ」と蔑まれたりしていた。
はっきり自分が虫嫌いになったと分かったのは、アオムシ事件においてである。高学年になった頃だった。周囲の友人らは既に、立派な虫嫌いに育っていた。或る日のこと、理科の教科書か何かを眺めていると、アオムシの大きな写真が載っていた。それを見ているうちに、身体にウニョウニョとした違和感を感じてぞわぞわと気持ち悪くなり、思わず教科書を投げてしまったのであった。それからその頁を見るのが怖く、頁を開かないようにホチキスで留めてしまった。
このとき、「虫が気持ち悪い」というのが感覚としてハッキリ分かり、「皆が虫が気持ち悪いというのはこういうことだったのか!」「なぜ子供の頃は平気でこんなのを触っていたのだろう、さっぱり分からない」と思ったのである。かつては虫嫌いのおばちゃんの気持ちを「さっぱり分からない」と思っていたはずだったのに!
この頃から私は、虫が出てくる怖い夢を見るようになった。


このとき感じた嫌悪感は生理的・感覚的なものであり、社会規範だけで説明できるものではなさそうだ。とはいえ、生理的・感覚的と思われたものも実は、社会規範によって規定されている面もあるし、恐怖の原因が本質的に何であるか、などということは決定的な答えの出し難い問いであろうけれど、自分の体験から考えられる虫恐怖についての仮説としては、それは、大人になっていくこと、人間になっていくことと関係があったのだろうと思う。人が大人として、人間として統制されていく中で排除されるべき動物性や官能性やウニョウニョやモゾモゾが、虫に投影されるのかもしれない。(精神分析的に考えれば恐怖症とはすべてそういうものなのかもしれないが。)


同時に自分の感覚では、虫恐怖は、大人になっていく自分の身体とも関係していたような気がする。第二次性徴期に起こる、気持ちの悪い諸々もまた、虫に投影されていたのではないか。
と思うのは、私は高校生になって、再び虫を克服したからである。


この時期のことはよく覚えている。
小学校高学年から中学時代の自分は、大人になっていく自分の身体がとにかくイヤだった。月経だの皮下脂肪だの周囲から期待される「女性らしさ」だの生殖だのそういうグチュグチュしたものがどうにも気色悪く、それらが削ぎ落されたツルリとした何かなりたいよ~と切望していたのであったが、高校生になった頃、何か急に、「それらを受け容れる戦略に変えよう」と思い立ったのであった。
その受け容れ戦略の一環として、なぜか、虫恐怖の克服もあった。つまり自分の中では、嫌悪すべき身体性と「虫」は同一視されていた、少なくとも隣接するものであったのであろう。もちろん自分の場合はこうだった、というだけなので、一般化できるかは知らない。ただ自分の場合は明らかに、この頃若干わざとらしく始めた、月経と向き合ってみたり、育児書に興味をもってみたり、という活動の一環として、虫との再触れ合いもあった。
学校の宿題として妹が飼っていたアオムシにこわごわ接近し始めたところ、次第にアオムシが可愛く思えてきて、やがて、かつて幼年期にそうしていたように、自分でアオムシを捕らえてきて飼い始めた。あんなに可愛かったものがこんなに気持ち悪くなってしまった、からの、一周廻って、あんなに気持ち悪かったものがこんなに可愛くなってしまった。以降、毎年せっせとアオムシを捕らえては羽化させるようになった。そうしているうちに、妹が虫嫌いになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

汚さの処理を知りたい

いつの頃からか分からないが、自分について、汚い、という感じがある。綺麗な服とかかっこいいものとか、見ているといいなあと思うのだが、自分で身につけようとすると、「こんな自分が着るのはなあ」と避けてしまう、ということがよくある。似合わないとか汚してしまう(物理的・心理的に)とかいう感じがするのである。
音楽が好きな人はよく好きなバンドのTシャツなどを着ているが、私はアレが長い間できなかった(今でもあんまり着ないけど)。好きなものを、このような汚い我が身につけるなんて、なんだか畏れ多く感じる。

 

といっても別にこれは病理的な強迫観念とかではなく(たぶん)、人間なので普通に汚いわけである。老廃物も溜まるし、排泄もするし、なんかいろいろ分泌もするし、心の中にも汚いものは渦巻いているし、それで当たり前である。
ふしぎなのは、そのように汚いのがデフォルトであるはずの人間の中に、汚くないように見える人がいることである。


しばしば少年漫画などで、女の子のキャラクターが、汚れなき天使のように表象されているのを見ることがある。「いやいや、こんな女の子いねーよ」と思うのであるが、私も、キラキラとした若い少女や堂々としたモデルさんなんかを見ると、この人たちはどうしてこんなに汚さとかけ離れているのであろう、と思ってしまう。
老廃物とも分泌物とも無縁の存在であるかのようだし、心の中にも一切の邪念がないかのように見える。
だがもしかして彼女たちも、私と同じく、自分が汚いという感覚を抱えていたりするのであろうか。

 

私の場合、はっきりとこうした感覚が生じたのは、おそらく第二次性徴の頃であろう。皮下脂肪が増えてぶよぶよとした身体になったこと、体からどろどろした血が出てくること、急激に皮膚が荒れ始めたこと、など、ショックの連続であった。自分が刻々と汚くなってゆき、「もうツルリとした子供の身体を失ってしまった!」という断絶を感じた。楳図かずおの漫画に、小さなホクロのような痣が全身に広がって次第に醜くなっていく病に罹った姉妹の話があるのだが、第二次性徴の頃のショックはまさにあの姉妹の嘆きそのままであった。その後長い時間をかけてそうした嘆きと折り合いをつけられるようになったが。


キラキラした彼女たちは或いはそもそも、そんな嘆きとは無縁に生きてきたのであろうか。それとも、彼女らもそんな嘆きを経験しながら、それを克服してキラキラとした輝きを放つすべを身に付けたのか。そうであれば、そうした人たちがどのように「汚さ」を処理しているのかを知りたい。或いは汚さと無縁でありそれを克服しているように見えるのは完全に、見る側の幻想であるのか。

 

おかあさん

先日、初めて、見知らぬ若者(居酒屋の客引き)から「おかあさん」と呼びかけられてしまった。


私は年齢的にはエエ年かもしれないが、子供を産んだことがないのでお母さんという呼称で呼ばれることには馴染みがない。また、学生時代が長かったせいか、自分がおばちゃんであるという意識も薄い。それが、なんなら自分とそんなに年が変わらん(ように主観的には感じられる)男性に「おかあさん」と呼ばれてしまい、狼狽して思わず、「お、おかあさんちゃう!」と強めに否定してしまい、まだまだ修行が足りぬと思った。べつに修行する必要もないのだが。

 

それにしても、日本語での、見知らぬ相手に対する二人称の呼びかけは、なかなか選択が難しいと思う。
私は、自分が初めて見知らぬ他人に「おかあさん」と呼びかけた思い出も思い出した。

 

それは7、8年前のことであった。通りで信号待ちをしていると、横で信号を待っていた知らない婦人から「ええ色やねえ、よう目立つわ」と声をかけられた。60代くらいの婦人だったであろうか。
そのとき私は濃い青のワンピースを着ていた。「よう目立つわあ、若い人はきれいな色が着れてええねえ」。


だが、その人も、ショッキングピンクのやたら可愛いシャツを着ていたのだった。パキッと目立つ色が好きな人なのだろう。私はお返しに、「あなたの服もきれいですよ」というようなことを言いたかったのだが、そう言おうとしてハッと、なんて呼びかければええんや? と困った。


「あなた」は日本語の標準的二人称ではあるが見知らぬ目上の人にいきなり使うのはやや不躾な印象になる。そもそも関西の口語ではめったに使われないと思う。「君」「あんた」「おたく」はもっと違う。「おばさん」「おばちゃん」はなんとなく失礼な気がする。「おばあさん」では更に失礼であろう、そこまでの年齢でもない。かといって「お姉さん」ではわざとらしいし、「奥さん」も変だ。「そちら」「そっち」では、親しみを込めて声をかけてきた相手に対し他人行儀な気がする……

 

と、逡巡した結果、私は、

「おかあさんもきれいですよ」

と言うた。

 

言うてから「うう…」と思った。これは私の初「おかあさん」だったのだ。
くだけたコミュニケーションが得意な人はこの「おかあさん」という呼称を、(実際の母親以外に)使うのが上手いように思う。たとえば、TVでは関西芸人が街の中年女性に「おかあさん」と呼びかけるのをよく目にするし、店で年輩の店員さんに「おかあさん」と呼びかける文化もある。しかし私にはその文化がなかったため、若干のぎこちなさが否めなかった。
また、昔、新聞の投書欄で「私は自分の子でもない人からお母さんと呼びかけられるのはイヤだ」という投書が載っていたのも見たことがある。私もこの頃、未婚であるのに「奥さん」と初めて呼びかけられ、なんだかちょっとイヤな気がしたことがあった。その立場でもない立場名で呼びかけられるのはなんだか決めつけられているようで……でも妥当な呼びかけがほかにないし!……


……などなど一人で勝手にぐるぐるしていると、婦人は少しだけ驚いたような表情で一瞬沈黙したのち、

いやあー、おかあさんはもうトシやさかいあかんわー


と、一人称が「おかあさん」になった。

 

 

蹴上浄水場の思い出

この季節になると、京都・蹴上浄水場はつつじが満開になり、同時に一般公開が行われる。
今年は、その姿は見ていないけれど、初夏の新緑の中、小高い斜面に並んだこんもりと丸い樹々に、紫、白、ピンク、赤が咲き乱れる様子は大変美しい。
蹴上浄水場の近くには、東山ドライブウェイの入口がある。子供の頃、しばしば父の車に乗せられてドライブウェイを走ったのであったが、当時はなぜか、そのこんもりのひとつひとつを人のお墓だと思っていた。

 

蹴上浄水場にはいくつか、良い思い出がある。
ひとつは、小学校四年生のとき、社会科見学に行った思い出である。
なぜか日にちまで覚えていて、4月30日だった。
別に普通の社会科見学であり、私は学校行事にはしんどい思い出のほうが多いのだが、この日はなんだかとても楽しかった。つつじの咲く中に座り、班ごとにお弁当を食べた。班は男女二人ずつ、四人の斑で、女の子は当時一番仲の良かった友達、男の子二人も意地悪じゃない優しい二人で、いい人たちに囲まれ、天気も良く、「幸せだな! ずっとこの日が続けばいいな!」と思った。


大きな貯水槽を見せてもらい、「ここの水が皆さんのおうちの水道へ行きます、だからここには絶対に物を落としたりしないように」と職員さんに言われた瞬間、H君という男子が鉛筆を落としてしまい、大騒ぎになった。
考えてみればそんな絶対に物を落としてはならないようなところを無防備に子供に公開しないであろうから、たいした問題ではなかったのだろうが、しばらくの間われわれは「何日かは水道の水飲んだらあかんで」「水道からH君の鉛筆が出てくるぞ」と言い合った。

 


もうひとつは、大人になってからの、母との思い出である。
母方の祖父が亡くなった後、母は体調を崩した。
体調はなかなか良くならず、母は重病を疑い始め、大病院で検査を受けに行くことになった。今思えば、これは、敬愛する祖父への母の同一化の心理によるものであったのだろう。愛する者を失うことは、それだけ、エネルギーを使い現世的リビドーを奪われるものであるのだと思う。
私も当初、たいしたことないだろうと思っていたが、母があまりに言うので、ほんまに母は重病なのでないかと心配し始め、覚悟をしながら検査が終わるのを待っていた。元来私は心配性なのである。
検査が終わり、父の車で母を迎えにいった。しばらく車は通りを走ったが、母は何も言わなかった。
昔よく通った、東山ドライブウェイを通ろうと父が言い出し、蹴上浄水場の前に差し掛かったときやっと父が「そんで、どやったんや」と訊いた。母は、「うん、どうもなかったわ」と答えた。「どうもなかったんか」と父が言った。


われわれは、近くの店で買ったコロッケを、齧りながら浄水場の横を走った。
五月も終わり頃で、もうつつじは咲いていなかったが、このとき窓から見えた青空の下の蹴上浄水場の緑は、つつじの満開時にも増して、はればれと輝くようだった。

 

その数年後、母と浄水場の一般公開に行った。
つつじの間を抜けて斜面のてっぺんまで登り、てっぺんからつつじ越しに町を見下ろし、母は、「子供の頃に遊んだ町や、懐かしわあ、懐かしわあ」と何度も言った。