蹴上浄水場の思い出

この季節になると、京都・蹴上浄水場はつつじが満開になり、同時に一般公開が行われる。
今年は、その姿は見ていないけれど、初夏の新緑の中、小高い斜面に並んだこんもりと丸い樹々に、紫、白、ピンク、赤が咲き乱れる様子は大変美しい。
蹴上浄水場の近くには、東山ドライブウェイの入口がある。子供の頃、しばしば父の車に乗せられてドライブウェイを走ったのであったが、当時はなぜか、そのこんもりのひとつひとつを人のお墓だと思っていた。

 

蹴上浄水場にはいくつか、良い思い出がある。
ひとつは、小学校四年生のとき、社会科見学に行った思い出である。
なぜか日にちまで覚えていて、4月30日だった。
別に普通の社会科見学であり、私は学校行事にはしんどい思い出のほうが多いのだが、この日はなんだかとても楽しかった。つつじの咲く中に座り、班ごとにお弁当を食べた。班は男女二人ずつ、四人の斑で、女の子は当時一番仲の良かった友達、男の子二人も意地悪じゃない優しい二人で、いい人たちに囲まれ、天気も良く、「幸せだな! ずっとこの日が続けばいいな!」と思った。


大きな貯水槽を見せてもらい、「ここの水が皆さんのおうちの水道へ行きます、だからここには絶対に物を落としたりしないように」と職員さんに言われた瞬間、H君という男子が鉛筆を落としてしまい、大騒ぎになった。
考えてみればそんな絶対に物を落としてはならないようなところを無防備に子供に公開しないであろうから、たいした問題ではなかったのだろうが、しばらくの間われわれは「何日かは水道の水飲んだらあかんで」「水道からH君の鉛筆が出てくるぞ」と言い合った。

 


もうひとつは、大人になってからの、母との思い出である。
母方の祖父が亡くなった後、母は体調を崩した。
体調はなかなか良くならず、母は重病を疑い始め、大病院で検査を受けに行くことになった。今思えば、これは、敬愛する祖父への母の同一化の心理によるものであったのだろう。愛する者を失うことは、それだけ、エネルギーを使い現世的リビドーを奪われるものであるのだと思う。
私も当初、たいしたことないだろうと思っていたが、母があまりに言うので、ほんまに母は重病なのでないかと心配し始め、覚悟をしながら検査が終わるのを待っていた。元来私は心配性なのである。
検査が終わり、父の車で母を迎えにいった。しばらく車は通りを走ったが、母は何も言わなかった。
昔よく通った、東山ドライブウェイを通ろうと父が言い出し、蹴上浄水場の前に差し掛かったときやっと父が「そんで、どやったんや」と訊いた。母は、「うん、どうもなかったわ」と答えた。「どうもなかったんか」と父が言った。


われわれは、近くの店で買ったコロッケを、齧りながら浄水場の横を走った。
五月も終わり頃で、もうつつじは咲いていなかったが、このとき窓から見えた青空の下の蹴上浄水場の緑は、つつじの満開時にも増して、はればれと輝くようだった。

 

その数年後、母と浄水場の一般公開に行った。
つつじの間を抜けて斜面のてっぺんまで登り、てっぺんからつつじ越しに町を見下ろし、母は、「子供の頃に遊んだ町や、懐かしわあ、懐かしわあ」と何度も言った。

 

元暴走族の思い出

中学の頃、趣味の合う友人何人かとよくつるんでいた。同じく、趣味を通して、他校の子たちとも交流していた。といっても、雑誌の文通欄で知り合った子たちだった。この頃、まだメールやネットのない時代であり、文通という文化が健在だったのである。
われわれは、集団で手紙やイラストを描いたのを同封して相手方に送り、向こうも何人かでそれに応じてくる、というような交流だった。


ところがあるとき、そんな交流の中でトラブルが起こった。
われわれの仲間であるK子ちゃんが動揺しながら、「どうしよう、ひどい手紙が来た」と、相手の子たちから届いた手紙をもってきた。
開けてみるとそこには、われわれをバカにするようなふざけた落描きと、「本当はお前たちのことなんて大嫌いだよ」などの罵倒の文言が書かれていた。「バーカバーカ」「死んじゃえば?」etc。
それまでは機嫌よく文通していた子たちである。楽しく日々のことや好きなもののことなどなど手紙に書き合いはしゃいでいたのに、なぜ突然にそんな手紙が送られてきたのか、まるで分からなかった。びっくりして「えー、ひどいー……」と呟くと、いつもは私のことをからかってばかりのNちゃんが、「大丈夫? ショックやんな。あんたは繊細やから、こういうのダメやのに~」と心配してくれた。動揺していたK子ちゃんは「こいつらむかつく!」と既に怒りモードに入っていた。
しかし私は、たしかにショックを受けはしたがその一方で、
「(おおー、これがよく漫画とか小説で見る『友の裏切り』みたいなやつかー、私にもついに『友の裏切り』経験がやってきたぞ! これで『友の裏切り』的なテーマが解るようになったんや!)」
と、青春経験値をひとつゲットしたような気持ちでもあった。

 

その手紙はなぜか私に託された(心配されていたのになぜ私に託されたのかは謎である)。やはり、見て良い気持ちのするものではなかったが、私は時々手紙を取り出して眺めては、積極的にイヤな気分を味わっていた。正直、普段会うこともない他校の子なので、こんなふうに決裂しても特に普段の生活で実害はない。ここまで罵倒されるいわれはないとは思ったものの、「まあ、色々気に入らないことがあったんやろうな」と思い当たる節もいくつか出てきた。だが、罵倒の文言を眺めているとやっぱりイヤーな気持ちになり、悲しくなって手紙をビリビリと破ってしまった。同時に、手紙を破るという青春ドラマ的な動作をしている自分に、やっぱり演劇性を感じもした。

 

私には、個人的に文通している人も何人かいて、その中に、一つか二つ年上のお姉さんがいた。やはり雑誌の文通コーナーで知り合った人で、実際に会ったことはなかった。プロフィールに、小説やアニメ・漫画、音楽が好き、と書いてあったので、話が合うかと思って私から手紙を出したのである。当時、文通相手はこんなふうに、雑誌の文通コーナーのプロフィールを見て探していた。
お姉さんは、ミステリー小説と『サムライトルーパー』とサザンが好きとのことで、私とは好きなものは特に一致しなかったのだが、なんとなく日々のことを綴り合い、文通は続いていた。お姉さんは、端正な文字で落ち着いた文章を書く人だった。また、返事が早かった(返事が早いことは文通の継続において重要なことであった)。時々アニメ風のイラストが同封されてもいた。平均的なオタク女子、という印象だった(当時は「オタク」という語にはネガティブなイメージしかなく、当事者が自称することはなかったが)。

 

私はそのお姉さんへの手紙に、例の事件のことを打ち明けてみた。年上の人なので優しく受け止めてくれそうな気がしたし、また自分が得た「友の裏切り」経験を自慢したいような気持ちもあったのだろう、手紙を書いたときはもう例のイヤな気分もかなり薄らいではいたが、
「この間、ちょっとショックなことがあったんです。それまで仲良くしていた友達に裏切られて……、このまま人間を信用できなくなりそう。」
云々と、自分でもやや盛っていることを意識しつつも書き、その手紙を投函した。

 

お姉さんからの返事は、いつもどおり一週間後くらいに届いた。返事には「〇ちゃん、嫌な思いをしたんだね。でも〇ちゃんは立派だよ。あとあと後悔するのは、傷つけられるよりも傷つけた側だから。私も実は……」とあり、以下のようなお姉さんの過去が書かれてあった(※記憶に基づくため原文ママではない)。

 

私も実は、中坊になったばっかの頃は手をつけられないくらい荒れてて、親も泣かせたし、ダチも傷つけた。もともと家が厳しかったからグレちゃって、悪い仲間とつるむようになって、〇ちゃんには言えないようなこといっぱいしました(笑) 万引き、シンナーは当たり前。何度もパクられそうになったし、先公にも殴られた。でも、ある日、何もかもむなしくなって、抜けたんだよね。抜けるときにはケジメ(って分かる?)を付けさせられたけれども。抜けるきっかけになったのは、○○(好きなアニメか漫画のタイトル)でした。今では、あの頃を思い出すと、バカなことしてたなあって後悔しかないんだ。こんな人間だから、偉そうにアドバイスなんてできないよ。今でも服装はケバいし手癖の悪さが出ちゃうし(笑)、付き合ってるオトコも未だに、××連合のヘッドだったりするんだよね(関西で最大の族だから知ってるよね? 暴走やってる友達がいたら聞いてみて)。

 


……
私は、オタクの子というのは皆、教室の隅にいる地味なポジションの子だとばかり思っていたので、「オタクにもいろんな人がいるんだなあ、分からんもんやなあ、勝手なイメージで決めつけたらいけないよなあ」と素直に反省し、それまで文通の中で彼氏の話なんて一言も出なかったのに「彼氏までいるなんて、やっぱり年上の人だなあ」と感心し、
「重い話を聞かせてくださってありがとうございます!そうだったんですか、そんな過去があったんですね。人にはみんないろいろな過去があるんですね。あ、××連合、もちろん知ってますよ!(注:知らない) 地元では有名なグループですもんね~!!」
みたいな返事を書いたのであるが、今思えば確実にお姉さんは中二病的なあれであったと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊ケーキの夜、または苦々しいクリスマスケーキをつくる会(「つくる会」)の思い出

それは、M-1チュートリアルが優勝した年のクリスマスのことであった。われわれはT君を囲み、霊ケーキで降誕祭を祝った。T君当人には申し訳ないが、私にとっては、帰ってきた中学生時代のような、『太陽の塔』的世界に束の間参加したような、そんなクリスマスの思い出だ。


何のことか分からないと思うので、順番に書く。
T君とは、大学院生時代の、いくつか年下の友人である。
T君は当初、「なんかイケてる若者」として私の前に現れた。というか私が勝手にそう思っていた。
わが研究室には当時、正式な研究室員ではない人々も出入りし勉強したりだべったり鮭を捌いたりしており、T君もその一人であったのだが、われわれは互いに顔を知っている程度で特に交流はなかった。
他の人と就活の成功話などしているのを聞くと、堂々としていて利発そうで、わが大学にしばしば見られる要領良いエリート青年なんだろうなあ、と勝手な偏見を抱いていた。当時まだ「リア充」という語はなかったが、見た目もモテそうだし髪の毛はふわふわしてるし、自分と違う世界の人であろう、と正直あまり好感をもてなかった。今思えば、髪の毛が少しばかりふわふわしている程度でたいした偏見のもちようである。こういうエリート青年は私のような者を見下しているのであろうとすら思っていたので、完全なる被害妄想といえる。


多少の交流が生じたのは、冬、大学関連のイベントに参加したときである。そのイベントにT君も参加していた。
このイベント自体も賽銭泥棒の発生などに見舞われた謎のイベントだったのだが、賽銭泥棒の話は長くなるので割愛するとして、休憩時間に発生したのが「トイレの戸事件」であった。
私は粗忽者であるため、人生でたびたびトイレの鍵を閉め忘れて人にドアを開けられる事件を起こしており、このときも、今まさにパンツを下ろさんとしている最中にトイレの戸を開けられてしまった。開けたのはT君であった。
T君は大きな目を泳がせ、「わっ、わっ、あわわわ」と戸を閉めた。これは鍵をきちんと閉めていなかった自分が悪いので、不運なのは遭遇したくもない場面に遭遇してしまった彼である。トイレから出た後、驚かせたお詫びを一応言っておこうと彼のもとに「さっきはすみません」と言いにいったが、彼は「やっ、わっ、やっ」しか言わなかった。私は「でもスカートでよかったです」と別に要らないコメントを付け加えた(ズボンと違って局部や臀部が露出されない=貴方はたいしたものは見ていない、というメッセージを伝えたかった)。だが彼はやはり大きな目で斜め上を見たまま、「やっ、わっ、ススススス……」と言うのみであった。T君は困ったときやヒいているとき、この「ススススス」という笑い方をよくする。


イベントの帰り、何人かでお茶でもしていこうということになり、その中に彼もいた。喫茶店への道でわれわれはうっかり隣同士に並んでしまった。私は「(ああ、トイレの戸の人だ、気まずい)」と思いながらも、何か話さなければと思い、「この近くに縁切り神社っていうのがあるんですよ」と持ちネタを振った。「怖い絵馬があったり、境内にラブホテルの灯篭があったりして面白いですよ」。今ではすっかり有名になってしまった安井金毘羅宮のことである。私の好物のネタではあったが、あまり交流のない年下男子に振るネタとしては微妙な話題選びだったといえよう。T君は「へ、へえー、そうなんすか、スススス」と言いつつ、あまり話を聴いていない様子だった。
茶店では、途中、皆の恋愛事情の話になった。彼女と同棲している先輩がT君に「T君は同棲とかしてないの?」と訊いた。T君は「えっ、いや、僕は、スス」と言った。私はこのときは何も気づいていなかったが、彼は内心、「(なんでそんなん俺に訊くねん、なんでいきなり同棲やねん)」と思っていたことを後で知った。

 

さてこの時点では「トイレの戸の人」でしかなかったT君であるが、翌春から、研究室の皆と勉強会や飲み会をすることが増え、その中で私とT君との交流の機会も増えた。
そのうちに、どうやら彼が、当初抱いていたイメージとは大幅に違う一面をもつことが明らかになってきた。T君は話術が巧みであったが、少し仲良くなるとその話術は、主に自虐ネタに発揮されることが分かった。私もたいがいの卑屈王であったが、T君もそれに劣らぬ劣等感の持ち主であることが次第に分かってきた。
殊に恋愛関係のコンプレックスを語るとき、彼の大きな目はやさぐれ、かつ、らんらんと輝くのだった。勝手に「モテそう」だとばかり思っていたT君であるが、断片的な話から分かったところによると、恋愛関係ではどうも残念な体験が続いているようであった。


私が彼と「友達になった」と感じたのは、『太陽の塔』を通じてであった。
ある日、勉強会を終えた後、研究室では三名の者(私含む)が缶チューハイを飲みながらダラダラと残っていた。この頃、研究室の中でもダメ意識の強い者たちの間になんとなく仲間意識が芽生え、気がつくとこのように夜中までだべることが増えていた。仮にこの一群をダメンバーと呼んでおこう(c:さーもんさん)。この日のダメンバーの話題はもっぱら、「自分がモテない」ということだった。T君はかつて恋人がいたことのあるダメンバー・某氏に、ちょっとここでは書けないような絡み方を見せた。彼のそんなひどい姿を見るのは初めてのことであった。
ひとしきり絡んだ後T君は、「あっ、そういえば今、これを読んでるんすよ」と何やら文庫本を取り出した。それが『太陽の塔』であった。「あっ」と某氏が言った。「それ、今まさに薦められて読んでるやつだ!」。薦めたのは私であった。夜中に研究室でダメを語らっている三人が三人とも、『太陽の塔』を読んでいたのであった。この事件を通じて私は急速に、T君に親近感を覚えた。T君たちによると『太陽の塔』の主人公たちの言動は、「自分の日記みたい」とのことだった。
太陽の塔』(2003)は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した、森見登美彦の小説作品である。受賞当時、知人から「今度のファンタジーノベル大賞、モテない京大生の話なんだって」と言われ、「なんじゃそりゃ」と読んでみたら、本当にその通りであった。
後で知ったことだが森見氏は大学の同期であり(※面識は無い)、『太陽の塔』は、青春時代を百万遍に過ごした者としては心掴まれざるをえない作品である。
と同時に、そこに描かれる男子学生たちの群像には、複雑な思いも抱かれた。私は大学に入って以来ずっと、この大学に色濃く残る旧制高校的「男同士の絆」的なものに疎外感を感じ続けており、『太陽の塔』はまさにそうした男子たちの物語だったからだ。女性は偶像的存在としてしか登場しない(もちろんだからこそファンタジーなのであろうが)。『太陽の塔』は笑えて共感できる小説であると同時に、或る種の疎外感を思い出させるという、両価的な思いを抱かせる作品だった。


T君の話に戻ろう。
以上の記述ではT君が、単なる「見た目がいいのに実はモテない」だけの人物のようだが、というか私も当時そう認識していたのであるが、今にして思えば彼は、なかなか不思議な人物でもあったかもしれない。
その一年、なぜか研究室周辺はT君を中心に動いていたような気がする。この年、皆で夏の海に行ったりあちこち遊びに行ったり、やたらイベントが多かった。T君が研究室から去った翌年にはそんな機会も少なくなったので、それは彼の引力だったのだと思う。あんなに皆で遊んだのはあの年限りであった。彼のその引力が何に由来するのかは謎であった。変人の多い研究室において、T君は常識人の部類であり、進んで目立つことをしたり話題の中心になったりするタイプではなかったのだが。
T君は研究室周辺では最年少であり、皆の弟のようなところもあった。彼本人がどう思っていたかは分からないが、皆、彼を可愛がり、あれこれと構っていたように思う。翌年も研究室に残る者がほとんどの中、T君は就職を控えており春には大学を出ていくことが決まっていたので、まるで彼の最後の学生時代を、皆が一緒になって浮かれ騒いだかのようであった。
あるときは、飲み会で彼があまりに荒れているので、先輩が「T君は一体どうしたのさ、話を聴くよ」と深夜にもかかわらず店を移動し、朝まで皆で話を聴いたこともあった。(なお誘った当の先輩は先に帰ってしまい、残りの皆で朝までつきあった。T君が荒れていた理由はひどすぎるので割愛。)
またあるときは、皆がおせっかいを焼き、T君とある女性をくっつけようと鍋パーティーを開いた。今思えば完全に余計なお世話であり、おまえらはうるさい親戚のおばちゃんか、という感じでしかない。
しかしこの試みはそれなりに上手くいったようで、T君とその女の子は二人で会うまでになった。だが、それがその後の、クリスマス霊ケーキの夜につながるのであった。

 

その年のクリスマス・イブは、私は派遣のバイトで、スーパーマーケットで生クリームの試食販売をしていた。余った生クリームやデコペンをもらえたのはお得であった。その翌日、昼過ぎになり、T君からケーキの風味を指定するメールが届いた。
「苦々しいケーキでお願いします」
私はイブに起こった事態をだいたい了解した。


話が前後したが、T君はクリスマス・イブに例の女の子と会う約束を取り付けることができたのだった。非モテの憧れ、クリスマスデートである。そこに至るまでも、飲み屋で先輩たちが彼を焚き付けたり、お誘いのメールを打つところを見守ったりという前近代的なお節介の数々があった。われわれは勝手にはしゃぎ、私も、頼まれてもいないのにデートぽい店を検索してリスト化するなどの不要な活躍を果たした。
だが、デートすることになったものの、彼女がT君のことをどう思っているのかは不明であった。憎くは思っていないだろうが、積極的に好意をもっているかといえば、正直そんなふうにも見えなかったのである。経過が気になるダメンバーたちは、イブの翌日に研究室でクリスマスパーティーを開くことにした。そして、前夜のデートが上手くいっていたなら甘いホワイトケーキで祝おう、残念な結果になっていたならビターなブラックケーキを作ろう、ということになっていたのだった。


各人に届いた苦々しいケーキを所望するメールにより、ダメンバーたちは事情を速やかに把握した。T君以外の三人のダメンバーが先に研究室に集まり、スーパーへ買い出しに行き、「カカオ99%」と書かれた板チョコを大量購入した。当時、カカオ率の高さを売りにするチョコレートが流行っていたのだが、どれも菓子としては苦すぎた。それにこんな使い道があるとは思わなかった。
三人は研究室でT君を待機する態勢に入った。待つことしばらく、力無い「ススス……」という笑い声とともに研究室のドアが開いた。
われわれは「お疲れ様!」と唱和して彼を迎え、「とりあえず好きなもん食べようよ、ケーキだけじゃ足りないでしょ」とサンプラザに連れ立った(丸太町のこのサンプラザも2017年夏に閉店してしまった)。スーパーの売り場で、「なんでも好きなもん食べてええからね」「費用はわれわれで持つから」と声をかけるダメンバーにT君は一言、「優しさは時に凶器っすよ!」。


参鶏湯の具材を抱えて研究室に戻り、われわれは鍋とケーキを作り始めた。書きながら、研究室とは何かという疑問が湧いてきたが、尤もな疑問である。研究室はこの頃、鮭を捌いたり酒盛りをしたり筋トレをしたり、ほぼ無法地帯と化していた。しかし面白いことにそうしたわけのわからん活動が活発であった頃は、皆の勉学や研究もまた活発であった気がする。
さて鍋は具材を切って煮立てるだけなのでいいものの、われわれはケーキ作り未経験者の集いであった。唯一の女子である私も、無印良品のケーキ作成キットでしかケーキを作ったことがなかった。とりあえずネットで調べてスポンジの素をミックスしたものの、それを流し込むケーキの型が無いことに気づいた。根本的欠落である。仕方ないのでそのへんにあるもので代用することとし、何かの飲み会で使った紙皿に切れ目を入れて折り曲げ、何枚かをガムテープで貼り合わせ、なんともみすぼらしいケーキ型を作った。それにミックスしたものを流し込んで研究室のオーブンにかけたが、ふくらし粉的なものを入れていないので、煎餅のように薄べったい、ふわふわ感皆無のスポンジ生地ができあがった。次はそれに塗るクリームを作る。前日のバイトでもらった生クリームに、件のカカオ99%の銀紙を剥き、粉々に砕いて混ぜる。黒いクリームが出来上がった。スプーンで不器用に塗りたくり、ココアパウダーを振りかけると、見た目が真っ黒なうえ、ちょっと汚らしい暗黒ケーキができあがりとなった。

 

鍋とケーキを囲んだところで、突然T君のケータイが鳴った。
「……!」
T君は大きな目を見開き、ダメンバーに緊張が走った。例の彼女からの呼び出しであった。
「なんか……近くにいるらしいんですけど、今から会えないかって言ってるんすけど」
これは……一発逆転があるのではないか?
われわれは「すぐに行っておいでよ!」と送り出し、T君は戦地へ赴く兵士のような表情で研究室のドアを出た。
「ここで待ってるからね!」
「では、お国のために戦ってまいります!」

 

研究室に残されたダメンバーたちは、無駄に小岩井レーズンバターを舐めながら、ああだこうだと落ち着かない。弟を心配する兄姉のように、「T君、上手くやってるかな」「上手くいってるといいけど」とそわそわ。場合によってはケーキを甘いやつに作り直さねばならないかもしれない。これまで友達の少なかった私は、こんなふうに友人の恋愛沙汰にやきもきしたことなんてなかったので、なんだか(遅めの)青春っぽいなあと少し楽しかったことも告白しておく。
一時間以上待ったであろうか、またも「ススススス…」という声とともに研究室のドアが開いた。鞄で顔を隠しながら、T君が入ってきた。
「お国のために玉砕してまいりました」

 

一同は速やかに参鶏湯をあたためなおし、英霊のもとに供えた。英霊は無言でハバネロソースを鍋に大量投入した。
辛い鍋をやはり無言で掻き込み、やっと言葉を発した彼は、


「今日の俺は、昨日のM-1チュートリアルよりおもろいっすよ!」


と一連の経緯を語り出した。なお、この年のM-1とは、チュートリアル徳井が「ちりんちりん」のネタで、途中テンションが上がりきって狂気のように笑いだすという神がかった一幕を見せた年である。

T君の話が始まった。まず一昨日わざわざデートの下見に行ったこと。下見の帰り道にチャリがパンクするという不吉な前兆があったこと。そこまで気合を入れたのに、デートではどうやらうっすら振られた模様であったこと。昨夜帰ってから今日の昼まで不貞寝していたこと……。そして先刻の呼び出しは、前夜のうっすらした振りでは不十分であったと反省した彼女が、もう一度はっきり振るためのものであったという。要らん気遣いといえよう。クリスマス・イブに振られ、クリスマス当日にダメ押しで振られ直すという、振られの二段活用である。
「彼女は何て言ったの?」
「霊的に合わない、とかなんとか……」
「!?」
霊的に合わない!! どうも彼女はスピリチュアルな人であるらしかった。なかなかの印象的なフレーズである。そんな振られ方をする人がいるだろうか、しかもクリスマスに。
間髪入れず一人のダメンバーが、「そんなことを言うために彼女は、僕らの大事なT君をわざわざ呼びだしたんですか!」。美しい友情であった。

 


一連の話を聴き終えたところで苦々しいケーキ入刀となった。その前に、ピンクのデコペンで何かデコレーションせよと言われ、とりあえずケーキに「霊」と書いた。英霊の「霊」であり、「霊的に合わない」の「霊」である。黒焦げたような暗黒ケーキに「霊」の文字、その上にサンタ型ロウソクを立て、火を点けた。サンタは両手を上げ、万歳のような降参のようなポーズである
「T君、思い切りサンタを燃やしちゃっていいよ」
「そーすよ、こいつが諸悪の根源なんすよ、こんなにたくさんの人を悩ませるやつなんて!」
なぜかdisられるサンタであった。
電気を消すと、暗闇の中にぽうっと、万歳サンタの姿とピンクの「霊」の文字が浮かび上がった。
暗がりの中でわれわれは乾杯した。
「わーい、メリークリスマス!」「メリークリスマス!」
点火されたサンタが頭から溶けてゆくのを、一同は見つめた。


カカオ99%霊ケーキは、まあ当然ながら苦かった。
「ウワッ、苦い!」「あ、でもなんか噛んでるうちにちょっと甘くなってきましたよ!」
砂糖も入っているからそれも当然なのだが、「不思議なケーキっすね!」と目を見開くT君に、「最初は苦くてだんだん甘くなる……人生みたいですね」「これはT君の将来だよ」とかテキトーなことを言うダメンバーたちであった。
更にわれわれはケーキ生地の破片を「辛」「苦」などなどおよそクリスマスに似つかわしくない文字でデコレーションし、たいらげていった。なんの儀式なんだ。
私は、中学生の頃の最後のクリスマスを思い出していた。中三のクリスマス、通っていたアトリエのクリスマスパーティーに行き、友人・ナメちゃんたちとスポンジケーキにチキンの骨を突き刺したりキュウリを埋め込んだりというバカ騒ぎをして、今こうやって書くと何が楽しいのだがさっぱり分からないが、バカみたいに楽しく、もうこんなバカみたいなクリスマスを過ごすことはないのであろうなあ、と思ったものであった。学校に馴染めない私にはアトリエは解放区であったのに、アトリエの先生に「君らもう高校生になるんやろ、女の子やろ」と叱られたのは、淋しい思い出である。そんな、「私が中学男子であった頃」が大人になって甦ってきたようで、T君には悪いが、感慨深い。


その後、一同は変なテンションになり、私は昨日の試食販売の様子を再現披露するなどした。普段低い声を試食販売のときには高くできることについて、T君は「なんつーか……人生観が変わりました」ともはや意味の分からない感想を述べた。心が弱りすぎて何にでも感動するモードになっているようだった。
われわれはなかなか帰ろうとせず、霊ケーキの残骸をかじりつつ、研究室でだべり続けた。
T君がこれまでの恋愛での失敗談を語り、それに応じてそれぞれ、自分の過去の失敗談を話した。私はこれまで友達とこんなことをしたことがなかった。ああ友人とはよいものだと思った。当初「仲良くなれそうな、なんかイケてる若者」だと思っていたT君と、こんな夜を過ごすなんて、ふしぎなことだ。
そして、ああ、なんかこれリアル『太陽の塔』みたい、あの「ええじゃないか」のクリスマスみたい、と思った。アンビバレンスを抱いていたファンタジーとしての青春世界に、束の間参加しているような気分になった。

「キリストも、自分が生まれた日が、極東の国でこんなことになってるとは知るまいにねえ…」
「そーすよ!だいたいあいつが生まれるから悪いんすよ!」

T君はついにキリストまで冒涜しはじめ、降誕祭の夜は更けてゆき、わけのわからん盛り上がりと疲労感の中、われわれは延々と、大量に作りすぎてしもうた全然美味くないカカオ99%クリームを舐め続けた。

 

 

数学といとうちゃんと私


二年生になって数学の担当教師が変わったとき、皆がっかりした。
新しい教師は、「いとうちゃん」という、初老の男性教師だった。
いや、当時は「初老」と思ったが、今思えばいとうちゃんは意外に若かったのではないかと思われる。まだ40代だったかもしれない。今の私とそう変わらなかったのでないか。
いとうちゃんは背が低くぽってりとした小太りの体型に、地味な色のズボンとワイシャツ、髪の毛を七三に分け、正直いわゆる「ださい」風貌だった。
最初の授業でいとうちゃんが声を発したときの衝撃は、未だに忘れられない。
いとうちゃんは、とてもベテラン男性教師のものとは思われない、少し高く、かつヒソヒソ話をするようなか細い声で、


「お分かりのとおり、私はこの学校で一番、声の小さな教師です……」


と囀った。
みんなはぽかーんとした。

 

「教室がやかましいと全然聞こえませんので、できるだけ、静かにしてください。静かにしても、前二列くらいまでしか聞こえないかもしれませんが……」

 

事実上の「私の授業は聞かなくていい」宣言であった。これを受けて、皆ここぞとばかりに私語を始めた。
以降、いとうちゃんの授業は、実質、私語と内職の時間になった。
実際いとうちゃんの声は前二列くらいまでしか聞こえず、それに耳を澄ませてまで数学を学ぼうという生徒は、わが文系クラスにはいなかった。私語のせいでさらにいとうちゃんの声はかき消され、ただでさえ聞こえないものが余計聞こえなくなり、最前列の三人くらいしか授業を聞いていないという有様になった。午後の授業では、ときには全員寝ていた。
それでもいとうちゃんは、私語を注意するでもなく、あるいは生徒の気をひくために何か気の利いた雑談をするでもなく、淡々と小声で二次関数を説明し続けた。説明が特に上手いわけでもなかった。
その様子が気の毒に思えて、自分だけでもなんとか起きていてあげようとがんばったこともあったが、これでは寝ざるをえなかった。

 

ところでこの頃、私はやっと少し数学ができるようになった。
数学ができなすぎて一年生時の数学教師に一年間存在しないことにされ続けたことは以前に書いた通りであるが、苦手な数学も自分で予習をしてみると、どこが分からないのかくらいは分かるようになり、その部分を先生に質問しに行くようになった。
われわれのクラスを担当する数学教師は、実はもう一人いたのだが、私はもっぱらいとうちゃんに質問に行った。というのは、いとうちゃんのほうが人気がないので、競争率が低く捕まえやすかったからである。


質問にいくと、普段生徒から話しかけられ馴れていないいとうちゃんは、ちょっと嬉しそうに見えた。自分が呼ばれていると分かると、軽く驚いた様子で、困ったような笑みを浮かべていそいそと駆けてくる。いとうちゃんはいつも丁寧な言葉遣いで喋る。ときどきその声が聞こえなくなるので再度聞き直すと、いとうちゃんは、まだまだ小さいがちょっとだけ大きな声で言い直す。いとうちゃんは小柄なうえ猫背なので、背の低いはずの私が腰をかがめるような格好になる。
初回の授業での、授業を聴かせる努力を端から放棄するかのような宣言のときは、「分かってるんならなんとかしろよ!」と少しくイラッとしたはずであったが、こういったやりとりをするうちに、だんだんいとうちゃんがけなげに見えてきた。

 

或る時、他の先生に用があって職員室に行くと、よそのクラスの男子がいとうちゃんを呼んでいた。


「おーい、いとう、おるけ!」


男子は、ポケットに手を突っ込んだまま偉そうに怒鳴った。
隣にいた女の先生が、「こら、呼び捨てにしたらあかん。いとう先生、でしょ」と窘めたが、その先生も顔は怒っていなかった。むしろ、窘めてみせた後で生徒と目を合わせ、困ったような表情を作って、くすっと苦笑してみせた。その先生と生徒の間には、共犯意識というか、「(そりゃあんな情けない奴、呼び捨てにするよなあ)」とでもいうような暗黙の合意が漂っていた。その暗黙の合意は、学校全体に漂っているものでもあった。
呼ばれたいとうちゃんは、呼び捨てにされたのにそれを怒るでもなく、いつもの困ったような気弱そうな笑顔を浮かべたまま出てきて、怒鳴るように何かを尋ねる男子に対し、いつものか細い声と丁寧な口調で何かを囁いていた。


いとうちゃんは、職員室でもダメな大人だったのだろう。
生徒にはナメられるし、先生同士の付き合いにもうまく溶け込めていないように見えた。
小学校から高校にいたるまで、生徒の中では、皆と同じようにふるまう権利を得ている者と、なんとなくそこからはみ出す者が、集団生活をするうちに自然と分かれてくる。後者は、バカにしてもいい者と見なされる。スクールカーストという語は私が生徒のときにはまだなかったが、軽く扱われやすい・いじめられやすい者とそうではない大勢との区別は厳然とあった。大人になるとそんなものはなくなり、皆、対等になって誰もが堂々とできるかのようになんとなく思っていたが、大人の世界でもそれは一緒なのだなあ、とこのとき知った。しかも、教師という、人の上に立つ職業に就いてもそうなのだ。バカにされるやつは、いつまでもバカにされるのか。
私はいとうちゃんに、同族意識を覚えた。

 


そんないとうちゃんだったが、実は剣道がものすごく強いという噂があった。
剣道部は我が校で唯一強い部活だったのだが、いとうちゃんはその剣道部の顧問であり、剣道部の生徒から「すごく強いらしい」という情報を耳にしたのである。
いとうちゃんは相手をこてんぱんにしたあとに、あの細い声で丁寧に「ありがとうございました」と囁くのだ、とわれわれは噂し合ったが、そう言い出した生徒もいとうちゃんの剣道を実際に見たわけではなかったので、噂の真偽は不明であった。

 

いとうちゃんは、自分の私生活の話などはまったくしなかった。そもそも雑談をしないので、何歳なのか、既婚なのか独身なのかすら分からなかったが、あるとき、最寄駅だけが判明した。
いとうちゃんが教室に来ると、まだ前の時間の古典の板書が残っていたことがあった。
背伸びして黒板を消そうとしたいとうちゃんは、ぴたっと動きを止めた。黒板の文字を読んでいるふうだった。
古典では、誰かが出家してどうのこうのという物語を読んでおり、墨染の衣のなんとかかんとか、という和歌が板書されていた。「墨染」は僧侶の衣の色を表す言葉である。
普段無駄な話はしないいとうちゃんだが、なぜかその和歌に興味を持ったらしく、風紀委員のSさんの席へトコトコと歩いていって囁き尋ねた。


「あそこに書いてある墨染って何でしょうか」


わざわざSさんの席まで出向いたのは、クラスでいとうちゃんの授業をまともに聞いているのが、真面目なSさんくらいだったからであろう。
Sさんは、
「墨染の衣というのは僧侶の服を指していて、あれは出家のことを歌った和歌です」
というようなことを答えた。
するといとうちゃんは、「そうなんですか」と感心し、


「私は〇〇なんです。〇〇の和歌はないんでしょうか……」


と呟いて何事もなかったかのように教壇に上がっていった。
〇〇は京阪電鉄の駅名である。京阪には「墨染」という駅があるので、自分の最寄駅も和歌に出てこないのか、といとうちゃんは言ったのだった。それで、いとうちゃんは〇〇に住んでいることが判明したのだった。
Sさんは、真面目だが少し萌えツボが独特な人だったので、「そのとき、いとう先生のことすっごく可愛いって思ってん!」と授業後に熱く語った。

 

二学期になると、私は、従姉に時々勉強を教えてもらうようになった。
従姉はこのとき大学生で、哲学を専攻していた。
問題の解き方だけでなく、「ギリシャの哲学者が無限についてこう言った」とか「1と2という有限の間に√2という無限があるのはどういうことだ」とかそんな話をしてくれたので、私もおぼろげながら、数学って単なる数の操作でなくて、もとは哲学なんやなあ、ということが分かってきて面白く思えるようになった。「文系だから数学が苦手」と思い込んでいる人は、意外にこういう話を聴くと数学を好きになる可能性があるのでないかと思う。


従姉のすすめで、Z会の通信添削を始めた。Z会の数学の問題にはしばしば、入試本番にも出ないような難しい問題が出た。
あるとき、従姉も解けない問題があった。
順列組合せの問題で、何色かに色分けされたタイルの並べ方が何通りあるか、というような問題だったと思う。並べ方をいちいち数えていると大変な数になりそうだし、試験でそんなことはしてられない。よって何らかの式を立てて解を導くべきだ、ということは分かるが、その式の立て方がどうしても分からない。
従姉が考えてもついに答えが出なかったので、学校でいとうちゃんに訊いてみることにした。


わたしは翌日、その問題を、いとうちゃんに見せにいった。
今思えば、解けなくてもひと月後に解答が送られてくるのでそれを待てばよさそうなものだが、一刻も早く解き方が知りたかったのだろう。見上げた勉学意欲だが、学校の先生にとっては迷惑な話だ。


「これ、通信添削の問題なんですけど、どうしても解けなくて」
「これはむずかしいですね」


いとうちゃんはしばらくその場で考えてくれたがやはり解けず、「ちょっと持って帰って考えさせてください……」とその問題をコピーした。私は恐縮すると同時に、数学の先生なのに解けないのか……恥ずかしい思いをさせたかもしれない、といとうちゃんの心中を思いやった。

 

その日、また従姉の家に行くと、従姉は例の問題の答えが分かったとはしゃいでいた。
「理学部の友達に訊いたら一瞬で解けた! 簡単なことやったんや!」
それは一見複雑な問題だが、ある考え方を思いつけばごく簡潔な式を立てることができ、その式に数字を当てはめると一発で答えが求まる。
答えは、「300通り」とかそれくらいであったと思う。なので、いちいち数えていると膨大な時間がかかるが、或る発想が得られれば、途中式が三行ほどというごく簡単な操作で答えの出る問題なのだった。

問題が解けたことをいとうちゃんに言わねばと思ったが、いとうちゃんは、翌日の授業のときもその問題について何も言わなかったので、あのまま忘れているのかも、とも思った。
しかし、土日休みが明けた日、いとうちゃんが私を職員室に呼んだ。


「このあいだの問題、遅くなってすみません……」


いとうちゃんは覚えてくれていたのであった。
そして、得意気に、コピーした答案を持ってきた。


「やっと答えが出ましたよ」


いとうちゃんの、その声と同じく薄い弱々しい文字で、小さく回答が書き込まれていた。
その答えは、従姉が教えてくれたものと同じだった。
私は思わず、「あ、私もあの後、他の人に聞いて分かったんです。同じ答えでした」と言ってしまった。
するといとうちゃんは寂しそうに、「そうですか……」とうつむいてしまった。
しまった、言わなきゃよかった、いとうちゃんに訊いたのに他の人にも教えてもらったなんて失礼だったかな、「解けたんですか!先生すごい!」と驚けばよかった……、私は変な気を遣った。

 

とにかく、お礼を言って職員室を出、「答えの求め方は裏に書いておきました」とのことだったので、教室に帰って、裏を見てみた。
いとうちゃんもあの式を思いついたんだなー、さすが数学の先生だー、と思いながら裏を返すとそこには!
タイルの並べ方のパタン、300数通りのパタンが、几帳面にこまごまと、鉛筆によってびっしり図示されていたのであった!
いとうちゃんは結局、式を思いつくことができず、全ての並べ方を図に描いて数えるという極めて原始的かつ受験では絶対に採ってはならない方法を採ったのである。
しかも、そのやり方で答えが合っているというのもすごい。
いとうちゃん………土日を使って私のために、(あるいは数学教師としての意地のために、)タイルを数えてくれていたんだ………。
この紙は今でも、我が家のどこかに残っていると思う。

 

二年生の三学期には修学旅行があった。修学旅行はそれほど楽しくなかったが、途中立ち寄ったわさび農園は良いところだった。いとうちゃんは、他の先生からも生徒たちからも離れてひとりでわさびソフトクリームを食べていた。私とSさんが「あっ、いとう先生」と言うと、ソフトクリームをなめながら小さく手を振ってくれた。農園の隅っこでソフトクリームを手にする小柄ないとうちゃんは、おじさんだが妖精のようだった。私はその様子を写真に撮った。

 

三学期の期末テストで、初めて数学で99点をとった。しょうもない計算を間違えて1点ロスしたが、前年、クラス最低点をとって教師に無視され続けたことを思えば快挙である。テストでよい点をとって喜ぶなんてダサいことのような気もしたが、いとうちゃんにがんばったと思われたかったので、ふつうにうれしかった。
テストを返すとき、いとうちゃんが、やはり細い声で「がんばりましたね」と言ってくれた。

 

クラスの生徒たちは、受験が近づくほど、ますますいとうちゃんの授業を聞かなくなった。ほとんどの生徒は受験に数学が必要なかったからである。いとうちゃんの授業は、以前からもそうであったが、完全に内職と私語と睡眠の時間となった。必要ない授業となると、その教師までウザくなってくるものなのか、いとうちゃんは今まで以上に蔑ろにされるようになった。
イキがった男子たちは始業ベルが鳴っても廊下でたむろするのをやめず、授業にやってきたいとうちゃんが廊下を通ろうとすると、「なんやねん、いとうかよ、邪魔やねん」と邪険にした。いとうちゃんは、礼儀正しく、「あっ、すみませんね」と謝りながら、でっかい男子たちの間をちょこちょこ潜り抜けて教室に入ってきた。 

私は、噂の真偽も分からないのに、「おまえらそんな態度取ってるけど、いとうちゃんはほんまは剣道がめっちゃ強いんやで」と思い、いとうちゃんが剣を振るってそやつらをこてんぱんにした後で、累々と折り重なった男子たちの背に片足をかけ、「あっ、すみませんね」と礼儀正しく謝っている姿を勝手に思い浮かべ、勝手にすかっとしていた。
実際にいとうちゃんが剣道が強かったのかどうかは分からないままだった。
自分もバカにされる側の道を歩んできて、今後も冴えない大人になる確率の高い私は、自分の幻想を、勝手にいとうちゃんに投影していたのかもしれない。

 


その後、私は浪人し、大学に受かった際に高校に挨拶に行ったのだが、このとき、いとうちゃんに会ったかどうか覚えていない。お礼を言った記憶がないので、このときはいとうちゃんは不在で会えなかったのではないかと思う。 

それから何年かして、四月の教職員異動情報を新聞で見、いとうちゃんが退職したことを知った。
転任でなく、退職欄にいとうちゃんの名前があった。まだ定年退職の年ではなかったから、自主的に退職したようであった。
やはりあの小さな声と小さなハートでは、人前に立つ教師など向いていないと思ったのだろうか(今更?)、あんなふうに生徒や同僚にバカにされ続けるのに疲れたのだろうか、と私は想像した。
でも、単に、もうお金があって働かなくてよい、とかかもしれない。何か事情があって他の仕事をすることになったのかもしれない。それとも、健康上の理由だろうか。年齢的にもありえないことではない。


などなど、考えながらもわたしの中には、教師をやめて一人の剣士となったいとうちゃんが、刀を一本携えて流離の旅に出るようなイメージが、勝手に沸いてきたのであった。

終わりから考える癖/追悼文の練習をする癖

こういうのもポスト・フェストゥム人間というのか、いつの頃からだろうか、「終わったとき」の視点から考えてしまう癖がある。


ある土地にいたりある人とつきあっていたりというその最中にいるとき、その時代のことを、「思い出として眺めたい」という気持ちが生じることがある。今その真っ只中にいるはずなのに、その時代を水晶玉の中に閉じ込めて外側から眺めているような気分になる。何かを終わったこととして愛でるのが、安心すること、好きなことなのかもしれない。


それとは少し違うかもしれないが、これもいつの頃からだろうか、小物や洋服や文房具、きれいなもの、気に入ったものを買うとき、それが使い古されて汚くなってしまったり壊れて使えなくなってしまったりする姿を想像してから買うようになった。他の人もそうなんだろうか? 更に、そのときに言うべき言葉まで頭の中に浮かんできてしまっている。たとえば、お店で素敵だなと思う食器を見つける、それが割れてしまったときのことを想像する、そのときは言うだろう、「しょうがない、しょうがない、もう充分使ったよ」。自分の持ち物に対してだけでなく、ときに、人が大事にしているものや人にプレゼントするものに対してもこの癖は及ぶ。大事にしているあれが壊れたらあの人は落ち込むだろう、そのときなんて声をかけよう、「形あるものはいつか壊れるからね」。

 

そうだ、いつの頃からだろうか、私は「頭の中で追悼文が生成されてしまう」癖がある。現在生きている身近な人、動物、好きな有名人、について、まるで予行練習のように追悼文を考えてしまっていることがある。
その人/動物たちに、死んでほしいと思っているわけではもちろんない(少なくとも意識レベルでは)。むしろ、死んでほしくない、大事な人/動物たちばかりだ。


まめ子を飼っているとき、まめ子がいなくなったら、と何度も考えた。それは、犬や猫、ペットを飼っている人なら皆考えてしまうことだと思う。だがそのとき、「そうなったら自分はどんな気持ちになるだろう」と想像するより先に、「そうなったとき自分が書くであろう文章」が先に頭の中に湧いてくる、ということが頻繁にあった。
別に実際に「どこどこにこれを書こう」という予定として考えているわけではない。知人へのメールか、ブログか、手紙か、何に書くかは分からないが、「近い将来私はこういう感情になるだろう(こういう感情を表明したくなるだろう)」ということが、文章として生成されてくるのだった。
先回りすることで失うことのショックを防衛しているのか、といえばそれだけでない気がするし、文章を書くことを生業にしているわけではないから、職業病というのも違う。
そして、そうすると涙が流れてくるのだが、その涙が、いつかいなくなる犬に対してのものなのか、自分の文章に感動してのものなのか、もはや分からないのだった。

 

そしてまた、そんなふうにいつも、大事なものや人や動物がなくなってしまうことを考えているようでいても、なぜだろうか、実際のお別れはいつも突然にしか起こらない。

 

 

夫婦同姓について尋ねてきた学生さんに関する後悔

あれはツイッターを始めた頃であるのでかなり前のことだろうか。どういう文脈かは忘れたが、その頃の何らかのニュースを受けてか、TLでは夫婦別姓を認めるか認めないかというような議論が起こっていた。というか主に、強制的同姓への非難がなされており、私もそれにのっかる形で何かひとこと書いたのだと思う。

 

するとそれに対して、見知らぬ人からリプライが飛んできた。「夫婦同姓がいやな人は、なんでそんなにいやなんですか? 全然想像つかないので教えてください」というようなものであった。

 

私は「うぐぐ……」と思った。
知らない人で、SNS上の共通の知り合いもいなさそうだったので、どうやって私にたどり着いたのかは分からない。(おそらく「夫婦同姓」とかで検索して適当に見つけた相手にコメントしたのであろう。)
プロフィールを見ると、男子学生で、いわゆる「意識高そう」な印象であった。

 

「なんでそんなにいや」と問われても困る。
夫婦同姓が「いや」な人の中にも、多様な人がいるだろう。一方だけが改姓を強制されるのが屈辱的だとか、アイデンティティを失うみたいだとかいう人もいるだろう。(女性が改姓することがほとんどであるので)男性中心主義的だからイヤだという人もいるだろうし、特に思想はないけど不便だったり手間がかかったりするからやめてくれという人もいるだろう。その複合的な立場の人もいるだろう。そもそもイエ制度とか結婚制度自体がイヤなんだよ、結婚するならせめて別姓がいいんだよ、という人もいるだろうし、それ自体には特に問題を感じてない人もいるだろうし、むしろ自分の生まれたイエに誇りをもっていて姓を守りたい!とかいう人もいるであろう。程度についても、できれば別姓も許容してほしいな……くらいの人もいれば絶対同姓反対!という人もいよう。
そして私は別に、それらの人全体を代表するわけではない。なんで俺に訊くんだ。それに、である。


当時うまく言語化できなかったのだが、私は以下のようなことを思い、少しくイラッとした。
それに、である。そんなふうにいろんな人がいることくらい、ちょっと調べれば分かるだろう。それを、おそらく自分は姓を変えさせられることはないだろう立場の人が、「なぜいやなのか分かりません」ってなんなんだ。そんならまず考えるか調べるかしてくれよ。なんでそれを他者(=女)の問題として切り離したうえで自分は関係ないみたいな顔をして「なんで君たちそんな怒ってんの?」みたいなことを見ず知らずの人に言うてくるんや。


というようなことを私はふわっと思ったものの、SNSとはそういうものであろうと思ったし、また職業柄若い学生さんには親切にせねばならないという思いもあって、「~という人もいるでしょうし、また~という人もいると思います」的なリプライをした。
そしてそれには何のレスポンスもなかった。
この自分の対応は、関係ない知らん人相手とはいえ未だにかなり後悔している。

 

『生きづらさの自己表現』、病理と創造と安定と生活、私にとっての文章書きについて


最近読んだ本でよかったのは、藤澤三佳『生きづらさの自己表現』(晃洋書房、2014)。
精神病院での造形教室、今村花子の食べ物アート、雨宮処凛の人形作りや河瀨直美のセルフドキュメンタリー、などさまざまな事例を挙げながら、「芸術療法の視点とアートの視点の違い/交差」「アールブリュットとは」「表現することでの他者との相互作用」など、諸々気になっていたテーマが語られており、興味深い本だった。
何よりも、豊富な事例の中で、知らなかった作家・作品や詳しく知らないが気になっていた作家・作品について知ることができたのが良かった。

 

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

生きづらさの自己表現 (アートによってよみがえる「生」)

 

で、気になった箇所や知ったことを読書メモとして紹介しようと思ったのだが、それよりも、個人的な感慨と結びつけて思うところがあったので、それを整理しておきたい。(よって以下はこの本とはあまり関係のない私の個人的な話であって、書評的なものではない。)

 

上記に挙げたいくつかのテーマのうち、私がもっとも興味をもってきたのは「セラピーとアート」の関係である。
芸術で何かを表現することで精神的な困難が癒えていく過程がある。それはどういうプロセスなのか、ということはずっと自分のテーマであり続けているところである。一方でしかし表現には、それに留まらない何かもある。たとえば創造行為によってストレスを抱える人その中で病んでいく人、または症状と創造が一体であるような人もある。
そしてそのメカニズムへの興味は、しょぼい体験ではあるけれども自分自身の文章体験に基づいていたのだなあということを、この本を読んで思い出した。

 


私は現在べつにプロの売文家ではないし、文章が上手いわけでもないのだが、なぜか子供の頃から、いろんなことが苦手である中で、文章を書くことは比較的好きであり、ある時期からはその行為に深い思い入れをもってきた。その思い入れをもつに至った転機は二つあった。


ひとつは、小学四年生のときである。
それまでも作文を誉められたことはあったが、誉められたものを自覚的には良いと思ったことがなかった。たとえば、三年生のときに入選した作文は、「蝉をせっかく捕まえたのに死んだ」ということを書いたものだったのだが、自分では実際にあったこととそのときの気持ちをありのまま書いただけだし、つまらない作文だと思っていた。その他、授業で作文を書くと先生が気に入った箇所に赤で波線を引いてくれるのだが、なぜそこが誉められるのかいつもよく分からず「大人はこういうとこを評価するんやなあ」くらいに思っていた。自分では、作文というのは、道徳的なこととか立派なこと、きれいなことを書くものだと思っていた。
しかし或る日、「これからはちゃんと整理整頓したいと思います」みたいなことを書いた作文を母に見せると、母が「あんたの作文はきれいごとばっかりやん」と言ったのだった。(※私は整理整頓が超苦手であり、学習机の上も中もぐっちゃぐっちゃであった。この苦手は現在に至る。)
その母の言葉は私には衝撃だった。それによって、「えっ、作文ってきれいごとを書くもんとちゃうかったんや! 文章って、自分の思うことをありのままに書いてもええんや!」ということを知ったのだった。母の言いたいのはむしろ「きれいごとを書いたんならちゃんとそれを実行して整理整頓しろ」ということだったと思われるが、相変わらず整理整頓はしないまま、これを機に文章を書くという行為の意味付けが自分の中で転換されると同時に明確になったのであった。

 

ふたつめは、小学六年生のときである。
思春期真っ只中の時期で、学級が荒れていた。当時そんな言葉はまだなかったが学級崩壊の状態であった。学級の中での序列(いわゆるスクールカースト)が形成され始め、イジメのようなことも起こり始めた。私はカーストの下層に在りつつ、色々ドロドロした思いを抱えていた。
先生が見かねて授業時間を一時間潰し、全員に作文を書かせた。(このとき全員マジメに書いたわけであるから、今思えば皆溜まっているものがあったのだろう。)私は原稿用紙20枚に渡って、ドロドロした思い、クラスメイトに対する劣等感、焦燥感、云々をぶちまけた。(この頃既に「作文とはありのままを書くもの」という自然主義的(※日本的意味での)芸風が確立されており、日々先生に提出する日記には「生理で血がどろっと出る感触がイヤだ」「陰毛が生えてきた」「寝る前こんな妄想をする」などなど先生も反応に困ったであろうことまで書いていた。)
それから数日、ホームルームで先生が、「書いた本人は『皆の前で読まないでほしい』と書いているけれど、ごめんなさい、どうしても皆に紹介したいので読みます」と宣言し、私の20枚を朗読し始めたのであった。今思えばひどい話だが、これは結果的には良かった。自分の20枚が読み上げられる間は気が気ではなかった。皆に読まれるなんて思ってもいなかったから、「私は○○さんや○○くん(イジメっ子の名前)がうらやましく、いつも妬んでいます」など、個人名を挙げてあまり本人に知られたくないことも書いていたのだった。
先生が読み上げ終わった後、皆に何と言われるかとびくびくし、生きた心地ではなかった。しかし教室は無音になり、ホームルームが終わると、普段交流の無かった子やイジメっ子グループに属していた子がわらわらとやってきて、「うち、感動したわ」「あんなこと考えてたんやね、感心した」というようなことを口々に言ったのだった。
普段であれば対等に接することができない子と、文章を介してであればコミュニケイトすることができた! しかも普段接点のない子を「感動」させることもできた! ということは、中毒性ある体験だった。
先生は保護者懇談会でもその作文を読み上げたという。友達のお母さんにも「あなたの作文感動したわ」と言われ、文章だったら大人とも対等に渡り合えるんや!と驚いた。

 

この感覚が、私が文章を書くときに長らくもっていた感覚だった。
自分は口下手だし、見た目や挙動やいろいろがいろいろダメなので、子供の頃から他人に「一段低いもの」として扱われ続けてきた。自分でもそのような意識を持ってきた。
しかし文字を書くとき、自分と世界の間にある溝が、一文字ずつ埋まっていくような感覚を覚えた。

 


中高生の頃は、あれこれ雑文を書いては冊子にして人に読ませたりしていたし、インターネットに触れるようになってからは、個人サイトを作ってあれこれ書いていた。文章を読むと、それまでダメ扱いしていた人たちが、一目置いてくれたり人間扱いしてくれたりした。それは子供の頃から一貫していた。まとまった作文だけでなく、学級日誌やクラスの子への年賀状に添える文章(キモいほどハイテンションでそれらを書いていた)もそうだった。普段の「一段低いもの」としてではなく、それによって人間として皆と関われる感じがした。
だが、高校生くらいからたびたび、「こんなことをしていてはいけない、文章を書くなんてすっぱりやめなくてはならない」という危機感を感じるようになった。
その危機感が何だったのか、上手く説明することができない。ただなぜか、「こんなことをやってたらマトモな社会生活が遅れなくなる、ちゃんとした仕事とか結婚とかできない大人になる」と思っていた。
その感覚はなんだったんだろう。書くことは自分と社会の溝を埋める、人とコミュニケーションする手段だったはずだ。でもそれだけではない、自分を食い潰したりコミュニケーションや社会生活を阻害したりする要素もそこに感じていたのだろうが、その要素ってなんなんだろう。昇華したはずが、またゴミが出てくる、みたいな。

 

ということを思い出したのは、『生きづらさの自己表現』の中で、いくつか、社会生活と創作との葛藤をめぐる語りを読んだからである。
たとえば、第二部で、木村千穂さんという画家が紹介されている。彼女は摂食障害やアルコール依存の経験を美しい絵画作品として描いた人で、テレビ番組で紹介されたこともあるという人だが、現在はもう絵を描いていないという。
これに関して、取材の中での言葉がいくつか紹介されている。彼女は自助グループの中で、それまで絵でしか表現できなかった苦しさを言葉で語れるようになったという。(著者によると、音楽やダンスで自己表現していた人にも、自助グループで苦しみを言語化できるようになると自然と「それらを取り上げられる」状態になることがあるそうだ。)また、フルタイムの仕事も見つかった今、「今でも感じる心は自分の中にありますがもう描くことは手放してしまいました」(p.135)。苦しいときは面白いほど描けたのに、今は「絵の具はただの絵の具、鉛筆はただの鉛」にしか見えないという。
社会との接点であった絵画表現は、苦しみの言語化や生活の安定とともに必要とされなくなっている。創作はそれらを得るまでの臨時の代替手段であった、と言っていいのだろうか。

 

第一部では、精神病院の造形教室(平川病院の安彦講平によるアトリエ)の作家が何人か紹介される中、「すぎもと」という女性の絵が紹介されている。虐待経験をもち社会不安やリストカットの症状から描き始めた「すぎもと」さんは、「絵に支えられている」という。絵が注目されるも、お金が絡むと「純粋に絵と向き合えなくなる」という理由から商売にはしない。
彼女は仕事をもってもいて、会社では自分の病を知らない仕事仲間の中でよいストレスを得ているという一方で「一番恐ろしいのは、このまま、まともな社会人になってしまわないかということ」(p.43)とも言う。「自立して生活安定していく事と絵に没頭することの両立はとても難しいのです」とも語っており、それは時間の余裕など物理的事情だけのことではないのだろう。
本来、絵を描くのが治癒的価値を期待して始められたことであって、それが生きる支えとなっているというのならば、描かなくとも生が安定すればそれでいいはずである。しかし「すぎもと」さんは安定した「まともな社会人」になることを「恐ろしい」ことと言い、安定の中で描いたものを「つまらない」「どん底に堕ちなきゃ何も生まれません。今は幸せで、自分らしくないです」というのである。
描くことはセラピー的でありながら、セラピー以上の意味をもっていることが解る。

 

この、「描くこと」の両義性に、私は、自分の高校生の頃の、「書くこと」をめぐる両義的な思いを思い出したのだった。
自分と社会をつなぐもの、生を支えるもの、精神を安定させるもの、というセラピー的意味をもちながら、それだけに留まらず、「自立して生活安定していく事」と両立しない・相容れないような破壊的力をもっており、だから表現や創作は単なる安定した社会生活の代替ではありえなくて、しかし「すぎもと」さんはおそらく、その破壊的力に描くことの本質のようなものを見出し、それを重視しているのだろう。

 

かつ、本書を読んで気付いたこととして、そんなふうに私たちは表現のセラピー的側面と非セラピー的側面を対立させて考えがちであり、つまりそれは、セラピー的視点とアート的視点の対立であって(「治癒的価値をとるかアート的価値をとるか」=「社会に適応できるほどほどのところでやめとくか自壊しても表現を追求するか」)、本書でもその二つの視点が対立的に書かれている面もあるのであるが、しかし実は本書の随所で示唆されている通り、「セラピーにもいろいろあるよな」ということに思い当たったのだった。画一的な社会的スキルを身につけて社会適応しおおせることだけが「治癒」であるのか?といえばそうではなく、「治癒」の考え方も本来さまざまで、もっと豊穣であるはずなのではなかったか。

 

で、自分の文章書き歴の話に戻ると、自分の場合もこの「セラピーか(=ほどほどにしとくか)アートか(=もっとやるか)」みたいな葛藤があったのかもしれないんだけど、その後大学で論文(=別に商売ではないが義務で書かねばならない文章でかつ一定のルールに則って書かねばならず自己表現的な部分もあるといえばあるんだけど自己表現であってはいけない)を書かなあかん羽目になったので、自分と文章との付き合いはちょっと違うフェイズに入ってしまったのだが、それについてはあんまり考えたことがないのでとりあえずここで終わる。