汚さの処理を知りたい

いつの頃からか分からないが、自分について、汚い、という感じがある。綺麗な服とかかっこいいものとか、見ているといいなあと思うのだが、自分で身につけようとすると、「こんな自分が着るのはなあ」と避けてしまう、ということがよくある。似合わないとか汚してしまう(物理的・心理的に)とかいう感じがするのである。
音楽が好きな人はよく好きなバンドのTシャツなどを着ているが、私はアレが長い間できなかった(今でもあんまり着ないけど)。好きなものを、このような汚い我が身につけるなんて、なんだか畏れ多く感じる。

 

といっても別にこれは病理的な強迫観念とかではなく(たぶん)、人間なので普通に汚いわけである。老廃物も溜まるし、排泄もするし、なんかいろいろ分泌もするし、心の中にも汚いものは渦巻いているし、それで当たり前である。
ふしぎなのは、そのように汚いのがデフォルトであるはずの人間の中に、汚くないように見える人がいることである。


しばしば少年漫画などで、女の子のキャラクターが、汚れなき天使のように表象されているのを見ることがある。「いやいや、こんな女の子いねーよ」と思うのであるが、私も、キラキラとした若い少女や堂々としたモデルさんなんかを見ると、この人たちはどうしてこんなに汚さとかけ離れているのであろう、と思ってしまう。
老廃物とも分泌物とも無縁の存在であるかのようだし、心の中にも一切の邪念がないかのように見える。
だがもしかして彼女たちも、私と同じく、自分が汚いという感覚を抱えていたりするのであろうか。

 

私の場合、はっきりとこうした感覚が生じたのは、おそらく第二次性徴の頃であろう。皮下脂肪が増えてぶよぶよとした身体になったこと、体からどろどろした血が出てくること、急激に皮膚が荒れ始めたこと、など、ショックの連続であった。自分が刻々と汚くなってゆき、「もうツルリとした子供の身体を失ってしまった!」という断絶を感じた。楳図かずおの漫画に、小さなホクロのような痣が全身に広がって次第に醜くなっていく病に罹った姉妹の話があるのだが、第二次性徴の頃のショックはまさにあの姉妹の嘆きそのままであった。その後長い時間をかけてそうした嘆きと折り合いをつけられるようになったが。


キラキラした彼女たちは或いはそもそも、そんな嘆きとは無縁に生きてきたのであろうか。それとも、彼女らもそんな嘆きを経験しながら、それを克服してキラキラとした輝きを放つすべを身に付けたのか。そうであれば、そうした人たちがどのように「汚さ」を処理しているのかを知りたい。或いは汚さと無縁でありそれを克服しているように見えるのは完全に、見る側の幻想であるのか。