叔母の死

先日、四十九日も過ぎた。「あれ、〇〇ちゃん今日来てはらへんの?」と言おうとして、ちゃうやん! 今日は〇〇ちゃんの法事やん!と気付き、〇〇ちゃんはあんま喋らん人やったけどいないとなると違和感があるものだなと思った。親族一同も同様の錯覚にたびたび陥るらしく、互いに「あんた頭大丈夫か、しっかりしいや」と言いながらゲハゲハ笑っては、「これ、もひとつもらお」と茶菓子をつまむ。この一族は、法事やら葬式やらいろいろ大変なことがあっても、基本的にいつもゲハゲハ笑っているのでホッとする。

母方の一族の家には、子供の頃は、週末ごと長期休暇ごとに遊びに行っていた。いとこたちと遊び回った近くの広場や寺や神社には、学校や父方の家で過ごす平日とは違った時間が流れていた。子供時代というのはけっして、そんなよいものでもなかったが、それらの寺の石段や神社の草原は、ユートピアとしての子供時代を過ごした場所だといえる。

そんないわばユートピア的な土地の登場人物が一人いなくなったのは、仕方ないことだけれど淋しいものがある。そこへいけばいつでも、母の数多いきょうだいたちが、ときどきはなんやかんやありつつもわいわい仲良くやっていた。子供の頃から全員セットだった母きょうだいが一人欠ける、そんな日は、もっと先のことだと思っていた。


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本人たちは否定するだろうがこの一族は皆なんだか少し変わっていて……いや個性的な人たちで、世間からずれた自分もそこでは落ち着けるような感じがあった。親族の集いに行くと今でも、親族の集いというよりは自助グループに来たような感覚を覚える。といっても、アホな話、昔のしょうもない思い出、政権の悪口、小学生のような下ネタで盛り上がるだけであるが。たくさんいるいとこたちのうち、結婚・生殖している者が少ないのも特徴的で、これは父方親族たちが就職して数年後には結婚して子を設けているのと対照的である(私にも子供はいない)。亡くなった叔母は、そんな親族の中でもとりわけ変わってい……個性的であった。おしゃべりなきょうだいの中で一人だけ無口で、たまに喋っても不貞たようにぶっきらぼうで、いつまでもまるで思春期の子のようだった。


昔、大学近辺を指導教員と歩いていると、犬を連れた叔母に遭遇したことがある(大学は一族の家の近所だった)。「こちら、研究室の先生」。普通なら「姪がお世話になっております」とかなんとか言うところであろうが、叔母は「へい、そらどうも」と目を見ずに挨拶をした。教授は一瞬面食らった様子だったが、「どちらにお散歩に行かれるんですか?」と社交っぽい会話を試みた。叔母は、

「へいへい、犬の向くまま!」

と言い放って去っていった。教授は自身もかなり変わった人であったが、しばらく沈黙の後言葉を選ぶように「お、叔母さんは……少し変わった方なんですね」と言った。
しかし叔母は、人間(成人)に対して口下手なだけで、動物や子供は好きだったと思う。私も子供の頃、童謡のレコードを何度もねだっては聴かせてもらい、一緒に歌った記憶がある。「かわいいかくれんぼ」が一曲目に入っているレコードだった。

 

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大人になってからは叔母とそれほど濃密な交流があったわけではないが(会っても叔母はほとんど喋らなかったし)、知らせを受けて葬儀場に向かう日は憂鬱だった。最初に病気を知らされたのも急であったが、その日からあまりにもほどなくのことだった。しかし電車が川を越え、京都に近づくうちに、だんだん「なんか知らんけど」そういうもんなんやな、という気持ちになり、心が落ち着いてきた。


母方親族は皆、病院や検査が異様に嫌いである。祖父は15年前に米寿を目前にして死んだが、倒れて運ばれた際「病院に来るんは戦争の後以来や」というようなことを言っていた。(だが往診は受けていたらしいのでこれはちょっと「盛り」であった。)
叔母が亡くなったのは、病気の判明からわずか5日後であった。チャリで病院の入り口まで行ったところで痛みで動けなくなり、そのまま入院となったという。そんな状態になっているのに病院までチャリで行ったのだった。
本当はもっと前から痛みがあったのだろうが、誰にも言わなかったのだろう。予防医療は重要です、日頃から検診を受け、異変があれば早めに受診し、早期発見早期治療、そうすれば長く生きる可能性は上がるし周囲の人を悲しませることも減るし医療費の削減にもつながります、というのが現代の主流の考え方だと思う。私も医学部受験小論文を指導していたときなどは、そんなふうに書かせていた。しかし、「なんか知らんけど」そうしない(できない)人たちもいるのだな、と思う。
叔母たちは、べつに明確に「反医療」のような意見をもっているわけでもなく、過剰診断を怖れているとか医者に不信感があるとかいうわけでもない。ただ、なんか知らんけどできるだけ病院に行きたくないのである。もちろんそれは、純粋に自由意志による選択ではなかったかもしれない。もしかしたら、口下手な叔母は医療場面でのコミュニケーションにハードルがあったのかもしれず、あるいは金銭面で不安があったのかもしれず、そうした面への何らかのサポートがあればもっと早くに受診し、もっと長く生きられていたかもしれない。あるいはパートでなく正社員であれば、定期的に健康診断を受けられていたかもしれない。医療へのアクセスは平等でなく格差がある。そうした格差は是正されるべきだとは思う。しかしそれとは別に、予防が重要だとか、健康がよいことだとか長生きがよいことだとか、そういう価値の軸とは違う世界も「なんか知らんけど」あって、おそらく叔母はそういう世界の住人だったのであり、それはもう、「なんか知らんけど」そういうもんやと思うしかないんやな、とも思う。診断を受けた叔母は(内心は分からないが)飄々とした様子だったらしい。

 

 

葬儀場に着くと、いつもの面々が、沈痛な面持ちかと思いきや普段と変わらぬ様子でわいわい騒いでおりほっとした。コンビニで菓子を買っていったところ皆も菓子を買ってきており、大量の菓子が控室の卓袱台に盛られ、「お菓子ばっかりやん!」と笑いつつつまむ。お茶会か。

われわれは菓子をつまみつつ、叔母の部屋と病室からもってきた荷物を開け、お棺に入れるものを選ぶ作業をした。入院はわずかな期間だったが、叔母は病室に、色々可愛いものやかつての愛犬の写真を持ちこんでワールドを形成していた。見舞いで会った叔母は、普段のポーカーフェイスで、普通に人生の途上という風情だった。だが周囲のきょうだいたちに、友人への連絡や事務的な用を指示しており、叔母が長いフレーズを喋っている姿を初めて見た私は、「こんなに喋れたんや」と驚いたものだった。

遺品の中に、叔母の友人が病室にもってきてくれた手紙やお花があった。愛想のない人だとばかり思っていた叔母に、そんなに友達がいたのは意外だった。叔母は手芸を趣味としており、ハンドメイド市で知り合った仲間がいたようだった。お棺に収めることになった手紙に目を通した。手紙の中で叔母は「○○ちゃん」と本名ではない名で呼ばれていた。それは亡き愛犬の名だった。趣味の活動での屋号かペンネームみたいなものとして使っていたらしく、仲間たちにはその名で呼ばれていたらしい。それが本当の叔母の名だったのかもしれないな、と思った。
手紙には、叔母の強さと優しさ、美しい生き方を尊敬していること、叔母に力づけられて自分も創作を続けてきたという感謝などが書かれていた。「母きょうだいの問題児」としての叔母しか知らなかったわれわれの、知らない叔母の姿があった。叔母が誰かを力づけたり誰かに慕われていたりするなんて、普段の様子からは想像できなかった。
死の一、二日前に渡されたその手紙は、「これからもずっとずっとよろしく」というような言葉で結ばれていた。一見空虚な言葉のようだけれど、私も、叔母が死んで初めて、知らない彼女に出会えたような、「初めまして」のような気持ちになった。亡くなるときや亡くなった後になって初めて、知らなかったその人の一面を知ることがあるのだ。よくあることかもしれないが。


葬儀に来たいとこのひとりは、叔母の作ったブローチをつけていた。ちりめんの小さなお花を寄せ集めたもので、精密に丁寧に作られていた。叔母はそれを300円で売っていたらしい。周囲は「安すぎる」「手間を考えたらもっと高く売ったほうがいい」と言ったが、叔母は「最初にその値段で出してしもたから」と頑なに値上げをしなかったらしい。

最近はネットでも、「クリエイターは相応の報酬を要求すべき、不当に安い報酬は他のクリエイター全体のためにもよくない」という意見をよく見る。たしかにその通りだと思うのだが、叔母はおそらく、何かを作ってそれで以て人と交流することに、換金できない愉しみを見出していたんだろうなあとも思う。そのせいで周囲は、金のことでやきもきさせられることもあったが、しかしそれも、「なんか知らんけど」そういう人やったんやな、と思うしかない。


「勝ち組で金持ち」とか「長生きして子や孫に囲まれる」とかが分かりやすい幸せの形だとすると、叔母は多くの人には幸せに見えなかったかもしれない。独身だったし、金や名誉もなかったし、世間付き合いも不器用だった。しかしカツカツで悲愴だったわけではなかった。その生活の中で犬の思い出を大事にし、細かな手作業を愉しみ、好きなことを通して友人を作り、心豊かに生きていた人だったのだな、ということが、葬儀屋の一室で初めて分かった。