満月

月と同じに満ち欠けする俺たちの黒目は、廻る黒い円盤に合わせて広がったり縮んだり、同じ刺激-反応を何度も何度も阿呆みたいに、パブロフの犬は尾も振っていたの?


日曜の朝起きて頭の中で流れていた歌をふと口ずさんだら、ぺぐれす(仮)がTechnicsのプレイヤーに載せて回し始めたのは98年の音源だ。わたしたちは好きな音楽が似て同じ巣に棲むに至ったが、日頃はそんな話もあんまりしない、だけどこうして年に何度か突然に祭が始まってしまう。
そうなると、20年も前に初めて聴いて以来さんざん聴いた盤であるのに、何度も馬鹿みたいに踊ったり唸ったり語彙を失ったりし、しまいには自律神経もみょんみょんしてしまう。
そんでその日もすっかりおかしなテンションで休日を過ごす羽目になり、ターンテーブルマットの上で次に廻るはバームクーヘン、99年製の、年輪を追ってレコードの溝をくるくる廻っては左右にふれる猫の尾がふるふる。またこの感じかあ、わたしたちは失笑。この感じは14歳のときにあった。なんだろね、強度になった音が流れ込んだ内側から、つやつやの黒い銃を360°ぶっ放したい、だけど銃など持たないのではけ口を失った体液が体内でちまちまと煮え続けるだけ。


そのやり場の無さをわたしたちは何度も何度も。
休日の一日を、みょんみょんする交感神経を持て余したわれわれは無駄に自転車で走り始め、春の空気はぬるくて全然ピリッとしないが、昂奮したままお喋りを続ける。その盤にまつわる四方山を提供し合うのも何度も目かな。初めて聴いた頃のこと、その数年後のことやその数年後のこと、あのとき聴いたレコード、あのとき観たライブでどうこう、バームクーヘンの年輪に刻まれたそれらは廻り廻って新しく精製されるバターであって、思い出話のようだがぜんぜん思い出話にならない。過去の話のはずであるのにどこまでも現在のことで、充分眩しい初春の午後であるはずが光を取り込みすぎる開いた瞳孔のせいで痛い。そうする間も高速回転する盤上で、右へ左へ翻弄されつつ溝を追うのもまだまだ元気な老猫である。


わたしたちは、98年に聴いたレコードの話をする。同じ部分を何度も聴いては「かっこええ! かっこええ!」と言い合う。なんでギターがこの音からこの音へ移動するだけで「うおおお」となるのかとか、なんでここで打楽器がドドドドパパンととなるだけで「わあああ」となるのかとか、なんでかっこええと笑ってしまうのかなど、音楽のメカニズムはまことよう分からん。と言い合う。感動とか衝撃とか陳腐な表現だが適切な語彙がなくて困るね、音楽の感動は感動というよりも時に心的外傷に似ていて、「十四才」の比喩はまさに秀逸であるな、一発目の弾丸は眼球に命中、で、抜かれた眼窩は穴が開いたままや。ぺぐれす(仮)はその外傷に忠実であった。次は自分が撃つ側に、穴を穿つ側になってみたかったんだろう、少年は傷の蠢きを再現・再建しようとして楽器をもったんだと思う。ロックンロールに囚われちゃったら死ぬまで自由になれないんだって、と溜め息つきつつも、たまにかっこええやつをやる。いいね、会心の射出やん。
一方ですぐ文章で処理しようとしてしまうわたしはしかし語彙が圧倒的に不足。身体反応の記述以外にどう表せばええんか、比喩的表現以外でどう写せばええんか、困るなあ。ペンを武器に喩えて粋がってもペンはペンやし。赤い楽器をゴトリと置いたぺぐれす(仮)が寝静まってのち赤いノートをくぱっと開いちゃみたものの、しょぼいペン先からしょぼい分泌液をぽとぽと落とししょぼい白紙をしょぼく湿らすのみ。


もよんもよんした未分化の情動を散文に置き換えるはわたしにとって嗜癖的作業であったはずなのに一方でなんか味気なく。下手なせいかな。散文によって音楽製外傷に言及するんはちょっと足りない。下手やからかな。昔ロック雑誌で、音楽をセックスに喩えてる人がいて、よう分からんかったんですけど、それが性愛に似てるところがあるとするなら書かれることとの相性悪さかもしれませんねえ。かつて、まったき一体感の幻想を歩いたのち小指を解き八条口で見送る、電車が発車して残される際の、非言語の世界から言語に戻り、ペンを杖のように帰るときの、馴れた道具取り戻してどこかほっとすると同時に未分化の全能を去勢されたみたいな味気なさや。硝子張りの西口エスカレータ上より覗く、うっすら姿を見せた月はどうやら丸く、埋まったかと思うた眼窩がまだ空洞やった。

 

引き続き休日のわたしとぺぐれす(仮)は無駄に自転車で走り回りながら話した後、意味なく回転寿司屋に入り回転する寿司を捕まえる。120円の皿を獲っては広げて水玉状。皿を並べつつもまだ延々と、あれのイントロのここがかっこええよな、みたいな話をしており、四十も過ぎてまだこんなに浮かされたような気分になることがあるんですなとしみじみする。本当に本当に、十四歳時の外傷がまだフレッシュなのだね。くるくる廻るターンテーブル、くるくる廻る寿司のレーンで目も回りそうで、普段より一度ほど高い感じがするけど検温は平常やった。寿司を食べてまた無駄に走ってはお喋りして帰ってきたらば夜になっていたけれど、身体が妙に元気だから夜道を歩いて春の花を見にいこうということになる。わたしたちはフワフワ歩く。
郊外の夜道には誰もいない。時々遠くでバイクの声がしてまばらな街灯が路面に反射している。十四歳時に落としてきた、夜道に転がったわたしたちの眼球が、上転して月を見ている。暗いガード下を通り光る水路沿いを歩く。〇枚目のアルバムじゃどの曲が好き? 2曲目、おれもおれも、あれはハープとギターの掛け合いが好き、一緒一緒、だの、20年前から似たような話をしてるのにおしゃべりは止まらず、思わぬことで意見の一致を見て盛り上がっては、そんな話は20年前にしておけよ、とかセルフツッコミを入れ。口実の春の花を見上げると一緒に空が見え、いつしか雲が出て満月はおぼろ。どこまでも歩けそうではあるけれどそこで引き返し、引き返しつつもまだ浮足立っている深夜の路肩で、自動車が一台横転していた。警察が数名と、野次馬らしき人がいくらか集まっている。目撃者の一人が、中には二人乗っていたみたいです、と言っている。一人は既に助け出されました、もう一人の人はどこへ行ったのか分かりません、と言う。

 

 

 

 

引用:「十四才」(THE HIGH-LOWS)、「終身刑」(フラカン