シャーペンの消失の話

九十年以上生きた祖母が、去年亡くなった。
(このブログは何か身内が死んだ話ばかり書いている気がするが実際身内は死ぬのだからしょうがない)
祖母と孫の付き合いとしては平均より長いであろう年月、祖母のことでは色々あり、葬儀となればさぞいろんな感情が湧くことだろうと思ったが、祖母への感情は祖母が生きているうちに使い果たしてしまったのか、普段以上に心は平静だった。

 


祖母のことで最後に泣いたのは、祖母が施設に入る前のことなので、もう何年も前のことだ。
このときはまだ祖母と同居していた(わが実家は三世代同居、多いときは四世代が同居しており、小さな頃からしばしば家族について、「この人と家以外で知り合っていたら友達になれたやろか」「たぶんなれへんかったそんな人たちと同じ家の中で寝起きしてるんやなあ」と想像しては不思議な気持ちになっていた)。

ある日、祖母から「あんた、これ着よし、あげるさかい」と大きな紙袋いっぱいの衣類を渡された。検分してみると、汚れた肌着や伸び切った靴下、どう見ても高齢者用のデザインのパンツなど、到底使えそうにない衣類が大量に入っていた。「これは私は使わへんかなあ、おばあちゃん、まだ着れそうなやつは着たら?」。やんわりと断ろうと試みたのであったが、「あげる言うてんねから貰うときよし」と祖母は頑ななのだった。

この頃、もう祖母の認知症は始まっていた。ただ身体は元気だったので、アルツハイマー認知症初期の人の多くがそうであろうように、元気に動き回っては要らんことをしでかしていた。
そこへ来て、もともとの祖母の性格もあった。祖母は日頃、控えめな性格だと思われがちであったし本人の自己認識もそうだったと思うが、一方で、過度な謙遜や自己犠牲や過度な親切という形を借りて自己主張をする傾向があった。それは、女性が自己主張を禁じられてきた時代と環境によって育まれたものだと思う。こちらが「しなくていい、むしろしてほしくない」というようなことを、「私はええけど、あんたのためやから」と何度も押しつけることはしばしばあった。殊に信仰や民間宗教の実践をめぐるそれは、我が家で小さな波風を起こしてきた。そして、「こちらが要らないというものをさも有難いもののように押しつけてくる」というこのときの行為は、それまでのそうした歴史の延長上にあったので、私は「またか」と感じたのではあったが、しかしボケ始めた今では尚更反抗しても詮無いことであるし、さしあたって表面上は有難く受け取っておき、ほとぼりのさめた頃になんとかしよう、と判断したのだった。


しかし、「なんやこれは」と当該の紙袋を見つけた父が、私の説明を訊くと、猛然と祖母に突き返しにいってしまったのだった。「こんなん着られへんもんばっかりやがな、誰もこんなん要らんがな」。そんなん言うても仕方なし、貰ったことにして黙って処分すれば誰も傷つかないものを、なんでわざわざ! と私は思った。祖母がたびたび「この子は反抗期がなかった」と語ったほど優しい息子であり、ずっと祖父母に尽くす親思いの人であったはずの父は、この頃からそんなふうに怒ることがみられ始めた。息子であるがゆえの、ボケていく親を認めたくないという思いと介護疲れのためだったのだろう。祖母はただでさえクヨクヨしやすい性質であったが、息子に怒られてうろたえ、「すまんなあ、すまんなあ」と悲しそうに謝り始めた。私は「いやいや、まだ使えそうなもんもあるし、ええのんあったら貰うとくわ」と穏便に収めようとした。
数時間後、祖母からそっと手紙を渡された。何か嫌な予感がしたので、その場では読まず、誰もいない部屋に行ってひとりでそれを開いた。1万円札が包まれていた。手紙には「いつもやさしくしてくれてありがとう」というようなことがいつの間にかずいぶんたどたどしくなった字で書かれ、最後には「だんだん字も忘れてきました、もうじき書けなくなります」とあった。私は泣いた。1万円札は、返そうとしたはずだが、結局どうしたか覚えていない。

 

このときに、祖母に対する感情は全て使い切ってしまったような気がして、葬儀のときは何も新しく感慨が湧くことがなかった。そしてこれは、人が死んだ後に多くの人が経験することだと思うが、それまでは思い出す隙のなかった古い記憶が、新しい記憶とまったく平等にフラットに甦ってきた。

 

祖母からは、不要な衣類を詰めた紙袋や有難い本や何だかよくわからんお守りだけでなく、本当に嬉しい贈り物をもらったことも、そういえばあったのだった。
10歳か11歳の誕生日にもらった、便箋のセットである。

当時、私は手紙を書くのが好きだった。手紙の相手は、学校の友人や転校した子や雑誌の文通欄で知り合った子、それから愛知県のおじいさんだった。小学校から花の種と手紙をつけた風船を飛ばすというイベントがあり、それを拾った愛知県のおじさんが返事をくれたのだった(今では住所を書いた紙をあてもなく飛ばすなんてアウトだろう)。
せっせと文通する様子を見て祖母が、「あんたは手紙を書くんが好きやさかい」とレターセットを10セットほど誕生日にくれたのである。ささやかなプレゼントと思われるかもしれないが、これは今でも、人生で嬉しいプレゼント上位に入るプレゼントである。それまでは、懸賞で当たったものを使ったりノートの切れ端を便箋代わりにしたりしていたが、祖母のくれたレターセットは色とりどりで夢のようであった。テイストの違う様々なデザインがあり、可愛いもの、大人びたもの、メルヘンなもの、コミカルなものなど、相手や内容によって使い分けられそうだった。小学生女児が喜びそうなものを、祖母はどこで買い求めたのだろうか。デパートか近所の文具店か。自分で選んだのか、ポップなセンスがある人ではなかったから店員さんに見繕ってもらったのか。レターセットはその後、少しずつ大事に使った。


レターセットと一緒に、ボールペンとシャープペンシルのセットももらった。
どちらも静かな薄桃色に金色のラインが入り、金色のクリップがついていた。控えめなピンクが大人ぽく上品に思えて、「このペンで好きな人に手紙を書いたら素敵だろうなあ」と思った。私を知る人は私がそんなことを考えたのを意外に思うかもしれないが、そんな乙女ティックな一面もあったのだった。この思いは実際一年後に叶えられた。小学校の先輩(「Kのお兄ちゃん」)に年賀状を書いたのだった。年賀状も、ピンクで背景を塗り金色で枠線を書いて、もらったペンセットと同じ色合いにした。
この先輩はいわゆる「好きな人」というのではなかったけれど、縦割り班で世話になった人だった。縦割り班というのは、一年生から六年生までが所属するように作られた班で、通常は兄弟姉妹は異なる縦割り班に所属させられるのだが、私の妹は障害があり、私はその面倒見役としていつも妹と同じ班に所属させられていた。縦割り班ごとにタイムを競うウォークラリーや山登りのイベントでは、身体が弱く苦手なことの多い妹はなかなか先に進むことができない。面倒見役のはずの私も、とはいえ自らも不器用で運動神経がない。この「自分も苦手なことでいっぱいいっぱいなのに、かつ妹を気にかけねばならない」状況というのはなかなか過酷であったが、そこへきて、われわれのあまりのトロさに、班の面々が苛立ち始める。前の班長は舌打ちしてキレて先に行ってしまったし、途中までは付き合ってくれていた優等生も、途中で溜め息をついて去っていってしまい、まあ彼らも子供だからしょうがないのだが、妹と置き去られた私はもう泣きそうであった。しかし、Kのお兄ちゃんは違ったのだった。Kのお兄ちゃんが班長になったときは、妹が泣いてもまるでイヤな顔をせずにわれわれに付き合ってくれて、険しい道では励ましてくれて、なおかつ他の子もちゃんとまとめていたのだった。
われわれ姉妹は「Kのお兄ちゃんはほんまにええ人や」と言い合い、私はペンセットをもらってから、(私の誕生日は2月なので次の正月まで一年近くあったわけだが)「そや、今度、もらったボールペンでKのお兄ちゃんに年賀状を書こう」と思っていたのだった。

 

そのボールペンのほうは使い切ると同時にどこかへ行ったか捨てたかしたが、シャープペンシルのほうはずっと残っていて、なんと、三十年以上の時を経てずっと筆箱の中にあった。ずいぶん色あせて当初のピンク色がどんなだったかもはや分からなくなったし、金色部分も禿げてしまったが、ずっと使っていた。といっても(祖母には悪いが)別にそこまで思い入れがあって大事にしていたわけでもなく、途中で何度か失くしている(その後どこからか出てきた)。また私はそもそも物持ちがよく、筆箱も中学生から使っているものだし、定規に至っては小学2年生のときに地蔵盆のくじ引きで当てたものを未だに使っており、何なら文具だけでなく未だに小学生のときの服を着ている。
よってこのシャープペンシルが特別というわけでもないのだが、さまざまな何やかんやをともにしてはきたことになる。祖母が死んだとき、「いよいよシャーペンだけが残ったなあ、これもいつ壊れるか分からんな」と思って一度写真を撮った。だがスマホのカメラではピンク色が上手く写らなかった。と、そんなシャープペンシルなのであるが、ついに先日、紛失した。鞄の外ポケットに適当に挿して出かけたので、どこかで落としたのだろう。その日は街を歩き回っていたからどこで落としたかも分からないしおそらく見つかるまい。
なんなら鞄に挿したときに「これは落としそうやな」と少し頭を掠めた、にもかかわらず挿して出かけたということは、お馴染みのフロイト的失錯行為なのかもしれない。しかしそんな解釈こそ合理化というやつかもしれないし、自分の行為をあれこれ分析するのは不毛だろう。上述のように、このシャーペンには思い出はあるがそこまで思い入れがあったわけではない。もう充分使って古びていたし、何かゲン担ぎ(「これで書くと試験に受かる」的な)があったわけでもないし、高価なものでもなかっただろうし、ただなんとなく筆箱に入り続けていたので使い続けてきただけのものなのであるが、祖母がいなくなって何か月という意味ありげでも意味なさげでもあるタイミングでシャープペンシルもいなくなったことに、感慨というほどでもない感慨があるといえばあるが、別に文章に書くほどのことでもない気もするし、というそんな気分をとりあえずここに記録しておく次第である。