うちの信仰論争

生まれてほどなく妹の病気が見つかり長期入院になった。母も付き添ったため、その間の何か月間、父の実家に預けられた。
祖父母に甘やかされ口うるさく怒られることもない日々は、それなりに快適であった。だが周囲の大人は「お母さんと離れて淋しいやろうに我慢してえらいね」と誉めてくれるので、これまた快適であった。
夜、表に出て酒のケース(うちは酒屋だった)に座り、「あのお星さまにお母さんがいるのかしら」と空を眺めていると、それを見た近所の人が、「あんな小さいのに、かわいそうで涙が出そうになったわ」と祖母に話し、それを聞いた祖母がまた涙したそうだ。昼間に見たアニメのマネをしてみただけであり、更にいえばお星さまもなにも、車で割とすぐの病院に母はいたのであるが。

 

ところでその何か月間で身についたのは、「仏壇に拝む」「神棚を拝む」「お地蔵さんを拝む」習慣だった。
祖父母、特に祖母は信心深い人だった。
毎日早朝五時に起き、バスで寺に通っていた。私も何度か一緒に連れられた。妹の入院していたのは冬だったので、寒い冬のバス停を覚えている。
帰ると、また仏壇の前に座り朝食前の読経、夕にも夕食前の読経。「朝に礼拝、夕に感謝」(京都人しか伝わらんのかな…)である。
祖父母と暮らした何か月間で、私は「般若心経」を暗誦できるようになった。当時4、5歳であった私は吸収もよかったのであろう(今はすっかり忘れてしまった)。祖父が仏壇の前に座りお経を上げ、その後ろに祖母が正座し目を伏せて唱和する、その後ろに私も座るのだった。「〇〇(妹)ちゃんが早う退院できるように、仏さんにいっしょけんめ拝むんえ」と祖母は言った。
お仏飯を運ぶのも私の係になった。お仏飯は、人間のごはんをよそうより先によそい、人間が食べるより先にあがってもらわなくてはならない。そのままでは背が届かないが、仏飯運び専用の延長触手みたいなやつ(名前があるはずだが知らない)があり、それを使うのが楽しかった。仏飯を供える台は三か所あった。端から置こうとすると「真ん中から置かんとあかん」と注意された。「真ん中の仏さんが一番えらい仏さんやから」。仏さんにも順番があるんや、と思った。


仏壇に手を合わせた後は、神棚に手を叩く。天照大神その他に祈るのも日々の恒例であった。神棚に接する天井には「雲」と書いた紙が貼られていた。
祖母は「神さん」「仏さん」にくわえ、「お地蔵さん」も信仰していた。散歩中に地蔵に出遭うと足を止めて一礼した。祖母はいつも言うのだった。「両肩には帳面を持ったお地蔵さんが乗ってはって、ええことをしたら右、悪いことをしたら左のお地蔵さんがそれを帳面に付けはる。あんたのことをずっと見てはるんえ」。
わざわざ遠くのお地蔵さんを拝みに行くこともあり、私もしばしば連れられた。甘い煎餅をくれるところもあった。特定の病に効くとされる地蔵のところには足繁く通っていた。妹のことを祈るためである。後年祖母は、若い頃の些細な悪事を思い出しては「〇〇ちゃんが病気になったんは私のせいやった」と言うことがあった。祖母の熱心な信仰行動の背景には、そうした罪悪感(それは誇大感と一体ともいえる)があったのかもしれない。信仰と罪悪感のどちらが先かは分からないが。
妹が少し良くなったと聞くと祖母は、「おばあちゃんやらあんたやらが、毎日いっしょけんめ神さん仏さんに拝んでるからえ」と言った。

 


祖母は信心深い人だったが、厳密な意味で「宗教」を信仰していた、とはいえないかもしれない。「宗教」の定義にもよるだろうが。またそれは祖母に限らず日本人の一般的傾向なのだろうが。ともあれ祖母において、仏さん、神さん、お地蔵さんへの信仰は、その他、ご先祖さん、天皇陛下、某修養団体、町内の地位の高い人……などなどへの崇拝と地続きであり、それらは超越的なものをめぐる信仰というよりも、それぞれ道徳的なものの一環という感じで、そうした「なんか道徳的なもの」がひと連なりの道徳宇宙を形成していたというか。
たとえば「美容」なんかも、道徳宇宙を形成する一環だった。「冬も顔は水で洗わなあかん」とか「手作りの米ぬか石鹸が一番ええ」とかいう教えは、単なる美容上の注意というよりも、「なんか道徳的なもの」だった。理屈上は「お湯で洗うとシワができるから」「米ぬかは肌がつるつるになるから」ということなのだが、それよりも重要なのはおそらく、水で洗う冷たさや石鹸を作る手間であって、それは何か「婦徳」的なものと結びついており、かつうっすらと、マゾヒズム的色彩を帯びていた(そもそも美容という領域が一般的にそういうものなのかもしれない……というのは暴言か)。

 

よって、私にとっても「仏さん」や「神さん」を信じること、それを拝むことは、そういうものとして受容された。
それのために早起きしたり、仏壇にご飯を上げ下げしたりすることは、祖父母の言葉で「信仰」と呼んではいたけれど、同時に大人に誉められる「なんか道徳的なこと」であった。かつそこには――痺れる足で正座したり寒い冬の朝に寺に行ったりすることには、健気な自分へのマゾヒズム的自己愛があったと思われる。


ともかくそのようなわけで、妹が入院していた何か月かの間に、私はすっかり「信仰」のある少女になった。
妹が退院すると再び母と住むようになったが、祖父母の家とはほぼ毎日行き来があったため、信仰少女活動は続いた。
祖父母にもらった本を母に勧めたこともあった(それは仏教の本であることも某修養団体の本であることもあったが区別はついていなかった)。何か良いこと悪いことをするとしょっちゅう、「肩のお地蔵さんが見てはるんやろか」と思った。
母方祖母に、「もっと仏さんを拝まんとあかんで」と説教したこともあった。母の実家にも仏壇はあったが、父の実家のように熱心に信仰している気配はなかった。母方祖母はくだけた人で、私がそんなふうに言うと「へえへえ、〇ちゃんは偉いなあ」と笑っていた。あとで父方祖母が、

「向こうのおばあさんに会うたら、あんたに怒られたて言うてはったわ。うちのおばあちゃんみたいにもっと信仰せなあかん、て言うたんやてな」
と嬉しそうに報告してきた。

 

 

 

そんなある日のことであった。
自宅で母と何かの話をしていたときのことである。どういう文脈だったかは忘れた。
私が「神さん、仏さんがどうのこうの」といつもの教えを披露していると、母が堪りかねたように、そして厳しい声で、「神様や仏様はいない」と言い出したのである。

母に「信仰」がないことは、以前から知ってはいた。私が祖母から聞いた話をするたびに母は、自分はそれを信じないということを言葉の端々に表していたので、私は母を折伏せねばならないという使命感をもっていた。

「〇ちゃんはいつも神さん、仏さんて言うけどな、そんなんはいーひんのやで」

「なんでそんなこと言うん!」。私は激昂した。母はこう返した。

「ほな、〇ちゃんはなんで神さんがいると思うん。どこにいはるん、仏壇の中にいはるんか、神棚にいはるんか、空の上にいはるんか。〇ちゃんは見たことあるん。どこで見たん」

問われて私はウッとなった。
仏壇に向かって拝むとき、仏様の絵が描いてある布をいつもなんとなく見ていて、あそこに仏さんがいはるんかなあとなんとなく思っていたが、あれは絵だ。
「仏壇の中にいはるん見たもん」
と言うと母も
「それは絵やろ」
と言い、たしかに絵や、と思った。
「自分の目で見てもいーひんのに、何でいはるて思うん? 神様や仏様がいない証拠はないけど、いはるていう証拠もないやろ?」

今思えば、4、5歳児相手に徹底的な詰め方である。折伏するはずだった娘は、折伏されつつあった。家庭内宗教戦争である。

そういえば自分は、神様や仏様の存在の証拠になるものを特に持っていない。祖父母が存在すると言っていた、それだけである。そもそも子供とはいえ私とて、本当に神仏の「実在」を信じていたかといえばそこは微妙で、そのことは薄々自分でも気づいていたのだった。ただそれを信じること、信じる身振りをすることが、祖父母に誉められることで正しいことで気持ちのよいことだったのだった。一方で母の言うことは大変なショックだった。信仰していたものが崩れていくショック、正確にいえば信じていた道徳的価値が崩れるショックである。これまで唯一正しげに思われていた何かは母にとってはそうではないらしく、私は混乱した。敗戦後の日本国民もこうだったのだろうか。
私は動転し、号泣しながらなおも言い募った。

「仏さんを信じひんと地獄に落ちるておばあちゃんが言うてはった」

「地獄とか極楽とかは、この世の人間が気やすめに考えたもんやとお母さんは思ってるわ」

「でも仏さんも神さんもいはるもん!」

「信じるんは自由や。せやけどお母さんは〇ちゃんに、自分の頭で考える人になってほしいねん。分からへんことを、神様のせいや、で終わらせる人になってほしくないねん。疑うことは大事やで。疑うことから科学は発展したんやで」


私は号泣しながら家を出て祖父母のもとへ行った(徒歩ですぐの距離だったのだ)。冷蔵庫を整理していた祖母は何事かと驚いた。「お母さんが仏さんを信じてへんて言わはるねん」と訴えると、祖母は「そんな人いるわけがない、お母さんもほんまはどっかで信じてはるんやで」と言った。だいたい予想した答えだった。しかし私は、「(そんなこともなさそうや)」と思った。

 

***


さて2020年の今となっては、宗教/科学を切り分けて対置するのもまたシンプルすぎるとは思うが、しかしこのとき呈示された「科学」という世界観は、当時の私にとってまったく新たな世界観であり、母は別にフツーの主婦であったが、4、5歳の子相手にそんなことをよく言い聞かせたものだと思う。


ところで、この、「信じる・疑う」という言葉はその後、別の文脈でも現れた。


小学生の3、4年生になった頃である。
Fちゃんという女の子と仲良くなり、一緒に風呂屋に行く約束をした(この頃「友達同士で風呂屋に行く」という娯楽が流行っていたのだった)。
その頃、女子の間では、「私とだけ仲良くして、他の子と浮気しないで」とかいう疑似恋愛みたいなものが蔓延していた。Fちゃんは、前から仲良しだったYちゃんにそのように言われていたが、「でもトンちゃん(※当時の私のあだ名・肥ってないのにデブキャラだった)とも仲良くしたいねん」と言ってくれた。
だが! 連れ立って風呂屋へ行く途中でなぜかYちゃんに見つかり、Yちゃんが「私以外と遊ばんといてって言ったのに!浮気や!」と激怒し、FちゃんはYちゃんをなだめながら私を残して去ってしまったのだった。
洗面器を抱えたまま置き去りにされた私は、家に帰るやいなや泣き出した。何事やねんと驚く親に経緯を話し、「Fちゃんのこと信じてたのに……」と呟いた。


父は、
「女子は陰湿でイヤやな、男の喧嘩はさっぱりしててええぞ」
と言った。今思えば、子供にそんなジェンダー観を植え付けないでほしいものだが、当時は「(そうかあ、男子はええな)」と思った。

一方母は、傷心の私に対してこう言ったのだった。

 

「あのな、『信じる』っていう言葉は聞こえはええけど、ほんまはすごいアホなことなんやで。『信じて裏切られた』なんていうのはしょうもないことやねんで。疑うことは大事やで」


ああ、小さいときにもこんなやりとりがあった……と思い、今度は私は、かつての母の教えを忘れていた自分の愚かさを恥じた。しかし今思うと、当時まだ若い女性であった母に、「信じること」をめぐって、一体何があったんだろうとも思う。