以前の私と最近の私

たとえば学会やアルバイトで知らない遠くの土地に行くことはあった。知らない駅で降りたら、その駅周囲の地図を見る。が、そうするとそのとき自分の世界はその駅の周囲の半径何メートルかだけになっていて、その世界は、普段居住・行動している地域とは切り離された世界だった。つまり、そこは電車を降りたところにぽっと広がっただけの一区画であって、その知らない土地と自分の普段の世界が実はちゃんとつながっているという感覚がまったくなかったのだった。京都盆地碁盤の目の中にいるうちはまだ、こちらが北でこちらが南で、と考えられるのだが、碁盤から出たらもう、どちらが北とか南とかそんなことは考えもしなかった。というか、北とか南とかいう概念がなくなっていた。自分の住んでいるところと同じような北とか南とかが、他の土地にもあるという発想がなかったのだった。
何処かへ行ったときに、「ここは何処で、日本地図の中ではこのへんにあって、自分の住んでいるところからどの方角にあって、自分の住んでいるところとどのようにつながっている」ということを意識するようになったのは、やっと、27、8歳の頃であった。遅すぎる覚醒である。


それと併行して、時間の概念というものもやっともてるようになった。
以前は、昨日の自分と今日の自分、去年の自分と今年の自分が有機的につながっているという感覚があまりなく、出来事だけが記憶の中にばらばらに配置されており、過去のことを思い出すと夢の中にいたような心持ちになったものだが、やはり27、8歳の頃から、一応、以前と今が連続しており、以前の行動の結果として今の状態があったりなかったりする、という感覚が芽生えた。遅すぎる芽生えである。
最近は、自分のことに対してでなく、周囲の他人や事物についても、時間の流れというものがあることが分かった。若い作家やミュージシャンの作品を読んだり聴いたりすると、「この人は●年後どんな作品を作ってるんかなあ」と考えたりする。以前は、他人というのは「仮初に急ごしらえされた者たち(c:シュレーバー)」のように、自分の前に姿を現したときの形で完成されていてそれ以上変化したり進化したりしないものであったので、他人も変化しうる未来をもっているということが分かったなんて、いろんなものの後先をそれなりに見てきたからだよね、嗚呼大人になったねえ自分、と思う。

といいつつ、何年かしたら今のことも、やっぱり夢の中にいたようだと思うのかもしれない。