虫恐怖の発生とその予後

思春期に入った頃、幼い頃には普通に虫を追っかけてた子たちが、次第に虫を気持ち悪がるようになり始めたのが不思議であった。
だが、かく言う私もまもなくそうなってしまった。


幼い頃はむしろ虫好きで、蟻やダンゴムシを捕まえて飼ったり、道で拾ったミミズを振り回したりしていた(ミミズはいい迷惑である)。近所のおばちゃんに「ようそんな気持ち悪いもん触るわ!」と言われ、「なんで? 可愛いのに」と、おばちゃんの気持ちがさっぱり分からなかった。
「私は虫は大嫌い、とてもさわれへんわ」
おばちゃんが言うので、
「トンボとかチョウチョなら大丈夫?」
と尋ねると(トンボやチョウチョは綺麗な虫とされることもあるため)、
「トンボでもチョウチョでもダメ!虫はぜんぶ気持ち悪い!」
と激しい拒否に遭い「そんな人いるんやー!」と驚いたものである。


以前(二十年ほど前か)、テレビで、小学生高学年の男児と女児に虫を見せてその反応を比較する調査をしていた。男児は冷静な反応だが、女児は殊更大声でキャーキャー騒ぎ逃げ惑う、という調査結果で、「女の子は高学年になると、異性の目を気にして、虫を怖がってみせるというジェンダー役割を演じるようになる」というような結論が下されていた。
この論には納得できるところもないではない(異性の目を気にしてかはどうかは別にして、対外的アピールとして過剰に怖がって盛り上がる、ということはあるだろう)し、安易に「自然な女らしさの発露」として説明しなかった点は立派であると思う。しかし、この年代の虫恐怖をジェンダー規範だけで説明できるかといえば、どうも、それだけではないものがあるように思った。
というのは、私の周りには、虫嫌いの男子もいたし(彼らも幼い頃は平気だったという)、また、自分が虫を怖がり始めた頃の心理を思い出しても、「女性的役割として怖がるようになった」という単純なプロセスで説明できるとは思えない。


あんなに平気でむしろ好きだった虫を、気持ち悪く感じ始めたときのことは、少し覚えている。
エピソードとしてはっきり覚えている事件は二つあり、ダンゴムシ事件とアオムシ事件である。


ダンゴムシ事件は、まだ低学年の頃の事件であるが、私が虫と距離を置き始めたきっかけである。その頃、私は家の周囲でダンゴムシを見つけてはせっせと集めポケットに山盛り詰めて家に持ち帰っていた。今思えば、親はさぞイヤであっただろう。収集している最中に近所の虫嫌いおばちゃんに遭遇して悲鳴を上げられたりもしたが、私はご機嫌だった。持ち帰ったダンゴムシはベランダのバケツに入れて飼っていた。
しかし或る朝、前の日にバケツに入れておいたダンゴムシの様子を見にベランダに出、私はショックを受けた。
いつもは土と一緒に入れていたのだが、このときはバケツに土を入れずダンゴムシたちだけを入れていたためだろうか、全員白く変色して死んでしまっていたのだ。その姿を見ると急に恐ろしくなり、咄嗟にダンゴムシたちの遺骸をベランダから撒き棄てた。
彼らが変わり果てた姿になっていたこと、それが自分のせいでそうなったにもかかわらず気持ち悪いと感じてしまったこと、昨日まであんなに可愛く思っていた彼らが急に恐ろしく思えたこと、すべてがショックであったが、同時に、「おばちゃんが虫は気持ち悪いって言うてたのは、こういうことやったんや」と、大人の気持ちをひとつ学習したようでもあった。

 

この事件をきっかけにダンゴムシ収集をやめ、虫との縁もあまりなくなった。しかしまだ、虫嫌いというほどにはなっていなかった。中学年になっても、相変わらず学校で「毛虫クラブ」という謎のクラブを結成し(学校内の毛虫の多い中庭を「毛虫、毛虫」と言いながら歩き回るだけのクラブ、友人4人が参加していた)、虫嫌いになり始めた周囲の子に、「毛虫なんて気持ち悪いわ」と蔑まれたりしていた。
はっきり自分が虫嫌いになったと分かったのは、アオムシ事件においてである。高学年になった頃だった。周囲の友人らは既に、立派な虫嫌いに育っていた。或る日のこと、理科の教科書か何かを眺めていると、アオムシの大きな写真が載っていた。それを見ているうちに、身体にウニョウニョとした違和感を感じてぞわぞわと気持ち悪くなり、思わず教科書を投げてしまったのであった。それからその頁を見るのが怖く、頁を開かないようにホチキスで留めてしまった。
このとき、「虫が気持ち悪い」というのが感覚としてハッキリ分かり、「皆が虫が気持ち悪いというのはこういうことだったのか!」「なぜ子供の頃は平気でこんなのを触っていたのだろう、さっぱり分からない」と思ったのである。かつては虫嫌いのおばちゃんの気持ちを「さっぱり分からない」と思っていたはずだったのに!
この頃から私は、虫が出てくる怖い夢を見るようになった。


このとき感じた嫌悪感は生理的・感覚的なものであり、社会規範だけで説明できるものではなさそうだ。とはいえ、生理的・感覚的と思われたものも実は、社会規範によって規定されている面もあるし、恐怖の原因が本質的に何であるか、などということは決定的な答えの出し難い問いであろうけれど、自分の体験から考えられる虫恐怖についての仮説としては、それは、大人になっていくこと、人間になっていくことと関係があったのだろうと思う。人が大人として、人間として統制されていく中で排除されるべき動物性や官能性やウニョウニョやモゾモゾが、虫に投影されるのかもしれない。(精神分析的に考えれば恐怖症とはすべてそういうものなのかもしれないが。)


同時に自分の感覚では、虫恐怖は、大人になっていく自分の身体とも関係していたような気がする。第二次性徴期に起こる、気持ちの悪い諸々もまた、虫に投影されていたのではないか。
と思うのは、私は高校生になって、再び虫を克服したからである。


この時期のことはよく覚えている。
小学校高学年から中学時代の自分は、大人になっていく自分の身体がとにかくイヤだった。月経だの皮下脂肪だの周囲から期待される「女性らしさ」だの生殖だのそういうグチュグチュしたものがどうにも気色悪く、それらが削ぎ落されたツルリとした何かなりたいよ~と切望していたのであったが、高校生になった頃、何か急に、「それらを受け容れる戦略に変えよう」と思い立ったのであった。
その受け容れ戦略の一環として、なぜか、虫恐怖の克服もあった。つまり自分の中では、嫌悪すべき身体性と「虫」は同一視されていた、少なくとも隣接するものであったのであろう。もちろん自分の場合はこうだった、というだけなので、一般化できるかは知らない。ただ自分の場合は明らかに、この頃若干わざとらしく始めた、月経と向き合ってみたり、育児書に興味をもってみたり、という活動の一環として、虫との再触れ合いもあった。
学校の宿題として妹が飼っていたアオムシにこわごわ接近し始めたところ、次第にアオムシが可愛く思えてきて、やがて、かつて幼年期にそうしていたように、自分でアオムシを捕らえてきて飼い始めた。あんなに可愛かったものがこんなに気持ち悪くなってしまった、からの、一周廻って、あんなに気持ち悪かったものがこんなに可愛くなってしまった。以降、毎年せっせとアオムシを捕らえては羽化させるようになった。そうしているうちに、妹が虫嫌いになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

汚さの処理を知りたい

いつの頃からか分からないが、自分について、汚い、という感じがある。綺麗な服とかかっこいいものとか、見ているといいなあと思うのだが、自分で身につけようとすると、「こんな自分が着るのはなあ」と避けてしまう、ということがよくある。似合わないとか汚してしまう(物理的・心理的に)とかいう感じがするのである。
音楽が好きな人はよく好きなバンドのTシャツなどを着ているが、私はアレが長い間できなかった(今でもあんまり着ないけど)。好きなものを、このような汚い我が身につけるなんて、なんだか畏れ多く感じる。

 

といっても別にこれは病理的な強迫観念とかではなく(たぶん)、人間なので普通に汚いわけである。老廃物も溜まるし、排泄もするし、なんかいろいろ分泌もするし、心の中にも汚いものは渦巻いているし、それで当たり前である。
ふしぎなのは、そのように汚いのがデフォルトであるはずの人間の中に、汚くないように見える人がいることである。


しばしば少年漫画などで、女の子のキャラクターが、汚れなき天使のように表象されているのを見ることがある。「いやいや、こんな女の子いねーよ」と思うのであるが、私も、キラキラとした若い少女や堂々としたモデルさんなんかを見ると、この人たちはどうしてこんなに汚さとかけ離れているのであろう、と思ってしまう。
老廃物とも分泌物とも無縁の存在であるかのようだし、心の中にも一切の邪念がないかのように見える。
だがもしかして彼女たちも、私と同じく、自分が汚いという感覚を抱えていたりするのであろうか。

 

私の場合、はっきりとこうした感覚が生じたのは、おそらく第二次性徴の頃であろう。皮下脂肪が増えてぶよぶよとした身体になったこと、体からどろどろした血が出てくること、急激に皮膚が荒れ始めたこと、など、ショックの連続であった。自分が刻々と汚くなってゆき、「もうツルリとした子供の身体を失ってしまった!」という断絶を感じた。楳図かずおの漫画に、小さなホクロのような痣が全身に広がって次第に醜くなっていく病に罹った姉妹の話があるのだが、第二次性徴の頃のショックはまさにあの姉妹の嘆きそのままであった。その後長い時間をかけてそうした嘆きと折り合いをつけられるようになったが。


キラキラした彼女たちは或いはそもそも、そんな嘆きとは無縁に生きてきたのであろうか。それとも、彼女らもそんな嘆きを経験しながら、それを克服してキラキラとした輝きを放つすべを身に付けたのか。そうであれば、そうした人たちがどのように「汚さ」を処理しているのかを知りたい。或いは汚さと無縁でありそれを克服しているように見えるのは完全に、見る側の幻想であるのか。

 

おかあさん

先日、初めて、見知らぬ若者(居酒屋の客引き)から「おかあさん」と呼びかけられてしまった。


私は年齢的にはエエ年かもしれないが、子供を産んだことがないのでお母さんという呼称で呼ばれることには馴染みがない。また、学生時代が長かったせいか、自分がおばちゃんであるという意識も薄い。それが、なんなら自分とそんなに年が変わらん(ように主観的には感じられる)男性に「おかあさん」と呼ばれてしまい、狼狽して思わず、「お、おかあさんちゃう!」と強めに否定してしまい、まだまだ修行が足りぬと思った。べつに修行する必要もないのだが。

 

それにしても、日本語での、見知らぬ相手に対する二人称の呼びかけは、なかなか選択が難しいと思う。
私は、自分が初めて見知らぬ他人に「おかあさん」と呼びかけた思い出も思い出した。

 

それは7、8年前のことであった。通りで信号待ちをしていると、横で信号を待っていた知らない婦人から「ええ色やねえ、よう目立つわ」と声をかけられた。60代くらいの婦人だったであろうか。
そのとき私は濃い青のワンピースを着ていた。「よう目立つわあ、若い人はきれいな色が着れてええねえ」。


だが、その人も、ショッキングピンクのやたら可愛いシャツを着ていたのだった。パキッと目立つ色が好きな人なのだろう。私はお返しに、「あなたの服もきれいですよ」というようなことを言いたかったのだが、そう言おうとしてハッと、なんて呼びかければええんや? と困った。


「あなた」は日本語の標準的二人称ではあるが見知らぬ目上の人にいきなり使うのはやや不躾な印象になる。そもそも関西の口語ではめったに使われないと思う。「君」「あんた」「おたく」はもっと違う。「おばさん」「おばちゃん」はなんとなく失礼な気がする。「おばあさん」では更に失礼であろう、そこまでの年齢でもない。かといって「お姉さん」ではわざとらしいし、「奥さん」も変だ。「そちら」「そっち」では、親しみを込めて声をかけてきた相手に対し他人行儀な気がする……

 

と、逡巡した結果、私は、

「おかあさんもきれいですよ」

と言うた。

 

言うてから「うう…」と思った。これは私の初「おかあさん」だったのだ。
くだけたコミュニケーションが得意な人はこの「おかあさん」という呼称を、(実際の母親以外に)使うのが上手いように思う。たとえば、TVでは関西芸人が街の中年女性に「おかあさん」と呼びかけるのをよく目にするし、店で年輩の店員さんに「おかあさん」と呼びかける文化もある。しかし私にはその文化がなかったため、若干のぎこちなさが否めなかった。
また、昔、新聞の投書欄で「私は自分の子でもない人からお母さんと呼びかけられるのはイヤだ」という投書が載っていたのも見たことがある。私もこの頃、未婚であるのに「奥さん」と初めて呼びかけられ、なんだかちょっとイヤな気がしたことがあった。その立場でもない立場名で呼びかけられるのはなんだか決めつけられているようで……でも妥当な呼びかけがほかにないし!……


……などなど一人で勝手にぐるぐるしていると、婦人は少しだけ驚いたような表情で一瞬沈黙したのち、

いやあー、おかあさんはもうトシやさかいあかんわー


と、一人称が「おかあさん」になった。

 

 

蹴上浄水場の思い出

この季節になると、京都・蹴上浄水場はつつじが満開になり、同時に一般公開が行われる。
今年は、その姿は見ていないけれど、初夏の新緑の中、小高い斜面に並んだこんもりと丸い樹々に、紫、白、ピンク、赤が咲き乱れる様子は大変美しい。
蹴上浄水場の近くには、東山ドライブウェイの入口がある。子供の頃、しばしば父の車に乗せられてドライブウェイを走ったのであったが、当時はなぜか、そのこんもりのひとつひとつを人のお墓だと思っていた。

 

蹴上浄水場にはいくつか、良い思い出がある。
ひとつは、小学校四年生のとき、社会科見学に行った思い出である。
なぜか日にちまで覚えていて、4月30日だった。
別に普通の社会科見学であり、私は学校行事にはしんどい思い出のほうが多いのだが、この日はなんだかとても楽しかった。つつじの咲く中に座り、班ごとにお弁当を食べた。班は男女二人ずつ、四人の斑で、女の子は当時一番仲の良かった友達、男の子二人も意地悪じゃない優しい二人で、いい人たちに囲まれ、天気も良く、「幸せだな! ずっとこの日が続けばいいな!」と思った。


大きな貯水槽を見せてもらい、「ここの水が皆さんのおうちの水道へ行きます、だからここには絶対に物を落としたりしないように」と職員さんに言われた瞬間、H君という男子が鉛筆を落としてしまい、大騒ぎになった。
考えてみればそんな絶対に物を落としてはならないようなところを無防備に子供に公開しないであろうから、たいした問題ではなかったのだろうが、しばらくの間われわれは「何日かは水道の水飲んだらあかんで」「水道からH君の鉛筆が出てくるぞ」と言い合った。

 


もうひとつは、大人になってからの、母との思い出である。
母方の祖父が亡くなった後、母は体調を崩した。
体調はなかなか良くならず、母は重病を疑い始め、大病院で検査を受けに行くことになった。今思えば、これは、敬愛する祖父への母の同一化の心理によるものであったのだろう。愛する者を失うことは、それだけ、エネルギーを使い現世的リビドーを奪われるものであるのだと思う。
私も当初、たいしたことないだろうと思っていたが、母があまりに言うので、ほんまに母は重病なのでないかと心配し始め、覚悟をしながら検査が終わるのを待っていた。元来私は心配性なのである。
検査が終わり、父の車で母を迎えにいった。しばらく車は通りを走ったが、母は何も言わなかった。
昔よく通った、東山ドライブウェイを通ろうと父が言い出し、蹴上浄水場の前に差し掛かったときやっと父が「そんで、どやったんや」と訊いた。母は、「うん、どうもなかったわ」と答えた。「どうもなかったんか」と父が言った。


われわれは、近くの店で買ったコロッケを、齧りながら浄水場の横を走った。
五月も終わり頃で、もうつつじは咲いていなかったが、このとき窓から見えた青空の下の蹴上浄水場の緑は、つつじの満開時にも増して、はればれと輝くようだった。

 

その数年後、母と浄水場の一般公開に行った。
つつじの間を抜けて斜面のてっぺんまで登り、てっぺんからつつじ越しに町を見下ろし、母は、「子供の頃に遊んだ町や、懐かしわあ、懐かしわあ」と何度も言った。

 

元暴走族の思い出

中学の頃、趣味の合う友人何人かとよくつるんでいた。同じく、趣味を通して、他校の子たちとも交流していた。といっても、雑誌の文通欄で知り合った子たちだった。この頃、まだメールやネットのない時代であり、文通という文化が健在だったのである。
われわれは、集団で手紙やイラストを描いたのを同封して相手方に送り、向こうも何人かでそれに応じてくる、というような交流だった。


ところがあるとき、そんな交流の中でトラブルが起こった。
われわれの仲間であるK子ちゃんが動揺しながら、「どうしよう、ひどい手紙が来た」と、相手の子たちから届いた手紙をもってきた。
開けてみるとそこには、われわれをバカにするようなふざけた落描きと、「本当はお前たちのことなんて大嫌いだよ」などの罵倒の文言が書かれていた。「バーカバーカ」「死んじゃえば?」etc。
それまでは機嫌よく文通していた子たちである。楽しく日々のことや好きなもののことなどなど手紙に書き合いはしゃいでいたのに、なぜ突然にそんな手紙が送られてきたのか、まるで分からなかった。びっくりして「えー、ひどいー……」と呟くと、いつもは私のことをからかってばかりのNちゃんが、「大丈夫? ショックやんな。あんたは繊細やから、こういうのダメやのに~」と心配してくれた。動揺していたK子ちゃんは「こいつらむかつく!」と既に怒りモードに入っていた。
しかし私は、たしかにショックを受けはしたがその一方で、
「(おおー、これがよく漫画とか小説で見る『友の裏切り』みたいなやつかー、私にもついに『友の裏切り』経験がやってきたぞ! これで『友の裏切り』的なテーマが解るようになったんや!)」
と、青春経験値をひとつゲットしたような気持ちでもあった。

 

その手紙はなぜか私に託された(心配されていたのになぜ私に託されたのかは謎である)。やはり、見て良い気持ちのするものではなかったが、私は時々手紙を取り出して眺めては、積極的にイヤな気分を味わっていた。正直、普段会うこともない他校の子なので、こんなふうに決裂しても特に普段の生活で実害はない。ここまで罵倒されるいわれはないとは思ったものの、「まあ、色々気に入らないことがあったんやろうな」と思い当たる節もいくつか出てきた。だが、罵倒の文言を眺めているとやっぱりイヤーな気持ちになり、悲しくなって手紙をビリビリと破ってしまった。同時に、手紙を破るという青春ドラマ的な動作をしている自分に、やっぱり演劇性を感じもした。

 

私には、個人的に文通している人も何人かいて、その中に、一つか二つ年上のお姉さんがいた。やはり雑誌の文通コーナーで知り合った人で、実際に会ったことはなかった。プロフィールに、小説やアニメ・漫画、音楽が好き、と書いてあったので、話が合うかと思って私から手紙を出したのである。当時、文通相手はこんなふうに、雑誌の文通コーナーのプロフィールを見て探していた。
お姉さんは、ミステリー小説と『サムライトルーパー』とサザンが好きとのことで、私とは好きなものは特に一致しなかったのだが、なんとなく日々のことを綴り合い、文通は続いていた。お姉さんは、端正な文字で落ち着いた文章を書く人だった。また、返事が早かった(返事が早いことは文通の継続において重要なことであった)。時々アニメ風のイラストが同封されてもいた。平均的なオタク女子、という印象だった(当時は「オタク」という語にはネガティブなイメージしかなく、当事者が自称することはなかったが)。

 

私はそのお姉さんへの手紙に、例の事件のことを打ち明けてみた。年上の人なので優しく受け止めてくれそうな気がしたし、また自分が得た「友の裏切り」経験を自慢したいような気持ちもあったのだろう、手紙を書いたときはもう例のイヤな気分もかなり薄らいではいたが、
「この間、ちょっとショックなことがあったんです。それまで仲良くしていた友達に裏切られて……、このまま人間を信用できなくなりそう。」
云々と、自分でもやや盛っていることを意識しつつも書き、その手紙を投函した。

 

お姉さんからの返事は、いつもどおり一週間後くらいに届いた。返事には「〇ちゃん、嫌な思いをしたんだね。でも〇ちゃんは立派だよ。あとあと後悔するのは、傷つけられるよりも傷つけた側だから。私も実は……」とあり、以下のようなお姉さんの過去が書かれてあった(※記憶に基づくため原文ママではない)。

 

私も実は、中坊になったばっかの頃は手をつけられないくらい荒れてて、親も泣かせたし、ダチも傷つけた。もともと家が厳しかったからグレちゃって、悪い仲間とつるむようになって、〇ちゃんには言えないようなこといっぱいしました(笑) 万引き、シンナーは当たり前。何度もパクられそうになったし、先公にも殴られた。でも、ある日、何もかもむなしくなって、抜けたんだよね。抜けるときにはケジメ(って分かる?)を付けさせられたけれども。抜けるきっかけになったのは、○○(好きなアニメか漫画のタイトル)でした。今では、あの頃を思い出すと、バカなことしてたなあって後悔しかないんだ。こんな人間だから、偉そうにアドバイスなんてできないよ。今でも服装はケバいし手癖の悪さが出ちゃうし(笑)、付き合ってるオトコも未だに、××連合のヘッドだったりするんだよね(関西で最大の族だから知ってるよね? 暴走やってる友達がいたら聞いてみて)。

 


……
私は、オタクの子というのは皆、教室の隅にいる地味なポジションの子だとばかり思っていたので、「オタクにもいろんな人がいるんだなあ、分からんもんやなあ、勝手なイメージで決めつけたらいけないよなあ」と素直に反省し、それまで文通の中で彼氏の話なんて一言も出なかったのに「彼氏までいるなんて、やっぱり年上の人だなあ」と感心し、
「重い話を聞かせてくださってありがとうございます!そうだったんですか、そんな過去があったんですね。人にはみんないろいろな過去があるんですね。あ、××連合、もちろん知ってますよ!(注:知らない) 地元では有名なグループですもんね~!!」
みたいな返事を書いたのであるが、今思えば確実にお姉さんは中二病的なあれであったと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊ケーキの夜、または苦々しいクリスマスケーキをつくる会(「つくる会」)の思い出

それは、M-1チュートリアルが優勝した年のクリスマスのことであった。われわれはT君を囲み、霊ケーキで降誕祭を祝った。T君当人には申し訳ないが、私にとっては、帰ってきた中学生時代のような、『太陽の塔』的世界に束の間参加したような、そんなクリスマスの思い出だ。


何のことか分からないと思うので、順番に書く。
T君とは、大学院生時代の、いくつか年下の友人である。
T君は当初、「なんかイケてる若者」として私の前に現れた。というか私が勝手にそう思っていた。
わが研究室には当時、正式な研究室員ではない人々も出入りし勉強したりだべったり鮭を捌いたりしており、T君もその一人であったのだが、われわれは互いに顔を知っている程度で特に交流はなかった。
他の人と就活の成功話などしているのを聞くと、堂々としていて利発そうで、わが大学にしばしば見られる要領良いエリート青年なんだろうなあ、と勝手な偏見を抱いていた。当時まだ「リア充」という語はなかったが、見た目もモテそうだし髪の毛はふわふわしてるし、自分と違う世界の人であろう、と正直あまり好感をもてなかった。今思えば、髪の毛が少しばかりふわふわしている程度でたいした偏見のもちようである。こういうエリート青年は私のような者を見下しているのであろうとすら思っていたので、完全なる被害妄想といえる。


多少の交流が生じたのは、冬、大学関連のイベントに参加したときである。そのイベントにT君も参加していた。
このイベント自体も賽銭泥棒の発生などに見舞われた謎のイベントだったのだが、賽銭泥棒の話は長くなるので割愛するとして、休憩時間に発生したのが「トイレの戸事件」であった。
私は粗忽者であるため、人生でたびたびトイレの鍵を閉め忘れて人にドアを開けられる事件を起こしており、このときも、今まさにパンツを下ろさんとしている最中にトイレの戸を開けられてしまった。開けたのはT君であった。
T君は大きな目を泳がせ、「わっ、わっ、あわわわ」と戸を閉めた。これは鍵をきちんと閉めていなかった自分が悪いので、不運なのは遭遇したくもない場面に遭遇してしまった彼である。トイレから出た後、驚かせたお詫びを一応言っておこうと彼のもとに「さっきはすみません」と言いにいったが、彼は「やっ、わっ、やっ」しか言わなかった。私は「でもスカートでよかったです」と別に要らないコメントを付け加えた(ズボンと違って局部や臀部が露出されない=貴方はたいしたものは見ていない、というメッセージを伝えたかった)。だが彼はやはり大きな目で斜め上を見たまま、「やっ、わっ、ススススス……」と言うのみであった。T君は困ったときやヒいているとき、この「ススススス」という笑い方をよくする。


イベントの帰り、何人かでお茶でもしていこうということになり、その中に彼もいた。喫茶店への道でわれわれはうっかり隣同士に並んでしまった。私は「(ああ、トイレの戸の人だ、気まずい)」と思いながらも、何か話さなければと思い、「この近くに縁切り神社っていうのがあるんですよ」と持ちネタを振った。「怖い絵馬があったり、境内にラブホテルの灯篭があったりして面白いですよ」。今ではすっかり有名になってしまった安井金毘羅宮のことである。私の好物のネタではあったが、あまり交流のない年下男子に振るネタとしては微妙な話題選びだったといえよう。T君は「へ、へえー、そうなんすか、スススス」と言いつつ、あまり話を聴いていない様子だった。
茶店では、途中、皆の恋愛事情の話になった。彼女と同棲している先輩がT君に「T君は同棲とかしてないの?」と訊いた。T君は「えっ、いや、僕は、スス」と言った。私はこのときは何も気づいていなかったが、彼は内心、「(なんでそんなん俺に訊くねん、なんでいきなり同棲やねん)」と思っていたことを後で知った。

 

さてこの時点では「トイレの戸の人」でしかなかったT君であるが、翌春から、研究室の皆と勉強会や飲み会をすることが増え、その中で私とT君との交流の機会も増えた。
そのうちに、どうやら彼が、当初抱いていたイメージとは大幅に違う一面をもつことが明らかになってきた。T君は話術が巧みであったが、少し仲良くなるとその話術は、主に自虐ネタに発揮されることが分かった。私もたいがいの卑屈王であったが、T君もそれに劣らぬ劣等感の持ち主であることが次第に分かってきた。
殊に恋愛関係のコンプレックスを語るとき、彼の大きな目はやさぐれ、かつ、らんらんと輝くのだった。勝手に「モテそう」だとばかり思っていたT君であるが、断片的な話から分かったところによると、恋愛関係ではどうも残念な体験が続いているようであった。


私が彼と「友達になった」と感じたのは、『太陽の塔』を通じてであった。
ある日、勉強会を終えた後、研究室では三名の者(私含む)が缶チューハイを飲みながらダラダラと残っていた。この頃、研究室の中でもダメ意識の強い者たちの間になんとなく仲間意識が芽生え、気がつくとこのように夜中までだべることが増えていた。仮にこの一群をダメンバーと呼んでおこう(c:さーもんさん)。この日のダメンバーの話題はもっぱら、「自分がモテない」ということだった。T君はかつて恋人がいたことのあるダメンバー・某氏に、ちょっとここでは書けないような絡み方を見せた。彼のそんなひどい姿を見るのは初めてのことであった。
ひとしきり絡んだ後T君は、「あっ、そういえば今、これを読んでるんすよ」と何やら文庫本を取り出した。それが『太陽の塔』であった。「あっ」と某氏が言った。「それ、今まさに薦められて読んでるやつだ!」。薦めたのは私であった。夜中に研究室でダメを語らっている三人が三人とも、『太陽の塔』を読んでいたのであった。この事件を通じて私は急速に、T君に親近感を覚えた。T君たちによると『太陽の塔』の主人公たちの言動は、「自分の日記みたい」とのことだった。
太陽の塔』(2003)は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した、森見登美彦の小説作品である。受賞当時、知人から「今度のファンタジーノベル大賞、モテない京大生の話なんだって」と言われ、「なんじゃそりゃ」と読んでみたら、本当にその通りであった。
後で知ったことだが森見氏は大学の同期であり(※面識は無い)、『太陽の塔』は、青春時代を百万遍に過ごした者としては心掴まれざるをえない作品である。
と同時に、そこに描かれる男子学生たちの群像には、複雑な思いも抱かれた。私は大学に入って以来ずっと、この大学に色濃く残る旧制高校的「男同士の絆」的なものに疎外感を感じ続けており、『太陽の塔』はまさにそうした男子たちの物語だったからだ。女性は偶像的存在としてしか登場しない(もちろんだからこそファンタジーなのであろうが)。『太陽の塔』は笑えて共感できる小説であると同時に、或る種の疎外感を思い出させるという、両価的な思いを抱かせる作品だった。


T君の話に戻ろう。
以上の記述ではT君が、単なる「見た目がいいのに実はモテない」だけの人物のようだが、というか私も当時そう認識していたのであるが、今にして思えば彼は、なかなか不思議な人物でもあったかもしれない。
その一年、なぜか研究室周辺はT君を中心に動いていたような気がする。この年、皆で夏の海に行ったりあちこち遊びに行ったり、やたらイベントが多かった。T君が研究室から去った翌年にはそんな機会も少なくなったので、それは彼の引力だったのだと思う。あんなに皆で遊んだのはあの年限りであった。彼のその引力が何に由来するのかは謎であった。変人の多い研究室において、T君は常識人の部類であり、進んで目立つことをしたり話題の中心になったりするタイプではなかったのだが。
T君は研究室周辺では最年少であり、皆の弟のようなところもあった。彼本人がどう思っていたかは分からないが、皆、彼を可愛がり、あれこれと構っていたように思う。翌年も研究室に残る者がほとんどの中、T君は就職を控えており春には大学を出ていくことが決まっていたので、まるで彼の最後の学生時代を、皆が一緒になって浮かれ騒いだかのようであった。
あるときは、飲み会で彼があまりに荒れているので、先輩が「T君は一体どうしたのさ、話を聴くよ」と深夜にもかかわらず店を移動し、朝まで皆で話を聴いたこともあった。(なお誘った当の先輩は先に帰ってしまい、残りの皆で朝までつきあった。T君が荒れていた理由はひどすぎるので割愛。)
またあるときは、皆がおせっかいを焼き、T君とある女性をくっつけようと鍋パーティーを開いた。今思えば完全に余計なお世話であり、おまえらはうるさい親戚のおばちゃんか、という感じでしかない。
しかしこの試みはそれなりに上手くいったようで、T君とその女の子は二人で会うまでになった。だが、それがその後の、クリスマス霊ケーキの夜につながるのであった。

 

その年のクリスマス・イブは、私は派遣のバイトで、スーパーマーケットで生クリームの試食販売をしていた。余った生クリームやデコペンをもらえたのはお得であった。その翌日、昼過ぎになり、T君からケーキの風味を指定するメールが届いた。
「苦々しいケーキでお願いします」
私はイブに起こった事態をだいたい了解した。


話が前後したが、T君はクリスマス・イブに例の女の子と会う約束を取り付けることができたのだった。非モテの憧れ、クリスマスデートである。そこに至るまでも、飲み屋で先輩たちが彼を焚き付けたり、お誘いのメールを打つところを見守ったりという前近代的なお節介の数々があった。われわれは勝手にはしゃぎ、私も、頼まれてもいないのにデートぽい店を検索してリスト化するなどの不要な活躍を果たした。
だが、デートすることになったものの、彼女がT君のことをどう思っているのかは不明であった。憎くは思っていないだろうが、積極的に好意をもっているかといえば、正直そんなふうにも見えなかったのである。経過が気になるダメンバーたちは、イブの翌日に研究室でクリスマスパーティーを開くことにした。そして、前夜のデートが上手くいっていたなら甘いホワイトケーキで祝おう、残念な結果になっていたならビターなブラックケーキを作ろう、ということになっていたのだった。


各人に届いた苦々しいケーキを所望するメールにより、ダメンバーたちは事情を速やかに把握した。T君以外の三人のダメンバーが先に研究室に集まり、スーパーへ買い出しに行き、「カカオ99%」と書かれた板チョコを大量購入した。当時、カカオ率の高さを売りにするチョコレートが流行っていたのだが、どれも菓子としては苦すぎた。それにこんな使い道があるとは思わなかった。
三人は研究室でT君を待機する態勢に入った。待つことしばらく、力無い「ススス……」という笑い声とともに研究室のドアが開いた。
われわれは「お疲れ様!」と唱和して彼を迎え、「とりあえず好きなもん食べようよ、ケーキだけじゃ足りないでしょ」とサンプラザに連れ立った(丸太町のこのサンプラザも2017年夏に閉店してしまった)。スーパーの売り場で、「なんでも好きなもん食べてええからね」「費用はわれわれで持つから」と声をかけるダメンバーにT君は一言、「優しさは時に凶器っすよ!」。


参鶏湯の具材を抱えて研究室に戻り、われわれは鍋とケーキを作り始めた。書きながら、研究室とは何かという疑問が湧いてきたが、尤もな疑問である。研究室はこの頃、鮭を捌いたり酒盛りをしたり筋トレをしたり、ほぼ無法地帯と化していた。しかし面白いことにそうしたわけのわからん活動が活発であった頃は、皆の勉学や研究もまた活発であった気がする。
さて鍋は具材を切って煮立てるだけなのでいいものの、われわれはケーキ作り未経験者の集いであった。唯一の女子である私も、無印良品のケーキ作成キットでしかケーキを作ったことがなかった。とりあえずネットで調べてスポンジの素をミックスしたものの、それを流し込むケーキの型が無いことに気づいた。根本的欠落である。仕方ないのでそのへんにあるもので代用することとし、何かの飲み会で使った紙皿に切れ目を入れて折り曲げ、何枚かをガムテープで貼り合わせ、なんともみすぼらしいケーキ型を作った。それにミックスしたものを流し込んで研究室のオーブンにかけたが、ふくらし粉的なものを入れていないので、煎餅のように薄べったい、ふわふわ感皆無のスポンジ生地ができあがった。次はそれに塗るクリームを作る。前日のバイトでもらった生クリームに、件のカカオ99%の銀紙を剥き、粉々に砕いて混ぜる。黒いクリームが出来上がった。スプーンで不器用に塗りたくり、ココアパウダーを振りかけると、見た目が真っ黒なうえ、ちょっと汚らしい暗黒ケーキができあがりとなった。

 

鍋とケーキを囲んだところで、突然T君のケータイが鳴った。
「……!」
T君は大きな目を見開き、ダメンバーに緊張が走った。例の彼女からの呼び出しであった。
「なんか……近くにいるらしいんですけど、今から会えないかって言ってるんすけど」
これは……一発逆転があるのではないか?
われわれは「すぐに行っておいでよ!」と送り出し、T君は戦地へ赴く兵士のような表情で研究室のドアを出た。
「ここで待ってるからね!」
「では、お国のために戦ってまいります!」

 

研究室に残されたダメンバーたちは、無駄に小岩井レーズンバターを舐めながら、ああだこうだと落ち着かない。弟を心配する兄姉のように、「T君、上手くやってるかな」「上手くいってるといいけど」とそわそわ。場合によってはケーキを甘いやつに作り直さねばならないかもしれない。これまで友達の少なかった私は、こんなふうに友人の恋愛沙汰にやきもきしたことなんてなかったので、なんだか(遅めの)青春っぽいなあと少し楽しかったことも告白しておく。
一時間以上待ったであろうか、またも「ススススス…」という声とともに研究室のドアが開いた。鞄で顔を隠しながら、T君が入ってきた。
「お国のために玉砕してまいりました」

 

一同は速やかに参鶏湯をあたためなおし、英霊のもとに供えた。英霊は無言でハバネロソースを鍋に大量投入した。
辛い鍋をやはり無言で掻き込み、やっと言葉を発した彼は、


「今日の俺は、昨日のM-1チュートリアルよりおもろいっすよ!」


と一連の経緯を語り出した。なお、この年のM-1とは、チュートリアル徳井が「ちりんちりん」のネタで、途中テンションが上がりきって狂気のように笑いだすという神がかった一幕を見せた年である。

T君の話が始まった。まず一昨日わざわざデートの下見に行ったこと。下見の帰り道にチャリがパンクするという不吉な前兆があったこと。そこまで気合を入れたのに、デートではどうやらうっすら振られた模様であったこと。昨夜帰ってから今日の昼まで不貞寝していたこと……。そして先刻の呼び出しは、前夜のうっすらした振りでは不十分であったと反省した彼女が、もう一度はっきり振るためのものであったという。要らん気遣いといえよう。クリスマス・イブに振られ、クリスマス当日にダメ押しで振られ直すという、振られの二段活用である。
「彼女は何て言ったの?」
「霊的に合わない、とかなんとか……」
「!?」
霊的に合わない!! どうも彼女はスピリチュアルな人であるらしかった。なかなかの印象的なフレーズである。そんな振られ方をする人がいるだろうか、しかもクリスマスに。
間髪入れず一人のダメンバーが、「そんなことを言うために彼女は、僕らの大事なT君をわざわざ呼びだしたんですか!」。美しい友情であった。

 


一連の話を聴き終えたところで苦々しいケーキ入刀となった。その前に、ピンクのデコペンで何かデコレーションせよと言われ、とりあえずケーキに「霊」と書いた。英霊の「霊」であり、「霊的に合わない」の「霊」である。黒焦げたような暗黒ケーキに「霊」の文字、その上にサンタ型ロウソクを立て、火を点けた。サンタは両手を上げ、万歳のような降参のようなポーズである
「T君、思い切りサンタを燃やしちゃっていいよ」
「そーすよ、こいつが諸悪の根源なんすよ、こんなにたくさんの人を悩ませるやつなんて!」
なぜかdisられるサンタであった。
電気を消すと、暗闇の中にぽうっと、万歳サンタの姿とピンクの「霊」の文字が浮かび上がった。
暗がりの中でわれわれは乾杯した。
「わーい、メリークリスマス!」「メリークリスマス!」
点火されたサンタが頭から溶けてゆくのを、一同は見つめた。


カカオ99%霊ケーキは、まあ当然ながら苦かった。
「ウワッ、苦い!」「あ、でもなんか噛んでるうちにちょっと甘くなってきましたよ!」
砂糖も入っているからそれも当然なのだが、「不思議なケーキっすね!」と目を見開くT君に、「最初は苦くてだんだん甘くなる……人生みたいですね」「これはT君の将来だよ」とかテキトーなことを言うダメンバーたちであった。
更にわれわれはケーキ生地の破片を「辛」「苦」などなどおよそクリスマスに似つかわしくない文字でデコレーションし、たいらげていった。なんの儀式なんだ。
私は、中学生の頃の最後のクリスマスを思い出していた。中三のクリスマス、通っていたアトリエのクリスマスパーティーに行き、友人・ナメちゃんたちとスポンジケーキにチキンの骨を突き刺したりキュウリを埋め込んだりというバカ騒ぎをして、今こうやって書くと何が楽しいのだがさっぱり分からないが、バカみたいに楽しく、もうこんなバカみたいなクリスマスを過ごすことはないのであろうなあ、と思ったものであった。学校に馴染めない私にはアトリエは解放区であったのに、アトリエの先生に「君らもう高校生になるんやろ、女の子やろ」と叱られたのは、淋しい思い出である。そんな、「私が中学男子であった頃」が大人になって甦ってきたようで、T君には悪いが、感慨深い。


その後、一同は変なテンションになり、私は昨日の試食販売の様子を再現披露するなどした。普段低い声を試食販売のときには高くできることについて、T君は「なんつーか……人生観が変わりました」ともはや意味の分からない感想を述べた。心が弱りすぎて何にでも感動するモードになっているようだった。
われわれはなかなか帰ろうとせず、霊ケーキの残骸をかじりつつ、研究室でだべり続けた。
T君がこれまでの恋愛での失敗談を語り、それに応じてそれぞれ、自分の過去の失敗談を話した。私はこれまで友達とこんなことをしたことがなかった。ああ友人とはよいものだと思った。当初「仲良くなれそうな、なんかイケてる若者」だと思っていたT君と、こんな夜を過ごすなんて、ふしぎなことだ。
そして、ああ、なんかこれリアル『太陽の塔』みたい、あの「ええじゃないか」のクリスマスみたい、と思った。アンビバレンスを抱いていたファンタジーとしての青春世界に、束の間参加しているような気分になった。

「キリストも、自分が生まれた日が、極東の国でこんなことになってるとは知るまいにねえ…」
「そーすよ!だいたいあいつが生まれるから悪いんすよ!」

T君はついにキリストまで冒涜しはじめ、降誕祭の夜は更けてゆき、わけのわからん盛り上がりと疲労感の中、われわれは延々と、大量に作りすぎてしもうた全然美味くないカカオ99%クリームを舐め続けた。

 

 

数学といとうちゃんと私


二年生になって数学の担当教師が変わったとき、皆がっかりした。
新しい教師は、「いとうちゃん」という、初老の男性教師だった。
いや、当時は「初老」と思ったが、今思えばいとうちゃんは意外に若かったのではないかと思われる。まだ40代だったかもしれない。今の私とそう変わらなかったのでないか。
いとうちゃんは背が低くぽってりとした小太りの体型に、地味な色のズボンとワイシャツ、髪の毛を七三に分け、正直いわゆる「ださい」風貌だった。
最初の授業でいとうちゃんが声を発したときの衝撃は、未だに忘れられない。
いとうちゃんは、とてもベテラン男性教師のものとは思われない、少し高く、かつヒソヒソ話をするようなか細い声で、


「お分かりのとおり、私はこの学校で一番、声の小さな教師です……」


と囀った。
みんなはぽかーんとした。

 

「教室がやかましいと全然聞こえませんので、できるだけ、静かにしてください。静かにしても、前二列くらいまでしか聞こえないかもしれませんが……」

 

事実上の「私の授業は聞かなくていい」宣言であった。これを受けて、皆ここぞとばかりに私語を始めた。
以降、いとうちゃんの授業は、実質、私語と内職の時間になった。
実際いとうちゃんの声は前二列くらいまでしか聞こえず、それに耳を澄ませてまで数学を学ぼうという生徒は、わが文系クラスにはいなかった。私語のせいでさらにいとうちゃんの声はかき消され、ただでさえ聞こえないものが余計聞こえなくなり、最前列の三人くらいしか授業を聞いていないという有様になった。午後の授業では、ときには全員寝ていた。
それでもいとうちゃんは、私語を注意するでもなく、あるいは生徒の気をひくために何か気の利いた雑談をするでもなく、淡々と小声で二次関数を説明し続けた。説明が特に上手いわけでもなかった。
その様子が気の毒に思えて、自分だけでもなんとか起きていてあげようとがんばったこともあったが、これでは寝ざるをえなかった。

 

ところでこの頃、私はやっと少し数学ができるようになった。
数学ができなすぎて一年生時の数学教師に一年間存在しないことにされ続けたことは以前に書いた通りであるが、苦手な数学も自分で予習をしてみると、どこが分からないのかくらいは分かるようになり、その部分を先生に質問しに行くようになった。
われわれのクラスを担当する数学教師は、実はもう一人いたのだが、私はもっぱらいとうちゃんに質問に行った。というのは、いとうちゃんのほうが人気がないので、競争率が低く捕まえやすかったからである。


質問にいくと、普段生徒から話しかけられ馴れていないいとうちゃんは、ちょっと嬉しそうに見えた。自分が呼ばれていると分かると、軽く驚いた様子で、困ったような笑みを浮かべていそいそと駆けてくる。いとうちゃんはいつも丁寧な言葉遣いで喋る。ときどきその声が聞こえなくなるので再度聞き直すと、いとうちゃんは、まだまだ小さいがちょっとだけ大きな声で言い直す。いとうちゃんは小柄なうえ猫背なので、背の低いはずの私が腰をかがめるような格好になる。
初回の授業での、授業を聴かせる努力を端から放棄するかのような宣言のときは、「分かってるんならなんとかしろよ!」と少しくイラッとしたはずであったが、こういったやりとりをするうちに、だんだんいとうちゃんがけなげに見えてきた。

 

或る時、他の先生に用があって職員室に行くと、よそのクラスの男子がいとうちゃんを呼んでいた。


「おーい、いとう、おるけ!」


男子は、ポケットに手を突っ込んだまま偉そうに怒鳴った。
隣にいた女の先生が、「こら、呼び捨てにしたらあかん。いとう先生、でしょ」と窘めたが、その先生も顔は怒っていなかった。むしろ、窘めてみせた後で生徒と目を合わせ、困ったような表情を作って、くすっと苦笑してみせた。その先生と生徒の間には、共犯意識というか、「(そりゃあんな情けない奴、呼び捨てにするよなあ)」とでもいうような暗黙の合意が漂っていた。その暗黙の合意は、学校全体に漂っているものでもあった。
呼ばれたいとうちゃんは、呼び捨てにされたのにそれを怒るでもなく、いつもの困ったような気弱そうな笑顔を浮かべたまま出てきて、怒鳴るように何かを尋ねる男子に対し、いつものか細い声と丁寧な口調で何かを囁いていた。


いとうちゃんは、職員室でもダメな大人だったのだろう。
生徒にはナメられるし、先生同士の付き合いにもうまく溶け込めていないように見えた。
小学校から高校にいたるまで、生徒の中では、皆と同じようにふるまう権利を得ている者と、なんとなくそこからはみ出す者が、集団生活をするうちに自然と分かれてくる。後者は、バカにしてもいい者と見なされる。スクールカーストという語は私が生徒のときにはまだなかったが、軽く扱われやすい・いじめられやすい者とそうではない大勢との区別は厳然とあった。大人になるとそんなものはなくなり、皆、対等になって誰もが堂々とできるかのようになんとなく思っていたが、大人の世界でもそれは一緒なのだなあ、とこのとき知った。しかも、教師という、人の上に立つ職業に就いてもそうなのだ。バカにされるやつは、いつまでもバカにされるのか。
私はいとうちゃんに、同族意識を覚えた。

 


そんないとうちゃんだったが、実は剣道がものすごく強いという噂があった。
剣道部は我が校で唯一強い部活だったのだが、いとうちゃんはその剣道部の顧問であり、剣道部の生徒から「すごく強いらしい」という情報を耳にしたのである。
いとうちゃんは相手をこてんぱんにしたあとに、あの細い声で丁寧に「ありがとうございました」と囁くのだ、とわれわれは噂し合ったが、そう言い出した生徒もいとうちゃんの剣道を実際に見たわけではなかったので、噂の真偽は不明であった。

 

いとうちゃんは、自分の私生活の話などはまったくしなかった。そもそも雑談をしないので、何歳なのか、既婚なのか独身なのかすら分からなかったが、あるとき、最寄駅だけが判明した。
いとうちゃんが教室に来ると、まだ前の時間の古典の板書が残っていたことがあった。
背伸びして黒板を消そうとしたいとうちゃんは、ぴたっと動きを止めた。黒板の文字を読んでいるふうだった。
古典では、誰かが出家してどうのこうのという物語を読んでおり、墨染の衣のなんとかかんとか、という和歌が板書されていた。「墨染」は僧侶の衣の色を表す言葉である。
普段無駄な話はしないいとうちゃんだが、なぜかその和歌に興味を持ったらしく、風紀委員のSさんの席へトコトコと歩いていって囁き尋ねた。


「あそこに書いてある墨染って何でしょうか」


わざわざSさんの席まで出向いたのは、クラスでいとうちゃんの授業をまともに聞いているのが、真面目なSさんくらいだったからであろう。
Sさんは、
「墨染の衣というのは僧侶の服を指していて、あれは出家のことを歌った和歌です」
というようなことを答えた。
するといとうちゃんは、「そうなんですか」と感心し、


「私は〇〇なんです。〇〇の和歌はないんでしょうか……」


と呟いて何事もなかったかのように教壇に上がっていった。
〇〇は京阪電鉄の駅名である。京阪には「墨染」という駅があるので、自分の最寄駅も和歌に出てこないのか、といとうちゃんは言ったのだった。それで、いとうちゃんは〇〇に住んでいることが判明したのだった。
Sさんは、真面目だが少し萌えツボが独特な人だったので、「そのとき、いとう先生のことすっごく可愛いって思ってん!」と授業後に熱く語った。

 

二学期になると、私は、従姉に時々勉強を教えてもらうようになった。
従姉はこのとき大学生で、哲学を専攻していた。
問題の解き方だけでなく、「ギリシャの哲学者が無限についてこう言った」とか「1と2という有限の間に√2という無限があるのはどういうことだ」とかそんな話をしてくれたので、私もおぼろげながら、数学って単なる数の操作でなくて、もとは哲学なんやなあ、ということが分かってきて面白く思えるようになった。「文系だから数学が苦手」と思い込んでいる人は、意外にこういう話を聴くと数学を好きになる可能性があるのでないかと思う。


従姉のすすめで、Z会の通信添削を始めた。Z会の数学の問題にはしばしば、入試本番にも出ないような難しい問題が出た。
あるとき、従姉も解けない問題があった。
順列組合せの問題で、何色かに色分けされたタイルの並べ方が何通りあるか、というような問題だったと思う。並べ方をいちいち数えていると大変な数になりそうだし、試験でそんなことはしてられない。よって何らかの式を立てて解を導くべきだ、ということは分かるが、その式の立て方がどうしても分からない。
従姉が考えてもついに答えが出なかったので、学校でいとうちゃんに訊いてみることにした。


わたしは翌日、その問題を、いとうちゃんに見せにいった。
今思えば、解けなくてもひと月後に解答が送られてくるのでそれを待てばよさそうなものだが、一刻も早く解き方が知りたかったのだろう。見上げた勉学意欲だが、学校の先生にとっては迷惑な話だ。


「これ、通信添削の問題なんですけど、どうしても解けなくて」
「これはむずかしいですね」


いとうちゃんはしばらくその場で考えてくれたがやはり解けず、「ちょっと持って帰って考えさせてください……」とその問題をコピーした。私は恐縮すると同時に、数学の先生なのに解けないのか……恥ずかしい思いをさせたかもしれない、といとうちゃんの心中を思いやった。

 

その日、また従姉の家に行くと、従姉は例の問題の答えが分かったとはしゃいでいた。
「理学部の友達に訊いたら一瞬で解けた! 簡単なことやったんや!」
それは一見複雑な問題だが、ある考え方を思いつけばごく簡潔な式を立てることができ、その式に数字を当てはめると一発で答えが求まる。
答えは、「300通り」とかそれくらいであったと思う。なので、いちいち数えていると膨大な時間がかかるが、或る発想が得られれば、途中式が三行ほどというごく簡単な操作で答えの出る問題なのだった。

問題が解けたことをいとうちゃんに言わねばと思ったが、いとうちゃんは、翌日の授業のときもその問題について何も言わなかったので、あのまま忘れているのかも、とも思った。
しかし、土日休みが明けた日、いとうちゃんが私を職員室に呼んだ。


「このあいだの問題、遅くなってすみません……」


いとうちゃんは覚えてくれていたのであった。
そして、得意気に、コピーした答案を持ってきた。


「やっと答えが出ましたよ」


いとうちゃんの、その声と同じく薄い弱々しい文字で、小さく回答が書き込まれていた。
その答えは、従姉が教えてくれたものと同じだった。
私は思わず、「あ、私もあの後、他の人に聞いて分かったんです。同じ答えでした」と言ってしまった。
するといとうちゃんは寂しそうに、「そうですか……」とうつむいてしまった。
しまった、言わなきゃよかった、いとうちゃんに訊いたのに他の人にも教えてもらったなんて失礼だったかな、「解けたんですか!先生すごい!」と驚けばよかった……、私は変な気を遣った。

 

とにかく、お礼を言って職員室を出、「答えの求め方は裏に書いておきました」とのことだったので、教室に帰って、裏を見てみた。
いとうちゃんもあの式を思いついたんだなー、さすが数学の先生だー、と思いながら裏を返すとそこには!
タイルの並べ方のパタン、300数通りのパタンが、几帳面にこまごまと、鉛筆によってびっしり図示されていたのであった!
いとうちゃんは結局、式を思いつくことができず、全ての並べ方を図に描いて数えるという極めて原始的かつ受験では絶対に採ってはならない方法を採ったのである。
しかも、そのやり方で答えが合っているというのもすごい。
いとうちゃん………土日を使って私のために、(あるいは数学教師としての意地のために、)タイルを数えてくれていたんだ………。
この紙は今でも、我が家のどこかに残っていると思う。

 

二年生の三学期には修学旅行があった。修学旅行はそれほど楽しくなかったが、途中立ち寄ったわさび農園は良いところだった。いとうちゃんは、他の先生からも生徒たちからも離れてひとりでわさびソフトクリームを食べていた。私とSさんが「あっ、いとう先生」と言うと、ソフトクリームをなめながら小さく手を振ってくれた。農園の隅っこでソフトクリームを手にする小柄ないとうちゃんは、おじさんだが妖精のようだった。私はその様子を写真に撮った。

 

三学期の期末テストで、初めて数学で99点をとった。しょうもない計算を間違えて1点ロスしたが、前年、クラス最低点をとって教師に無視され続けたことを思えば快挙である。テストでよい点をとって喜ぶなんてダサいことのような気もしたが、いとうちゃんにがんばったと思われたかったので、ふつうにうれしかった。
テストを返すとき、いとうちゃんが、やはり細い声で「がんばりましたね」と言ってくれた。

 

クラスの生徒たちは、受験が近づくほど、ますますいとうちゃんの授業を聞かなくなった。ほとんどの生徒は受験に数学が必要なかったからである。いとうちゃんの授業は、以前からもそうであったが、完全に内職と私語と睡眠の時間となった。必要ない授業となると、その教師までウザくなってくるものなのか、いとうちゃんは今まで以上に蔑ろにされるようになった。
イキがった男子たちは始業ベルが鳴っても廊下でたむろするのをやめず、授業にやってきたいとうちゃんが廊下を通ろうとすると、「なんやねん、いとうかよ、邪魔やねん」と邪険にした。いとうちゃんは、礼儀正しく、「あっ、すみませんね」と謝りながら、でっかい男子たちの間をちょこちょこ潜り抜けて教室に入ってきた。 

私は、噂の真偽も分からないのに、「おまえらそんな態度取ってるけど、いとうちゃんはほんまは剣道がめっちゃ強いんやで」と思い、いとうちゃんが剣を振るってそやつらをこてんぱんにした後で、累々と折り重なった男子たちの背に片足をかけ、「あっ、すみませんね」と礼儀正しく謝っている姿を勝手に思い浮かべ、勝手にすかっとしていた。
実際にいとうちゃんが剣道が強かったのかどうかは分からないままだった。
自分もバカにされる側の道を歩んできて、今後も冴えない大人になる確率の高い私は、自分の幻想を、勝手にいとうちゃんに投影していたのかもしれない。

 


その後、私は浪人し、大学に受かった際に高校に挨拶に行ったのだが、このとき、いとうちゃんに会ったかどうか覚えていない。お礼を言った記憶がないので、このときはいとうちゃんは不在で会えなかったのではないかと思う。 

それから何年かして、四月の教職員異動情報を新聞で見、いとうちゃんが退職したことを知った。
転任でなく、退職欄にいとうちゃんの名前があった。まだ定年退職の年ではなかったから、自主的に退職したようであった。
やはりあの小さな声と小さなハートでは、人前に立つ教師など向いていないと思ったのだろうか(今更?)、あんなふうに生徒や同僚にバカにされ続けるのに疲れたのだろうか、と私は想像した。
でも、単に、もうお金があって働かなくてよい、とかかもしれない。何か事情があって他の仕事をすることになったのかもしれない。それとも、健康上の理由だろうか。年齢的にもありえないことではない。


などなど、考えながらもわたしの中には、教師をやめて一人の剣士となったいとうちゃんが、刀を一本携えて流離の旅に出るようなイメージが、勝手に沸いてきたのであった。