コンタクト屋のチラシ配りの思い出

長らく派遣会社に登録して、試食販売やイベントスタッフなど日雇いのバイトをしていた。その派遣会社の主な派遣先に、コンタクト屋のチラシ配りがあった。


コンタクト屋のチラシというのは、街角で配られて嬉しくないもののひとつであろう。ティッシュならまだ使い道があるがチラシは単なる紙だし、そもそもコンタクトを使う人以外は必要ない。私自身も街角で配られて絶対に受け取らないもののひとつであったので、やってみるとむしろ、「こんなにもらってくれるんや」と意外であった。


昔のことなので今は変わっているかもしれないが、基本は4時間4000円(派遣元にはこの倍が払われているようだった)、1回の配布枚数が一定を超えれば報奨金(といっても500円ほど)が出た。一定とは500枚とか600枚とかだったが、逆にいうとそれが、超えるのが難しいラインだった。神業と呼ばれる派遣スタッフがおり、その人は繁華街でも600枚を配り切るという評判で重宝されていた。チラシ配布など誰でもできる仕事だと思われているかもしれないが、上手い下手があるのだ。繁華街でも、と書いたが、場所も重要だ。最も受け取ってもらえるのはショッピングモールの駐車場である。のんびり入ってきた家族連れにチラシを差し出すと、たいていその一家の誰かがもらってくれる。それに反して繁華街では、なかなか受け取ってもらえないばかりか暴言を吐かれることもあり、イヤなスポットであった。また、当時作成した「もらってくれる人ランキング」は、「1. おじいさん 2.男子中高生 3.おばあさん 4.おじさん」の順になっている。逆に、絶対にもらってくれないのは、オシャレな人と、手をつないでいるカップルであった。

 

大きな交差点が繁華街で配るときの定位置だった。ここはコンタクト屋以外にも、飲食店、ヘアサロン、カラオケ屋などいろんな屋が競ってビラを配っており、無言の連帯感が生まれるのは楽しいことであった。
私は基本的に、「こんにちは、○○(店名)でーす」という「こんにちは型」の口上を愛用していた(長いフレーズを喋るのが苦手であるためシンプルな口上がよかった)。すると周囲の飲食店やカラオケ屋もいつの間にか「こんにちは○○でーす」を始める。次に誰かが「どぞー、○○です」に切り替えると、ついつい「どぞー」につられてしまい、その一帯で「どぞー」が流行り出す。私が「お得になっておりまーす」を開発すると、皆次々に「お得になっておりまーす」に感染していき、「お得な○○でーす」などアレンジする者も現れ、お得はうちが始めたんやーー!!と思うなどした。

 

そのチラシ配布アルバイトを、真夏の暑い中、体調の悪い日にやる羽目になったことがあった。


私は夏風邪を引いて胃腸も壊していた。そこへきて七月下旬のその日は、その夏の最初の猛暑であった。配布場所は京都の繁華街の一角であり、屋外なので屋根も冷房もない。派遣会社は仕事をドタキャンするとペナルティが発生するので休みづらかった(これは法的に問題があるとして後から話題になった)。向こうの都合で突然仕事がなくなることはしばしばあったのに、勝手なもんである。
最初は、それでも4時間くらい乗り切れると思ったが、時間も折り返しに差し掛かった頃、気分が悪くなり目が回りだした。「これは最後までもたんかも」と思い始めたとき、小柄な老女に「お嬢ちゃん、がんばってるんだね」と声をかけられた。

はいありがとうございます、と答えつつも、別にコンタクトに興味があるふうではなかったので放っておいたが、おばあさんは何か言いたげに横に立ち続けている。しばらくして再度こちらへ寄ってきたおばあさんはおもむろに話し始めた。

 

お嬢ちゃんよ、あんたがそうしてがんばっているのを見ているとね、あたしは或る男の子のことを思い出したんだ。あれは三年前、大丸の前だったか、朝早くに三時間、夜遅くに三時間、時給850円って言ってたね、やっぱりそうやってチラシを配ってる男の子がいたんだ。冬の寒い日も、雨の降る日もさ。あたしはね、九州から出てきたんだが、九州で子供を五人も産んだんだよ。でも、五人とも娘でね。一人でも男の子が欲しかった。娘ばかり五人産んだんだがね、やっぱり息子が欲しかった。だから、あの男の子――自分で稼ぎながら勉強してるって言ってた、あんな立派な男の子を持った母親って、一体どおんな幸福な気持ちだろうってね。

 

配る手を止めるのは嫌だったが(ノルマはないが配布枚数が多い方が喜ばれるので)、しばし動きを止めおばあさんの話に耳を傾けることを余儀なくされた。おばあさんは私が仕事中であることを一向に気にする様子もなく語り続けた。おばあさんは名乗った。
「あたしの名は、スナフキン・エミ。売れない画家、放浪の画家さ」
たしかにおばあさんが引いていた重そうなカートには、画材でも入っていそうであった。

 

あの男の子はもうとんと見なくなったから、今頃は夢を叶えて、立派な弁護士になってるんだろうさ。名前のひとつも聞いておけば、この売れない画家、スナフキン・エミの絵葉書でも送ってやれたものを。あんたも覚えておいておくれよ、このスナフキン・エミは、いつでもそこの、なか卯にいるからさ。

 

そう言っておばあさんは交差点の向かい側のなか卯を指した。「(いつでもなか卯にいるんかい!)」と心の中でつっこみつつ、私もなぜか、
「わたしは、村田と申します」
と名乗った。スナフキン・エミは、そこだけ濃い水色のアイシャドウを載せた目を細め、
「ムラタさんかい、覚えておくさ、あんたも夢に向かってがんばるんだよ」
と言い去っていった。
「花の命は短くて、苦しいことのみ多かりき、――これは『放浪記』の林芙美子の言葉。おフミさんは、そういったんだ。それに対して、おエミさんはね―― タンポポの 花も咲かなきゃ ただの種――これが、この、スナフキン・エミの言葉だよ。覚えておいておくれよ――」
よく考えれば何がどう「それに対して」なのか分からなかったが、その日はなんとなくスナフキン・エミのおかげで元気が出たような気がし、最後まで倒れることなく業務を終えた。スナフキン・エミは、チラシはもらってくれなかった。