熟練の胃液

 私は酒に大変弱く、酒が嫌いではなくむしろ好きなのだが酒を飲んでよいことはほぼ無いと最近気づいたため、酒を飲む店に入ってもできるだけウーロン茶等を頼むようにしている。これまでごく少量の酒で数々の失態を経験してきた。飲んでも出てしまうなら飲まないほうがよい。酒を飲まないとどうしても「ワリカン負け」が気にはなるが、しかし負けるが勝ちである。

 

 少し前のこと。皆でとあるチェーン居酒屋に入る流れになった。愉しい日であったので酒を頼みたいような雰囲気ではあったが、私はノンアルコールの「ハスカップサイダー」を頼んだ。この日は20代のA嬢も一緒であった。若者の前で失態を晒すわけにはいかない。それにこの前日、A嬢が飲み過ぎて二日酔いに陥るということがあり、われわれはさんざんそれを心配したりいじったりいじったりしていたのだった。だのに私が酔っぱらってしまったらば大人の威厳はワヤや。A嬢もまた、この日はさすがにアルコールは、ってことでハスカップサイダーを頼み、飲み会は平和に進んだ、はずだった。

 

 途中からやけに眠くなり身体が揺れ始めるという現象が起こり、なんかおかしい。酒は飲んでいないはずなので、雰囲気に酔ってしまったのかそれとも疲れているのかな。ともかく何時間か飲み食いして私たちは店を出た。店を出たまでは一応しっかりしていた。だが、ふとA嬢が言った。「あれお酒でしたよね?」。エッ。そういえばあの店は、ソフトドリンクにはストローを刺しているはずだがあのハスカップサイダーにはなんも刺さっていなかった! ハスカップサイダーだと思っていたものはどうやら「ハスカップサワー」だったらしい。ハスカップの風味が独特の強さなので気づかなかった。ジョッキ1杯飲んでしもたやないか! ジョッキ1杯というのはたいしたことないようだが私を倒すには充分の量。これまでの戦歴を挙げると、

 

・居酒屋でチューハイ半杯→帰り道で嘔吐

・居酒屋で梅酒半杯→居酒屋のトイレで嘔吐

・他人の日本酒を数口もらう→わけわからなくなって嘔吐

サントリーほろよい→「こんなもん『ほろよい』やない!『泥酔』や!」と罵りながら記憶を失う

 など。

 ○○サイダーと○○サワー、よくある注文間違いであろう。しかしまあ車じゃないしよかったよ、運転せなあかんのやったらえらいことやったで。と思ったところで、突然、急激に、気分が悪くなり始めた。身体を動かしたせいだろうか、それともアルコールであったと気づいてしまったせいなのか。二日酔いだったはずのA嬢は案外平気な様子。酩酊の厄介なところとして「遅れてくる」ということがあり、最初はそれと気づかない。初めて酒で吐いたときも、飲んでる最中は「全然飲めるやん、うち強いんかも」と思っていたのに帰り道に急に来たのだった。そや、これはあかんやつや。足がふわふわして身体が急に冷えてくる感じ………これは、家までもたない! と私は判断した。

 幸い、少し歩くと駅があった。一同に状態を説明する余裕はない、私は断りもそこそこに一同を待たせ、ひとり駅構内のトイレへ駆け込んだ。しかし、私は知っている。このときに、「助かった~~トイレや~~~!」とか思ったら最後、油断して出てしまうことを。かつてもそうだった。「トイレがあった!」と認識して安心した途端、口に当てた手の指の間からピュッピュッと弧を描いてイキの良い吐瀉物が迸ったあの日。よって私は、トイレへ向かう間、「トイレに行っても長蛇の列ができていてなかなか個室に入れないぞ、長時間並んで待たねばなるまいぞ!」と自らに予防線を張りながら駆け込んだ。トイレに行くとたしかに列ができていたが、思ったより列は短かった。しかし、私は知っている。待ち人数があと一人になったときなどに油断して出てしまうのだ。よって列に並ぶ間も、「あと一人がめちゃくちゃ時間がかかるぞ、個室の中で便秘に苦しんでいるのか化粧を直しているのかケータイを見ているのか私と同じ窮地にあるのか知らんけどとにかく何らかの事情で五分も十分も出てこないぞ!」と予防線を維持しながら待った。おかげで思ったより早く個室が空いた。だが私は、列から個室へ向かう数歩の間も気を抜かなかった。数歩の距離を「個室までめっちゃ遠い、個室までめっちゃ遠い」と念じながら歩いた。冷静を装って扉を開け、中に入り、便器に向かった途端、口から胃液が迸った。

 間に合った………!!! 最終的に胃液を出すことからは絶対に逃れられないが、或る程度のタイミングの調整は気の持ちようで可能なのだ! 昨今に無い充実を覚えた。

 

 もう長いこと「経験を重ねて何かが上達した」という体験をしていないように思う。ちまちまやってる語学はあまり身についていないしジムに行ったが運動能力は上がらなかったし仕事も長年やっているわりにそんなに上手くいかないし。よって、「これまでの経験を適切に応用して胃液吐きタイミングを見事にコントロールできた」ことに昨今で最も自分の成長を感じ、感動した。一同のもとへ戻るとA嬢に「大丈夫ですか?」と心配されてしまったが、とりあえず若者の前で嘔吐したり昏倒したりする事態は免れた。こんなことにも「熟練」があるのだなあと分かった。

 

 

ビー玉の金魚鉢

あれはなんというのか、シーグラス風のインテリア。曇り硝子状の濃いブルー、クリアな薄いブルー、それから透明のビー玉を透明な鉢や硝子瓶に詰めたあのオブジェ。名前があるのか分かりませんが、あれを見ると未だにときめく。いつも、永遠に80年代趣味やねと笑われるのであるが、その通り80年代的な建築やインテリアが好きで、中でもあの瓶詰ビー玉オブジェが好き。といってあれが80年代に発生したものかどうか知らないのだが。あれの発祥っていつ・どこなのかしらん。と、問題提起しておきながら今回はそれについては調べずあれの思い出を記す。

 

幼い頃は、男の子たちの中で遊ぶことが多かった。というと、紅一点とかなんとかサーの姫とかいった言葉が浮かぶが、自分は単に女の子の友達が少なかっただけであり、紅や姫としての扱いを受けることはなく、むしろダメ一点という感じで虐げられていた。というとまた気になるからこそいじめてしまう的なあれかと思われそうだが、たぶん単に本気でウザがられていたと思う。ウザがられていた理由としては、トロいうえにびびりだったからであろう。オタサーのダメである。今と同じか。

 

近所でよく遊んでいたのは、ケン君(仮名)とユウキ君(仮名)というひとつ年下の男の子たちだった。ケン君は乱暴者でやんちゃ、ユウキ君はおっとりしていた。優しいのはユウキ君だったが、私はケン君のほうが好きだった。私は乱暴者が好きなのだった。しかし、これが難しいところで、乱暴者は好きだが乱暴は嫌いだった。三人で遊ぶと、だいたい私が途中でギャーとかキャーとか泣きわめいて終わる。ケン君は「これやから女は嫌や」とやれやれし、ユウキ君がなだめてくれる。私には年上のお姉さんとしての威厳は無かった。泣きわめいた具体的な理由は覚えていないが、だいたいケン君が何か乱暴なことをしてそうなるのだった。

 

あるとき、ケン君の5歳の誕生日パーティーに招かれた。ケン君の家にはそれまでも何度か遊びに行っていた。白亜のような玄関を入ると、広いフローリングの居間があり、テーブルに食事が並んでいた。テーブルの周りは10名ほどの子どもたちがいた。いつもはケン君とユウキ君と私の三人だけだが、習い事などケン君の他のコミュニティの友人たちであったのだろう。全員男の子であり、ユウキ君以外は知らない子だった。知らない子たちの中に女子ひとりである私は隅っこで小さくなった。

それぞれがケン君に誕生日プレゼントを贈呈した。私も何か親が見つくろったものをプレゼントしたと思われるが、覚えていない。覚えているのはその後、ケン君のご両親からのプレゼント贈呈である。ご両親が、ラッピングされた大きな包みを渡した。ケン君は包みを開け、

「わあ! ほしかったんや!」

と歓声を上げた。野球のバットだった。野球は当時男の子たちの一番メジャーな遊びだった。 ケン君はそれを担ぎ何度か得意げに素振りした。そして言った。

「これ、金属バットやぞ!」

 

そのバットが実際に金属バットだったのかどうかは分からない。もっとちゃちな、おもちゃのようなバットだった気もする。しかし、このひと言で、私の身体は縮み上がった。当時「金属バット」という言葉には特別な含意があった。それは、1980年に神奈川で起こった金属バット殺人を連想させる言葉だった。今でいう「教育虐待」を受けていた浪人生が両親を金属バットで撲殺した事件であった。1980年当時私たちはまだ物心ついていないはずであるので、この頃判決が出たことで再び話題になりその事件名を耳にするようになったのであろう。といっても、事件の経緯や詳しいことはほぼ知らなかった。ただ「金属バット」という強そうな言葉と「殺人」が結びついたのである。「金属バット」は暴力的でちょっとカッコイイ言葉になったのである。

それが証拠にケン君は、金属(?)バットを振り回しながら何度も、

「金属バット! 金属バット!」

と言い、

「これで殴ったら死ぬんやで」

とも言った。まさかやんちゃなケン君でも人をバットで殺すようなことはしないだろう、第一あれが本当に金属バットか分からない、と思いながらも身体は強張った。殺すつもりはなくても、当たってしまうかもしれない。ケン君はリビングの一番奥でバットを振り、私は入口近くにいた。広いリビングであるから、どう考えてもバットが当たることはない。しかし、なんかの間違いで当たってしまったら、あるいはケン君が突然おかしくなって、こっちに走って殴りにきたら。そんなことを想像するうちにさあっと手足は冷たくなった。誕生日パーティーに来たことを後悔した。

 

食事にするからそれは置いて、とお母さんがバットを片付けさせ、私は心からほっとした。その後、お母さんが作った食べ物やお菓子が運ばれてきて、ケーキも出てきたと思う。が、その間じゅう私は気が気でなかった。

今は手にしていないとはいえ、同じ部屋にあのバットが在るのだ。部屋の隅に置かれたそのバットが、食べているときもその後にゲームをしているときもずっと目に入り、それはきれいなリビングの中のくろぐろとした異物のような存在感を放ち、この部屋からなくなったらええのに、どっかにやってくれへんかな、なんでバットなんかあげるのか、ケン君のおっちゃんとおばちゃんがバットなんかあげなければ、とそればかり頭に浮かぶ。今はケン君はバットを手にしていないし、手にしたからといってたぶんあれは金属バットじゃないし、金属バットだったとして本当にそれで人を殺すことなんて無いはずだと分かっているのに、そいつが在る側に向いた身体の半分がぴりぴりと緊張して、腹から胸にかけての中がずっとざわざわと落ち着かぬ。

そのざわざわになることがよくあった。たとえば親に琵琶湖に連れていかれた際。父に手を取られ泳いでいたときに、父がふと、「下、気いつけや、黒いのあるぞ」と言った。水面下でよく見えなんだが、水の底にたしかに黒い小さい何かがあって、尖った石か何かのゴミであったのだろうが、父が「ジョーズやで、なんてな」と言ったのである。ジョーズでないことは5歳児でも分かった。そんなジョーズがあるはずない。黒くて一部尖っていることしか共通点は無い。しかし、その後はもうダメで、泳いでいても、底に足をついてしまえば大変なことになってしまうような恐怖でいっぱいであり浜に上がってもあのジョーズが沈んでいたあたりが気になって恐ろしくてしょうがない。腹や胸の中がざわざわして顔面が白くなっているのが自分でも分かる。ジョーズと言ったのは、父のどうでもいい冗談であったはずなのに。

 

結局その後、私は金属バットと同一空間に存在し続ける緊張感に耐えられなくなったのであろう、ボードゲームをしている最中にまた何らかのやんちゃをきっかけにキャーとかギャーとか泣きわめき出し、ケン君にしてみれば自分の誕生日パーティーでご機嫌にしているところへ面倒臭い年上の女子がキレ始めたので面白くなくますます意地悪なことを言い、私はますます泣きわめいた。

「よしよし、おばちゃんと一緒に二階行こ」

ケン君の家で私が泣きわめいたことは初めてではなく、お母さんは手慣れたものであった。これが始まると二階の小部屋へ連れていってくれる。私はお母さんに連れられ階段を上った。あのバットのある部屋から離れられてほっとした。男の子たちは面倒なやつが去ったのでまたにぎやかに遊び始めた。

二階の寝室の隣の小部屋には、大きな熱帯魚の水槽があった。私がこのモードになると、お母さんはこの部屋へ連れて水槽を見せてくれるのだ。ブルーの水槽、水草の中に、赤く光る小さな魚たちやしましまの魚たちがいた。私はこの水槽を見るのが好きだった。家でも何度も「ケン君の家で水槽を見せてもらった」という話をした。今思えば、ケン君の家は、広いフローリングでパーティーをしたり大きな水槽があったりお金持ちの家だったのだろうが、当時は特にそんなことも意識せず、大人になったらこういう水槽のある家に住めるのかと思っていた。ケン君の家がお金持ちだと知ったのはけっこう成長してからで、「ケン君はええとこ受験せなあかんで大変らしい、あそこはちゃんとしたお家やからな」と大人たちが話すのを聴いて、あんな乱暴者だったのにお坊ちゃんだったのか、と知ったのだった。一方その頃には、おっとりしていたユウキ君はグレていた。

「男の子ばっかりやしいややんなあ、ここでおばちゃんとゆっくりしてよ」

お母さんは、水槽の前の白いソファに一緒に座ってくれた。ソファの前には小さなガラスのテーブルがあり、金魚鉢が置かれていた。金魚鉢の中には、曇り硝子状のブルー、クリアな薄いブルー、そして透明のビー玉がキラキラしていて、私はそれを眺めるのも好きだった。これなんなん? なんで青のと水色のと白のがあるん? ビー玉出してもいい? とりとめない質問に、そやねえ、これはまあ、ただの飾り、なんでかなあ、きれいやから、ええよ、と答えつつ、おばちゃんは私の背に目線を合わせて一緒に、取り出したビー玉を眺めてくれるのだった。

 

通信添削の思い出(ガッツ石松)

ツイッターでまた、「中年になっても昔の模試の成績の話をし続ける人」がバカにされていた。この件では、それ自体がバカにされていたというよりは他に批判される文脈があった中でのことのようだが、ともあれ、いつまで模試の順位やら偏差値やらの話をしてるんや、みたいな嘲笑はしばしば目にする。

しかし、自分は過去の栄光にこだわる人を見るのは嫌いではない。もちろん直接自慢話を聞かされるのはうっとうしいけど、よそに眺めている分には、まあそれがその人の心の支えであるのだな、ならばしょうがないのでは、と思う。誰もが今を生きられるわけではない。学業成績に限らず過去の栄光にこだわる者は全般的に滑稽だが(それ以降何も成していないことを示していることになるので)、過去栄光執着者の中でも、やはり大学受験での栄光を語り続ける人はとりわけ嘲笑されがちな気がする。「大人になっても延々とセンター試験の得点の話をするやつ」はもはや愚かでウザいやつの典型像である。やや気の毒な気もする。バカにされる理由としては、大学受験というのは本来何らかの目的(大学で何々を勉強してその後何々をする、とか)のための手段であるからだろう。手段段階での栄光をそんな大事にされてもな、って感じだ。また、受験勉強というのは「本当の勉強」とみなされない傾向がある(よく「受験勉強と大学に入ってからor社会に出てからの勉強は違うんだよ」みたいなことが言われる)。これにはいろいろ思うところはあるけど、たしかに受験勉強がうまくいくとかいかないとかは、本人の努力や資質よりも環境や運の力が大きいとは思う。まあそれも受験勉強に限ったことでもないか。……となんか話が散らかってしまったけど、ともあれ、そんなこんなであっても、受験勉強時代の栄光が本人の心の拠り所であるならしょうがないし、私は彼らを笑えない、私もまた、いつまでも、Z会ネームが「牛姫様ホル子」であった過去を語り続けるものであるのだから……。

 

そんなわけでZ会の思い出について書きたい。

高校時代から浪人時代にかけて、一、二年ほどZ会の通信添削を受けていた。本当は、小学生の頃から「進研ゼミ」に憧れがあった。ご存じの通り、進研ゼミは子どもたちの心をつかむ広告をさかんに送ってくる。「進研ゼミで勉強し始めたら成績がみるみる上がったうえ気になる子とも両想いになってその他すべてがなんか知らんけどいろいろよくなってハッピー!!」みたいな広告漫画である。子どもたちは皆あの漫画を信じていたわけではなく、よく友人たちと「こんな上手くいくわけないやろ!」とつっこみを入れていたが、にもかかわらず「もしかしたら!」という思いで騙される友人は後を絶たなかった。私は、成績がみるみる上がってすべていろいろハッピーになる可能性以上に、進研ゼミに入ると送られてくるという諸々キャラクターグッズと、「赤ペン先生」とのやりとりができることに惹かれていた。私は文通好きの子どもだったので、赤ペン先生と文通がしてみたかった。赤ペン先生は可愛いイラストとかも描いてくれるという。しかし、自分は文通とグッズに惹かれているだけで勉強がしたいわけではない、という自覚があったので、親に進研ゼミをねだることはなかった。

大学受験となると、さすがにキャラグッズはどうでもいいので硬派なやつにしよう、と考え、通信添削の中では硬派であるらしいZ会にしたのだが、Z会にも添削者とコメントのやりとりをできるスペースがあったので嬉しかった。古文の答案に、なんちゃって古典的仮名遣いでコメントを書いてみたところ、添削者が正しい古典的仮名遣いに添削してきて「うわあっ」と思うなどした。

答案とともに、毎回会報のような冊子が送られてきた。これには受講者たちの投稿コーナーがあり、私はそれを教材以上に熟読していた。昔から雑誌の投稿コーナーが好きだったのだ。今ツイッターとかブログとかが好きなのもその延長だと思う。投稿コーナーではZ会用語のようなものが飛び交っていた。「今から白い悪魔をやっつけます!」「白い悪魔を退治しました」などとある。「白い悪魔」というのは届いたばかりの白紙の答案のことらしい。また「今回は日帰り答案です!」「日帰り答案は無理でした」などとあるのは、問題が届いたその日に解いて返送することを指す。私は毎回締め切りを過ぎて返送していたので、日帰り答案とか言ってる人たちはZ会ガチ勢だと思われた。「受験オタクや、やばいなあ」と思いながらガチ勢の投稿を読んでいた。Z会ではZ会ネームを設定でき、投稿が採用されたりランキングに入ったりするとZ会ネームで会報に掲載されるのだ。「牛姫様ホル子」は一度だけ何かで掲載され、他校の友人に発見されて「おまえやろ」的なことを言われた。

会報には、ライトな投稿を載せるコーナーとシリアスな投稿を載せるコーナーがあった(ように記憶しているが、同時期にロキノンを読んでいたためそれと混同しているかもしれない、ロキノンには普通の投稿コーナーと「リーダーズレビュー」コーナーがあったので)。シリアスな投稿コーナーに掲載された、医学部を目指す女の子の投稿を今でも覚えている。「みんな日々受験で大変な思いをしていると思います。しかし、私の友人は、医師になりたいのに、家庭の事情で大学を受験することができません。どうすればいいというわけではないけれど、こういう人がいるということも覚えておいてください」というような内容だった。

 

 

実は、Z会以前にも、短期間受けていた通信添削があった。しかし、そちらにはいい思い出が無い。

中学生の頃、あまりに勉強しない娘を心配した母が勝手に申し込んだのだったが、母は娘のレベルも知らずやたら難しいやつを申し込んだため、まったく手がつけられないまま放置された答案が雪だるま式に溜まっていった。母には「提出した」と申告していたが、白紙の答案を学習デスクの中に溜め込んでいたためバレた。ある日、友達と遊びにいこうとすると母に「今日は溜めてる答案を出してしまいよし」と申し渡され、友達との遊びを断ってしぶしぶ部屋にこもり机に向かったものの、基礎もできていないのにハイレベルな応用ばかりの問題が解けるわけがない。何も分からない。教科書でカンニングしようにも何をどう調べていいかも分からない。せめて比較的得意な国語だけでも手をつけようとしたが、それすら半分も分からない。私は親の前に行き、

「うわああああ」

と言いながらゴロンゴロン転がってみせた。雪だるま式に膨らんだ答案のプレッシャーによる心の叫びであると同時に、「こんなんムリ!なんでこんなんせなあかんねん!」のデモンストレーションでもあった。親がどう反応したか覚えていないが、その後の人生もずっとこのゴロンゴロンが続いているような気がする。

 

しかし、この通信添削の会報にも投稿コーナーがあり、それにはせっせと短文やらイラストやらを投稿して景品のナップサックをもらうなどしていた。これは、「仕事の〆切を破りながらSNSの投稿をする」パターンに似ている。

会報ではときどき、作文コンテストが開かれた。図書券かなんかがもらえるので私も投稿したが、入選しなかった。入選者の学校名を見ると、自分でも知っているような進学校だった。進学校の子なんて出木杉君みたいな優等生ばかりだろうと勝手にイメージしていたので、出木杉の作文なんて絶対面白くないやろ、うちの方がマシなはずや、と思って読み始めたその作文が、面白くてびっくりした。今でも覚えているのは、京都の某中学の男の子による「ガッツ石松」の作文である。

 

彼は、いつも、自分はちょっと人と違うんじゃないか、と悩んでいた。友人と喋っていても自分だけおかしなことを言ってしまっているような気がする。しかし、あるときテレビを観ていたら、

「トラックの『バックします』という声が『ガッツ石松』に聞こえてしまってしょうがない」

という人が出ていた。何度聞いても「ガッツ石松」に聞こえるのだという。彼はこのテレビ番組にとても励まされた。世の中にはいろんな人がいる。「バックします」が「ガッツ石松」に聞こえたっていいんだ。自分も、「ガッツ石松」に聞こえるんだ、と思いながら生きていこう。

 

と、記憶による要約ではあるがそのような内容だった。

私は、進学校の子なんて面白味のないマシーンのような秀才だとばかり思っていたので、こんなふうに悩んでる人もいるんや、みんなそれぞれ悩んでるんやな、とハッとした。かつ、その悩みを軽妙な文章で表現している点に感心した。そして、そのテレビ番組が見てみたいな、と思った。

数年後、私は、『探偵!ナイトスクープ』がその番組であったことを知る。「ガッツ石松」の回は、1992年に桂小枝探偵が担当した「爆笑小ネタ集」の中のひとつであったようだ(要確認)。私も総集編でその回を観ることができた。名作とされる「日本一周中の息子」回を母が泣き笑いしながら観ており、私も一緒に観るようになった。西田局長に代わってからのことはあまり知らず、最近は全然観なくなってしまったが、この頃(90年代後半頃)は、ほんとうに毎週この番組が楽しみだった。病弱キャラで薬に詳しい立原さん、渋いネタが多くどこか知的な越前屋俵太、「パラダイス」といえば桂小枝、など好きな探偵もこの頃が最も多かった。すなわち上岡龍太郎時代でもある。先日、上岡龍太郎の訃報を聞いた。ご冥福を、などという言葉はこの人には似合わない気がするので言わないが、私の中でナイトスクープといえば今でも上岡龍太郎局長である。「いつまでも受験時代の栄光にこだわるやつの話」だったはずがナイトスクープの話になってしまった。

 

 

 

おぢいに評価された絵

母方祖父(おぢい)の話はこれまでも何度かネットで書いているので「またか」とお思いの方もあるだろうが、そんな熱心に私の書き物をコンプリートしている読者がいるとも思えないし、また一定の年齢になると人は、同じ話を何度もするものだと思うので、まあよいとしてほしい。

 

母方祖父(おぢい)の家は、私が物心ついたころには、いろんな骨董(本人とその家族は「ガラクタ」あるいは「ごもく」と呼んでいた)、趣味の本、本人が作った彫刻や工芸品でいっぱいだった。おぢいは「ごもく集め」を趣味とし、手先が器用で、自らいろんなものを作る他、親戚が持ってくる壊れた時計だとか食器だとかの「直し屋さん」(といっても料金をとるわけではない)をしていた。おぢいは無口で、いつも小刻みに震え、部屋着の着物を着て、あまり家から出なかった。社交的ではなかったし、見た目も偏屈の仙人のようだったし、私はずっと、おぢいは「直し屋さん」をしたり彫刻を売ったりして生計を立ててるんやろうなあ、と思っていた。おぢいが普通にサラリーマンだったことを知ったのは、かなり大人になってからである。エッ、勤め人だったの!? あれで!!?? とかなり衝撃を受けた。

 

私はおぢいを敬愛してはいたが、しかしおぢいが自分の得意な人間のタイプかというと、微妙であった。身内ではあるので普通に戯れかかってはいたが、いつも何かを見抜かれているような、どこか緊張するような感じがあった。私には「敬愛できてかつ親しい人物」というのが少なくて「敬愛するが苦手な人物」がすごく多い。特に、男性で何か作品を作る人(作家とかミュージシャンとか)で好きな人物はほぼこのタイプだ。そのタイプの原初がおぢいだったといえよう。

 

特にその感じを感じるのは、描いたものをおぢいに見せるときだった。描いたものといってもべつにたいしたものではない。私は子供の頃から落描きが好きで、母の実家に行ってもよくチラシの裏に漫画のようなものを描いていた。そして母の実家で描いたものはおぢいの目を通ることになる。自分で見せにいったのか、周囲の大人が「こんなん描いてるで」と見せていたのかは覚えていないが、ともあれ、私のチラシの裏を受け取ると、そんなどうでもええ落描きには不釣り合いな真剣なまなざしでおぢいは、眼鏡を外したりかけ直したり、紙を近づけたり遠ざけたり、またたびたび裏返してみたりしながら、じっくり鑑賞する(裏返すのはおそらく骨董の銘を見るときの癖だったのであろう)。だんだんこちらは、そうまでして見てもらうものでもないので、もうええって、というようなこそばゆい気持ちになってくる。紙を持つ手はいつも小刻みに震えている。後で母に聞いたところでは、手が震えるのはあるとき急に始まったらしいので、加齢による何らかの不調であったのだろうが、当時の私にはそれも何かおぢいの仙人らしさというか芸術家らしさというかそういうものの表れに見えたのであった。紙を返してもらう頃には、すっかり気恥ずかしくなっている。おぢいは多くは語らないが、時々、「ここはちょっと変やな」「こうしたらええんちゃうか」というような真面目なコメントをした。気に入ったらしいときには、「面白いですがな、ホッホ」と言葉少なに笑った。

 

一度、窘められたこともあった。技術的なことではなく倫理的なことである。8歳くらいの頃、年下のいとこを揶揄うような絵ばかり描いていたことがあった。私としては、年下の子に注目が集まることが少し妬ましかったところもあり、また母の実家というのは自分の家と違って子供らしく「いちびる」ことができる場であったので、「〇〇(いとこ)はハゲ」とかそんな意地悪な絵ばかり描いていたのだが、それをおぢいが、

「あんたは将来漫画家になりたいんやろ、漫画ていうのは人を幸せにするものとちゃうんか、せっかく絵ェ描くんやったら人を喜ばせる絵ェ描かんと」

といつもの飄々とした調子ではあるが窘めたのであった。私は、「漫画家になりたい」というのはそんなに本気で言っていたわけではなかったが、芸術家で仙人であるおぢいにそんなふうに言われて「ウッ」と思った。しかし一方で、「漫画ていうのは人を幸せにするもの」という主張には、「そうかなぁ」と、何か納得いかないものもあった。

このことは、2015年、或るイラストレーターの「そうだ、難民しよう」が話題になったときに思い出した。絵の良し悪しは私には分からないが、人物の顔や身体、髪、服の皺がひとつひとつ描かれ影もつけてある。それは(写真のトレースとはいえ)時間のかかることだろうし、ソフトの操作を習得する労力も使ってきたことだろう。そんなせっかくかけた労力やせっかく得た技術を、こんなことに使うのか、と考えると、作者と「〇〇はハゲ」を描く自分が重なった。しかしそれでもやはり、「漫画家ていうのは人を幸せにするもの」ということには依然「そうかなぁ」と思うのであった。

 

 

話が逸れたが、そのように、おぢいは私にとって、慕わしい祖父でありつつ、どこか畏怖の対象であり緊張させられる人であった。私が大きくなると、子供の頃のようにチラシの裏に描いたものを見せることもそう無くなったが、我が家からの年賀状の絵は毎年私が描いていたので、毎年おぢいはそれを震える手で持ち、遠ざけたり近づけたり裏返したりしながら見ていたことだろう。正月には毎年挨拶に行っていたが、特にそれらについてのコメントは印象に無いので、たいしたことは言われなかったのだと思う。しかしそんな中で一度、後から伯母に、

「おぢいが今年のあんたの年賀状を気に入って、『これはええ、これはええ』て言うて飾って何度も見てはった」

と聞かされた年があった。

それが、これである。

 

 

 

 

何故!?!?!?

これは2000年の年賀状だが、家族からは「きもい」と不評であった。自分でもなぜこれを賀状にしたのかよく分からない。おぢいもこれの何を気に入ったのか分からない。伯母によると「おぢいはコチャコチャ描き込んであるのが好き」ということだったが。たしかにコチャコチャしてはいるが。しかし、晩年のおぢいが、正月に一枚一枚賀状を吟味し、ぷるぷるふるえる腕でこいつを持ち上げて「ホホッ」と笑って裏返してはまた「ホホッ」と笑ってくれていたであろう光景を思うと、今でも少し嬉しくならないこともない。

 

 

 

 

 

ふたりの優等生の思い出

小学校に、Aちゃんという女の子が転校してきた。三年生か四年生の頃だったか。

Aちゃんは、転校してくるやすぐにクラスの中心人物になった。

彼女は快活で明るい性格だった。女子はすぐに彼女をグループに迎え入れ、男子は早速「Aちゃんが好きになった」という者が現れた。Aちゃんは成績も良くしっかりしていて、勉強だけでなく運動もできて、どうやら家も裕福そうであった。完璧だ。かといって分け隔てもせず、クラスの中の目立たない子にも優しく接する。もともと学校にいた私などよりも学校に馴染んでいた。そうした性質は転校を繰り返す中で獲得されたものなのかもしれない。Aちゃんは何度目かの転校だった。「転校ってこわくない?」と私が尋ねると、

「全然こわくない、友達つくるのが特技だから」

とAちゃんは言った。この「友達をつくるのが特技」という感覚が、あれから30年経っても私にはまったく分からない。

 

さて、Aちゃんを陽の優等生とするなら、陰の優等生とでもいうべきはB君であった。

彼は別に転校生ではなく、入学時からこの学校にいたのだが、入学時から浮いていた。

B君は学業成績は抜群によく、その点では優等生であったが、それ以外の点ではむしろ問題児であったといえる。頭は良いし口にすることも正論であるが、いちいち厭味な言い方をするので皆はそれを嫌った。文集の作文に皆が読めない難しい漢字や皆が知らない難しい格言を書く。「これどういうこと」と尋ねると、鼻で笑うように解説された。つまり変人なのだった。彼は「終わりの会」の「今日誰々にいやなことをされました/言われました」コーナーにおける被糾弾の常連であった。ちなみにAちゃんとは違い、勉強はできるが運動はできなかった(私とビリを競っていた)。

 

しかしあるとき、陽の優等生・Aちゃんが、陰の優等生・B君を褒めたことがある。

ホームルームか休憩時間か場面は忘れたが、先生も交えて、「クラスの皆は将来何になるだろう」という話をしていたときだった。誰々は走るの速いからスポーツ選手やね、誰々はおうちのお店を継ぐんやろね、と目立った特徴のある何人かの名が挙げられる中で、B君の名はなかなか挙がらなかったのであるが、ふとAちゃんが、

「B君は弁護士になったらいいと思う、だってすごく正義感が強いもん」

と言ったのだった。

「弁護士」がどういう職業か私はよく知らなかったが、ハッとした。クラスの他の子も、虚を突かれたような感じだった。というのは、それまでB君の長所に言及することがあっても、皆「いやなやつやな、勉強はできるけど」「勉強はできるけど、勉強しかできひん」などというように、勉学のことにしか触れなかったのであり、そしてそれは勉学以外の面への貶めとセットになっていたのであり、公然とB君の人格面に肯定的に言及したのはAちゃんが初めてだったからだ。B君自身も、驚いたような表情をしていた。普段あまり表情を変えないのに。そしてたしかにB君は、厭味だがいつも正論を言うし、物事の評価は公平だし、Aちゃんが「正義感が強い」と言ったのは言われてみればなるほど、と思うポイントであった。さすが自らも長所だらけの人は、他人の長所を見つけるのも上手なのであるなあ、というようなことを私は思い感心した。その話題はそのまま流れて、Aちゃん自身はそんな発言は忘れてしまったかもしれないが、なぜかこのことはその後もずっと覚えていた。

 

やがて中学生になった。Aちゃんは同じ中学だったがほとんど交流はなくなった。B君はどこか賢い学校へ行った。

以前にも書いたが、中学時代というのは私にとって嫌な時代だ。

小学校は、「きれいごと」であるような理念、たとえば「人間は自由で平等だ」とか「誰もが自分らしさを大切に」とかそうした理念が、正しいものとして信じられている世界であった。もちろん現実が理念通りであったわけではないし、そんな理念を信じていられぬ事情のあった人もいただろうが、少なくともそれらは信じるべき建前として機能しており、かつ、小学校の優等生とは、そうした理念に自らを沿わせ理念を背負える子たちのことであった。彼ら彼女らは眩しかった。それが中学に入ると、そうした理念に反する「世俗」が急に正しいものとして台頭し始めた。部活動での理不尽な上下関係を先生が黙認していることや進学とか偏差値とかいうことが大事になり始めたことは「人間は平等」という理念の否定であったし、男子はズボンで女子はスカート、男子は技術で女子は家庭科、という突然のジェンダー規範は、「自分らしさを大切に」とかいう理念の否定であった。といっても理念は理念として一応残っていて、しかし完全に空疎な形になっていて、よってそれを非現実的で「小学生気分」(という揶揄を先輩や教師はよく用いた)の残る子供じみたものとして嘲笑しつつ、「世俗」に順応してゆける者が偉いことになる。小学校時代に理念を信じていたと思われた子たちが、続々と世俗に順応してゆくことに、私は戸惑った。べつに自分だけが正しい理念に生きていた、というわけでなく、自分もそこで薄汚れていった、あるいは前から既に理念に生きられていなかった(からこそ優等生たちが眩しかった)のであるが。

 

或るとき中学の廊下ですれ違ったAちゃんは、粗暴な男子のグループと喋っていた。女とみれば性的な冗談を投げてくるそやつらは、清潔なAちゃんと合わない気がしたが、Aちゃんは楽しそうに喋っていた。会話の中で、そやつらと一緒にAちゃんは、障害のある或る生徒を性的に貶めるような蔭口を言っていた。私はややショックを受けた。小学生の頃Aちゃんは、私の障害のある妹にもいつも親切にしてくれていたのに。それで先生に褒められるほどであったのに。

 

時間が流れ、なんやかんやあり、私は大学生になった。同じ大学の法学部に、B君の姿を見つけた。小学校の頃と驚くほど見た目の変わらぬ彼は、弁護士を目指して勉強していた。彼の選択が、あの日のAちゃんの言葉を受けてのものなのか、それとは関係ないのかは、尋ねたこともないので分からない。しかし、もしそこに、意識的であれ無意識的であれAちゃんの言葉が影響していたとするなら、人の何気ない一言というのは大きいものだなあと思う。もし、B君にとって何の影響もなかったにしても、少なくとも私は、たぶん本人が忘れているであろうAちゃんの言葉をなぜか覚え続けていて、おかげでB君を「正義感の強い人」として記憶し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

逆転サヨナラ満塁五条別れ

この年齢になっても初めてのことはあるもので、初めて野球の試合を最後まで見た。これまで野球のルールを何度か人に教えてもらったが一向に覚えられない。小学生の頃にクラスでキックベースをさせられたことがあるが、まるでルールが分からずとにかく人から「走って」とか「止まって」とか指示されるままに動いていただけだった。漫画や小説、歌の歌詞やものの喩えに野球が出てくるときは、その都度調べるかあるいはなんとなく雰囲気で流していた。しかしそろそろ野球をちゃんと理解したい。一試合見ながら確認したら覚えられるのではないかと思った。それまで断片的に聴いたことのある、ファウルとかヒットとか三振とかが一応なんだか分かった。ビギナーなので細かいルールは分からないし、皆こんな複雑なものを理解して楽しんでるんだなと感心するばかりで、何が起こっているのかを自力で判断するまでは行けなかったが、家人に解説されながら見るとなるほどこれはこういう理由でこういう状態になっているのだなと一応理解することができた。話題の人であるがよく知らなかった選手のことも分かったし、観ているとなんとなく好きな感じの選手もできてきた。そして私が初めて最後まで見たその試合は、かなり良い試合であったらしい。もう駄目かと思われたJAPANは最後の最後で巻き返し、MEXICOに逆転勝ちをした。例によって私は自力ではJAPANの勝ちを判断できなかったのだが、走った選手がホームベースに帰ってくる(という言い方で合っている?)とベンチにいた選手たちがわらわらと現れ喜び合い始め、TVの中の人たちと家人が「うおおお」というような声を上げたため、これでJAPANの勝ちが決まったのか、と分かったのだった。9回の裏では相手方は抑えるのみだからもうどうしようもないのだそうだ。逆転サヨナラ勝ちだ! あ、これがサヨナラ勝ちか。

サヨナラ勝ちは勝たれたほう(「勝たれた」というのは迷惑受身か)すなわち負けたほうにしてみればサヨナラ負けであり、サヨナラ勝ち・サヨナラ負けという言葉は知っていたので、今回の試合で実際それを目にしてこれがそうかと思ったのだった。サヨナラ勝ちをした者たちは喜びに包まれ、何らかの液体をかけ合っていた。そうか、これがサヨナラか。私の思っていたサヨナラと少し違った。午前中は冷房を入れてはいけないというルールがなんとなくあって、冷房を入れるのは午後からだ。思えば子供時代の日本の夏は今に比べればずいぶん涼しかったのだ。やっと障子を締め切って冷房が効き始めた奥の部屋で、白い開襟シャツを痩せた胸に張り付かせながら、「うひゃあ、サヨナラ負けやあ」と野球中継を聴いていた祖父がいう。サヨナラ、と祖父が言った瞬間、ラジオの音が、古いエアコンの音が、外の通りの声が、ふわっと消えて窓の外の夏の空に吸い込まれていく。もう後がない。もう後がない。私たちはいつか永久に別れるときが来る。ラジオが消えて、走り回っていた選手たちの姿が消えて、祖父の姿が消えて、球場の上の空には白い雲だけが浮かんでいる。もう何もない。

「五条別れ」という地名もまた、「サヨナラ勝ち/負け」と似たイメージを喚起した。父の運転する車に乗りどこかへ行く。「こっち行ったら五条別れやな」「五条別れのほうから行こか」と両親が言う。そのたびに、キュッと胸の奥を掴まれるような感じがして、遠い道の向こうから、絣の着物に身を包んだ二人の女がやってきて、ひとりは年かさでひとりはまだ幼い。母娘なのか友人同士か姉妹なのかまたは恋人なのか分からないが、二人の運命はここで分かたれて、ずっと一緒に居たいはずなのに、ここで二人はそれぞれの途に分かれてゆかなくてはならない。年かさのほうの女が険しい途を歩き出し、幼い女を振り返る。雪が降っている。雪の中で幼い女は不安げに唇を開き、歩いてゆく年かさの女の背を見ている。もしかしたら戻ってきてくれる、と願っているのだろうしかし、歩き出した彼女は戻ることはないし、振り出した雪はようよう激しくなって二人の間を真っ白に染め互いの姿ももう見えない。ここで別れた二人は、二度と生涯会うことはない。かわいそうなゾケサたちのように。悲しい。悲しい。
「五条別れってなんなん?」

「場所の名前や」

「なんで別れっていうの」

「追分とおんなじや。片方の道は三条で、片方の道は五条に行くねん」

「それがなんで別れなん」

「だから、そういう名前やねん」

 どうも親の言っていることはよく分からない。しかし、この人たちともいつか別れなくてはいけないことは分かる。車はそこへ近づいている。いやだ、五条別れに行きたくない。二つの道を隔てる朽ちた標か有刺鉄線だけがあり、きっと荒涼とした、幾人もの涙を吸ってきた地。

「五条別れてどこなん」

「もうさっき通りすぎたで」

 普通の道路だった。

 

 

救急車が来る!

わが町内の民は、救急車が大好きだ。あるとき家に帰ると、近所の人たちが皆戸外に出てなんとなくワクワクとした感を醸していた。何か、と思ったら救急車が来ていたのだった。わが家の者も例外ではなく、救急車の音にはやたら敏感で、室内でのんびりしていても救急車の音がきこえると条件反射のように身体が動き、様子を見に行く。火事も大好きである。実家時代、学校か仕事に行こうとして、あれ、チャリがないな、と思うと、父か祖父が火事を見に行っているのであった。自転車を使うくらいの距離だから、自宅への延焼を心配して様子を見に行くとかではなく、ただ純粋に火事を見に行っているのである。もし燃えたのが自分ちだったら当然イヤだ。知った家で火事があったら同情するし悲しむし手助けもする。まったくの他人の不幸だと楽しい、かといえばそういうわけでもなく、見に行った先で燃えてる家を見ればやはり気の毒に思うしまして死人や怪我人が出れば心を痛める。しかし、それはそれとして、とにかく火事を見に行くのが好きなのである。

 

 

町内に救急車が来るときの標準的なパターンを、あるケースを例として書いてみる。

救急車が表の通りに入ってきた音が聞こえ、我が家のすぐ近くでストップした。我が家は夕食時であったが、父と祖父(祖父はもういないがこの二人が我が家の救急車大好き二大巨頭であった)がまず「お、近くや」「なんやなんや」と席を立った。少し遅れて母や私も覗きにいった(女性陣は比較的救急車に消極的であった。家事等で忙しかった事情もあるかもしれない。しかし結局は見に行くのだった)。

表の戸を開けると、同町内のおじさんが、ペッカー とした輝くばかりの笑顔で走っていた。こんな良い笑顔がこの世にあるのか。何かをやり遂げた後のスポーツ選手のような最上の笑顔。このおじさんは救急車番長で、救急車がやってくるといつも一番に飛び出してくる。どんなに早く外に出ても、必ずこのおじさんが先に飛び出しているのだった。

救急車は我が家のすぐそばで停まっていた。どうも、町内の奥の家らしい。我らに続いて町内の各戸からワラワラと人が出てきたので、誰が情報源ともなく、「奥のおうちの人が倒れてはったんやて」というのが伝言ゲームのように伝わってくるのだった。わが町内は現代の都市においてはつながりが緊密なほうではあるが、全員が顔見知りというわけではなく、付き合いのない人も多い。奥の家の人は、会えば挨拶くらいはするがほとんど知らない人であった。しかし、「誰々が見つけはったらしいで」「ご家族は?」「~で働いてはるらしい」「~で働いてはるんか」「もうおいくつくらいやろ」「子供さんが~歳やから~歳くらいちゃうか」などなど、急速に当該人物についての情報が交換されるのだった。

救急車番長のおじさんとうちの父がいつの間にかいない。気がつくと彼らは、交差点のところで交通整理をしていた。救急車が細い道で停まったため、他の車が道を通れない。よって他の車に迂回するよう自主的に案内をしているのだった。

町内の名物夫婦がフラフラと帰ってきた。彼らはよく二人で飲みに行っている。ときどき酔っ払いすぎて奥さんが電柱にぶつかったり路端で落ちてたりする。家に入るより先に「おお~、どないしたんや」と野次馬たちのところへ寄ってきた。「奥の家の●●はんが」と野次馬が説明する。酔っぱらってエエ気分の彼らには、救急車の赤いランプもネオンのように見えていただろう。今は気楽な野次馬側である我らだが、この夫婦の家に救急車が来たこともあるし我が家の者が倒れて救急車を呼んだこともある。そのときはこうして集まられる側であった。これがイヤで我が家は救急車に「サイレンを消してきてくれ」と頼んだのであったが、町内民たちはどうしてか察知してぞろぞろ出てきたのであった。

 

野次馬の中から、担架が運び出されてきた。担架が救急車に乗せられた。酔っぱらっていた奥さんが急にシッカリした眼になり、「あれはもうあかんわ、足の形がこう開いてたもん」と言った。奥さんは医療関係者なのだった。

 

救急車が去ると、救急車後社交が始まった。いったん戸外に出てきた一同はなかなか家に入りがたいようだ。考えてみれば、こんなに町内の者がこぞって戸外に出て顔を合わせるのは、祭りのときくらいなのである。なんとなしに目の合った者同士、〇〇はんもうリタイアしはったんやっけ? 今は悠々自適か? ええなあ、 いやもう毎日家にいてあかんわ、△△さんは今どっか勤めてはるん? へえ、お兄ちゃん大学上がらはったんや、ええとこやん、へえそう、うちんとこなあ、なかなか結婚せえへんねん、まあ今の若い人は昔と違うて遅いから、そうそう、好きにしはったらええわ、とかなんとかご近所情報が更新・交換される。交差点では、救急車番長のおじさんが停止していた車たちに礼を言い、通行止めを解除しているのだった。