靴下を切り刻む

「考えたら分かるやん!」というのを昔からよく言われる。言われて痛いフレーズのひとつであるが、たしかに他人からすればそうも言いたくなるであろう失敗をしょっちゅうするのは事実なのでしょうがない。そこまで極端に論理的思考ができないわけではない(と自分では思っている)のだが、この年齢になってもまだ言われる。

 


4歳くらいの頃、靴下を切り刻んでしまったのも、「考えたら分かるやん」案件であった。
母に与えられた靴下で気に入っていたものだったが、自分で切り刻んだ。


最初は爪先の一部にハサミを入れて、さらにその横にハサミを入れて、とハサミを入れ続けていたらばいつのまにか靴下はズタズタになっていた。なっていた、というか自分がしたわけであり、そうなるのはまさに「考えたら分かる」ことであったのだが、惨状に気づいて泣き出した私は、それを母のもとへ持っていき、「靴下を切った」と訴えた。
自分でやったことを自分で号泣しながら訴える娘に母は、
「自分で切ったん? なんでそんなことしたん?」
と困惑&溜め息混じりに問うた。尤もな問いである。
「足がチクチクしたから」
とりあえず娘はそう説明したが、母は「はあ?」という反応であった。またも尤もな反応である。自分でも説明しながら「はあ?」と思っていたのだから。だが、じゃあどうして、といわれれば説明ができない。たしかに最初に「足がチクチクする」と感じたのは本当だったかもしれない。縫い目か何かが皮膚に障ったのだろう。しかし、だからといって生地を切る必要がないことは、自分でも薄々分かっていた。切ってしまっては履けなくなる。ましてや、一箇所だけならまだしも全体をズタズタにする必要はない。
「こんなんもう履けへんわ」
変わり果てた靴下を手に母は絶望的な宣告をし、娘は更に号泣した。自業自得である。
「おじいちゃんやったら直せる?」
と私は訊いた。母方祖父は器用な人で、何かが壊れるたび母は祖父に修理していってもらっていたので、そこに一縷の望みをかけたのであったが、
「こんなんはおじいちゃんにも直せへんわ」
と言われ、不可逆のことがこの世にあることを娘は知った。


「切ってしもたんはしゃあないし、また新しいの買うわ」とかなんとか母が慰めてくれてこの件は終わった。しかしこの記憶はその後も、ことあるごとに苦い気持ちで思い出されることになった。それは、そんな「考えたら分かる」ようなことを自分がなぜしてしまったのか、ずっと説明がつかず、その説明のつかなさがずっと引っかかっていたからだと思う。その説明のつかなさは、自分にとって大事なものである気がした。
「チクチクするからその原因を排除するため」という、一応子供なりの理屈は立っていたはずだが、それだけではない。切り刻みながら自分でも、「これは違うな」と思っていたはずなのだ。何なら最初のハサミを入れた時点で既に、それが解決法として不適であるという自覚はあったはずなのに、その過ちを糊塗しようとしてなぜか同じことを重ねてしまった。そして何がそんなふうに自分を動かしたのか分からない。

 

類似の思い出は他にも数多ある。たとえば砂山蹴り崩し事件。幼稚園の砂場で皆で砂山を作っており完成間近となったとき、立ち上がって足で蹴り崩し(当然ながら)皆に糾弾された。
これには、「手で固めるより足で固めるほうが早いと考えた」という理屈が一応あった。手より足のほうが力が強いので合理的に思えたのだ。それを主張すると幼稚園の先生は「わざとやったんとちゃうんやね、みんなのためと思ったんやね」とかばってくれた。
しかしこれも、一応はその理屈を主張しつつ、またかばってくれた先生を有難く思いつつ、何かその理屈では動機の半分しか説明できていない感じもしていた。立ち上がって足を出した時点で既に、「これは違うな」とどこかで感じてもいて、だがそれにも関わらず蹴り崩してしまった、ような気がする。しかしその、もう半分の動機の正体が何なのか、自分でも分からない。

 


子供の頃は誰でもこういったことがあるのでないかと思う(知らんけど)。だが大人になってもちょくちょく類似の過ちをする。「考えたら分かる」ようなことを、うすうす「これは違うな」と思いながらやってしまう、という過ちである。
とりわけ長じてからは、人間関係に関してこの類の過ちをすることが増えた。人間関係全般に失敗するわけではない。ただ、ここぞというとき、重要なときに限ってそうしたタイプの失敗をする。


たとえば(あくまで一例であるが)、この関係を大事にしよう、とか、この人は傷つけないようにしよう、とか思って慎重に慎重に相手の気持ちを慮って行動……したときに限ってろくでもない結果になる。こうすれば相手はこう思うだろうからこう対応しよう、ああ言えばこの人はこう感じるだろう、と、慎重な推論に基づいて行動したはずだったのに、その結果関係が破綻する。またはその逆の場合もある。強い意志で関係を終了させようとしたのに失敗するような場合である。そしてそれらは後で考えれば、「なんであのときああした/言ったのか、あかんやろ、普通に考えたら分かるやん」と思うタイプの失敗なのである。

 

推論に基づいた行動が誤っているということは、一体何が誤っているのだろうか。
単に推論のどこかに理論的な誤りがあったということなのか。それとも、そもそも対人関係というものにおいて「推論」という手段を用いることが誤っているのか。
そうであるとすれば、それは、対人関係において重要であろう情を置き去りにして理だけを暴走させたことの誤りであるのか。あるいは、情を伴っていなかったのでなく、伏在したはずの自分の情を自分で認識できぬまま、何かを抑圧して捏ね上げた理であったからということか。
そうすると結局、なんであのとき靴下を切り刻んだのか、なんで砂山を蹴り崩したのか、というところへ戻ってくる。

 

私はサリーとアン課題について、求められる答えを出すことができる。
サリーとアンが玩具で遊んでいる。玩具を棚にしまってサリーは部屋を出ていった。サリーが不在の間にアンは玩具を籠の中に移す。戻ってきたサリーはどこを探すでしょうか。
棚の中です、と答えることができる。実際の玩具は籠の中だけれどもサリーはそれを知らないから、と、サリーの視点に立って答えることができる。ここまではできる。なんなら、棚に玩具が見当たらず困惑するサリーの気持ちも想像できる。だけどそのとき、アンは何を思っているんだろう。アンに何て声をかければいい?
精神科医内海健さんが、『自閉症スペクトラムの精神病理――星をつぐ人たちのために』(医学書院、2015)という本の中で、サリーとアン課題において、自閉症者にとって困難であるのは実はサリーの心の推論でなくてアンの方である、ということを書いておられ、なるほど、と思った。自閉症スペクトラム論であるから、自閉症の「心の理論仮説」への異議としての文脈で書いておられたことであるので、ここで引き合いに出してよいか分からないが、しかし自分のこれまでの躓きを思うとたしかにそれらは、対サリーではなく対アンの躓きである気がする。
サリーの心は「推論」という方略で理解できる。だが、玩具を隠したアンの心はブラックボックスだ。それは、その場面固有の文脈や雰囲気をふまえつつ直観でもって自然に「共感」することでしか理解できない何かなんだろう。対人関係でやらかしてしまう「考えたら(自然な共感ができたら)分かる」ような失敗は、もしかすると、「考えても(推論しても)分からない」あるいは「考えたら(推論したら)分からない」類の失敗なのかもしれない。


アンの心、他人の心はブラックボックスである。ただし自然な直観的共感があれば、スッと容易くアクセスできるブラックボックスである。でも、何かがその自然な共感を妨害する。よって間違えてしまう。妨害している何かはたぶん自分の中にある何かだが、そのとき自分もまたブラックボックスである。私はこの関係を本当に大事にしたい(したくない)のでしょうか、私はこの人を本当に傷つけたくない(傷つけたい)のでしょうか、もしや本当は✕✕✕✕なのでしょうか、私は本当に砂山を破壊したくないのでしょうか、本当に母が買ってくれた靴下を切り刻みたくなかったのでしょうか、とかなんとか言いながら、玩具を転々と隠し続けることになる。