メキシコの思い出

「行きつけの店」的な存在に憧れる一方、飲食店で「いつもありがとう」などと言われると途端に足が遠のいてしまう、という現象がある。なんとなく、飲食店で顔を覚えられるのがイヤなのだ。お店の人は好意で言ってくれているのに申し訳ないこととは思うが、性格的なものなのでどうしようもない。しかしメキシコは別で、メキシコで「おっ、こりゃまた古株が来てくれたなあ」とあの飄々とした口調で言われると、ああまだ覚えていてくだすったのかと嬉しくなってしまう。

 

メキシコは、実際はメキシコという名前ではない。メキシコ料理の居酒屋でメキシコ的な内装なので、われわれが勝手にそう呼んでいる。

初めてメキシコを訪れたのは、(私はこういう日付をやたらに記憶しているのだが)2006年の3月であった。当時、研究室で、自主研究会を開いており、その後の飲み会で訪れたのだった。自主研究会といえば堅く聴こえるかもしれないが、みんながリレー形式で自分の好きなテーマ(「オタク論」「ボーイズラブ」「石ノ森章太郎家畜人ヤプー」「まれびと」などのテーマがあった)についてレジュメを作ってあれこれ語り、実質その後の飲み会を主体とするようなものだった。

第一回の研究会はなかなか議論が白熱し、残った何人かがじゃあ飲みにでも行こうということになった。当初、先輩の薦めでちょっと高そうな和風居酒屋を当たったのであるが満席で、行き場を失ったわれわれは、その向かいの薄暗い雑居ビルに、なんや怪しげな看板が出ているのを見つけ、「もうここでええんちゃう」というノリで入ったのが、メキシコであった。

 

メキシコは、メキシコ的な内装でありつつわれわれの通された部屋は畳座敷に卓袱台が置かれており、混沌としていた。この日は他に客はいなかったと思う。いたのかもしれないが、見るからに喧しい学生であったわれわれは誰もいないほうの部屋(店はふたつの部屋に分かれていた)に隔離されたのかもしれない。まあともかく、みんなそれぞれメキシコ的なビールなどを注文した。口ひげを生やし髪を束ねた、メキシコの街頭でバンジョーでも弾いてそうな(※メキシコの勝手なイメージ)おじさんが陽気に接客してくれた。その人がマスターであるようだった。私は酒が飲めないので、ココナッツジュースを頼んだところ、マスターが、

「ごめんなぁ~、せっかく頼んでくれたけど、ウチのココナッツジュースまずいんやあ。他のんにしとき~」

と言った。それで私はもう、「この店………好きーーー!!」となったのだった。

 

 

その日は遅くまでメキシコの座敷で飲み続けた。思えばわれわれはメキシコの正確な閉店時間を把握していなかったが(今に至るまで把握していない)、とうに閉店時間を過ぎていたのでないかと思われる。だがマスターは快く歓待してくれて、しまいにはサービスのツマミまで出してくれた。スルメなど、もはやメキシコ的でもなんでもないツマミであり、明らかに隣のコンビニで買ってきてくれたものだった。民宿のようなもてなしだねと言い合った。われわれはその畳部屋に数時間ですっかり馴染んでしまった。

以来、月に一度の研究会の後は、メキシコへ移動するのが定番となった。メキシコの正式名称が覚えられなかったため(※別にそんな難しい名前ではなく私以外は覚えていたと思われるが)、「メキシコ」という呼び方が定着した。

 

店に入るとまず、テカテやらコロナやらアボカドジュースやらのメキシコ的な飲み物を頼む。マテ茶を頼むとマスターに「マテ茶ね。ちょっと待て茶」と言われる。初回に断られたココナッツジュースはその後改良されたらしく注文可となった。その後、ナチョス、パパス、タコス、エンチラーダスなどの定番メニューを頼む。パパスを頼むと「はい、パパス・ママス」と言われる。ダジャレにしづらいメニューに関しては特にダジャレはない。日によっては料理はなかなか来ないが気長に待つ。メニューは基本的に変わらなかったが、時折思い出したように「メキシカンチキンラーメン」(チキンラーメンサルサソースがかかっている)などの新メニューが登場するのだった。

 

 

われわれとメキシコとの付き合いは、何期かに分類できるが、最盛期は、メキシコ飲み会参加人数も増えテキーラが流行を見せた頃であろう。研究会が盛り上がり、そのままメキシコになだれ、それぞれテキーラを注文し本場の飲み方(留学生の研究室員が教えてくれたことから流行り出したと記憶している……塩を舐め、ライムを齧って飲む、みたいな飲み方)で飲むと、皆、議論(やしょうもない話)を闘わせながら次々に潰れてゆくのだった。潰れた果てにどうなったか、という話は私(や一部の人)にとっては面白いが世間的にはよくある酔っ払い話だと思うので詳述はしない。地獄絵図を表す端的な話としては、酔っ払った者二人をタクシーの後部座席に乗せて送っていった先輩の、「タクシーが止まると同時に後部座席の両側のドアが開き同時に嘔吐が始まった」という話などがある。他にもいろいろろくでもない事件はあるのだが、たぶんここに詳細に書いてもなんも面白くないと思うので(面白く書ける筆力がないので)省略する。メキシコはそういう事態には慣れているようで、酔っぱらった者たちが迷惑をかけたことを勘定時に謝ると、

「あらー、また救急車呼ばんとあかんかと思うたけど大丈夫そうやねえ、よかったわあ」

とのんびり言っていた。その口ぶりから、どうやらメキシコはたびたび救急車を呼んでいるらしいことが分かった。

 

なぜあの頃はああだったのか分からないが、研究や勉強の充実に、皆の個人的な人生のターニングポイントが重なり、なんとなくいつも昂奮したような浮かれたような雰囲気になっていたのでないかと今振り返ると思う。少なくとも自分はそうだった。私は酒が飲めないのでテキーラでダメになってゆく人々を見ているだけの立場だったはずだが、なぜかメキシコでは自分も、いつも酔っていたような記憶がある。

 

 

メキシコの特徴として、「誰が従業員で誰が関係ない人か分からない」ということもあった。マスターはマスターだとはっきり分かるのだが、日によっていろんな人が注文を取ったり運んだりしており、一度見かけたきりの人もいた。週とか日とかの単位でゆるくいろんな人が手伝っていたのかもしれない。

一度、そんな「短期の手伝い」的な人に、真面目なXさんがちょっとした暴言を吐かれ喧嘩になりそうになったことがあった。結局は、Xさんがキレるのを我慢し喧嘩は不発に終わったのだが、酔っぱらって転がっているのを店員(?)に「邪魔やから鴨川に捨ててこよか」と言われ、なんで知らない人にそこまで言われねばならないのだとムカッとしたらしい。しかしこれも後から思えば、この暴言を吐かれたとき時間は深夜2、3時になっており、本来の閉店時間(上述の通り何時だか正確には知らない)をはるかに過ぎていたので、そんな時間まで酔っ払いに居座られた(寝座られた)この店員(?)はいいかげんイライラしていたのであろう。普段のメキシコが寛容過ぎたのである。

この頃は、そんなふうに、メキシコに行けば深夜の2、3時までだべり続けるのが日常のようになっていたのだった。しかし1、2年経つと、皆それぞれに忙しくなったり立場や住まいが変わったりして、メキシコに長居することも少なくなり、そのうちに、年に数回何らかの機会に訪れるだけになってしまった。先日の飲み会ではついに、「われわれももう年齢的に遅い時間は無理なので」という理由で早めの集合早めの解散となり、しょっちゅうメキシコから熊野神社横のからふね屋(当時24時間営業だった)に流れて朝を迎えていた頃を思うと隔世の感を覚えるが、とはいえそれでもそうして年に何度かはメキシコを訪れているわけであり、そのたびに、変わらず飄々とした風貌のマスターが、変わらずのんびりした口調で、

「こりゃまた久しぶりの顔が来てくれはったなあ」「マテ茶はちょっとマテ茶」

と言ってくれると、一気に年月を忘れてサークルの部室に戻ってきたような気持ちになるし――私はサークルというものに所属したことがないがサークルの部室というのはメキシコみたいな感じかなと思う――、冒頭に述べたような性向の所為でひとつの店に通いづらい自分にも、知らん間に「行きつけの店」ができてたんやな、となんとなく誇らしい気持ちになる。マスターにはいつまでもお元気でいてほしいと思う。先日、研究室の後輩にあたる人に会った(私はもう研究室とは関係がなく、研究室も当時とは体制が変わっており、この方とはSNSで知り合った)。その際に、今でも研究室の飲み会といえばメキシコであること、メキシコは今でも「メキシコ」と呼ばれているらしいことを聞き、小さな感動を覚えた。