「姉」たちの思い出

自分は同性と対等な関係を築くのが何か苦手なのだが、これは、幼少の頃から「面倒を見てくれるお姉さん役の女の子」が周囲にいたからではないか、ということにふと思い至った。実際の家庭内ポジションは長女だが、公園や幼稚園や学校ではいつも「姉」的な役の子が身近にいた。多くは同年齢・同学年の子だが、年下の子である場合もあった。近所の子は皆年下であったが、私は皆で遊ぶときしょっちゅう何らかの理由で泣きわめいていたので、常に年下の子たちに呆れられつつ慰められていた記憶がある。


はっきり覚えている最初の「姉」は、幼稚園で同じクラスだったT子ちゃんである。
年少組のときは接点がなかったが、年長組に上がったときに仲良くなった。T子ちゃんは私と名前が似ていたので、最初の会話は「名前が似てるね」とかそんなことだったと思う。私と違ってしっかりした子だったが、なぜか仲良くしてくれた。チビだった私に対し、背が高く体格も良く大人っぽかった。当時の私は、チビであることに加え、お遊戯ができない、昼食が食べられない、昼食をこぼしまくる、一人でトイレに行けない、外で遊べない(室内で絵本を読んでるのが好き)、などの理由でからかわれたり怒られたりしては泣いてばかりいたが(つまり今とだいたい同じである)、T子ちゃんと友達になってから、T子ちゃんが男子からかばってくれたり意地悪な女子に言い返したりしてくれるようになった。T子ちゃんと仲良くなってから、幼稚園生活が見違えるように楽しいものになった。以前はお迎えバスに乗りたくないと泣きわめいていたけれど、T子ちゃんにあのことをお話しよう、一緒にあれで遊ぼう、とか考えると翌日会うのが待ち遠しかった。秋になって平仮名の勉強が始まると、文字の習得だけは周囲より早かった私がまだ平仮名が書けないというT子ちゃんに教えてあげる機会もあり、初めて自分から恩返しができて嬉しかった。


T子ちゃんはおそらく自発的に「姉」役になってくれたが、多くの「姉」は、保護者や幼稚園・学校の先生といった大人から命じられて「姉」に就任していたと思われる。
小学校に上がったとき、私は先生から「姉」を付けられた。「姉」は名簿順ですぐ後の席、背の順も真後ろのSちゃんという子だった。初対面のその子に先生が「Sちゃんはこの子の面倒を見てあげてや」と言うているのを入学式の日に聞いた。いわば官製姉であった。私は学校業界のことは知らないのでよく分からないのだが、こういうのは、あらかじめ幼稚園なり保護者なりから「あの子はちょっと御目付役が必要なので誰か用意したって」みたいな連絡が小学校に行っているのであろうか。
御目付役の業務としては、具体的に「給食時の見張り」などがあった。この頃、小学校では「三角食べ」が推奨されていた(今でもそうなのだろうか)。三角食べとは、主食・主菜(大きいおかず)・副菜(小さいおかず)をひと口ずつまんべんなく食べる食べ方であるが、私はこれができなかった。口の中で味が混じるのが気色悪いので、禁じられている「ばっかり食べ」をしていた。主食なら主食をすべて食べ終えてから別の器に移る、という食べ方である。今思えば「ばっかり食べ」をしたところでそんなに健康を損なうわけでもないやろと思うのだが、これは重大なタブーであり、そのたびにSちゃんに「せんせーい! また○子ちゃんがばっかり食べしてはる!」と声を上げられるのだった。
Sちゃんは、どこか色っぽいような、おませな感じの女の子だった。完全に善意の姉であったT子ちゃんと違って、Sちゃんは意地悪も言ってくるので、私はSちゃんのことはさほど好きではなかった。やたら人の容姿に言及する子でもあり、「あんたは口さえなければ可愛いのに」というのをしょっちゅう言われていた。唇が分厚いせいだろうが、そんなことを言われても口は取り外せないのでどうしようもない。だが今思えば、入学式でいきなり「姉」役割に任命されたSちゃんも気の毒である。私はSちゃんの意地悪に反発する一方で、苦手な体育のときや行事のときはやはり「姉」に頼っていた。具体的には、忘れ物が異様に多かった私は、それを先生に言い出せず突然泣きわめき出すのが常態化していたが、そのときその理由を先生に伝えるのはSちゃんの役目であった。


低学年も後半になると、私も入学時ほどの問題児ではなくなってきた。しかしSちゃんは私の姉役のままであった。当初私が前から3番目、Sちゃんが4番目という背の順だったのが、2年生の終わりには、本当は私の方がSちゃんよりも身長は伸びていた。しかし先生は私を3番目に留め置いたままだった。Sちゃんを私の後に配置し、問題児の御目付役として固定しておかねばならないという意識があったためであろう。それは子供ながらに気付いていた。それぞれ前後の子と背比べをして背の順を決めていく際、私とSちゃんの背比べ結果だけ曖昧にされていたからだ。(この後3年生に上がって先生が変わると、不正無き背比べによって私はいきなり後ろから3番目になった。)
この頃、小さな事件が起こった。Sちゃんと私はたいして仲良くないながらも、互いの家を行き来して遊ぶこともあった。あるとき、Sちゃんがうちのアパートにやってきた。いつも流行のものを持っているSちゃんに対し、私の家にはそうしたものはなかったが、その日は珍しく新しい文具を買ってもらったところだった。Sちゃんはそれが気に入ったようで「これええな」と何度も言った。Sちゃんが帰った後、それが無いことに気付いた。夕方にSちゃんがお母さんに連れられて謝りに来た。お母さんに「謝りなさい」と言われ、「ごめんな、素敵やったからつい。怒ってる?」と言うSちゃんが弱々しく見えた。なんだか馴れない状況で居心地が悪かった。いつも叱るんはSちゃんで叱られんのは自分、ちゃんとしてるんはSちゃんであかんのは自分、と思っていたからだ。

 


Sちゃんとはその後クラスが離れたが、再び、高学年で同じクラスになった。互いに思春期に入ろうとしていた。私は一時期背が伸びて活発になったもののまたどんよりしたチビに戻っており、Sちゃんはますます大人びていた。
またSちゃんと前後の席になった。Sちゃんが私の前だった。くるんと椅子を回してSちゃんはハキハキと言った。「2年生のときは、あれ、盗んだんごめんな。お母さんにも謝っといて。また仲良くしてな」。2年生のときの盗難事件など、子どものしたこととしてすっかり忘れていたしもう謝らなくていいのに、やっぱりSちゃんはしっかりしているな、と思った。学校内のポジション的にはどっちかというとこちらが「仲良くして」と頼む側であり、Sちゃんがそんなことを言うのは変だと思ったが、私は「うん」と言った。


その日からたびたび、Sちゃんはくるんと椅子を回して話しかけてくるようになった。そしてそんな中で「性知識によるマウンティング」という、低学年の頃にはなかった現象が始まった。
「なあ、○○って知ってる?」

Sちゃんが何か性に関するワードを突然投げかけてくる。
単語であることも、漫画や歌に出てくるフレーズであることもあった。
「さぁ……」。私が首をかしげると、「ふうん」と満足したようにくるんと椅子を戻してしまう。そんなことが続いた。私は百科事典のエロ項目を熟読していたし、大人の小説も読んでいたし、おじいちゃんの『週刊文春』と『週刊新潮』も読んでいたので(すなわち「淑女の雑誌から」と「黒い報告書」を読んでいたので)本当は色々知っていたが、それは言ってはいけない雰囲気だった。
あるときはくるんと椅子を回して、「なあ、宮沢りえに、レコーディングしたけれど歌詞が危なくて発表できひん曲があるねんて。『誰とでもやっちゃう』ってタイトルねんけど、この意味分かる?」と訊いてきた。私が「分からない」と言うと、Sちゃんはちょっと小馬鹿にしたように「ふうん」と笑ってまた椅子を戻したのだった。


Sちゃんとの交流はその後自然消滅したが、高校を卒業した頃か、入ったモスバーガーに偶然Sちゃんがいたことがあった。私たちはもう挨拶をする関係ではなくなっていたので、互いに無視し、私は黙って離れた席に座った。するとSちゃんが連れの女の子と、怒涛の下ネタトークを始めた。「彼氏が早漏」というような話であり、生々しい表現がモスバーガー中に響き渡ったが、私はそれは私に向けられた話であると感じ、「(あのマウンティングはまだ続いていたのか、しかも彼氏が早漏)」と思った。


大人になり、Sちゃんとは会うこともなくなり、「結婚しはったらしい」とか「子どもができはったらしい」とかいうことをご近所の噂で聴くだけになったが、ときどきフッと「宮沢りえにそんな曲ほんまにあるんやろうか」という疑問が頭をかすめる。そこで、つい2、3年前、約30年越しに検索して調べてみたところ、それらしき曲の存在は確認できなかった。あの情報はなんだったのだろうか。もし何かご存知の方がいれば教えてほしい。あるいは、当時彼女の代表曲であった「GAME」には「GAME だれとでもやれるし GAME いつだってできちゃう」というフレーズがあるので、Sちゃんはこれのことを言っていたのかもしれない。「GAME」は未発表曲ではなく1990年の紅白歌合戦でも披露された曲であるが。この機会に調べてみたところ、原曲はボウイ+レノンの「FAME」であったことが分かった。そうだったのか、知らなかった。原曲とはかけはなれたヴォーカルが載っている。訳詞担当の「I.Toi」というのは糸井重里らしく、紅白での演出も含め、いかにもバブル期って感じだ。