うちの信仰論争

生まれてほどなく妹の病気が見つかり長期入院になった。母も付き添ったため、その間の何か月間、父の実家に預けられた。
祖父母に甘やかされ口うるさく怒られることもない日々は、それなりに快適であった。だが周囲の大人は「お母さんと離れて淋しいやろうに我慢してえらいね」と誉めてくれるので、これまた快適であった。
夜、表に出て酒のケース(うちは酒屋だった)に座り、「あのお星さまにお母さんがいるのかしら」と空を眺めていると、それを見た近所の人が、「あんな小さいのに、かわいそうで涙が出そうになったわ」と祖母に話し、それを聞いた祖母がまた涙したそうだ。昼間に見たアニメのマネをしてみただけであり、更にいえばお星さまもなにも、車で割とすぐの病院に母はいたのであるが。

 

ところでその何か月間で身についたのは、「仏壇に拝む」「神棚を拝む」「お地蔵さんを拝む」習慣だった。
祖父母、特に祖母は信心深い人だった。
毎日早朝五時に起き、バスで寺に通っていた。私も何度か一緒に連れられた。妹の入院していたのは冬だったので、寒い冬のバス停を覚えている。
帰ると、また仏壇の前に座り朝食前の読経、夕にも夕食前の読経。「朝に礼拝、夕に感謝」(京都人しか伝わらんのかな…)である。
祖父母と暮らした何か月間で、私は「般若心経」を暗誦できるようになった。当時4、5歳であった私は吸収もよかったのであろう(今はすっかり忘れてしまった)。祖父が仏壇の前に座りお経を上げ、その後ろに祖母が正座し目を伏せて唱和する、その後ろに私も座るのだった。「〇〇(妹)ちゃんが早う退院できるように、仏さんにいっしょけんめ拝むんえ」と祖母は言った。
お仏飯を運ぶのも私の係になった。お仏飯は、人間のごはんをよそうより先によそい、人間が食べるより先にあがってもらわなくてはならない。そのままでは背が届かないが、仏飯運び専用の延長触手みたいなやつ(名前があるはずだが知らない)があり、それを使うのが楽しかった。仏飯を供える台は三か所あった。端から置こうとすると「真ん中から置かんとあかん」と注意された。「真ん中の仏さんが一番えらい仏さんやから」。仏さんにも順番があるんや、と思った。


仏壇に手を合わせた後は、神棚に手を叩く。天照大神その他に祈るのも日々の恒例であった。神棚に接する天井には「雲」と書いた紙が貼られていた。
祖母は「神さん」「仏さん」にくわえ、「お地蔵さん」も信仰していた。散歩中に地蔵に出遭うと足を止めて一礼した。祖母はいつも言うのだった。「両肩には帳面を持ったお地蔵さんが乗ってはって、ええことをしたら右、悪いことをしたら左のお地蔵さんがそれを帳面に付けはる。あんたのことをずっと見てはるんえ」。
わざわざ遠くのお地蔵さんを拝みに行くこともあり、私もしばしば連れられた。甘い煎餅をくれるところもあった。特定の病に効くとされる地蔵のところには足繁く通っていた。妹のことを祈るためである。後年祖母は、若い頃の些細な悪事を思い出しては「〇〇ちゃんが病気になったんは私のせいやった」と言うことがあった。祖母の熱心な信仰行動の背景には、そうした罪悪感(それは誇大感と一体ともいえる)があったのかもしれない。信仰と罪悪感のどちらが先かは分からないが。
妹が少し良くなったと聞くと祖母は、「おばあちゃんやらあんたやらが、毎日いっしょけんめ神さん仏さんに拝んでるからえ」と言った。

 


祖母は信心深い人だったが、厳密な意味で「宗教」を信仰していた、とはいえないかもしれない。「宗教」の定義にもよるだろうが。またそれは祖母に限らず日本人の一般的傾向なのだろうが。ともあれ祖母において、仏さん、神さん、お地蔵さんへの信仰は、その他、ご先祖さん、天皇陛下、某修養団体、町内の地位の高い人……などなどへの崇拝と地続きであり、それらは超越的なものをめぐる信仰というよりも、それぞれ道徳的なものの一環という感じで、そうした「なんか道徳的なもの」がひと連なりの道徳宇宙を形成していたというか。
たとえば「美容」なんかも、道徳宇宙を形成する一環だった。「冬も顔は水で洗わなあかん」とか「手作りの米ぬか石鹸が一番ええ」とかいう教えは、単なる美容上の注意というよりも、「なんか道徳的なもの」だった。理屈上は「お湯で洗うとシワができるから」「米ぬかは肌がつるつるになるから」ということなのだが、それよりも重要なのはおそらく、水で洗う冷たさや石鹸を作る手間であって、それは何か「婦徳」的なものと結びついており、かつうっすらと、マゾヒズム的色彩を帯びていた(そもそも美容という領域が一般的にそういうものなのかもしれない……というのは暴言か)。

 

よって、私にとっても「仏さん」や「神さん」を信じること、それを拝むことは、そういうものとして受容された。
それのために早起きしたり、仏壇にご飯を上げ下げしたりすることは、祖父母の言葉で「信仰」と呼んではいたけれど、同時に大人に誉められる「なんか道徳的なこと」であった。かつそこには――痺れる足で正座したり寒い冬の朝に寺に行ったりすることには、健気な自分へのマゾヒズム的自己愛があったと思われる。


ともかくそのようなわけで、妹が入院していた何か月かの間に、私はすっかり「信仰」のある少女になった。
妹が退院すると再び母と住むようになったが、祖父母の家とはほぼ毎日行き来があったため、信仰少女活動は続いた。
祖父母にもらった本を母に勧めたこともあった(それは仏教の本であることも某修養団体の本であることもあったが区別はついていなかった)。何か良いこと悪いことをするとしょっちゅう、「肩のお地蔵さんが見てはるんやろか」と思った。
母方祖母に、「もっと仏さんを拝まんとあかんで」と説教したこともあった。母の実家にも仏壇はあったが、父の実家のように熱心に信仰している気配はなかった。母方祖母はくだけた人で、私がそんなふうに言うと「へえへえ、〇ちゃんは偉いなあ」と笑っていた。あとで父方祖母が、

「向こうのおばあさんに会うたら、あんたに怒られたて言うてはったわ。うちのおばあちゃんみたいにもっと信仰せなあかん、て言うたんやてな」
と嬉しそうに報告してきた。

 

 

 

そんなある日のことであった。
自宅で母と何かの話をしていたときのことである。どういう文脈だったかは忘れた。
私が「神さん、仏さんがどうのこうの」といつもの教えを披露していると、母が堪りかねたように、そして厳しい声で、「神様や仏様はいない」と言い出したのである。

母に「信仰」がないことは、以前から知ってはいた。私が祖母から聞いた話をするたびに母は、自分はそれを信じないということを言葉の端々に表していたので、私は母を折伏せねばならないという使命感をもっていた。

「〇ちゃんはいつも神さん、仏さんて言うけどな、そんなんはいーひんのやで」

「なんでそんなこと言うん!」。私は激昂した。母はこう返した。

「ほな、〇ちゃんはなんで神さんがいると思うん。どこにいはるん、仏壇の中にいはるんか、神棚にいはるんか、空の上にいはるんか。〇ちゃんは見たことあるん。どこで見たん」

問われて私はウッとなった。
仏壇に向かって拝むとき、仏様の絵が描いてある布をいつもなんとなく見ていて、あそこに仏さんがいはるんかなあとなんとなく思っていたが、あれは絵だ。
「仏壇の中にいはるん見たもん」
と言うと母も
「それは絵やろ」
と言い、たしかに絵や、と思った。
「自分の目で見てもいーひんのに、何でいはるて思うん? 神様や仏様がいない証拠はないけど、いはるていう証拠もないやろ?」

今思えば、4、5歳児相手に徹底的な詰め方である。折伏するはずだった娘は、折伏されつつあった。家庭内宗教戦争である。

そういえば自分は、神様や仏様の存在の証拠になるものを特に持っていない。祖父母が存在すると言っていた、それだけである。そもそも子供とはいえ私とて、本当に神仏の「実在」を信じていたかといえばそこは微妙で、そのことは薄々自分でも気づいていたのだった。ただそれを信じること、信じる身振りをすることが、祖父母に誉められることで正しいことで気持ちのよいことだったのだった。一方で母の言うことは大変なショックだった。信仰していたものが崩れていくショック、正確にいえば信じていた道徳的価値が崩れるショックである。これまで唯一正しげに思われていた何かは母にとってはそうではないらしく、私は混乱した。敗戦後の日本国民もこうだったのだろうか。
私は動転し、号泣しながらなおも言い募った。

「仏さんを信じひんと地獄に落ちるておばあちゃんが言うてはった」

「地獄とか極楽とかは、この世の人間が気やすめに考えたもんやとお母さんは思ってるわ」

「でも仏さんも神さんもいはるもん!」

「信じるんは自由や。せやけどお母さんは〇ちゃんに、自分の頭で考える人になってほしいねん。分からへんことを、神様のせいや、で終わらせる人になってほしくないねん。疑うことは大事やで。疑うことから科学は発展したんやで」


私は号泣しながら家を出て祖父母のもとへ行った(徒歩ですぐの距離だったのだ)。冷蔵庫を整理していた祖母は何事かと驚いた。「お母さんが仏さんを信じてへんて言わはるねん」と訴えると、祖母は「そんな人いるわけがない、お母さんもほんまはどっかで信じてはるんやで」と言った。だいたい予想した答えだった。しかし私は、「(そんなこともなさそうや)」と思った。

 

***


さて2020年の今となっては、宗教/科学を切り分けて対置するのもまたシンプルすぎるとは思うが、しかしこのとき呈示された「科学」という世界観は、当時の私にとってまったく新たな世界観であり、母は別にフツーの主婦であったが、4、5歳の子相手にそんなことをよく言い聞かせたものだと思う。


ところで、この、「信じる・疑う」という言葉はその後、別の文脈でも現れた。


小学生の3、4年生になった頃である。
Fちゃんという女の子と仲良くなり、一緒に風呂屋に行く約束をした(この頃「友達同士で風呂屋に行く」という娯楽が流行っていたのだった)。
その頃、女子の間では、「私とだけ仲良くして、他の子と浮気しないで」とかいう疑似恋愛みたいなものが蔓延していた。Fちゃんは、前から仲良しだったYちゃんにそのように言われていたが、「でもトンちゃん(※当時の私のあだ名・肥ってないのにデブキャラだった)とも仲良くしたいねん」と言ってくれた。
だが! 連れ立って風呂屋へ行く途中でなぜかYちゃんに見つかり、Yちゃんが「私以外と遊ばんといてって言ったのに!浮気や!」と激怒し、FちゃんはYちゃんをなだめながら私を残して去ってしまったのだった。
洗面器を抱えたまま置き去りにされた私は、家に帰るやいなや泣き出した。何事やねんと驚く親に経緯を話し、「Fちゃんのこと信じてたのに……」と呟いた。


父は、
「女子は陰湿でイヤやな、男の喧嘩はさっぱりしててええぞ」
と言った。今思えば、子供にそんなジェンダー観を植え付けないでほしいものだが、当時は「(そうかあ、男子はええな)」と思った。

一方母は、傷心の私に対してこう言ったのだった。

 

「あのな、『信じる』っていう言葉は聞こえはええけど、ほんまはすごいアホなことなんやで。『信じて裏切られた』なんていうのはしょうもないことやねんで。疑うことは大事やで」


ああ、小さいときにもこんなやりとりがあった……と思い、今度は私は、かつての母の教えを忘れていた自分の愚かさを恥じた。しかし今思うと、当時まだ若い女性であった母に、「信じること」をめぐって、一体何があったんだろうとも思う。 

 

シャーペンの消失の話

九十年以上生きた祖母が、去年亡くなった。
(このブログは何か身内が死んだ話ばかり書いている気がするが実際身内は死ぬのだからしょうがない)
祖母と孫の付き合いとしては平均より長いであろう年月、祖母のことでは色々あり、葬儀となればさぞいろんな感情が湧くことだろうと思ったが、祖母への感情は祖母が生きているうちに使い果たしてしまったのか、普段以上に心は平静だった。

 


祖母のことで最後に泣いたのは、祖母が施設に入る前のことなので、もう何年も前のことだ。
このときはまだ祖母と同居していた(わが実家は三世代同居、多いときは四世代が同居しており、小さな頃からしばしば家族について、「この人と家以外で知り合っていたら友達になれたやろか」「たぶんなれへんかったそんな人たちと同じ家の中で寝起きしてるんやなあ」と想像しては不思議な気持ちになっていた)。

ある日、祖母から「あんた、これ着よし、あげるさかい」と大きな紙袋いっぱいの衣類を渡された。検分してみると、汚れた肌着や伸び切った靴下、どう見ても高齢者用のデザインのパンツなど、到底使えそうにない衣類が大量に入っていた。「これは私は使わへんかなあ、おばあちゃん、まだ着れそうなやつは着たら?」。やんわりと断ろうと試みたのであったが、「あげる言うてんねから貰うときよし」と祖母は頑ななのだった。

この頃、もう祖母の認知症は始まっていた。ただ身体は元気だったので、アルツハイマー認知症初期の人の多くがそうであろうように、元気に動き回っては要らんことをしでかしていた。
そこへ来て、もともとの祖母の性格もあった。祖母は日頃、控えめな性格だと思われがちであったし本人の自己認識もそうだったと思うが、一方で、過度な謙遜や自己犠牲や過度な親切という形を借りて自己主張をする傾向があった。それは、女性が自己主張を禁じられてきた時代と環境によって育まれたものだと思う。こちらが「しなくていい、むしろしてほしくない」というようなことを、「私はええけど、あんたのためやから」と何度も押しつけることはしばしばあった。殊に信仰や民間宗教の実践をめぐるそれは、我が家で小さな波風を起こしてきた。そして、「こちらが要らないというものをさも有難いもののように押しつけてくる」というこのときの行為は、それまでのそうした歴史の延長上にあったので、私は「またか」と感じたのではあったが、しかしボケ始めた今では尚更反抗しても詮無いことであるし、さしあたって表面上は有難く受け取っておき、ほとぼりのさめた頃になんとかしよう、と判断したのだった。


しかし、「なんやこれは」と当該の紙袋を見つけた父が、私の説明を訊くと、猛然と祖母に突き返しにいってしまったのだった。「こんなん着られへんもんばっかりやがな、誰もこんなん要らんがな」。そんなん言うても仕方なし、貰ったことにして黙って処分すれば誰も傷つかないものを、なんでわざわざ! と私は思った。祖母がたびたび「この子は反抗期がなかった」と語ったほど優しい息子であり、ずっと祖父母に尽くす親思いの人であったはずの父は、この頃からそんなふうに怒ることがみられ始めた。息子であるがゆえの、ボケていく親を認めたくないという思いと介護疲れのためだったのだろう。祖母はただでさえクヨクヨしやすい性質であったが、息子に怒られてうろたえ、「すまんなあ、すまんなあ」と悲しそうに謝り始めた。私は「いやいや、まだ使えそうなもんもあるし、ええのんあったら貰うとくわ」と穏便に収めようとした。
数時間後、祖母からそっと手紙を渡された。何か嫌な予感がしたので、その場では読まず、誰もいない部屋に行ってひとりでそれを開いた。1万円札が包まれていた。手紙には「いつもやさしくしてくれてありがとう」というようなことがいつの間にかずいぶんたどたどしくなった字で書かれ、最後には「だんだん字も忘れてきました、もうじき書けなくなります」とあった。私は泣いた。1万円札は、返そうとしたはずだが、結局どうなかったか覚えていない。

 

このときに、祖母に対する感情は全て使い切ってしまったような気がして、葬儀のときは何も新しく感慨が湧くことがなかった。そしてこれは、人が死んだ後に多くの人が経験することだと思うが、それまでは思い出す隙のなかった古い記憶が、新しい記憶とまったく平等にフラットに甦ってきた。

 

祖母からは、不要な衣類を詰めた紙袋や有難い本や何だかよくわからんお守りだけでなく、本当に嬉しい贈り物をもらったことも、そういえばあったのだった。
10歳か11歳の誕生日にもらった、便箋のセットである。

当時、私は手紙を書くのが好きだった。手紙の相手は、学校の友人や転校した子や雑誌の文通欄で知り合った子、それから愛知県のおじいさんだった。小学校から花の種と手紙をつけた風船を飛ばすというイベントがあり、それを拾った愛知県のおじさんが返事をくれたのだった(今では住所を書いた紙をあてもなく飛ばすなんてアウトだろう)。
せっせと文通する様子を見て祖母が、「あんたは手紙を書くんが好きやさかい」とレターセットを10セットほど誕生日にくれたのである。ささやかなプレゼントと思われるかもしれないが、これは今でも、人生で嬉しいプレゼント上位に入るプレゼントである。それまでは、懸賞で当たったものを使ったりノートの切れ端を便箋代わりにしたりしていたが、祖母のくれたレターセットは色とりどりで夢のようであった。テイストの違う様々なデザインがあり、可愛いもの、大人びたもの、メルヘンなもの、コミカルなものなど、相手や内容によって使い分けられそうだった。小学生女児が喜びそうなものを、祖母はどこで買い求めたのだろうか。デパートか近所の文具店か。自分で選んだのか、ポップなセンスがある人ではなかったから店員さんに見繕ってもらったのか。レターセットはその後、少しずつ大事に使った。


レターセットと一緒に、ボールペンとシャープペンシルのセットももらった。
どちらも静かな薄桃色に金色のラインが入り、金色のクリップがついていた。控えめなピンクが大人ぽく上品に思えて、「このペンで好きな人に手紙を書いたら素敵だろうなあ」と思った。私を知る人は私がそんなことを考えたのを意外に思うかもしれないが、そんな乙女ティックな一面もあったのだった。この思いは実際一年後に叶えられた。小学校の先輩(「Kのお兄ちゃん」)に年賀状を書いたのだった。年賀状も、ピンクで背景を塗り金色で枠線を書いて、もらったペンセットと同じ色合いにした。
この先輩はいわゆる「好きな人」というのではなかったけれど、縦割り班で世話になった人だった。縦割り班というのは、一年生から六年生までが所属するように作られた班で、通常は兄弟姉妹は異なる縦割り班に所属させられるのだが、私の妹は障害があり、私はその面倒見役としていつも妹と同じ班に所属させられていた。縦割り班ごとにタイムを競うウォークラリーや山登りのイベントでは、身体が弱く苦手なことの多い妹はなかなか先に進むことができない。面倒見役のはずの私も、とはいえ自らも不器用で運動神経がない。この「自分も苦手なことでいっぱいいっぱいなのに、かつ妹を気にかけねばならない」状況というのはなかなか過酷であったが、そこへきて、われわれのあまりのトロさに、班の面々が苛立ち始める。前の班長は舌打ちしてキレて先に行ってしまったし、途中までは付き合ってくれていた優等生も、途中で溜め息をついて去っていってしまい、まあ彼らも子供だからしょうがないのだが、妹と置き去られた私はもう泣きそうであった。しかし、Kのお兄ちゃんは違ったのだった。Kのお兄ちゃんが班長になったときは、妹が泣いてもまるでイヤな顔をせずにわれわれに付き合ってくれて、険しい道では励ましてくれて、なおかつ他の子もちゃんとまとめていたのだった。
われわれ姉妹は「Kのお兄ちゃんはほんまにええ人や」と言い合い、私はペンセットをもらってから、(私の誕生日は2月なので次の正月まで一年近くあったわけだが)「そや、今度、もらったボールペンでKのお兄ちゃんに年賀状を書こう」と思っていたのだった。

 

そのボールペンのほうは使い切ると同時にどこかへ行ったか捨てたかしたが、シャープペンシルのほうはずっと残っていて、なんと、三十年以上の時を経てずっと筆箱の中にあった。ずいぶん色あせて当初のピンク色がどんなだったかもはや分からなくなったし、金色部分も禿げてしまったが、ずっと使っていた。といっても(祖母には悪いが)別にそこまで思い入れがあって大事にしていたわけでもなく、途中で何度か失くしている(その後どこからか出てきた)。また私はそもそも物持ちがよく、筆箱も中学生から使っているものだし、定規に至っては小学2年生のときに地蔵盆のくじ引きで当てたものを未だに使っており、何なら文具だけでなく未だに小学生のときの服を着ている。
よってこのシャープペンシルが特別というわけでもないのだが、さまざまな何やかんやをともにしてはきたことになる。祖母が死んだとき、「いよいよシャーペンだけが残ったなあ、これもいつ壊れるか分からんな」と思って一度写真を撮った。だがスマホのカメラではピンク色が上手く写らなかった。と、そんなシャープペンシルなのであるが、ついに先日、紛失した。鞄の外ポケットに適当に挿して出かけたので、どこかで落としたのだろう。その日は街を歩き回っていたからどこで落としたかも分からないしおそらく見つかるまい。
なんなら鞄に挿したときに「これは落としそうやな」と少し頭を掠めた、にもかかわらず挿して出かけたということは、お馴染みのフロイト的失錯行為なのかもしれない。しかしそんな解釈こそ合理化というやつかもしれないし、自分の行為をあれこれ分析するのは不毛だろう。上述のように、このシャーペンには思い出はあるがそこまで思い入れがあったわけではない。もう充分使って古びていたし、何かゲン担ぎ(「これで書くと試験に受かる」的な)があったわけでもないし、高価なものでもなかっただろうし、ただなんとなく筆箱に入り続けていたので使い続けてきただけのものなのであるが、祖母がいなくなって何か月という意味ありげでも意味なさげでもあるタイミングでシャープペンシルもいなくなったことに、感慨というほどでもない感慨があるといえばあるが、別に文章に書くほどのことでもない気もするし、というそんな気分をとりあえずここに記録しておく次第である。

叔母の死

先日、四十九日も過ぎた。「あれ、〇〇ちゃん今日来てはらへんの?」と言おうとして、ちゃうやん! 今日は〇〇ちゃんの法事やん!と気付き、〇〇ちゃんはあんま喋らん人やったけどいないとなると違和感があるものだなと思った。親族一同も同様の錯覚にたびたび陥るらしく、互いに「あんた頭大丈夫か、しっかりしいや」と言いながらゲハゲハ笑っては、「これ、もひとつもらお」と茶菓子をつまむ。この一族は、法事やら葬式やらいろいろ大変なことがあっても、基本的にいつもゲハゲハ笑っているのでホッとする。

母方の一族の家には、子供の頃は、週末ごと長期休暇ごとに遊びに行っていた。いとこたちと遊び回った近くの広場や寺や神社には、学校や父方の家で過ごす平日とは違った時間が流れていた。子供時代というのはけっして、そんなよいものでもなかったが、それらの寺の石段や神社の草原は、ユートピアとしての子供時代を過ごした場所だといえる。

そんないわばユートピア的な土地の登場人物が一人いなくなったのは、仕方ないことだけれど淋しいものがある。そこへいけばいつでも、母の数多いきょうだいたちが、ときどきはなんやかんやありつつもわいわい仲良くやっていた。子供の頃から全員セットだった母きょうだいが一人欠ける、そんな日は、もっと先のことだと思っていた。


***

 

本人たちは否定するだろうがこの一族は皆なんだか少し変わっていて……いや個性的な人たちで、世間からずれた自分もそこでは落ち着けるような感じがあった。親族の集いに行くと今でも、親族の集いというよりは自助グループに来たような感覚を覚える。といっても、アホな話、昔のしょうもない思い出、政権の悪口、小学生のような下ネタで盛り上がるだけであるが。たくさんいるいとこたちのうち、結婚・生殖している者が少ないのも特徴的で、これは父方親族たちが就職して数年後には結婚して子を設けているのと対照的である(私にも子供はいない)。亡くなった叔母は、そんな親族の中でもとりわけ変わってい……個性的であった。おしゃべりなきょうだいの中で一人だけ無口で、たまに喋っても不貞たようにぶっきらぼうで、いつまでもまるで思春期の子のようだった。


昔、大学近辺を指導教員と歩いていると、犬を連れた叔母に遭遇したことがある(大学は一族の家の近所だった)。「こちら、研究室の先生」。普通なら「姪がお世話になっております」とかなんとか言うところであろうが、叔母は「へい、そらどうも」と目を見ずに挨拶をした。教授は一瞬面食らった様子だったが、「どちらにお散歩に行かれるんですか?」と社交っぽい会話を試みた。叔母は、

「へいへい、犬の向くまま!」

と言い放って去っていった。教授は自身もかなり変わった人であったが、しばらく沈黙の後言葉を選ぶように「お、叔母さんは……少し変わった方なんですね」と言った。
しかし叔母は、人間(成人)に対して口下手なだけで、動物や子供は好きだったと思う。私も子供の頃、童謡のレコードを何度もねだっては聴かせてもらい、一緒に歌った記憶がある。「かわいいかくれんぼ」が一曲目に入っているレコードだった。

 

***

 

大人になってからは叔母とそれほど濃密な交流があったわけではないが(会っても叔母はほとんど喋らなかったし)、知らせを受けて葬儀場に向かう日は憂鬱だった。最初に病気を知らされたのも急であったが、その日からあまりにもほどなくのことだった。しかし電車が川を越え、京都に近づくうちに、だんだん「なんか知らんけど」そういうもんなんやな、という気持ちになり、心が落ち着いてきた。


母方親族は皆、病院や検査が異様に嫌いである。祖父は15年前に米寿を目前にして死んだが、倒れて運ばれた際「病院に来るんは戦争の後以来や」というようなことを言っていた。(だが往診は受けていたらしいのでこれはちょっと「盛り」であった。)
叔母が亡くなったのは、病気の判明からわずか5日後であった。チャリで病院の入り口まで行ったところで痛みで動けなくなり、そのまま入院となったという。そんな状態になっているのに病院までチャリで行ったのだった。
本当はもっと前から痛みがあったのだろうが、誰にも言わなかったのだろう。予防医療は重要です、日頃から検診を受け、異変があれば早めに受診し、早期発見早期治療、そうすれば長く生きる可能性は上がるし周囲の人を悲しませることも減るし医療費の削減にもつながります、というのが現代の主流の考え方だと思う。私も医学部受験小論文を指導していたときなどは、そんなふうに書かせていた。しかし、「なんか知らんけど」そうしない(できない)人たちもいるのだな、と思う。
叔母たちは、べつに明確に「反医療」のような意見をもっているわけでもなく、過剰診断を怖れているとか医者に不信感があるとかいうわけでもない。ただ、なんか知らんけどできるだけ病院に行きたくないのである。もちろんそれは、純粋に自由意志による選択ではなかったかもしれない。もしかしたら、口下手な叔母は医療場面でのコミュニケーションにハードルがあったのかもしれず、あるいは金銭面で不安があったのかもしれず、そうした面への何らかのサポートがあればもっと早くに受診し、もっと長く生きられていたかもしれない。あるいはパートでなく正社員であれば、定期的に健康診断を受けられていたかもしれない。医療へのアクセスは平等でなく格差がある。そうした格差は是正されるべきだとは思う。しかしそれとは別に、予防が重要だとか、健康がよいことだとか長生きがよいことだとか、そういう価値の軸とは違う世界も「なんか知らんけど」あって、おそらく叔母はそういう世界の住人だったのであり、それはもう、「なんか知らんけど」そういうもんやと思うしかないんやな、とも思う。診断を受けた叔母は(内心は分からないが)飄々とした様子だったらしい。

 

 

葬儀場に着くと、いつもの面々が、沈痛な面持ちかと思いきや普段と変わらぬ様子でわいわい騒いでおりほっとした。コンビニで菓子を買っていったところ皆も菓子を買ってきており、大量の菓子が控室の卓袱台に盛られ、「お菓子ばっかりやん!」と笑いつつつまむ。お茶会か。

われわれは菓子をつまみつつ、叔母の部屋と病室からもってきた荷物を開け、お棺に入れるものを選ぶ作業をした。入院はわずかな期間だったが、叔母は病室に、色々可愛いものやかつての愛犬の写真を持ちこんでワールドを形成していた。見舞いで会った叔母は、普段のポーカーフェイスで、普通に人生の途上という風情だった。だが周囲のきょうだいたちに、友人への連絡や事務的な用を指示しており、叔母が長いフレーズを喋っている姿を初めて見た私は、「こんなに喋れたんや」と驚いたものだった。

遺品の中に、叔母の友人が病室にもってきてくれた手紙やお花があった。愛想のない人だとばかり思っていた叔母に、そんなに友達がいたのは意外だった。叔母は手芸を趣味としており、ハンドメイド市で知り合った仲間がいたようだった。お棺に収めることになった手紙に目を通した。手紙の中で叔母は「○○ちゃん」と本名ではない名で呼ばれていた。それは亡き愛犬の名だった。趣味の活動での屋号かペンネームみたいなものとして使っていたらしく、仲間たちにはその名で呼ばれていたらしい。それが本当の叔母の名だったのかもしれないな、と思った。
手紙には、叔母の強さと優しさ、美しい生き方を尊敬していること、叔母に力づけられて自分も創作を続けてきたという感謝などが書かれていた。「母きょうだいの問題児」としての叔母しか知らなかったわれわれの、知らない叔母の姿があった。叔母が誰かを力づけたり誰かに慕われていたりするなんて、普段の様子からは想像できなかった。
死の一、二日前に渡されたその手紙は、「これからもずっとずっとよろしく」というような言葉で結ばれていた。一見空虚な言葉のようだけれど、私も、叔母が死んで初めて、知らない彼女に出会えたような、「初めまして」のような気持ちになった。亡くなるときや亡くなった後になって初めて、知らなかったその人の一面を知ることがあるのだ。よくあることかもしれないが。


葬儀に来たいとこのひとりは、叔母の作ったブローチをつけていた。ちりめんの小さなお花を寄せ集めたもので、精密に丁寧に作られていた。叔母はそれを300円で売っていたらしい。周囲は「安すぎる」「手間を考えたらもっと高く売ったほうがいい」と言ったが、叔母は「最初にその値段で出してしもたから」と頑なに値上げをしなかったらしい。

最近はネットでも、「クリエイターは相応の報酬を要求すべき、不当に安い報酬は他のクリエイター全体のためにもよくない」という意見をよく見る。たしかにその通りだと思うのだが、叔母はおそらく、何かを作ってそれで以て人と交流することに、換金できない愉しみを見出していたんだろうなあとも思う。そのせいで周囲は、金のことでやきもきさせられることもあったが、しかしそれも、「なんか知らんけど」そういう人やったんやな、と思うしかない。


「勝ち組で金持ち」とか「長生きして子や孫に囲まれる」とかが分かりやすい幸せの形だとすると、叔母は多くの人には幸せに見えなかったかもしれない。独身だったし、金や名誉もなかったし、世間付き合いも不器用だった。しかしカツカツで悲愴だったわけではなかった。その生活の中で犬の思い出を大事にし、細かな手作業を愉しみ、好きなことを通して友人を作り、心豊かに生きていた人だったのだな、ということが、葬儀屋の一室で初めて分かった。

メキシコの思い出

「行きつけの店」的な存在に憧れる一方、飲食店で「いつもありがとう」などと言われると途端に足が遠のいてしまう、という現象がある。なんとなく、飲食店で顔を覚えられるのがイヤなのだ。お店の人は好意で言ってくれているのに申し訳ないこととは思うが、性格的なものなのでどうしようもない。しかしメキシコは別で、メキシコで「おっ、こりゃまた古株が来てくれたなあ」とあの飄々とした口調で言われると、ああまだ覚えていてくだすったのかと嬉しくなってしまう。

 

メキシコは、実際はメキシコという名前ではない。メキシコ料理の居酒屋でメキシコ的な内装なので、われわれが勝手にそう呼んでいる。

初めてメキシコを訪れたのは、(私はこういう日付をやたらに記憶しているのだが)2006年の3月であった。当時、研究室で、自主研究会を開いており、その後の飲み会で訪れたのだった。自主研究会といえば堅く聴こえるかもしれないが、みんながリレー形式で自分の好きなテーマ(「オタク論」「ボーイズラブ」「石ノ森章太郎家畜人ヤプー」「まれびと」などのテーマがあった)についてレジュメを作ってあれこれ語り、実質その後の飲み会を主体とするようなものだった。

第一回の研究会はなかなか議論が白熱し、残った何人かがじゃあ飲みにでも行こうということになった。当初、先輩の薦めでちょっと高そうな和風居酒屋を当たったのであるが満席で、行き場を失ったわれわれは、その向かいの薄暗い雑居ビルに、なんや怪しげな看板が出ているのを見つけ、「もうここでええんちゃう」というノリで入ったのが、メキシコであった。

 

メキシコは、メキシコ的な内装でありつつわれわれの通された部屋は畳座敷に卓袱台が置かれており、混沌としていた。この日は他に客はいなかったと思う。いたのかもしれないが、見るからに喧しい学生であったわれわれは誰もいないほうの部屋(店はふたつの部屋に分かれていた)に隔離されたのかもしれない。まあともかく、みんなそれぞれメキシコ的なビールなどを注文した。口ひげを生やし髪を束ねた、メキシコの街頭でバンジョーでも弾いてそうな(※メキシコの勝手なイメージ)おじさんが陽気に接客してくれた。その人がマスターであるようだった。私は酒が飲めないので、ココナッツジュースを頼んだところ、マスターが、

「ごめんなぁ~、せっかく頼んでくれたけど、ウチのココナッツジュースまずいんやあ。他のんにしとき~」

と言った。それで私はもう、「この店………好きーーー!!」となったのだった。

 

 

その日は遅くまでメキシコの座敷で飲み続けた。思えばわれわれはメキシコの正確な閉店時間を把握していなかったが(今に至るまで把握していない)、とうに閉店時間を過ぎていたのでないかと思われる。だがマスターは快く歓待してくれて、しまいにはサービスのツマミまで出してくれた。スルメなど、もはやメキシコ的でもなんでもないツマミであり、明らかに隣のコンビニで買ってきてくれたものだった。民宿のようなもてなしだねと言い合った。われわれはその畳部屋に数時間ですっかり馴染んでしまった。

以来、月に一度の研究会の後は、メキシコへ移動するのが定番となった。メキシコの正式名称が覚えられなかったため(※別にそんな難しい名前ではなく私以外は覚えていたと思われるが)、「メキシコ」という呼び方が定着した。

 

店に入るとまず、テカテやらコロナやらアボカドジュースやらのメキシコ的な飲み物を頼む。マテ茶を頼むとマスターに「マテ茶ね。ちょっと待て茶」と言われる。初回に断られたココナッツジュースはその後改良されたらしく注文可となった。その後、ナチョス、パパス、タコス、エンチラーダスなどの定番メニューを頼む。パパスを頼むと「はい、パパス・ママス」と言われる。ダジャレにしづらいメニューに関しては特にダジャレはない。日によっては料理はなかなか来ないが気長に待つ。メニューは基本的に変わらなかったが、時折思い出したように「メキシカンチキンラーメン」(チキンラーメンサルサソースがかかっている)などの新メニューが登場するのだった。

 

 

われわれとメキシコとの付き合いは、何期かに分類できるが、最盛期は、メキシコ飲み会参加人数も増えテキーラが流行を見せた頃であろう。研究会が盛り上がり、そのままメキシコになだれ、それぞれテキーラを注文し本場の飲み方(留学生の研究室員が教えてくれたことから流行り出したと記憶している……塩を舐め、ライムを齧って飲む、みたいな飲み方)で飲むと、皆、議論(やしょうもない話)を闘わせながら次々に潰れてゆくのだった。潰れた果てにどうなったか、という話は私(や一部の人)にとっては面白いが世間的にはよくある酔っ払い話だと思うので詳述はしない。地獄絵図を表す端的な話としては、酔っ払った者二人をタクシーの後部座席に乗せて送っていった先輩の、「タクシーが止まると同時に後部座席の両側のドアが開き同時に嘔吐が始まった」という話などがある。他にもいろいろろくでもない事件はあるのだが、たぶんここに詳細に書いてもなんも面白くないと思うので(面白く書ける筆力がないので)省略する。メキシコはそういう事態には慣れているようで、酔っぱらった者たちが迷惑をかけたことを勘定時に謝ると、

「あらー、また救急車呼ばんとあかんかと思うたけど大丈夫そうやねえ、よかったわあ」

とのんびり言っていた。その口ぶりから、どうやらメキシコはたびたび救急車を呼んでいるらしいことが分かった。

 

なぜあの頃はああだったのか分からないが、研究や勉強の充実に、皆の個人的な人生のターニングポイントが重なり、なんとなくいつも昂奮したような浮かれたような雰囲気になっていたのでないかと今振り返ると思う。少なくとも自分はそうだった。私は酒が飲めないのでテキーラでダメになってゆく人々を見ているだけの立場だったはずだが、なぜかメキシコでは自分も、いつも酔っていたような記憶がある。

 

 

メキシコの特徴として、「誰が従業員で誰が関係ない人か分からない」ということもあった。マスターはマスターだとはっきり分かるのだが、日によっていろんな人が注文を取ったり運んだりしており、一度見かけたきりの人もいた。週とか日とかの単位でゆるくいろんな人が手伝っていたのかもしれない。

一度、そんな「短期の手伝い」的な人に、真面目なXさんがちょっとした暴言を吐かれ喧嘩になりそうになったことがあった。結局は、Xさんがキレるのを我慢し喧嘩は不発に終わったのだが、酔っぱらって転がっているのを店員(?)に「邪魔やから鴨川に捨ててこよか」と言われ、なんで知らない人にそこまで言われねばならないのだとムカッとしたらしい。しかしこれも後から思えば、この暴言を吐かれたとき時間は深夜2、3時になっており、本来の閉店時間(上述の通り何時だか正確には知らない)をはるかに過ぎていたので、そんな時間まで酔っ払いに居座られた(寝座られた)この店員(?)はいいかげんイライラしていたのであろう。普段のメキシコが寛容過ぎたのである。

この頃は、そんなふうに、メキシコに行けば深夜の2、3時までだべり続けるのが日常のようになっていたのだった。しかし1、2年経つと、皆それぞれに忙しくなったり立場や住まいが変わったりして、メキシコに長居することも少なくなり、そのうちに、年に数回何らかの機会に訪れるだけになってしまった。先日の飲み会ではついに、「われわれももう年齢的に遅い時間は無理なので」という理由で早めの集合早めの解散となり、しょっちゅうメキシコから熊野神社横のからふね屋(当時24時間営業だった)に流れて朝を迎えていた頃を思うと隔世の感を覚えるが、とはいえそれでもそうして年に何度かはメキシコを訪れているわけであり、そのたびに、変わらず飄々とした風貌のマスターが、変わらずのんびりした口調で、

「こりゃまた久しぶりの顔が来てくれはったなあ」「マテ茶はちょっとマテ茶」

と言ってくれると、一気に年月を忘れてサークルの部室に戻ってきたような気持ちになるし――私はサークルというものに所属したことがないがサークルの部室というのはメキシコみたいな感じかなと思う――、冒頭に述べたような性向の所為でひとつの店に通いづらい自分にも、知らん間に「行きつけの店」ができてたんやな、となんとなく誇らしい気持ちになる。マスターにはいつまでもお元気でいてほしいと思う。先日、研究室の後輩にあたる人に会った(私はもう研究室とは関係がなく、研究室も当時とは体制が変わっており、この方とはSNSで知り合った)。その際に、今でも研究室の飲み会といえばメキシコであること、メキシコは今でも「メキシコ」と呼ばれているらしいことを聞き、小さな感動を覚えた。

 

 

食パンと食パンにまつわる諸々の思い出

子供の頃、家での朝食はもっぱら洋食であった。具体的には、食パンであった。母が、朝が苦手であったため、和食より比較的手間のかからないものということで、そういう習慣になったのだと思う。

たいていは、トーストした食パンに何かを塗るかのせるかして食べる。それに+αでフルーツやヨーグルトやヤクルトをつけてもらったこともあったと思う。

 

私は当初、「食パンの耳」という概念が理解できず、「食パンの骨」と呼んでいた。「骨」と呼ぶと「あれは骨じゃなくて耳」と訂正されたが、魚の食べられないところは「魚の骨」なのに、なぜパンの食べられないところがパンの骨ではないのか理解できなかった。「骨」の概念を理解したのがいつ頃かは覚えていない。

 

そう、これもいつ頃までか覚えていないが、私はパンの骨が堅くて食べられなかった。骨を取り外してもらって真ん中のふわふわの白いところだけを食べ、骨は細かくちぎってビニール袋に詰め、近所の神社のハトにやりに行っていた。この神社にはハトがたくさんいたのだが、その神社が近くにあるというだけの理由で(しかもそこまで近いわけでもない)、遠方に住むいとこたちは、我が家のことを「ポッポのおじちゃんの家」と呼んでいた。「ポッポのおじちゃん」とは家長である祖父を指していた。30歳くらいになった頃、やはり30歳くらいになったいとこから用事があり電話がかかってきたのであるが、「ポッポのおじちゃんいる?」と言われ、「まだその名で呼んでんのか!!」と驚愕したことがある。

 

出されるので毎日食パンを食べていたが、食パンがそんなに好きなわけではなかった。だが、食パンを焼いて、その焼き色に母があれこれ言うのは楽しかった。

うっすら色づいた食パンは「きつね」と呼んでいた。「もっと焼いてほしい」と言うと、「ほなタヌキくらいにしよか」と言われ、焦茶色になるまで焼いてくれる。さらに焼いたものは「クマ」と呼ばれており、クマは少し焼きすぎであるとされていたので、母が席を外すときは「クマにならんようにトースター見といてや」と言われるのだった。さらに焼いたものは「スミ」、そして「ガン」と呼ばれていた。焦げは癌のもとになるとされていたからである。

 

食パンには、バターを塗るのがスタンダードだったが、だいぶ後になって知ったことだが、我が家で「バター」と呼ばれていたものは実際にはマーガリンであった。マーガリンのほうがバターより身体にいいという当時の言説(最近覆されつつある)と価格の安さによる選択だったのであろうが、マーガリンをバターと呼んでいたせいで、私はかなり大人になるまで、両者の違いを知らなかった。「バター」の分類のひとつが「マーガリン」くらいに思っていた。

冬は、マーガリンが固まってなかなか容器から掬い取れず、塗ろうとしても塗りづらいのでイヤだった。暖かくなるとマーガリンが塗りやすくなるので嬉しかった。

「マーガリンを塗ったパン」ばかり毎朝食べるのは単調で、それに何をのせるかだけが私の愉しみであった。だいたい、ジャム(ストロベリーやブルーベリー)、チーズ、ハム、海苔、のローテーションでたまにどれかが長期間流行るのだった。海苔をパンにつけるのは一般的だと思っていたけれど、あるとき小学校の友達に言うと驚かれたので、一般的ではないことを知った。母の実家に泊まりにいくと、ピーナッツバターや、チョコクリームとホワイトクリームがマーブル状に混じったようないかにも美味そうなクリームがあり、そういうものは大好きだったのだが、我が家では「朝からそんな甘いもん」と言われあまり買ってもらえなかったので、母実家での朝食の際にはここぞとばかりに塗りたくり、瓶から直接食べてもいた。

 

平日は学校に行く前の慌ただしい時間に、そうして簡単な食事をするだけであったが、休日は時間があるので、パンの上に少し特別なものをのせることもあった。たとえば、7歳くらいの頃に爆発的に流行った(※我が家でのみ)のは「ムース」である。これはその当時うちの店で売り出したもので、いろんなフルーツの味のものがあった。本来どうやって食べるためのものなのかは知らないが、われわれはそれを食パンにのせていた。平日は時間がないので、「日曜になったらパンの上に、まずマーガリンを塗って、その上にジャムを塗って、その上にチーズをのせて、その上に〇〇味のムースをのせて、その上に××味のムースをのせて……」など、「全部のせ」的な食パンを夢想し、その想像図を描いたりして、日曜を楽しみにしていた。想像図を親に見せると、「こんなん気色悪いわ、美味しないわ」と言われたが、そうしてあれこれ夢想するのが愉しかったのであろう。

 

食パンと一緒に飲んでいたのは、牛乳だったと思う。

我が家は牛乳の消費量が異様に多く、今でも冷蔵庫に大量の牛乳が入っている。実家にいる頃は、牛乳というのは生命の必需品なのだと思っていたが、実家を出てから、一年に一、二本しか牛乳を買わないし、買わなくても何ら困ることはないし、むしろその一、二本をなかなか消費できなかったりするので、なんぼ家族成員数が多いといえあの人たちは何にあんなに牛乳を使っていたのかと思う。

子どもたちはパンと一緒に牛乳を飲まされていたが、大人は珈琲を飲んでいた。子どもは珈琲禁止だったので、私はよく、母が珈琲を飲むのを横で見ていた。

母は珈琲に微量のミルクを入れた後、それをかき混ぜない。私が「かき混ぜたげる」と言うと、かき混ぜさせてくれることもあったが、「ええねん、かき混ぜんといて」と言われることが多かった。「なんで?」と尋ねると、「お母さんは、このままにして、だんだん混ざっていくんを見ながら飲むんが好きやねん」と言われた。

当時母は、あまり自由に出かけたり、喫茶店やレストランにいったりもできなかっただろうが、そうしたささやかなことで心を束の間ゆったりさせていたのかなと思う。私も現在、珈琲にミルクを入れるときは、基本的にかき混ぜず、白い靄が模様を描いて少しずつ広がっていく様子を眺めることとしている。

 

 

 

 

 

「姉」たちの思い出

自分は同性と対等な関係を築くのが何か苦手なのだが、これは、幼少の頃から「面倒を見てくれるお姉さん役の女の子」が周囲にいたからではないか、ということにふと思い至った。実際の家庭内ポジションは長女だが、公園や幼稚園や学校ではいつも「姉」的な役の子が身近にいた。多くは同年齢・同学年の子だが、年下の子である場合もあった。近所の子は皆年下であったが、私は皆で遊ぶときしょっちゅう何らかの理由で泣きわめいていたので、常に年下の子たちに呆れられつつ慰められていた記憶がある。


はっきり覚えている最初の「姉」は、幼稚園で同じクラスだったT子ちゃんである。
年少組のときは接点がなかったが、年長組に上がったときに仲良くなった。T子ちゃんは私と名前が似ていたので、最初の会話は「名前が似てるね」とかそんなことだったと思う。私と違ってしっかりした子だったが、なぜか仲良くしてくれた。チビだった私に対し、背が高く体格も良く大人っぽかった。当時の私は、チビであることに加え、お遊戯ができない、昼食が食べられない、昼食をこぼしまくる、一人でトイレに行けない、外で遊べない(室内で絵本を読んでるのが好き)、などの理由でからかわれたり怒られたりしては泣いてばかりいたが(つまり今とだいたい同じである)、T子ちゃんと友達になってから、T子ちゃんが男子からかばってくれたり意地悪な女子に言い返したりしてくれるようになった。T子ちゃんと仲良くなってから、幼稚園生活が見違えるように楽しいものになった。以前はお迎えバスに乗りたくないと泣きわめいていたけれど、T子ちゃんにあのことをお話しよう、一緒にあれで遊ぼう、とか考えると翌日会うのが待ち遠しかった。秋になって平仮名の勉強が始まると、文字の習得だけは周囲より早かった私がまだ平仮名が書けないというT子ちゃんに教えてあげる機会もあり、初めて自分から恩返しができて嬉しかった。


T子ちゃんはおそらく自発的に「姉」役になってくれたが、多くの「姉」は、保護者や幼稚園・学校の先生といった大人から命じられて「姉」に就任していたと思われる。
小学校に上がったとき、私は先生から「姉」を付けられた。「姉」は名簿順ですぐ後の席、背の順も真後ろのSちゃんという子だった。初対面のその子に先生が「Sちゃんはこの子の面倒を見てあげてや」と言うているのを入学式の日に聞いた。いわば官製姉であった。私は学校業界のことは知らないのでよく分からないのだが、こういうのは、あらかじめ幼稚園なり保護者なりから「あの子はちょっと御目付役が必要なので誰か用意したって」みたいな連絡が小学校に行っているのであろうか。
御目付役の業務としては、具体的に「給食時の見張り」などがあった。この頃、小学校では「三角食べ」が推奨されていた(今でもそうなのだろうか)。三角食べとは、主食・主菜(大きいおかず)・副菜(小さいおかず)をひと口ずつまんべんなく食べる食べ方であるが、私はこれができなかった。口の中で味が混じるのが気色悪いので、禁じられている「ばっかり食べ」をしていた。主食なら主食をすべて食べ終えてから別の器に移る、という食べ方である。今思えば「ばっかり食べ」をしたところでそんなに健康を損なうわけでもないやろと思うのだが、これは重大なタブーであり、そのたびにSちゃんに「せんせーい! また○子ちゃんがばっかり食べしてはる!」と声を上げられるのだった。
Sちゃんは、どこか色っぽいような、おませな感じの女の子だった。完全に善意の姉であったT子ちゃんと違って、Sちゃんは意地悪も言ってくるので、私はSちゃんのことはさほど好きではなかった。やたら人の容姿に言及する子でもあり、「あんたは口さえなければ可愛いのに」というのをしょっちゅう言われていた。唇が分厚いせいだろうが、そんなことを言われても口は取り外せないのでどうしようもない。だが今思えば、入学式でいきなり「姉」役割に任命されたSちゃんも気の毒である。私はSちゃんの意地悪に反発する一方で、苦手な体育のときや行事のときはやはり「姉」に頼っていた。具体的には、忘れ物が異様に多かった私は、それを先生に言い出せず突然泣きわめき出すのが常態化していたが、そのときその理由を先生に伝えるのはSちゃんの役目であった。


低学年も後半になると、私も入学時ほどの問題児ではなくなってきた。しかしSちゃんは私の姉役のままであった。当初私が前から3番目、Sちゃんが4番目という背の順だったのが、2年生の終わりには、本当は私の方がSちゃんよりも身長は伸びていた。しかし先生は私を3番目に留め置いたままだった。Sちゃんを私の後に配置し、問題児の御目付役として固定しておかねばならないという意識があったためであろう。それは子供ながらに気付いていた。それぞれ前後の子と背比べをして背の順を決めていく際、私とSちゃんの背比べ結果だけ曖昧にされていたからだ。(この後3年生に上がって先生が変わると、不正無き背比べによって私はいきなり後ろから3番目になった。)
この頃、小さな事件が起こった。Sちゃんと私はたいして仲良くないながらも、互いの家を行き来して遊ぶこともあった。あるとき、Sちゃんがうちのアパートにやってきた。いつも流行のものを持っているSちゃんに対し、私の家にはそうしたものはなかったが、その日は珍しく新しい文具を買ってもらったところだった。Sちゃんはそれが気に入ったようで「これええな」と何度も言った。Sちゃんが帰った後、それが無いことに気付いた。夕方にSちゃんがお母さんに連れられて謝りに来た。お母さんに「謝りなさい」と言われ、「ごめんな、素敵やったからつい。怒ってる?」と言うSちゃんが弱々しく見えた。なんだか馴れない状況で居心地が悪かった。いつも叱るんはSちゃんで叱られんのは自分、ちゃんとしてるんはSちゃんであかんのは自分、と思っていたからだ。

 


Sちゃんとはその後クラスが離れたが、再び、高学年で同じクラスになった。互いに思春期に入ろうとしていた。私は一時期背が伸びて活発になったもののまたどんよりしたチビに戻っており、Sちゃんはますます大人びていた。
またSちゃんと前後の席になった。Sちゃんが私の前だった。くるんと椅子を回してSちゃんはハキハキと言った。「2年生のときは、あれ、盗んだんごめんな。お母さんにも謝っといて。また仲良くしてな」。2年生のときの盗難事件など、子どものしたこととしてすっかり忘れていたしもう謝らなくていいのに、やっぱりSちゃんはしっかりしているな、と思った。学校内のポジション的にはどっちかというとこちらが「仲良くして」と頼む側であり、Sちゃんがそんなことを言うのは変だと思ったが、私は「うん」と言った。


その日からたびたび、Sちゃんはくるんと椅子を回して話しかけてくるようになった。そしてそんな中で「性知識によるマウンティング」という、低学年の頃にはなかった現象が始まった。
「なあ、○○って知ってる?」

Sちゃんが何か性に関するワードを突然投げかけてくる。
単語であることも、漫画や歌に出てくるフレーズであることもあった。
「さぁ……」。私が首をかしげると、「ふうん」と満足したようにくるんと椅子を戻してしまう。そんなことが続いた。私は百科事典のエロ項目を熟読していたし、大人の小説も読んでいたし、おじいちゃんの『週刊文春』と『週刊新潮』も読んでいたので(すなわち「淑女の雑誌から」と「黒い報告書」を読んでいたので)本当は色々知っていたが、それは言ってはいけない雰囲気だった。
あるときはくるんと椅子を回して、「なあ、宮沢りえに、レコーディングしたけれど歌詞が危なくて発表できひん曲があるねんて。『誰とでもやっちゃう』ってタイトルねんけど、この意味分かる?」と訊いてきた。私が「分からない」と言うと、Sちゃんはちょっと小馬鹿にしたように「ふうん」と笑ってまた椅子を戻したのだった。


Sちゃんとの交流はその後自然消滅したが、高校を卒業した頃か、入ったモスバーガーに偶然Sちゃんがいたことがあった。私たちはもう挨拶をする関係ではなくなっていたので、互いに無視し、私は黙って離れた席に座った。するとSちゃんが連れの女の子と、怒涛の下ネタトークを始めた。「彼氏が早漏」というような話であり、生々しい表現がモスバーガー中に響き渡ったが、私はそれは私に向けられた話であると感じ、「(あのマウンティングはまだ続いていたのか、しかも彼氏が早漏)」と思った。


大人になり、Sちゃんとは会うこともなくなり、「結婚しはったらしい」とか「子どもができはったらしい」とかいうことをご近所の噂で聴くだけになったが、ときどきフッと「宮沢りえにそんな曲ほんまにあるんやろうか」という疑問が頭をかすめる。そこで、つい2、3年前、約30年越しに検索して調べてみたところ、それらしき曲の存在は確認できなかった。あの情報はなんだったのだろうか。もし何かご存知の方がいれば教えてほしい。あるいは、当時彼女の代表曲であった「GAME」には「GAME だれとでもやれるし GAME いつだってできちゃう」というフレーズがあるので、Sちゃんはこれのことを言っていたのかもしれない。「GAME」は未発表曲ではなく1990年の紅白歌合戦でも披露された曲であるが。この機会に調べてみたところ、原曲はボウイ+レノンの「FAME」であったことが分かった。そうだったのか、知らなかった。原曲とはかけはなれたヴォーカルが載っている。訳詞担当の「I.Toi」というのは糸井重里らしく、紅白での演出も含め、いかにもバブル期って感じだ。

 

ヤフオクの思い出

もう長いことヤフオクを使っている。ヤフオクというのは、書かなくても分かると思うがヤフーオークションのことである。使い始めたのは2002年か2003年かそんな頃だったか、絶版になっていた本を入手したくて使い始めたのだったが、その後、本や服を買ったり、母と組んで家の不要なものを出品したりとダラダラ活用してきた。

 

昔のヤフオクは出品者と落札者が互いにメールでやりとりする形式だったが、その後、メールは使わずヤフオクのサイト上でやりとりする形式となり、昨今はさらにすっかり合理化されて、所定のフォームにチェックを入れたりボタンをクリックするだけになり、文章でのやりとりをする必要もほぼなくなった。日本語ができない利用者も増えたことを想えば合理的であるのかもしれない。しかし昔の煩わしいやりとりがやや懐かしいような気もしないでもない。ヤフオクには、取引が終わった後の「評価」というシステムがあって、出品者と落札者が互いにコメントをつけるようになっているのだが、これも最近はフォームにあらかじめヤフーが用意した定型文が入っている。定型文を消してオリジナルのコメントを書くことも勿論できるのだが、定型文があるとついついそれをそのまま使ってしまう。以前は「評価」の文章を考えるのは地味ながら面倒な作業だったので、便利になって有難いといえば有難いのだが、味気ないといえば味気ない。

こうも合理化されてしまうと、落札する側は出品している側をamazon楽天と同じように感じてしまうらしく、最近は、出品側の返信がちょっと(半日とか)遅れただけで「ぜんぜん返事がないですがどうなってるんですか!?」みたいな怒りの連絡が来たりする。こっちも仕事とか生活とかあるんだけど。世知辛いことであるなあと思ったりする。

 

私がヤフオクを利用し始めた頃は、取引によっては1週間ほどかかることも珍しくなかった。今の利用者には考えられないかもしれないが、1日にメール1通を送るくらいのペースでのんびりやりとりしていると、それくらいの期間になったのだ。当時は、職場や学校でしかメールを使えない、という人も多かったと思う。今はインターネット全体のスピードがえらく速くなったもんやなあと感じる。インターネットに触れた当初は、郵便での手紙と違って瞬時に相手に届くメールというもののスピードに驚嘆したものだが、LINEやら各種SNSやらが登場した今では、メールを遅く感じるようになってしまったし、のんびりテキストサイトとか作っていた頃から思えば、なんでも即座にツイッターやら動画配信サービスやらで実況できてしまう今は、速さというものが行き着くところまで行き着いてしまったようで、この先どうなっていくんだろうって感じだ。

 

そんなふうにのんびりやりとりしていると、出品者と落札者の間で単なる取引以上の交流が生まれることもよくあった。たとえば、商品を落札した際に「ずっとほしかった商品です、落札できてうれしいです」「~に使おうと思っています」みたいな商品への思い入れを語る人はよくいたし、私も自分が何か落札したときは、挨拶代わりにそんなコメントを必ず書いていた。何度か、取引が終わった後でメールが来たこともあった。ちょっとびっくりしたのは、何か(なんだったか忘れた)を売った際、取引終了から1カ月ほども経ってメールが来たことである。「(何か商品に不備があったのかな!?)」とどきりとしながらメールを開くと、こんな内容だった。

「私は教員をしており来年定年を迎えます。この機会に、大学院で学び直すことを考えています。あなたは出品物から推測するに、●●大学の関係者だとお見受けしました。●●大学の大学院を受験しようかと考えているのですが、この年齢でも受け入れてもらえるものでしょうか?」

まさかヤフオクを通じて人生相談されるとは思わなかった。私は大学関係者といっても大学院進学事情はよく知らないし、その人の志望の学部のことは分からなかったので、「詳しいことは分かりませんが、社会人経験のある院生は多いと思います、チャレンジされてみてはどうでしょうか」みたいな何の役にも立たなそうな返事を送った。しかしまあ、ヤフオクで知り合っただけのよく分からない相手にそんな相談をしてくるということは、正確な情報を求めているというよりも、誰かに決意の後押しをされたかった人かもしれないので、それでよかったのかもしれない。

 

他、「酒屋グッズ」の出品も思い出深いことが多い。

酒屋を廃業した後、我が家の倉庫にはノベルティという名のガラクタがあふれており、母が商品管理と梱包を担当し、私が説明文執筆・出品・落札者とのやりとりを担当する、という分担で、親子でヤフオク業に勤しんだ(なお私は管理とか梱包とかきっちりしたことが一切できないタイプの人間である)。何かがそこそこの値段で売れた際、発送しようとしたところで、商品チェックをした母が、あまりにも長年倉庫に放置されていたため故障があったことに気がついた。もう代金は入金されてしまっている。私は慌てて落札者に事情をメールし、不具合に気づかぬまま出品したことを謝り、よかったら類似の商品を送る、しかし落札されたものとは違うので代金はお返しする、という旨を伝えた。すると相手は、「では類似のものをお願いします、代金は受け取っておいてください」と言ってくれたうえ、「誠実な対応に感謝感激!」みたいな「評価」を入れてくれたのだった。こちらとしては、希望の商品を送れなかったというのに、なんだか誉められてしまい感激までされてしまって申し訳ないやら有難いやらであった。この方はそれまでに何か不誠実な対応に遭遇してきたのかもしれない。

酒屋グッズの中での主力商品は、酒造会社の前掛けだった。酒屋の店主や居酒屋の店員がよく腰に巻いているアレである。我が家にとっては見慣れたなんともないものだが、愛好者がいるらしく、出品してみるとよい値段で売れるので驚いた。その中でとりわけ値段がつり上がったのは、某造酢会社の前掛けである。レアだったのか愛好者が多かったのか、他の前掛けはつり上がってもせいぜい千円か数千円だったのが、ぐんぐん値段が上がっていき、1万円を超えたところで私と母は「なんぼなんでも申し訳ない、ここらへんで止まってくれ」と念じ始めた。所詮小心者である。

結果、前掛けは1万数千円で落札された。オークションとはそういうものなので何も申し訳なく思うことなどないはずなのだが、なんとなく申し訳ない気持ちで落札者の方にメールをすると、返信には、落札できた喜びと、商品への思い入れが書き連ねられており、更には「1万円を超えたときは少し痛いなと思いましたが、しかしここで落札しなければもう二度と手に入らないと思い、落札させていただきました」と書かれていたことで、われわれはますます申し訳なくなった。というのは、われわれの手元には同じ前掛けがあと数枚あり、これが落札されたらすぐに次のものを出品するつもりでいたからだ。「なんか、悪いわあ……」。何も気を遣う義理はないのであるが、われわれは「しばらく待ってほとぼりの冷めたころに出品しよう」ということにし、さっさと家の不用品を処理してしまいたい気持ちを抑え、半年ほど経ってから次のものを出品した。ところが、入札したIDはまたも同じ人であった。「うわあ、またあの人が入札してしまった~!!」。結局前掛けはまたもその人によって落札された。だが今回は前回ほど値段は高騰せず、千円ちょっとほどだったと思う。同じ商品でもその時々で落札金額が違うのは面白いものだ。

その方は、「またこの前掛けを落札できてうれしいです」と喜びのメールを送ってきた。そして驚くべきことに、「このような商品をこの金額で購入するのはあまりに忍びないので、●●円払わせていただきます」と、頼んでもないのに勝手に数千円上乗せした金額を振り込んできたのだった。いろんな人がいるものだ。こうしたことは、今のヤフオクのシステムでは起こりにくいことだろう。

 

と、すっかり老人の昔語りのようになってしまった。最近、インターネットの使い手の間でも世代間断絶が起こっているようで、「インターネット老人会」なる言葉ができて「あの頃の2ちゃんねるでは」とか「若い子は知らない昔のネット流行語」とか、そんな話題がさかんであるようである。現在のSNSやらまとめサイトやらも、あと10年も経つと昔語りの対象となるのだろうか。それにしても、インターネットなんてちょっと前に出てきたものだと思っていたし、ゼロ年代前半頃は便利かつ危険な最新のツールであったはずなのに、その世代が既に「老人会」を名乗っているなんて、人間界のサイクルはなんて早いんだと驚いてしまう。そういえば、20歳頃、周囲の同級生たちがぼちぼち子供を産み始めた頃も、「えっ、人間の再生産サイクルってこんなに早いの!?」と驚いたものだ。一生そうして人間界のサイクルの早さに驚きながら死んでいくのであろう。