食パンと食パンにまつわる諸々の思い出

子供の頃、家での朝食はもっぱら洋食であった。具体的には、食パンであった。母が、朝が苦手であったため、和食より比較的手間のかからないものということで、そういう習慣になったのだと思う。

たいていは、トーストした食パンに何かを塗るかのせるかして食べる。それに+αでフルーツやヨーグルトやヤクルトをつけてもらったこともあったと思う。

 

私は当初、「食パンの耳」という概念が理解できず、「食パンの骨」と呼んでいた。「骨」と呼ぶと「あれは骨じゃなくて耳」と訂正されたが、魚の食べられないところは「魚の骨」なのに、なぜパンの食べられないところがパンの骨ではないのか理解できなかった。「骨」の概念を理解したのがいつ頃かは覚えていない。

 

そう、これもいつ頃までか覚えていないが、私はパンの骨が堅くて食べられなかった。骨を取り外してもらって真ん中のふわふわの白いところだけを食べ、骨は細かくちぎってビニール袋に詰め、近所の神社のハトにやりに行っていた。この神社にはハトがたくさんいたのだが、その神社が近くにあるというだけの理由で(しかもそこまで近いわけでもない)、遠方に住むいとこたちは、我が家のことを「ポッポのおじちゃんの家」と呼んでいた。「ポッポのおじちゃん」とは家長である祖父を指していた。30歳くらいになった頃、やはり30歳くらいになったいとこから用事があり電話がかかってきたのであるが、「ポッポのおじちゃんいる?」と言われ、「まだその名で呼んでんのか!!」と驚愕したことがある。

 

出されるので毎日食パンを食べていたが、食パンがそんなに好きなわけではなかった。だが、食パンを焼いて、その焼き色に母があれこれ言うのは楽しかった。

うっすら色づいた食パンは「きつね」と呼んでいた。「もっと焼いてほしい」と言うと、「ほなタヌキくらいにしよか」と言われ、焦茶色になるまで焼いてくれる。さらに焼いたものは「クマ」と呼ばれており、クマは少し焼きすぎであるとされていたので、母が席を外すときは「クマにならんようにトースター見といてや」と言われるのだった。さらに焼いたものは「スミ」、そして「ガン」と呼ばれていた。焦げは癌のもとになるとされていたからである。

 

食パンには、バターを塗るのがスタンダードだったが、だいぶ後になって知ったことだが、我が家で「バター」と呼ばれていたものは実際にはマーガリンであった。マーガリンのほうがバターより身体にいいという当時の言説(最近覆されつつある)と価格の安さによる選択だったのであろうが、マーガリンをバターと呼んでいたせいで、私はかなり大人になるまで、両者の違いを知らなかった。「バター」の分類のひとつが「マーガリン」くらいに思っていた。

冬は、マーガリンが固まってなかなか容器から掬い取れず、塗ろうとしても塗りづらいのでイヤだった。暖かくなるとマーガリンが塗りやすくなるので嬉しかった。

「マーガリンを塗ったパン」ばかり毎朝食べるのは単調で、それに何をのせるかだけが私の愉しみであった。だいたい、ジャム(ストロベリーやブルーベリー)、チーズ、ハム、海苔、のローテーションでたまにどれかが長期間流行るのだった。海苔をパンにつけるのは一般的だと思っていたけれど、あるとき小学校の友達に言うと驚かれたので、一般的ではないことを知った。母の実家に泊まりにいくと、ピーナッツバターや、チョコクリームとホワイトクリームがマーブル状に混じったようないかにも美味そうなクリームがあり、そういうものは大好きだったのだが、我が家では「朝からそんな甘いもん」と言われあまり買ってもらえなかったので、母実家での朝食の際にはここぞとばかりに塗りたくり、瓶から直接食べてもいた。

 

平日は学校に行く前の慌ただしい時間に、そうして簡単な食事をするだけであったが、休日は時間があるので、パンの上に少し特別なものをのせることもあった。たとえば、7歳くらいの頃に爆発的に流行った(※我が家でのみ)のは「ムース」である。これはその当時うちの店で売り出したもので、いろんなフルーツの味のものがあった。本来どうやって食べるためのものなのかは知らないが、われわれはそれを食パンにのせていた。平日は時間がないので、「日曜になったらパンの上に、まずマーガリンを塗って、その上にジャムを塗って、その上にチーズをのせて、その上に〇〇味のムースをのせて、その上に××味のムースをのせて……」など、「全部のせ」的な食パンを夢想し、その想像図を描いたりして、日曜を楽しみにしていた。想像図を親に見せると、「こんなん気色悪いわ、美味しないわ」と言われたが、そうしてあれこれ夢想するのが愉しかったのであろう。

 

食パンと一緒に飲んでいたのは、牛乳だったと思う。

我が家は牛乳の消費量が異様に多く、今でも冷蔵庫に大量の牛乳が入っている。実家にいる頃は、牛乳というのは生命の必需品なのだと思っていたが、実家を出てから、一年に一、二本しか牛乳を買わないし、買わなくても何ら困ることはないし、むしろその一、二本をなかなか消費できなかったりするので、なんぼ家族成員数が多いといえあの人たちは何にあんなに牛乳を使っていたのかと思う。

子どもたちはパンと一緒に牛乳を飲まされていたが、大人は珈琲を飲んでいた。子どもは珈琲禁止だったので、私はよく、母が珈琲を飲むのを横で見ていた。

母は珈琲に微量のミルクを入れた後、それをかき混ぜない。私が「かき混ぜたげる」と言うと、かき混ぜさせてくれることもあったが、「ええねん、かき混ぜんといて」と言われることが多かった。「なんで?」と尋ねると、「お母さんは、このままにして、だんだん混ざっていくんを見ながら飲むんが好きやねん」と言われた。

当時母は、あまり自由に出かけたり、喫茶店やレストランにいったりもできなかっただろうが、そうしたささやかなことで心を束の間ゆったりさせていたのかなと思う。私も現在、珈琲にミルクを入れるときは、基本的にかき混ぜず、白い靄が模様を描いて少しずつ広がっていく様子を眺めることとしている。

 

 

 

 

 

「姉」たちの思い出

自分は同性と対等な関係を築くのが何か苦手なのだが、これは、幼少の頃から「面倒を見てくれるお姉さん役の女の子」が周囲にいたからではないか、ということにふと思い至った。実際の家庭内ポジションは長女だが、公園や幼稚園や学校ではいつも「姉」的な役の子が身近にいた。多くは同年齢・同学年の子だが、年下の子である場合もあった。近所の子は皆年下であったが、私は皆で遊ぶときしょっちゅう何らかの理由で泣きわめいていたので、常に年下の子たちに呆れられつつ慰められていた記憶がある。


はっきり覚えている最初の「姉」は、幼稚園で同じクラスだったT子ちゃんである。
年少組のときは接点がなかったが、年長組に上がったときに仲良くなった。T子ちゃんは私と名前が似ていたので、最初の会話は「名前が似てるね」とかそんなことだったと思う。私と違ってしっかりした子だったが、なぜか仲良くしてくれた。チビだった私に対し、背が高く体格も良く大人っぽかった。当時の私は、チビであることに加え、お遊戯ができない、昼食が食べられない、昼食をこぼしまくる、一人でトイレに行けない、外で遊べない(室内で絵本を読んでるのが好き)、などの理由でからかわれたり怒られたりしては泣いてばかりいたが(つまり今とだいたい同じである)、T子ちゃんと友達になってから、T子ちゃんが男子からかばってくれたり意地悪な女子に言い返したりしてくれるようになった。T子ちゃんと仲良くなってから、幼稚園生活が見違えるように楽しいものになった。以前はお迎えバスに乗りたくないと泣きわめいていたけれど、T子ちゃんにあのことをお話しよう、一緒にあれで遊ぼう、とか考えると翌日会うのが待ち遠しかった。秋になって平仮名の勉強が始まると、文字の習得だけは周囲より早かった私がまだ平仮名が書けないというT子ちゃんに教えてあげる機会もあり、初めて自分から恩返しができて嬉しかった。


T子ちゃんはおそらく自発的に「姉」役になってくれたが、多くの「姉」は、保護者や幼稚園・学校の先生といった大人から命じられて「姉」に就任していたと思われる。
小学校に上がったとき、私は先生から「姉」を付けられた。「姉」は名簿順ですぐ後の席、背の順も真後ろのSちゃんという子だった。初対面のその子に先生が「Sちゃんはこの子の面倒を見てあげてや」と言うているのを入学式の日に聞いた。いわば官製姉であった。私は学校業界のことは知らないのでよく分からないのだが、こういうのは、あらかじめ幼稚園なり保護者なりから「あの子はちょっと御目付役が必要なので誰か用意したって」みたいな連絡が小学校に行っているのであろうか。
御目付役の業務としては、具体的に「給食時の見張り」などがあった。この頃、小学校では「三角食べ」が推奨されていた(今でもそうなのだろうか)。三角食べとは、主食・主菜(大きいおかず)・副菜(小さいおかず)をひと口ずつまんべんなく食べる食べ方であるが、私はこれができなかった。口の中で味が混じるのが気色悪いので、禁じられている「ばっかり食べ」をしていた。主食なら主食をすべて食べ終えてから別の器に移る、という食べ方である。今思えば「ばっかり食べ」をしたところでそんなに健康を損なうわけでもないやろと思うのだが、これは重大なタブーであり、そのたびにSちゃんに「せんせーい! また○子ちゃんがばっかり食べしてはる!」と声を上げられるのだった。
Sちゃんは、どこか色っぽいような、おませな感じの女の子だった。完全に善意の姉であったT子ちゃんと違って、Sちゃんは意地悪も言ってくるので、私はSちゃんのことはさほど好きではなかった。やたら人の容姿に言及する子でもあり、「あんたは口さえなければ可愛いのに」というのをしょっちゅう言われていた。唇が分厚いせいだろうが、そんなことを言われても口は取り外せないのでどうしようもない。だが今思えば、入学式でいきなり「姉」役割に任命されたSちゃんも気の毒である。私はSちゃんの意地悪に反発する一方で、苦手な体育のときや行事のときはやはり「姉」に頼っていた。具体的には、忘れ物が異様に多かった私は、それを先生に言い出せず突然泣きわめき出すのが常態化していたが、そのときその理由を先生に伝えるのはSちゃんの役目であった。


低学年も後半になると、私も入学時ほどの問題児ではなくなってきた。しかしSちゃんは私の姉役のままであった。当初私が前から3番目、Sちゃんが4番目という背の順だったのが、2年生の終わりには、本当は私の方がSちゃんよりも身長は伸びていた。しかし先生は私を3番目に留め置いたままだった。Sちゃんを私の後に配置し、問題児の御目付役として固定しておかねばならないという意識があったためであろう。それは子供ながらに気付いていた。それぞれ前後の子と背比べをして背の順を決めていく際、私とSちゃんの背比べ結果だけ曖昧にされていたからだ。(この後3年生に上がって先生が変わると、不正無き背比べによって私はいきなり後ろから3番目になった。)
この頃、小さな事件が起こった。Sちゃんと私はたいして仲良くないながらも、互いの家を行き来して遊ぶこともあった。あるとき、Sちゃんがうちのアパートにやってきた。いつも流行のものを持っているSちゃんに対し、私の家にはそうしたものはなかったが、その日は珍しく新しい文具を買ってもらったところだった。Sちゃんはそれが気に入ったようで「これええな」と何度も言った。Sちゃんが帰った後、それが無いことに気付いた。夕方にSちゃんがお母さんに連れられて謝りに来た。お母さんに「謝りなさい」と言われ、「ごめんな、素敵やったからつい。怒ってる?」と言うSちゃんが弱々しく見えた。なんだか馴れない状況で居心地が悪かった。いつも叱るんはSちゃんで叱られんのは自分、ちゃんとしてるんはSちゃんであかんのは自分、と思っていたからだ。

 


Sちゃんとはその後クラスが離れたが、再び、高学年で同じクラスになった。互いに思春期に入ろうとしていた。私は一時期背が伸びて活発になったもののまたどんよりしたチビに戻っており、Sちゃんはますます大人びていた。
またSちゃんと前後の席になった。Sちゃんが私の前だった。くるんと椅子を回してSちゃんはハキハキと言った。「2年生のときは、あれ、盗んだんごめんな。お母さんにも謝っといて。また仲良くしてな」。2年生のときの盗難事件など、子どものしたこととしてすっかり忘れていたしもう謝らなくていいのに、やっぱりSちゃんはしっかりしているな、と思った。学校内のポジション的にはどっちかというとこちらが「仲良くして」と頼む側であり、Sちゃんがそんなことを言うのは変だと思ったが、私は「うん」と言った。


その日からたびたび、Sちゃんはくるんと椅子を回して話しかけてくるようになった。そしてそんな中で「性知識によるマウンティング」という、低学年の頃にはなかった現象が始まった。
「なあ、○○って知ってる?」

Sちゃんが何か性に関するワードを突然投げかけてくる。
単語であることも、漫画や歌に出てくるフレーズであることもあった。
「さぁ……」。私が首をかしげると、「ふうん」と満足したようにくるんと椅子を戻してしまう。そんなことが続いた。私は百科事典のエロ項目を熟読していたし、大人の小説も読んでいたし、おじいちゃんの『週刊文春』と『週刊新潮』も読んでいたので(すなわち「淑女の雑誌から」と「黒い報告書」を読んでいたので)本当は色々知っていたが、それは言ってはいけない雰囲気だった。
あるときはくるんと椅子を回して、「なあ、宮沢りえに、レコーディングしたけれど歌詞が危なくて発表できひん曲があるねんて。『誰とでもやっちゃう』ってタイトルねんけど、この意味分かる?」と訊いてきた。私が「分からない」と言うと、Sちゃんはちょっと小馬鹿にしたように「ふうん」と笑ってまた椅子を戻したのだった。


Sちゃんとの交流はその後自然消滅したが、高校を卒業した頃か、入ったモスバーガーに偶然Sちゃんがいたことがあった。私たちはもう挨拶をする関係ではなくなっていたので、互いに無視し、私は黙って離れた席に座った。するとSちゃんが連れの女の子と、怒涛の下ネタトークを始めた。「彼氏が早漏」というような話であり、生々しい表現がモスバーガー中に響き渡ったが、私はそれは私に向けられた話であると感じ、「(あのマウンティングはまだ続いていたのか、しかも彼氏が早漏)」と思った。


大人になり、Sちゃんとは会うこともなくなり、「結婚しはったらしい」とか「子どもができはったらしい」とかいうことをご近所の噂で聴くだけになったが、ときどきフッと「宮沢りえにそんな曲ほんまにあるんやろうか」という疑問が頭をかすめる。そこで、つい2、3年前、約30年越しに検索して調べてみたところ、それらしき曲の存在は確認できなかった。あの情報はなんだったのだろうか。もし何かご存知の方がいれば教えてほしい。あるいは、当時彼女の代表曲であった「GAME」には「GAME だれとでもやれるし GAME いつだってできちゃう」というフレーズがあるので、Sちゃんはこれのことを言っていたのかもしれない。「GAME」は未発表曲ではなく1990年の紅白歌合戦でも披露された曲であるが。この機会に調べてみたところ、原曲はボウイ+レノンの「FAME」であったことが分かった。そうだったのか、知らなかった。原曲とはかけはなれたヴォーカルが載っている。訳詞担当の「I.Toi」というのは糸井重里らしく、紅白での演出も含め、いかにもバブル期って感じだ。

 

ヤフオクの思い出

もう長いことヤフオクを使っている。ヤフオクというのは、書かなくても分かると思うがヤフーオークションのことである。使い始めたのは2002年か2003年かそんな頃だったか、絶版になっていた本を入手したくて使い始めたのだったが、その後、本や服を買ったり、母と組んで家の不要なものを出品したりとダラダラ活用してきた。

 

昔のヤフオクは出品者と落札者が互いにメールでやりとりする形式だったが、その後、メールは使わずヤフオクのサイト上でやりとりする形式となり、昨今はさらにすっかり合理化されて、所定のフォームにチェックを入れたりボタンをクリックするだけになり、文章でのやりとりをする必要もほぼなくなった。日本語ができない利用者も増えたことを想えば合理的であるのかもしれない。しかし昔の煩わしいやりとりがやや懐かしいような気もしないでもない。ヤフオクには、取引が終わった後の「評価」というシステムがあって、出品者と落札者が互いにコメントをつけるようになっているのだが、これも最近はフォームにあらかじめヤフーが用意した定型文が入っている。定型文を消してオリジナルのコメントを書くことも勿論できるのだが、定型文があるとついついそれをそのまま使ってしまう。以前は「評価」の文章を考えるのは地味ながら面倒な作業だったので、便利になって有難いといえば有難いのだが、味気ないといえば味気ない。

こうも合理化されてしまうと、落札する側は出品している側をamazon楽天と同じように感じてしまうらしく、最近は、出品側の返信がちょっと(半日とか)遅れただけで「ぜんぜん返事がないですがどうなってるんですか!?」みたいな怒りの連絡が来たりする。こっちも仕事とか生活とかあるんだけど。世知辛いことであるなあと思ったりする。

 

私がヤフオクを利用し始めた頃は、取引によっては1週間ほどかかることも珍しくなかった。今の利用者には考えられないかもしれないが、1日にメール1通を送るくらいのペースでのんびりやりとりしていると、それくらいの期間になったのだ。当時は、職場や学校でしかメールを使えない、という人も多かったと思う。今はインターネット全体のスピードがえらく速くなったもんやなあと感じる。インターネットに触れた当初は、郵便での手紙と違って瞬時に相手に届くメールというもののスピードに驚嘆したものだが、LINEやら各種SNSやらが登場した今では、メールを遅く感じるようになってしまったし、のんびりテキストサイトとか作っていた頃から思えば、なんでも即座にツイッターやら動画配信サービスやらで実況できてしまう今は、速さというものが行き着くところまで行き着いてしまったようで、この先どうなっていくんだろうって感じだ。

 

そんなふうにのんびりやりとりしていると、出品者と落札者の間で単なる取引以上の交流が生まれることもよくあった。たとえば、商品を落札した際に「ずっとほしかった商品です、落札できてうれしいです」「~に使おうと思っています」みたいな商品への思い入れを語る人はよくいたし、私も自分が何か落札したときは、挨拶代わりにそんなコメントを必ず書いていた。何度か、取引が終わった後でメールが来たこともあった。ちょっとびっくりしたのは、何か(なんだったか忘れた)を売った際、取引終了から1カ月ほども経ってメールが来たことである。「(何か商品に不備があったのかな!?)」とどきりとしながらメールを開くと、こんな内容だった。

「私は教員をしており来年定年を迎えます。この機会に、大学院で学び直すことを考えています。あなたは出品物から推測するに、●●大学の関係者だとお見受けしました。●●大学の大学院を受験しようかと考えているのですが、この年齢でも受け入れてもらえるものでしょうか?」

まさかヤフオクを通じて人生相談されるとは思わなかった。私は大学関係者といっても大学院進学事情はよく知らないし、その人の志望の学部のことは分からなかったので、「詳しいことは分かりませんが、社会人経験のある院生は多いと思います、チャレンジされてみてはどうでしょうか」みたいな何の役にも立たなそうな返事を送った。しかしまあ、ヤフオクで知り合っただけのよく分からない相手にそんな相談をしてくるということは、正確な情報を求めているというよりも、誰かに決意の後押しをされたかった人かもしれないので、それでよかったのかもしれない。

 

他、「酒屋グッズ」の出品も思い出深いことが多い。

酒屋を廃業した後、我が家の倉庫にはノベルティという名のガラクタがあふれており、母が商品管理と梱包を担当し、私が説明文執筆・出品・落札者とのやりとりを担当する、という分担で、親子でヤフオク業に勤しんだ(なお私は管理とか梱包とかきっちりしたことが一切できないタイプの人間である)。何かがそこそこの値段で売れた際、発送しようとしたところで、商品チェックをした母が、あまりにも長年倉庫に放置されていたため故障があったことに気がついた。もう代金は入金されてしまっている。私は慌てて落札者に事情をメールし、不具合に気づかぬまま出品したことを謝り、よかったら類似の商品を送る、しかし落札されたものとは違うので代金はお返しする、という旨を伝えた。すると相手は、「では類似のものをお願いします、代金は受け取っておいてください」と言ってくれたうえ、「誠実な対応に感謝感激!」みたいな「評価」を入れてくれたのだった。こちらとしては、希望の商品を送れなかったというのに、なんだか誉められてしまい感激までされてしまって申し訳ないやら有難いやらであった。この方はそれまでに何か不誠実な対応に遭遇してきたのかもしれない。

酒屋グッズの中での主力商品は、酒造会社の前掛けだった。酒屋の店主や居酒屋の店員がよく腰に巻いているアレである。我が家にとっては見慣れたなんともないものだが、愛好者がいるらしく、出品してみるとよい値段で売れるので驚いた。その中でとりわけ値段がつり上がったのは、某造酢会社の前掛けである。レアだったのか愛好者が多かったのか、他の前掛けはつり上がってもせいぜい千円か数千円だったのが、ぐんぐん値段が上がっていき、1万円を超えたところで私と母は「なんぼなんでも申し訳ない、ここらへんで止まってくれ」と念じ始めた。所詮小心者である。

結果、前掛けは1万数千円で落札された。オークションとはそういうものなので何も申し訳なく思うことなどないはずなのだが、なんとなく申し訳ない気持ちで落札者の方にメールをすると、返信には、落札できた喜びと、商品への思い入れが書き連ねられており、更には「1万円を超えたときは少し痛いなと思いましたが、しかしここで落札しなければもう二度と手に入らないと思い、落札させていただきました」と書かれていたことで、われわれはますます申し訳なくなった。というのは、われわれの手元には同じ前掛けがあと数枚あり、これが落札されたらすぐに次のものを出品するつもりでいたからだ。「なんか、悪いわあ……」。何も気を遣う義理はないのであるが、われわれは「しばらく待ってほとぼりの冷めたころに出品しよう」ということにし、さっさと家の不用品を処理してしまいたい気持ちを抑え、半年ほど経ってから次のものを出品した。ところが、入札したIDはまたも同じ人であった。「うわあ、またあの人が入札してしまった~!!」。結局前掛けはまたもその人によって落札された。だが今回は前回ほど値段は高騰せず、千円ちょっとほどだったと思う。同じ商品でもその時々で落札金額が違うのは面白いものだ。

その方は、「またこの前掛けを落札できてうれしいです」と喜びのメールを送ってきた。そして驚くべきことに、「このような商品をこの金額で購入するのはあまりに忍びないので、●●円払わせていただきます」と、頼んでもないのに勝手に数千円上乗せした金額を振り込んできたのだった。いろんな人がいるものだ。こうしたことは、今のヤフオクのシステムでは起こりにくいことだろう。

 

と、すっかり老人の昔語りのようになってしまった。最近、インターネットの使い手の間でも世代間断絶が起こっているようで、「インターネット老人会」なる言葉ができて「あの頃の2ちゃんねるでは」とか「若い子は知らない昔のネット流行語」とか、そんな話題がさかんであるようである。現在のSNSやらまとめサイトやらも、あと10年も経つと昔語りの対象となるのだろうか。それにしても、インターネットなんてちょっと前に出てきたものだと思っていたし、ゼロ年代前半頃は便利かつ危険な最新のツールであったはずなのに、その世代が既に「老人会」を名乗っているなんて、人間界のサイクルはなんて早いんだと驚いてしまう。そういえば、20歳頃、周囲の同級生たちがぼちぼち子供を産み始めた頃も、「えっ、人間の再生産サイクルってこんなに早いの!?」と驚いたものだ。一生そうして人間界のサイクルの早さに驚きながら死んでいくのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

シルバニアの便器の思い出

 父は繁華街が嫌いだ。子供の頃、山や川へ連れていかれた思い出はあるが、街へ連れていかれた思い出はほぼない。一度だけ、学校で必要な何かを買うため河原町の百貨店についてきてもらった記憶がある。その日は母の都合が悪く、父に託されたのだろう。だが、覚えているのは、商品を見る私の後ろで、階段寄りの壁に、腕組みした父が不機嫌そうに寄りかかっている姿だけである。挙句、まだ品物を買わないうちに、

「もうええか、帰るで、俺やっぱりこういうところはイヤやわ」

と言うので驚いた。結局必要なものを買って帰れたかどうかは覚えていない。

 

一方、父の父である祖父は買い物や外食が好きだった。休日のたびに河原町に出かけ、百貨店をはしごし、地下食品店を巡り、帰り道にある喫茶店に寄って帰ってくる。平日でも、祖母に店番を押し付けてひとり出かけてしまうこともあり、祖母は閉口したらしい。 

祖父はかつて、本当はこんな店は継ぎとうなかった、喫茶店をやりたかった、と子供たちに語っていた、ということを先日初めて知った。どの程度本気だったのかは分からない。ちょっと言ってみただけなのかもしれない。しかし、人の集まる華やかなところが好きだったのだろう。

父も子供の頃は週末ごとに祖父に百貨店に連れられ、帰りは食堂で洋食を食べていたらしく、現在の様子を見ていると、とてもかつての我が家にそんなライフスタイルがあったとは思えない。父によると、あるとき、「(あ、自分はこんなんは好きやないんや、もう行きたくないわ)」と気づいたらしく、その瞬間のこと、縁側でラジオを聞きながら「今日は行かへん」と言ったときのことを今でもよく覚えているそうだ。

 

その縁側は、私が祖父に最後に百貨店に連れられた帰りに、ゲロを吐いた縁側でもある。祖父は孫、すなわち私や妹ができると、ときどきわれわれを百貨店に連れていってくれた。最後に連れていってもらったのは、11、2歳の夏だった。その日は私はまだ慣れない生理痛がひどく、祖父の誘いに気が進まなかったのであるが、断るのも悪い気がしてついていったのだった。しかし、百貨店のいろいろな売り場を歩く間も、腹が痛く気分が悪くて何も目に入らず、ずっと早く家に帰りたかった。同行した祖母に、「そんな、股の間に何やはそんでるみたいな歩き方してからに」と怒られたが、実際何やはそんでる(挟んでる)のでしょうがない。何か買ってもらったのか、何か食べたのか、まるで記憶にない。帰りのタクシーの中でどんどん具合が悪くなり、家に着くと同時に縁側に走って縁側から盛大に嘔吐した。祖父は「あんた、そんな具合悪かったんやな、言うてくれたらよかったのに」と言った。これが、祖父に最後に百貨店に連れられた思い出である。

 

そもそも、祖父に百貨店に誘われるのは、私としてはどこか緊張するイベントでもあった。嫌だったわけではなかったが、私もまた父と同じく人ごみはそんなに好きではなかったのだ。また、しばしば何か買ってやるという話になることがあり、今から思えば有難い話なのだが、買ってほしいものを選んでねだるという行為が私は苦手だった。積極的に欲しいものはそうなかったし、また私は、本当に欲しいものはねだれないタイプの子であった。うちがそんなに裕福でないことも分かっていたので、遠慮もあったかもしれない。

だが、シルバニアのおうちの「便器」を買ってもらったときの嬉しさはよく覚えている。シルバニアのおうちは、妹たちとの共用のおもちゃとして、母から買い与えられたものだったが、私はずっと、そこにトイレがないことが気がかりでしょうがなかった。ずっと、トイレを設置しなくては、トイレがないと困るやんか、と思い続けていた。その正月、祖父に百貨店に連れていかれ、お年玉として何か買ってもらえるという話になり、玩具売り場に連れられると、シルバニアの家具たちが売られていた。妹の分も私が選んでやるように言われ、妹たち用には、パステルカラーで塗り分けられた小さな家具を選んだと思う。そして最後に、私は便器を見つけた。「やっぱりあったんや!」と思った。輝かんばかりの白い便器を握りしめ、自分用にはこれ、と祖父のところへもっていくと、祖父は、

「こんなんでええんか!? もっとほんまに欲しいもん言いよしや」

と言った。どうやら、私が遠慮して便器を選んだと思ったようだった。だが私は、このときばかりは、本当に便器が欲しかったのだ。というか、家にはトイレがないと困るではないか。

その旨を言うと、祖父は、

「家にはトイレがないと困るか、はは、たしかにそうやな」

と納得し、便器を買ってくれた。私は家に帰ってさっそく便器をおうちにセットし、ほっとした。祖父はその日はしばらく、「変なもん欲しがりよるわ、ほんまにそれでええんか訊いたら、『おじいちゃん、家にはトイレがないと困るやろ』やて、その通りやわ、はは」と皆に便器のことを話していた。

 現在、シルバニアのおうちのトイレは、ちょっと豪華なセットになっているようだが、私の買ってもらったのは、白一色でシンプルなまさに便器らしい便器だった。

 

光の礫

シンバルを打ったような鋭い音に顔を上げると、蒼天からの陽射しをそのまま粉々にしたような光の礫がスローモーションで降り注いで、何が起こったか分からない。
隣席の人が顔を伏せたのは眩しさのせいでなく、秋空の破片かと思われたそれは砕け散ったフロントガラスだと気がつくまで、実際にはコンマ1秒ほどの間だったのだろうか。
小さく声が出て、咄嗟に自分も姿勢を低くするが、運転席との間には幸いにも透明の隔てがあり破片はこちらまでは降りかからなかった。
フロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れて、細かな破片が運転席の床に散乱している。運転士は大丈夫か? 飛来物か、カラスかトンビでもぶつかったのか? 沿道の子供の悪戯で石でも投げ込まれたか? それともなんかのテロなのか? 運転士さんは、破片が口内に入ってしまったか、口から異物まじりのつばを吐き出しながら、前かがみにレバーに手を伸ばしている。停車の衝撃を怖れたが、予想外にブレーキはゆるやかだった。硝子で口内が切れたのだろうか、呂律の回っていないような発声で、「じんしんです」と運転士さんが言った。

 


そういえば私は最前列が好きで、映画館でもできるだけ一番前に座るし、学生の頃はさほど成績もよくないのに一番前の席に座っていた(いつも前に座っているのに授業を理解できていないという教師が最も苛立つパターンの学生)。天気の好い日は先頭車両の一番前の席から、線路とともに拓ける景色を見るのが好きで、今日もその席が空いていたので座った。途中までスマホを眺めていたけれども、こんな秋晴れの日に景色を見ないのはもったいないな、と、フロントガラスから見える前方の空をスマホのカメラで撮ったところであった。そこから再びスマホに目を落として、その数分後か数秒後のことだった。

 


前方に座っていたのは女性ばかりだった。さっきまで無関心な(あるいは無関心を装った)他人同士だった乗客たちは、急に仲間同士のようになり、中腰に立ちあがって顔を覗き合い、大丈夫でしたか、怖かったですねえ、と声をかけ合う交流を始めた。隣席の女性は涙を拭いている。破片が目に入ったのやろかと心配したが、運転席の扉のおかげで硝子はここまでは飛んでいないはずだ。誰かが「見ましたか?」と訊き、女性が頷いた。さっき運転士さんが「じんしんです」と言ったことを思い出した。飛来物か鳥か投石の悪戯かと思ったが、人が飛び込んだのだとこのときやっと分かった。

 


「人身事故」という言葉はいつから使うようになったのだろう。さらにそれを「人身」と略すのは、一種の婉曲表現のようでもあって、変な言葉だ。まあ日本語には他にもその類の略語はある。「認知(症)」や「発達(障害)」も違和感があるし、「携帯(電話)」も何を携帯するねんってんで変やなと思っていたのに、すっかり慣れてしまった。車両は緊急停止した。運転士さんはしきりに口の中のものを吐き出しながらマイクで連絡を取っている。目や手は大丈夫なのか、救急車を呼んだほうがいいのか、後ろからは負傷の様子が分からない。
蜘蛛の巣状にひび割れてしまった、無惨なフロントガラスを見る。特殊な硝子なんだろうか、いくらか知らないが高価なのだろうか。車体(の一部)を破損させ運転士を怪我させるかもしれなくても、乗客の足を止めることになっても、命を絶たなくてはならなかった人がいた。こんな好天の日に。そして、電車も怪我も乗客の都合もお天気も、この世の事情だ。

 

 

運転士さんは前方を向いたままどこかに報告を続けている。私は無駄にあわあわと動き回っていた。「運転手さん大丈夫でしょうか、救急車とか呼んだほうがいいですかね?」「鉄道会社がやってくれると思います、任せたほうがいいんじゃないですか」。周囲の女性たちと言い合っているうちに、運転席のドアが開いた。
「皆さん、大丈夫でしたか、お怪我はないですか」
運転士さんは、重傷ではないようだがお顔があちこち切れている。まだ学生のような若い人だ。なのに自分の怪我より先に乗客を気遣ってくれている。そういえばさっきも、あんなに硝子の破片を浴びながらも、ゆるやかにブレーキをかけてくれた。
「運転士さんこそ大丈夫ですか!」
「大丈夫です。僕、血、出てます?」
私たちは半笑いで頷く。運転士さんも昂奮したような表情で、なぜか皆半笑いだ。以前、大きな事故現場の目撃者がニュースでインタビューされていたとき、目撃者の顔が笑っているといってネットで叩かれていたのを見たことがあったが、怖いと人は半笑いになるのだ。

 

救援が来るまでが長かった。実際にはそれほどの時間ではなかったかもしれない。普段なら、本でも読んで待っていただろうがそんな気にはなれない。顔は半笑いだが、手は震え続けて止まらない。
車両の後ろのほうからシャッター音がした。私もあの位置にいたら写真を撮っていたかもしれない。あまり近いと写真を撮る気にもなれない。傍観者になれないのだ。
やがて、救援の鉄道員さんたちがどやどやと車両に入ってきた。「すみませんね、すみませんね」と客に声をかけながら運転席に入ってゆく。運転士さんは蹲ってしまったのか、姿が見えなくなった。鉄道員たちは床に散乱した硝子の様子を眺めている。救急車が手配されたようだった。「怪我は大丈夫か? 起きてしもたことはしゃあない、な?」。年配の鉄道員さんが運転士さんに声をかけているのが聞こえる。そうか、運転士さんだってショックなのだ。毎日巨大な機械を動かす運転士は、こんなこと日常茶飯事で何も感じないかのように思っていた。でも巨大な機械を動かすのは生身の人間で、自分の運転する車両で人をはねてしまえば、ショックでないはずがないのだ。


「この電車はここで停止します、乗客の皆様にはご迷惑をおかけします、なお運転開始の時間は不明です」
アナウンスが流れ、車内がもんやりと溜息のようなもので満ちる。私は職場に連絡の電話を入れる。こんなときに真っ先に職場に電話を入れるなんて、こういうことをすると、大人になったような気分になる(もう大人になって長いのだが、いまだに大人のすることをするたびに大人になったような気分になる)。着時間が分かり次第再び連絡します、先方にはお待たせすることになるかもしれず、すみません。自分が悪いわけではないが、すみません、と謝るのも大人のような気がする。だが、少し声が上擦って上手く喋れない。当事者でもないのに、まだ手や声が震えるなんて、と思うが、いや、人をはねた機械に乗っておいて「当事者ではない」というのも異常なことであるのか。

 


電車が停車したのは家の立て込んだ地域であるから、周囲の建物のベランダや階段の踊り場に野次馬が出てきて、こちらを見たり写真を撮ったりしている。状況を知ろうとツイッターを検索すると、近隣の人や他の駅にいる人が「踏切が開かない」「電車が来ない、予定があるのに」とツイートしている。さらには、もう当該事故のまとめページができている。こういうの、誰が作るんだろう、仕事が早すぎないか、どういう商売なんだ。開くと、割れたフロントガラスの写真が載っており、その前で無駄に立ち上がってあわあわしている私の姿が写り込んでいる。同じ車両の後方の乗客が撮ったのであろう。さっきのシャッター音のどれかだ。この角度から見るとえらい太ったな、というくだらない念が頭をかすめる。 


運転再開には短くても一時間かかるという。この車両は破損してしまっているから、乗換も必要になるだろう。車内は少し落ち着き、もう乗客同士話すこともない。事故の証人として後で警察と話してもらうかもしれない、というので、駅員さんが連絡先を尋ねに来る。すみません、本当にご迷惑おかけして、すみません、と駅員さんは何度も謝る。この人が悪いわけではないのに。そうしているところへ、不機嫌そうな婦人が後ろの車両からやってきて、駅員さんに声をかけた。
「次の駅まで遠いですか? もう、降りて歩いていきたいんだけど」
「失礼ですが、おトイレでしょうか?」
「はっ?」
「おトイレでしょうか?」
気遣いで声をひそめた駅員さんに、婦人は余計苛立ったようだった。

「急いでるから歩いていきたいだけ!」
「危険ですので、線路沿いを歩くことはできないことになっております、すみません。他の乗客の方にも一律そうした対応になっておりますので、本当にすみません、ご不便おかけします、すみません」
謝り倒す駅員に、無言で婦人は背中を翻し去っていった。

 


電車は、前面の窓が割れたまま、少し走行し、次の小さな駅で停止した。この車両はここで運転停止となる。われわれ乗客は、中央のいくつかの車両に集められ、指定された出口から降ろされた。大きな混乱はなかった。

だが、普段利用客の少ない小さな駅は、途中で降ろされてしまった人々で大混乱である。我慢していた人も多かったのだろう、トイレにも列ができている。
振替輸送はあるようだが、皆、ここで待つ方が早いのか振替輸送を利用する方が早いのか分からない。尋ねようにも駅員の数も足りていない。ひとつしかない改札横の窓口に長蛇の列ができており、私もとりあえず列に並ぶ。「どこまで行かはるんですか?」「それなら待たれたほうが早いんじゃないですか?」、並ぶ乗客同士の間で自主的に情報交換が始まった。おしゃれした大学生らしき女性に、勤め人と思われるお姉さんが、「その大学なら運転再開を待つほうがいいと思うよ、私は遅延証明をもらいたいから並んでる」と教えている。「ここでもらえるんですか?」「分からないけど」。こういうとき、女性同士は交流が早いのかもしれない。あるいは、関西的な風景なのかもしれない。戸惑っている外国人観光客には、英語のできる人が状況を説明していた。
閉鎖されている改札の向こうにも人が溢れている、スタートダッシュを待つマラソン選手の一団のように皆改札内を見ている。こちらをスマホで撮っている人もいる。意味なくカメラ目線を向けてみる。

ただでさえ人が足りないのであろうに、現場へ行かねばならないらしく、何かの道具を抱えた駅員さんが慌ただしくホームへと出動してゆく。走る駅員さんを捕まえた老人の集団が、彼を囲み、
プレミアムカーに乗ってきたんやけど、500円返してもらえるん?」
と尋ねる。
「はあそれは。ちょっとあの。今から私は現場行かなあかんので!」
駅員さんもパニック状態なのか、質問に答えられていないし、呂律も回っていないし、もはや敬語も忘れている。だが老人たちはなおも食い下がる。

「●時に着く予定やってんやけど、止まってしもたから、500円返してもらえるんやね?」
「そんなんは後にして!」と思わず割って入りそうになった。私は祖父が死んだときのことを思い出す。自宅で人が亡くなった場合は必ず警察が来るということを知らなかった私は、まだ救命措置の途中であるというのに、状況をしつこく家族に聞いて回る警察に反感を抱き、「そんなんは後やったらあかんのですか!」と絡んでしまい、家族に苦笑されたのだった。
「それはお返しします、はい、改札で言ってもらえれば」
「どこの改札で言うたらええ?」
「あの、どこの改札でもいいので」
「なんて言うたらええ?」

みんな自分のことばっかりや。
だがそれは私もだ、生きてる者は皆自分のことばっかりだ。
裕福そうな身なりで、たかが500円のことじゃねえかと思うけれども、彼らにとっては大切な旅の大切な特急料金だったのかもしれない。大事な予定のあった人もいるだろう、ずっと楽しみにしてきたイベントや大事な待ち合わせに遅れてしまう人もいるだろう、一生を左右するようなことや、駆けつけねばならない一大事があった人もいるかもしれない。だが、それも生きてる者だけの都合だ。われわれは一瞬で、生と死の世界に分断される。


結局、私の場合は振替輸送を使うよりもここで運転再開を待つ方が早いだろうということで、再びホームに降りた。予定運転再開時間まではまだ20分ほどある。滅多に降りないホームの端から端まで歩くと、ホームの南端では、鉄道好きの人なのだろうか、停止している車両の様子を詳細に観察したり写真を撮ったりしている人がいる。ホームの端は屋根で覆われていないので高くなった陽が差し込み、初秋とはいえまだ暑いくらいだ。全線停止中の線路は静かで、のどかな空が広がっている。でもそれも、生きてる者だけの世界だ。どんな方だったのか、どんな事情があったのか分からない、その人には見ることができない。
電車が動けば、私は仕事へ行く。おそらく夕には何事もなかったかのように動いているであろう電車で帰り、夜になれば美味いものを食べたり音楽を聴きに行ったりして「いろいろあったけど幸せなこともあった一日でよかった」とかいう感想を抱くだろう。だが、それは生きてる者の感動や感傷だ。その人にはもう関係がないことだ。逆にあのとき、私の時間が止まったようだったあのときも、それぞれの人の感動や感傷は生き生きと酷薄に続いていた。


思ったより復旧は早かった。復旧した電車も、予想外に混雑しなかった。これが「日本スゴイ」というやつなのか。運転士さんは大丈夫だろうか、後で鉄道会社にお見舞いのメールを送ろう、などと思う。目的の駅に着く頃には既に何もなかったかのようだった。駅から職場に電話をする。「今駅に着きました、すみませんでした、1時間以上遅れましたが、先方はまだ待ってくれていますか?」と尋ねると、せっかく私が駅まで辿り着いたのに、先方は約束を忘れているらしくまだ着いてもいないとのことだった。

ノーフォーク

野原の落し物や列車内の忘れ物を満載したトラックが、イギリス中から列をなしてこのノーフォークという場所に来る。わたしたちはそう信じていました。写真もないノーフォークは、とても神秘的な場所でしたから。

ばかげているとお思いですか? でも、当時のわたしたちには、ヘールシャムの外が御伽噺の世界も同然だったことをご理解ください。そこがどんな場所で、何かできて、何ができないか……すべては漠然としていました。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋正雄訳、ハヤカワepi文庫、p.105)

 

4年前まで、犬を飼っていた。溺愛犬であったため、犬が死んだときはもちろん悲しかったが、同時に、「ああ、もう心配せんでええんやな」とほっとする感を覚えたことも否定できない。
犬が生きている間、私は心配ばかりしていた。ちょっと具合悪そうにすると、大病だったらどうしようと心配になり、自分が旅行などで不在のときは、その間に犬に何があるのでないかとことあるごとに(いや、ことはなくても)不安になり、「犬大丈夫?」と家族にメールするのだが、そのメールの返信が遅れたら遅れたで、「(ああ、やっぱり何かあったのでは……旅先の私にそれを知らせまいとして返信が遅れているのでは……)」と更なる心配が始まるのだった。たまに犬と一緒に寝ることがあったが、そんなときは夢うつつの中で「寝返りを打った拍子に犬を下敷きにしてしまい潰してしまったらどうしよう……」とわけのわからん心配をしながら寝入っていた。ならばいっしょに寝なけりゃよかろう(なお下敷きになって潰れるサイズの犬ではなかった)。
そんな佐々木光太郎かおれかってくらいの心配症を患い続けていたので、犬が往生したときは、悲しいながらも、老衰による比較的穏やかな往生であったこともあり、「ああ、幾多の心配を乗り越えて飼い遂げることができた、もうこんな心配はしばらくええわ」という気持ちになったのだった。


犬に対して過剰な心配をすることとなった理由のひとつとしては、この犬が、元々素性の分からぬ迷い犬であり、またいつふらりと旅立ってしまうか知れなかったということがある。既に自立した大人(成犬)であった彼女は、何を考えているのやら測りがたく、独自の世界をもっているふうで、実際我が家に来た最初の頃は二、三度脱走を未遂している。我ら飼い主は脱走対策に、名札はもちろん柵を買ったり囲いを作ったりと腐心したものだった。犬を飼い始めて当初私は、「犬が出ていってしまう」「もとの飼い主が犬を連れ戻しに来る」系の夢を何度も見た。(これは私だけでなく、父もまた「まめ子がブラジルに戻ってしまう夢を見てん」と淋しそうにしていたことがあった。なんでブラジルやねん。ちなみにめっちゃ和犬ぽい雑種だった。)

 

そんな夢の中で、印象的な夢がある。犬がトイレに流されてしまうという夢である。犬は既に、上半身を水流に飲み込まれており、私は尻尾をひっぱり懸命に引き留めようとしていた。そういえば現実にも、あわや逃げそうになる犬を、尻尾をつかんで引き留めたことがあった。夢の中で私は、ひっぱるのはかわいそうだがここで手を離せば二度と会えなくなってしまう、と必死であった。だけれどふと、

「あ、流されてしまっても淀川までいって探したらまた会えるやん」

と考え、急にほっとした気持ちになり手を放す、という夢だった。

 

 

起きてまずほっとして、それからしばらく考えて或ることに気づき、笑ってしまった。「淀川を探せばまた会える」という発想がおそらく、子供の頃のファンタジーに由来していることに気づいたのだった。

思えば私は子供の頃から心配性だったようで、トイレや洗面台や風呂場の排水溝に流される・または大事なものを流してしまう、というのが心配事のひとつであった。流れた水がどこへ行くのかを尋ねると母は、

「流れた水は鴨川に行く。鴨川の水は、大阪まで流れて淀川になる。淀川で全部の川の水が一緒になるんえ」

と教えてくれた。それを聴くと、じゃあ水に流されても、何かを水に落としても、最終的にその淀川というところへ行けばええんや、とちょっと安心できたのだった。家の近くを流れる鴨川はよく知っていたが、それよりずっとでかいという淀川は見たことがなかった。だが、そこへ行けば失われたものたちすべてと再会できる、たとえるなら浄土のようなイメージが、このとき形成されたのだった。犬を飼い始めた頃は既に大人で、そんな淀川幻想は忘れていたわけだが、幼少の頃に得たそのイメージがまだ自分の中に残ってたんや、と気づいて、可笑しくなったのだった。

 

犬が死んで、しばらくした頃、生まれた頃より長年住んだ鴨川の傍を離れ、その下流に住むことになった。川を流れてゆくのは犬ではなく自分であったわけである。今年突然、「川の合流地点を見る」ことに凝り始め、自転車でいろいろ見に行った。鴨川と桂川の合流地点はよく見晴らせて面白かったが、桂川・木津川・宇治川が合流して淀川になる地点は、それぞれの川がでかすぎてよく分からなかった。淀川が海に流れ込む地点も見にいった。「河川管理境界」という人工的な表示はあったが、どこまでが川でどこからが海だという境目は(当たり前だが)よく分からない。晴れた日であったので水面が光って綺麗だった。これだけ広いところに出てしまえば、落とし物も落とし犬も到底見つからないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

小学生時代の一番楽しかった思い出

小学生時代の一番楽しかった思い出を書きたい。


六年生の遠足の日のことだ。
われわれの学年は、奈良の飛鳥に行くことになった。季節は初秋だっただろうか。ちょうど社会で歴史を習っていた頃だったから、その勉強の意味もあったのだろう。
この遠足では、全員がレンタサイクルを借りて、班ごとに好きなスポットを周ることになっていた。飛鳥の街はたしかに徒歩では周りにくいし、もう六年生だから自立した行動をさせてみる、という試みだったのだと思う。しかし私は、当時、自転車に乗れなかった。


かつて猛特訓の結果、なんとか補助輪を外すところまでは行ったのだったが(そこへ至るまでに親との激しいバトルがあったりもしたが省略する)、その後まったく自転車に乗ることはなく、そのまま乗れなくなってしまったのだった。友達らと遠くへ遊びにいくときは、自転車に乗るみんなの後ろを、疎まれながらひとりだけ走って付いていっていた。
自転車に乗れない者は、学年で私ひとりだった。先生たちが心配してくれたらしく、或る日校庭に呼び出されて行くと、自転車が用意されていた。どこから持ってきた自転車か知らないが、私の練習用に用意されたものらしい。先生に「乗ってみて」と言われ乗ってみると、昔の感覚が一応残っていたのか、10メートルくらいは走れた。先生はそれを見て、「あら、大丈夫やん。これならみんなと一緒に遠足に行けるね」と安心してしまった。何も障害物のない校庭を一人で10メートル走るのと、知らない街の道路を皆に付いて一日走るのでは違うだろうと思われたが、私も積極的に練習したくないので、自転車のことはなんとなくそれっきりになってしまった。
遠足当日のことは不安ではあったが、まあ小さい頃は一度乗れたんだしなんとかなるだろうという気もし、一応参加する気で、飛鳥の歴史の「調べ学習」などをしていた。

 

そして遠足当日の朝、生理が始まった。
私は当時、初潮を迎えてしばらく経った頃であったが、月経が訪れるたびにそれに伴う激しい腹痛、胸痛、腰痛、脚痛、便秘および下痢その他いろいろ痛により毎回苦しんでいた。
ふつうの遠足なら多少の無理をしても参加したかもしれないし、親もそうしろと言ったかもしれないが、ただでさえ苦しい月経中に、とても、普段乗り馴れない自転車に乗れる気がしない。
遠足を休む、と言うと、親からもあっさり許可が出、朝、職員室に電話をすると、「じゃあ今日は一日学校で自習してください」ということになった。
いつもの集団登校にも参加せず、私は普段の始業の直前の時間にひとり悠々と登校した。
学校の前の通りまで来ると、道路の向こう側ではちょうど、遠足に行く一行がぞろぞろと校門から出てきたところだった。何人かが私の姿に気づき、「あれっ、なんで!?」と言った。親切だったKくんは、私が時間を間違えて遅刻してきたと思ったらしく、「遠足!今からやで!」と叫んだ。私は通りを隔てた皆に大声で事情を伝えるのは憚られたので、同級生たちにひらひらと手を振り、学校へ向かった。


学校に着くと、図書室の大きな椅子と机をあてがわれて、そこで自習をするように言われた。
図書室は、学校の中でも親しみのある場所だった。担任の先生はもちろん遠足の引率なので、保健室の先生が来てくれた。
特に何をしろという指示もなかったので、私は、遅れていた家庭科の課題にとりかかった。壁掛けのようなものに、フェルトのお花を縫い付けていくのだった。家庭科は苦手で、いつも皆から遅れをとっていたが、この日は自分でも驚くほど集中できて、早く仕上がった。
休み時間になっても、図書館には誰も来ず、保健室の先生がたまに様子を見に来るだけでずっとひとりだった。
その次は、図工の課題や溜まっていた何かのドリルをやったと思うが、誰にも邪魔されないし、最高だった。私は全ての提出物において遅れを取っていたが、自分ひとりで集中すると、こんなにはかどるのかと思った。
一応チャイム通りに休み時間をとることにした。休み時間は、学校の好きなところを自分ひとりでぶらぶらした。いつもだと、クラスの遊びに参加しないといけなかったり、どこに行くにも友達と一緒でないといけなかったりするのに、自由や!なんて素晴らしいんだ! と思った。

 

課題をやる合間に、図書室の本を読んですごした。薄暗く自分ひとりしかいない図書館は、自分の立てる物音しかせず、静かだった。普段読まないような本もめくってみた。こんなふうに自分で時間を好きに使えるなんて楽しい、自分は自由が好きなんだ……!と分かった。
しかしそのとき、ひとつだけ、後から後悔することをした。「誰もいないのだから何か秘密のことをやろう」と思いつき、図書館の、あまり誰も読まなそうな分厚い本(百科事典か何かだったかもしれない)に、匿名の手紙を挟むことにしたのだった。といっても特に残したいメッセージもないので、


「私はこの学校に片想いをしている人がいます、きっと片想いのまま卒業するでしょう。せめて、未来にこの本を開く誰かに、この切ない思いを知ってほしくて…… (イニシャル)」


というようなことを書いた。正直、クラスにちょっと好ましい子はいても、片想いというほどの片想いはしていなかったのであるが、当時中島みゆきなどを聴き始め「(片想いってかっこいいな)」と思っていたので、そうした影響下に書いたものと思われる。その後、中学生になり、『探偵ナイトスクープ』というTV番組を知ったことで、「(あの手紙が後輩に見つかって、探偵がうちに来たらどうしよう……)」という、どうでもいい後悔をすることとなる。

 

昼休みは、職員室に呼んでもらって、時々優しくしてくれる女の先生と保健室の先生の間に座って給食を食べた。別に給食もひとりでよかったのだが、嫌な先生たちではないのでよかった。
先生たちの雑談の話題は、「卒業生を送る会で在校生が歌う歌」についてで、
「あの歌、いい歌やと思うんやけど人気がないよね、『お兄さんお姉さん』っていう歌詞がみんな恥ずかしいみたい」
などと話していた。「先生たちって普段こんな話をしてるんやな」と思った。 

それにしてもいつもなら、月経一日目というのはもっと痛みで苦しんでいるはずなのに、この日はふしぎとそれほどではなかった。思うに、調子が悪いのに皆と同じペースで何かやらねばならなかったり体育やらなんやらやらされたり、という集団生活のストレスが余計生理痛を重くさせていたのではないか。

 

午後からも引き続き図書館で過ごした。午後には、5年生の女の子と4年生の男の子が遊びにきた。
「なんで遠足休んでるん?」
女の子は年下だが気の強い子で、いつも私に先輩のような口をきく子だった。
「生理になったから」
と答えると、
「へえ、私やったらそれでも絶対行くけど」
と言われたが、完成していた家庭科と図工の課題を見て、
「すごいやん」
と誉められたのは嬉しかった。


普段の5限目が終わるくらいの時間になると、保健室の先生が来て「もう帰っていいよ」と言われたので、さっさと荷物をランドセルにまとめて帰った。
一日中ひとりだとちょっとは淋しくなるかもしれないと思っていたけれど、まったく一切淋しくならなかった。勉強も休み時間も、ひとりならこんなに気楽で楽しいのか、毎日こうだったらいいのに、とさえ思った。
以上が、小学生時代の最も楽しかった一日である。