ヤフオクの思い出

もう長いことヤフオクを使っている。ヤフオクというのは、書かなくても分かると思うがヤフーオークションのことである。使い始めたのは2002年か2003年かそんな頃だったか、絶版になっていた本を入手したくて使い始めたのだったが、その後、本や服を買ったり、母と組んで家の不要なものを出品したりとダラダラ活用してきた。

 

昔のヤフオクは出品者と落札者が互いにメールでやりとりする形式だったが、その後、メールは使わずヤフオクのサイト上でやりとりする形式となり、昨今はさらにすっかり合理化されて、所定のフォームにチェックを入れたりボタンをクリックするだけになり、文章でのやりとりをする必要もほぼなくなった。日本語ができない利用者も増えたことを想えば合理的であるのかもしれない。しかし昔の煩わしいやりとりがやや懐かしいような気もしないでもない。ヤフオクには、取引が終わった後の「評価」というシステムがあって、出品者と落札者が互いにコメントをつけるようになっているのだが、これも最近はフォームにあらかじめヤフーが用意した定型文が入っている。定型文を消してオリジナルのコメントを書くことも勿論できるのだが、定型文があるとついついそれをそのまま使ってしまう。以前は「評価」の文章を考えるのは地味ながら面倒な作業だったので、便利になって有難いといえば有難いのだが、味気ないといえば味気ない。

こうも合理化されてしまうと、落札する側は出品している側をamazon楽天と同じように感じてしまうらしく、最近は、出品側の返信がちょっと(半日とか)遅れただけで「ぜんぜん返事がないですがどうなってるんですか!?」みたいな怒りの連絡が来たりする。こっちも仕事とか生活とかあるんだけど。世知辛いことであるなあと思ったりする。

 

私がヤフオクを利用し始めた頃は、取引によっては1週間ほどかかることも珍しくなかった。今の利用者には考えられないかもしれないが、1日にメール1通を送るくらいのペースでのんびりやりとりしていると、それくらいの期間になったのだ。当時は、職場や学校でしかメールを使えない、という人も多かったと思う。今はインターネット全体のスピードがえらく速くなったもんやなあと感じる。インターネットに触れた当初は、郵便での手紙と違って瞬時に相手に届くメールというもののスピードに驚嘆したものだが、LINEやら各種SNSやらが登場した今では、メールを遅く感じるようになってしまったし、のんびりテキストサイトとか作っていた頃から思えば、なんでも即座にツイッターやら動画配信サービスやらで実況できてしまう今は、速さというものが行き着くところまで行き着いてしまったようで、この先どうなっていくんだろうって感じだ。

 

そんなふうにのんびりやりとりしていると、出品者と落札者の間で単なる取引以上の交流が生まれることもよくあった。たとえば、商品を落札した際に「ずっとほしかった商品です、落札できてうれしいです」「~に使おうと思っています」みたいな商品への思い入れを語る人はよくいたし、私も自分が何か落札したときは、挨拶代わりにそんなコメントを必ず書いていた。何度か、取引が終わった後でメールが来たこともあった。ちょっとびっくりしたのは、何か(なんだったか忘れた)を売った際、取引終了から1カ月ほども経ってメールが来たことである。「(何か商品に不備があったのかな!?)」とどきりとしながらメールを開くと、こんな内容だった。

「私は教員をしており来年定年を迎えます。この機会に、大学院で学び直すことを考えています。あなたは出品物から推測するに、●●大学の関係者だとお見受けしました。●●大学の大学院を受験しようかと考えているのですが、この年齢でも受け入れてもらえるものでしょうか?」

まさかヤフオクを通じて人生相談されるとは思わなかった。私は大学関係者といっても大学院進学事情はよく知らないし、その人の志望の学部のことは分からなかったので、「詳しいことは分かりませんが、社会人経験のある院生は多いと思います、チャレンジされてみてはどうでしょうか」みたいな何の役にも立たなそうな返事を送った。しかしまあ、ヤフオクで知り合っただけのよく分からない相手にそんな相談をしてくるということは、正確な情報を求めているというよりも、誰かに決意の後押しをされたかった人かもしれないので、それでよかったのかもしれない。

 

他、「酒屋グッズ」の出品も思い出深いことが多い。

酒屋を廃業した後、我が家の倉庫にはノベルティという名のガラクタがあふれており、母が商品管理と梱包を担当し、私が説明文執筆・出品・落札者とのやりとりを担当する、という分担で、親子でヤフオク業に勤しんだ(なお私は管理とか梱包とかきっちりしたことが一切できないタイプの人間である)。何かがそこそこの値段で売れた際、発送しようとしたところで、商品チェックをした母が、あまりにも長年倉庫に放置されていたため故障があったことに気がついた。もう代金は入金されてしまっている。私は慌てて落札者に事情をメールし、不具合に気づかぬまま出品したことを謝り、よかったら類似の商品を送る、しかし落札されたものとは違うので代金はお返しする、という旨を伝えた。すると相手は、「では類似のものをお願いします、代金は受け取っておいてください」と言ってくれたうえ、「誠実な対応に感謝感激!」みたいな「評価」を入れてくれたのだった。こちらとしては、希望の商品を送れなかったというのに、なんだか誉められてしまい感激までされてしまって申し訳ないやら有難いやらであった。この方はそれまでに何か不誠実な対応に遭遇してきたのかもしれない。

酒屋グッズの中での主力商品は、酒造会社の前掛けだった。酒屋の店主や居酒屋の店員がよく腰に巻いているアレである。我が家にとっては見慣れたなんともないものだが、愛好者がいるらしく、出品してみるとよい値段で売れるので驚いた。その中でとりわけ値段がつり上がったのは、某造酢会社の前掛けである。レアだったのか愛好者が多かったのか、他の前掛けはつり上がってもせいぜい千円か数千円だったのが、ぐんぐん値段が上がっていき、1万円を超えたところで私と母は「なんぼなんでも申し訳ない、ここらへんで止まってくれ」と念じ始めた。所詮小心者である。

結果、前掛けは1万数千円で落札された。オークションとはそういうものなので何も申し訳なく思うことなどないはずなのだが、なんとなく申し訳ない気持ちで落札者の方にメールをすると、返信には、落札できた喜びと、商品への思い入れが書き連ねられており、更には「1万円を超えたときは少し痛いなと思いましたが、しかしここで落札しなければもう二度と手に入らないと思い、落札させていただきました」と書かれていたことで、われわれはますます申し訳なくなった。というのは、われわれの手元には同じ前掛けがあと数枚あり、これが落札されたらすぐに次のものを出品するつもりでいたからだ。「なんか、悪いわあ……」。何も気を遣う義理はないのであるが、われわれは「しばらく待ってほとぼりの冷めたころに出品しよう」ということにし、さっさと家の不用品を処理してしまいたい気持ちを抑え、半年ほど経ってから次のものを出品した。ところが、入札したIDはまたも同じ人であった。「うわあ、またあの人が入札してしまった~!!」。結局前掛けはまたもその人によって落札された。だが今回は前回ほど値段は高騰せず、千円ちょっとほどだったと思う。同じ商品でもその時々で落札金額が違うのは面白いものだ。

その方は、「またこの前掛けを落札できてうれしいです」と喜びのメールを送ってきた。そして驚くべきことに、「このような商品をこの金額で購入するのはあまりに忍びないので、●●円払わせていただきます」と、頼んでもないのに勝手に数千円上乗せした金額を振り込んできたのだった。いろんな人がいるものだ。こうしたことは、今のヤフオクのシステムでは起こりにくいことだろう。

 

と、すっかり老人の昔語りのようになってしまった。最近、インターネットの使い手の間でも世代間断絶が起こっているようで、「インターネット老人会」なる言葉ができて「あの頃の2ちゃんねるでは」とか「若い子は知らない昔のネット流行語」とか、そんな話題がさかんであるようである。現在のSNSやらまとめサイトやらも、あと10年も経つと昔語りの対象となるのだろうか。それにしても、インターネットなんてちょっと前に出てきたものだと思っていたし、ゼロ年代前半頃は便利かつ危険な最新のツールであったはずなのに、その世代が既に「老人会」を名乗っているなんて、人間界のサイクルはなんて早いんだと驚いてしまう。そういえば、20歳頃、周囲の同級生たちがぼちぼち子供を産み始めた頃も、「えっ、人間の再生産サイクルってこんなに早いの!?」と驚いたものだ。一生そうして人間界のサイクルの早さに驚きながら死んでいくのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

シルバニアの便器の思い出

 父は繁華街が嫌いだ。子供の頃、山や川へ連れていかれた思い出はあるが、街へ連れていかれた思い出はほぼない。一度だけ、学校で必要な何かを買うため河原町の百貨店についてきてもらった記憶がある。その日は母の都合が悪く、父に託されたのだろう。だが、覚えているのは、商品を見る私の後ろで、階段寄りの壁に、腕組みした父が不機嫌そうに寄りかかっている姿だけである。挙句、まだ品物を買わないうちに、

「もうええか、帰るで、俺やっぱりこういうところはイヤやわ」

と言うので驚いた。結局必要なものを買って帰れたかどうかは覚えていない。

 

一方、父の父である祖父は買い物や外食が好きだった。休日のたびに河原町に出かけ、百貨店をはしごし、地下食品店を巡り、帰り道にある喫茶店に寄って帰ってくる。平日でも、祖母に店番を押し付けてひとり出かけてしまうこともあり、祖母は閉口したらしい。 

祖父はかつて、本当はこんな店は継ぎとうなかった、喫茶店をやりたかった、と子供たちに語っていた、ということを先日初めて知った。どの程度本気だったのかは分からない。ちょっと言ってみただけなのかもしれない。しかし、人の集まる華やかなところが好きだったのだろう。

父も子供の頃は週末ごとに祖父に百貨店に連れられ、帰りは食堂で洋食を食べていたらしく、現在の様子を見ていると、とてもかつての我が家にそんなライフスタイルがあったとは思えない。父によると、あるとき、「(あ、自分はこんなんは好きやないんや、もう行きたくないわ)」と気づいたらしく、その瞬間のこと、縁側でラジオを聞きながら「今日は行かへん」と言ったときのことを今でもよく覚えているそうだ。

 

その縁側は、私が祖父に最後に百貨店に連れられた帰りに、ゲロを吐いた縁側でもある。祖父は孫、すなわち私や妹ができると、ときどきわれわれを百貨店に連れていってくれた。最後に連れていってもらったのは、11、2歳の夏だった。その日は私はまだ慣れない生理痛がひどく、祖父の誘いに気が進まなかったのであるが、断るのも悪い気がしてついていったのだった。しかし、百貨店のいろいろな売り場を歩く間も、腹が痛く気分が悪くて何も目に入らず、ずっと早く家に帰りたかった。同行した祖母に、「そんな、股の間に何やはそんでるみたいな歩き方してからに」と怒られたが、実際何やはそんでる(挟んでる)のでしょうがない。何か買ってもらったのか、何か食べたのか、まるで記憶にない。帰りのタクシーの中でどんどん具合が悪くなり、家に着くと同時に縁側に走って縁側から盛大に嘔吐した。祖父は「あんた、そんな具合悪かったんやな、言うてくれたらよかったのに」と言った。これが、祖父に最後に百貨店に連れられた思い出である。

 

そもそも、祖父に百貨店に誘われるのは、私としてはどこか緊張するイベントでもあった。嫌だったわけではなかったが、私もまた父と同じく人ごみはそんなに好きではなかったのだ。また、しばしば何か買ってやるという話になることがあり、今から思えば有難い話なのだが、買ってほしいものを選んでねだるという行為が私は苦手だった。積極的に欲しいものはそうなかったし、また私は、本当に欲しいものはねだれないタイプの子であった。うちがそんなに裕福でないことも分かっていたので、遠慮もあったかもしれない。

だが、シルバニアのおうちの「便器」を買ってもらったときの嬉しさはよく覚えている。シルバニアのおうちは、妹たちとの共用のおもちゃとして、母から買い与えられたものだったが、私はずっと、そこにトイレがないことが気がかりでしょうがなかった。ずっと、トイレを設置しなくては、トイレがないと困るやんか、と思い続けていた。その正月、祖父に百貨店に連れていかれ、お年玉として何か買ってもらえるという話になり、玩具売り場に連れられると、シルバニアの家具たちが売られていた。妹の分も私が選んでやるように言われ、妹たち用には、パステルカラーで塗り分けられた小さな家具を選んだと思う。そして最後に、私は便器を見つけた。「やっぱりあったんや!」と思った。輝かんばかりの白い便器を握りしめ、自分用にはこれ、と祖父のところへもっていくと、祖父は、

「こんなんでええんか!? もっとほんまに欲しいもん言いよしや」

と言った。どうやら、私が遠慮して便器を選んだと思ったようだった。だが私は、このときばかりは、本当に便器が欲しかったのだ。というか、家にはトイレがないと困るではないか。

その旨を言うと、祖父は、

「家にはトイレがないと困るか、はは、たしかにそうやな」

と納得し、便器を買ってくれた。私は家に帰ってさっそく便器をおうちにセットし、ほっとした。祖父はその日はしばらく、「変なもん欲しがりよるわ、ほんまにそれでええんか訊いたら、『おじいちゃん、家にはトイレがないと困るやろ』やて、その通りやわ、はは」と皆に便器のことを話していた。

 現在、シルバニアのおうちのトイレは、ちょっと豪華なセットになっているようだが、私の買ってもらったのは、白一色でシンプルなまさに便器らしい便器だった。

 

光の礫

シンバルを打ったような鋭い音に顔を上げると、蒼天からの陽射しをそのまま粉々にしたような光の礫がスローモーションで降り注いで、何が起こったか分からない。
隣席の人が顔を伏せたのは眩しさのせいでなく、秋空の破片かと思われたそれは砕け散ったフロントガラスだと気がつくまで、実際にはコンマ1秒ほどの間だったのだろうか。
小さく声が出て、咄嗟に自分も姿勢を低くするが、運転席との間には幸いにも透明の隔てがあり破片はこちらまでは降りかからなかった。
フロントガラスは蜘蛛の巣状にひび割れて、細かな破片が運転席の床に散乱している。運転士は大丈夫か? 飛来物か、カラスかトンビでもぶつかったのか? 沿道の子供の悪戯で石でも投げ込まれたか? それともなんかのテロなのか? 運転士さんは、破片が口内に入ってしまったか、口から異物まじりのつばを吐き出しながら、前かがみにレバーに手を伸ばしている。停車の衝撃を怖れたが、予想外にブレーキはゆるやかだった。硝子で口内が切れたのだろうか、呂律の回っていないような発声で、「じんしんです」と運転士さんが言った。

 


そういえば私は最前列が好きで、映画館でもできるだけ一番前に座るし、学生の頃はさほど成績もよくないのに一番前の席に座っていた(いつも前に座っているのに授業を理解できていないという教師が最も苛立つパターンの学生)。天気の好い日は先頭車両の一番前の席から、線路とともに拓ける景色を見るのが好きで、今日もその席が空いていたので座った。途中までスマホを眺めていたけれども、こんな秋晴れの日に景色を見ないのはもったいないな、と、フロントガラスから見える前方の空をスマホのカメラで撮ったところであった。そこから再びスマホに目を落として、その数分後か数秒後のことだった。

 


前方に座っていたのは女性ばかりだった。さっきまで無関心な(あるいは無関心を装った)他人同士だった乗客たちは、急に仲間同士のようになり、中腰に立ちあがって顔を覗き合い、大丈夫でしたか、怖かったですねえ、と声をかけ合う交流を始めた。隣席の女性は涙を拭いている。破片が目に入ったのやろかと心配したが、運転席の扉のおかげで硝子はここまでは飛んでいないはずだ。誰かが「見ましたか?」と訊き、女性が頷いた。さっき運転士さんが「じんしんです」と言ったことを思い出した。飛来物か鳥か投石の悪戯かと思ったが、人が飛び込んだのだとこのときやっと分かった。

 


「人身事故」という言葉はいつから使うようになったのだろう。さらにそれを「人身」と略すのは、一種の婉曲表現のようでもあって、変な言葉だ。まあ日本語には他にもその類の略語はある。「認知(症)」や「発達(障害)」も違和感があるし、「携帯(電話)」も何を携帯するねんってんで変やなと思っていたのに、すっかり慣れてしまった。車両は緊急停止した。運転士さんはしきりに口の中のものを吐き出しながらマイクで連絡を取っている。目や手は大丈夫なのか、救急車を呼んだほうがいいのか、後ろからは負傷の様子が分からない。
蜘蛛の巣状にひび割れてしまった、無惨なフロントガラスを見る。特殊な硝子なんだろうか、いくらか知らないが高価なのだろうか。車体(の一部)を破損させ運転士を怪我させるかもしれなくても、乗客の足を止めることになっても、命を絶たなくてはならなかった人がいた。こんな好天の日に。そして、電車も怪我も乗客の都合もお天気も、この世の事情だ。

 

 

運転士さんは前方を向いたままどこかに報告を続けている。私は無駄にあわあわと動き回っていた。「運転手さん大丈夫でしょうか、救急車とか呼んだほうがいいですかね?」「鉄道会社がやってくれると思います、任せたほうがいいんじゃないですか」。周囲の女性たちと言い合っているうちに、運転席のドアが開いた。
「皆さん、大丈夫でしたか、お怪我はないですか」
運転士さんは、重傷ではないようだがお顔があちこち切れている。まだ学生のような若い人だ。なのに自分の怪我より先に乗客を気遣ってくれている。そういえばさっきも、あんなに硝子の破片を浴びながらも、ゆるやかにブレーキをかけてくれた。
「運転士さんこそ大丈夫ですか!」
「大丈夫です。僕、血、出てます?」
私たちは半笑いで頷く。運転士さんも昂奮したような表情で、なぜか皆半笑いだ。以前、大きな事故現場の目撃者がニュースでインタビューされていたとき、目撃者の顔が笑っているといってネットで叩かれていたのを見たことがあったが、怖いと人は半笑いになるのだ。

 

救援が来るまでが長かった。実際にはそれほどの時間ではなかったかもしれない。普段なら、本でも読んで待っていただろうがそんな気にはなれない。顔は半笑いだが、手は震え続けて止まらない。
車両の後ろのほうからシャッター音がした。私もあの位置にいたら写真を撮っていたかもしれない。あまり近いと写真を撮る気にもなれない。傍観者になれないのだ。
やがて、救援の鉄道員さんたちがどやどやと車両に入ってきた。「すみませんね、すみませんね」と客に声をかけながら運転席に入ってゆく。運転士さんは蹲ってしまったのか、姿が見えなくなった。鉄道員たちは床に散乱した硝子の様子を眺めている。救急車が手配されたようだった。「怪我は大丈夫か? 起きてしもたことはしゃあない、な?」。年配の鉄道員さんが運転士さんに声をかけているのが聞こえる。そうか、運転士さんだってショックなのだ。毎日巨大な機械を動かす運転士は、こんなこと日常茶飯事で何も感じないかのように思っていた。でも巨大な機械を動かすのは生身の人間で、自分の運転する車両で人をはねてしまえば、ショックでないはずがないのだ。


「この電車はここで停止します、乗客の皆様にはご迷惑をおかけします、なお運転開始の時間は不明です」
アナウンスが流れ、車内がもんやりと溜息のようなもので満ちる。私は職場に連絡の電話を入れる。こんなときに真っ先に職場に電話を入れるなんて、こういうことをすると、大人になったような気分になる(もう大人になって長いのだが、いまだに大人のすることをするたびに大人になったような気分になる)。着時間が分かり次第再び連絡します、先方にはお待たせすることになるかもしれず、すみません。自分が悪いわけではないが、すみません、と謝るのも大人のような気がする。だが、少し声が上擦って上手く喋れない。当事者でもないのに、まだ手や声が震えるなんて、と思うが、いや、人をはねた機械に乗っておいて「当事者ではない」というのも異常なことであるのか。

 


電車が停車したのは家の立て込んだ地域であるから、周囲の建物のベランダや階段の踊り場に野次馬が出てきて、こちらを見たり写真を撮ったりしている。状況を知ろうとツイッターを検索すると、近隣の人や他の駅にいる人が「踏切が開かない」「電車が来ない、予定があるのに」とツイートしている。さらには、もう当該事故のまとめページができている。こういうの、誰が作るんだろう、仕事が早すぎないか、どういう商売なんだ。開くと、割れたフロントガラスの写真が載っており、その前で無駄に立ち上がってあわあわしている私の姿が写り込んでいる。同じ車両の後方の乗客が撮ったのであろう。さっきのシャッター音のどれかだ。この角度から見るとえらい太ったな、というくだらない念が頭をかすめる。 


運転再開には短くても一時間かかるという。この車両は破損してしまっているから、乗換も必要になるだろう。車内は少し落ち着き、もう乗客同士話すこともない。事故の証人として後で警察と話してもらうかもしれない、というので、駅員さんが連絡先を尋ねに来る。すみません、本当にご迷惑おかけして、すみません、と駅員さんは何度も謝る。この人が悪いわけではないのに。そうしているところへ、不機嫌そうな婦人が後ろの車両からやってきて、駅員さんに声をかけた。
「次の駅まで遠いですか? もう、降りて歩いていきたいんだけど」
「失礼ですが、おトイレでしょうか?」
「はっ?」
「おトイレでしょうか?」
気遣いで声をひそめた駅員さんに、婦人は余計苛立ったようだった。

「急いでるから歩いていきたいだけ!」
「危険ですので、線路沿いを歩くことはできないことになっております、すみません。他の乗客の方にも一律そうした対応になっておりますので、本当にすみません、ご不便おかけします、すみません」
謝り倒す駅員に、無言で婦人は背中を翻し去っていった。

 


電車は、前面の窓が割れたまま、少し走行し、次の小さな駅で停止した。この車両はここで運転停止となる。われわれ乗客は、中央のいくつかの車両に集められ、指定された出口から降ろされた。大きな混乱はなかった。

だが、普段利用客の少ない小さな駅は、途中で降ろされてしまった人々で大混乱である。我慢していた人も多かったのだろう、トイレにも列ができている。
振替輸送はあるようだが、皆、ここで待つ方が早いのか振替輸送を利用する方が早いのか分からない。尋ねようにも駅員の数も足りていない。ひとつしかない改札横の窓口に長蛇の列ができており、私もとりあえず列に並ぶ。「どこまで行かはるんですか?」「それなら待たれたほうが早いんじゃないですか?」、並ぶ乗客同士の間で自主的に情報交換が始まった。おしゃれした大学生らしき女性に、勤め人と思われるお姉さんが、「その大学なら運転再開を待つほうがいいと思うよ、私は遅延証明をもらいたいから並んでる」と教えている。「ここでもらえるんですか?」「分からないけど」。こういうとき、女性同士は交流が早いのかもしれない。あるいは、関西的な風景なのかもしれない。戸惑っている外国人観光客には、英語のできる人が状況を説明していた。
閉鎖されている改札の向こうにも人が溢れている、スタートダッシュを待つマラソン選手の一団のように皆改札内を見ている。こちらをスマホで撮っている人もいる。意味なくカメラ目線を向けてみる。

ただでさえ人が足りないのであろうに、現場へ行かねばならないらしく、何かの道具を抱えた駅員さんが慌ただしくホームへと出動してゆく。走る駅員さんを捕まえた老人の集団が、彼を囲み、
プレミアムカーに乗ってきたんやけど、500円返してもらえるん?」
と尋ねる。
「はあそれは。ちょっとあの。今から私は現場行かなあかんので!」
駅員さんもパニック状態なのか、質問に答えられていないし、呂律も回っていないし、もはや敬語も忘れている。だが老人たちはなおも食い下がる。

「●時に着く予定やってんやけど、止まってしもたから、500円返してもらえるんやね?」
「そんなんは後にして!」と思わず割って入りそうになった。私は祖父が死んだときのことを思い出す。自宅で人が亡くなった場合は必ず警察が来るということを知らなかった私は、まだ救命措置の途中であるというのに、状況をしつこく家族に聞いて回る警察に反感を抱き、「そんなんは後やったらあかんのですか!」と絡んでしまい、家族に苦笑されたのだった。
「それはお返しします、はい、改札で言ってもらえれば」
「どこの改札で言うたらええ?」
「あの、どこの改札でもいいので」
「なんて言うたらええ?」

みんな自分のことばっかりや。
だがそれは私もだ、生きてる者は皆自分のことばっかりだ。
裕福そうな身なりで、たかが500円のことじゃねえかと思うけれども、彼らにとっては大切な旅の大切な特急料金だったのかもしれない。大事な予定のあった人もいるだろう、ずっと楽しみにしてきたイベントや大事な待ち合わせに遅れてしまう人もいるだろう、一生を左右するようなことや、駆けつけねばならない一大事があった人もいるかもしれない。だが、それも生きてる者だけの都合だ。われわれは一瞬で、生と死の世界に分断される。


結局、私の場合は振替輸送を使うよりもここで運転再開を待つ方が早いだろうということで、再びホームに降りた。予定運転再開時間まではまだ20分ほどある。滅多に降りないホームの端から端まで歩くと、ホームの南端では、鉄道好きの人なのだろうか、停止している車両の様子を詳細に観察したり写真を撮ったりしている人がいる。ホームの端は屋根で覆われていないので高くなった陽が差し込み、初秋とはいえまだ暑いくらいだ。全線停止中の線路は静かで、のどかな空が広がっている。でもそれも、生きてる者だけの世界だ。どんな方だったのか、どんな事情があったのか分からない、その人には見ることができない。
電車が動けば、私は仕事へ行く。おそらく夕には何事もなかったかのように動いているであろう電車で帰り、夜になれば美味いものを食べたり音楽を聴きに行ったりして「いろいろあったけど幸せなこともあった一日でよかった」とかいう感想を抱くだろう。だが、それは生きてる者の感動や感傷だ。その人にはもう関係がないことだ。逆にあのとき、私の時間が止まったようだったあのときも、それぞれの人の感動や感傷は生き生きと酷薄に続いていた。


思ったより復旧は早かった。復旧した電車も、予想外に混雑しなかった。これが「日本スゴイ」というやつなのか。運転士さんは大丈夫だろうか、後で鉄道会社にお見舞いのメールを送ろう、などと思う。目的の駅に着く頃には既に何もなかったかのようだった。駅から職場に電話をする。「今駅に着きました、すみませんでした、1時間以上遅れましたが、先方はまだ待ってくれていますか?」と尋ねると、せっかく私が駅まで辿り着いたのに、先方は約束を忘れているらしくまだ着いてもいないとのことだった。

ノーフォーク

野原の落し物や列車内の忘れ物を満載したトラックが、イギリス中から列をなしてこのノーフォークという場所に来る。わたしたちはそう信じていました。写真もないノーフォークは、とても神秘的な場所でしたから。

ばかげているとお思いですか? でも、当時のわたしたちには、ヘールシャムの外が御伽噺の世界も同然だったことをご理解ください。そこがどんな場所で、何かできて、何ができないか……すべては漠然としていました。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋正雄訳、ハヤカワepi文庫、p.105)

 

4年前まで、犬を飼っていた。溺愛犬であったため、犬が死んだときはもちろん悲しかったが、同時に、「ああ、もう心配せんでええんやな」とほっとする感を覚えたことも否定できない。
犬が生きている間、私は心配ばかりしていた。ちょっと具合悪そうにすると、大病だったらどうしようと心配になり、自分が旅行などで不在のときは、その間に犬に何があるのでないかとことあるごとに(いや、ことはなくても)不安になり、「犬大丈夫?」と家族にメールするのだが、そのメールの返信が遅れたら遅れたで、「(ああ、やっぱり何かあったのでは……旅先の私にそれを知らせまいとして返信が遅れているのでは……)」と更なる心配が始まるのだった。たまに犬と一緒に寝ることがあったが、そんなときは夢うつつの中で「寝返りを打った拍子に犬を下敷きにしてしまい潰してしまったらどうしよう……」とわけのわからん心配をしながら寝入っていた。ならばいっしょに寝なけりゃよかろう(なお下敷きになって潰れるサイズの犬ではなかった)。
そんな佐々木光太郎かおれかってくらいの心配症を患い続けていたので、犬が往生したときは、悲しいながらも、老衰による比較的穏やかな往生であったこともあり、「ああ、幾多の心配を乗り越えて飼い遂げることができた、もうこんな心配はしばらくええわ」という気持ちになったのだった。


犬に対して過剰な心配をすることとなった理由のひとつとしては、この犬が、元々素性の分からぬ迷い犬であり、またいつふらりと旅立ってしまうか知れなかったということがある。既に自立した大人(成犬)であった彼女は、何を考えているのやら測りがたく、独自の世界をもっているふうで、実際我が家に来た最初の頃は二、三度脱走を未遂している。我ら飼い主は脱走対策に、名札はもちろん柵を買ったり囲いを作ったりと腐心したものだった。犬を飼い始めて当初私は、「犬が出ていってしまう」「もとの飼い主が犬を連れ戻しに来る」系の夢を何度も見た。(これは私だけでなく、父もまた「まめ子がブラジルに戻ってしまう夢を見てん」と淋しそうにしていたことがあった。なんでブラジルやねん。ちなみにめっちゃ和犬ぽい雑種だった。)

 

そんな夢の中で、印象的な夢がある。犬がトイレに流されてしまうという夢である。犬は既に、上半身を水流に飲み込まれており、私は尻尾をひっぱり懸命に引き留めようとしていた。そういえば現実にも、あわや逃げそうになる犬を、尻尾をつかんで引き留めたことがあった。夢の中で私は、ひっぱるのはかわいそうだがここで手を離せば二度と会えなくなってしまう、と必死であった。だけれどふと、

「あ、流されてしまっても淀川までいって探したらまた会えるやん」

と考え、急にほっとした気持ちになり手を放す、という夢だった。

 

 

起きてまずほっとして、それからしばらく考えて或ることに気づき、笑ってしまった。「淀川を探せばまた会える」という発想がおそらく、子供の頃のファンタジーに由来していることに気づいたのだった。

思えば私は子供の頃から心配性だったようで、トイレや洗面台や風呂場の排水溝に流される・または大事なものを流してしまう、というのが心配事のひとつであった。流れた水がどこへ行くのかを尋ねると母は、

「流れた水は鴨川に行く。鴨川の水は、大阪まで流れて淀川になる。淀川で全部の川の水が一緒になるんえ」

と教えてくれた。それを聴くと、じゃあ水に流されても、何かを水に落としても、最終的にその淀川というところへ行けばええんや、とちょっと安心できたのだった。家の近くを流れる鴨川はよく知っていたが、それよりずっとでかいという淀川は見たことがなかった。だが、そこへ行けば失われたものたちすべてと再会できる、たとえるなら浄土のようなイメージが、このとき形成されたのだった。犬を飼い始めた頃は既に大人で、そんな淀川幻想は忘れていたわけだが、幼少の頃に得たそのイメージがまだ自分の中に残ってたんや、と気づいて、可笑しくなったのだった。

 

犬が死んで、しばらくした頃、生まれた頃より長年住んだ鴨川の傍を離れ、その下流に住むことになった。川を流れてゆくのは犬ではなく自分であったわけである。今年突然、「川の合流地点を見る」ことに凝り始め、自転車でいろいろ見に行った。鴨川と桂川の合流地点はよく見晴らせて面白かったが、桂川・木津川・宇治川が合流して淀川になる地点は、それぞれの川がでかすぎてよく分からなかった。淀川が海に流れ込む地点も見にいった。「河川管理境界」という人工的な表示はあったが、どこまでが川でどこからが海だという境目は(当たり前だが)よく分からない。晴れた日であったので水面が光って綺麗だった。これだけ広いところに出てしまえば、落とし物も落とし犬も到底見つからないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

小学生時代の一番楽しかった思い出

小学生時代の一番楽しかった思い出を書きたい。


六年生の遠足の日のことだ。
われわれの学年は、奈良の飛鳥に行くことになった。季節は初秋だっただろうか。ちょうど社会で歴史を習っていた頃だったから、その勉強の意味もあったのだろう。
この遠足では、全員がレンタサイクルを借りて、班ごとに好きなスポットを周ることになっていた。飛鳥の街はたしかに徒歩では周りにくいし、もう六年生だから自立した行動をさせてみる、という試みだったのだと思う。しかし私は、当時、自転車に乗れなかった。


かつて猛特訓の結果、なんとか補助輪を外すところまでは行ったのだったが(そこへ至るまでに親との激しいバトルがあったりもしたが省略する)、その後まったく自転車に乗ることはなく、そのまま乗れなくなってしまったのだった。友達らと遠くへ遊びにいくときは、自転車に乗るみんなの後ろを、疎まれながらひとりだけ走って付いていっていた。
自転車に乗れない者は、学年で私ひとりだった。先生たちが心配してくれたらしく、或る日校庭に呼び出されて行くと、自転車が用意されていた。どこから持ってきた自転車か知らないが、私の練習用に用意されたものらしい。先生に「乗ってみて」と言われ乗ってみると、昔の感覚が一応残っていたのか、10メートルくらいは走れた。先生はそれを見て、「あら、大丈夫やん。これならみんなと一緒に遠足に行けるね」と安心してしまった。何も障害物のない校庭を一人で10メートル走るのと、知らない街の道路を皆に付いて一日走るのでは違うだろうと思われたが、私も積極的に練習したくないので、自転車のことはなんとなくそれっきりになってしまった。
遠足当日のことは不安ではあったが、まあ小さい頃は一度乗れたんだしなんとかなるだろうという気もし、一応参加する気で、飛鳥の歴史の「調べ学習」などをしていた。

 

そして遠足当日の朝、生理が始まった。
私は当時、初潮を迎えてしばらく経った頃であったが、月経が訪れるたびにそれに伴う激しい腹痛、胸痛、腰痛、脚痛、便秘および下痢その他いろいろ痛により毎回苦しんでいた。
ふつうの遠足なら多少の無理をしても参加したかもしれないし、親もそうしろと言ったかもしれないが、ただでさえ苦しい月経中に、とても、普段乗り馴れない自転車に乗れる気がしない。
遠足を休む、と言うと、親からもあっさり許可が出、朝、職員室に電話をすると、「じゃあ今日は一日学校で自習してください」ということになった。
いつもの集団登校にも参加せず、私は普段の始業の直前の時間にひとり悠々と登校した。
学校の前の通りまで来ると、道路の向こう側ではちょうど、遠足に行く一行がぞろぞろと校門から出てきたところだった。何人かが私の姿に気づき、「あれっ、なんで!?」と言った。親切だったKくんは、私が時間を間違えて遅刻してきたと思ったらしく、「遠足!今からやで!」と叫んだ。私は通りを隔てた皆に大声で事情を伝えるのは憚られたので、同級生たちにひらひらと手を振り、学校へ向かった。


学校に着くと、図書室の大きな椅子と机をあてがわれて、そこで自習をするように言われた。
図書室は、学校の中でも親しみのある場所だった。担任の先生はもちろん遠足の引率なので、保健室の先生が来てくれた。
特に何をしろという指示もなかったので、私は、遅れていた家庭科の課題にとりかかった。壁掛けのようなものに、フェルトのお花を縫い付けていくのだった。家庭科は苦手で、いつも皆から遅れをとっていたが、この日は自分でも驚くほど集中できて、早く仕上がった。
休み時間になっても、図書館には誰も来ず、保健室の先生がたまに様子を見に来るだけでずっとひとりだった。
その次は、図工の課題や溜まっていた何かのドリルをやったと思うが、誰にも邪魔されないし、最高だった。私は全ての提出物において遅れを取っていたが、自分ひとりで集中すると、こんなにはかどるのかと思った。
一応チャイム通りに休み時間をとることにした。休み時間は、学校の好きなところを自分ひとりでぶらぶらした。いつもだと、クラスの遊びに参加しないといけなかったり、どこに行くにも友達と一緒でないといけなかったりするのに、自由や!なんて素晴らしいんだ! と思った。

 

課題をやる合間に、図書室の本を読んですごした。薄暗く自分ひとりしかいない図書館は、自分の立てる物音しかせず、静かだった。普段読まないような本もめくってみた。こんなふうに自分で時間を好きに使えるなんて楽しい、自分は自由が好きなんだ……!と分かった。
しかしそのとき、ひとつだけ、後から後悔することをした。「誰もいないのだから何か秘密のことをやろう」と思いつき、図書館の、あまり誰も読まなそうな分厚い本(百科事典か何かだったかもしれない)に、匿名の手紙を挟むことにしたのだった。といっても特に残したいメッセージもないので、


「私はこの学校に片想いをしている人がいます、きっと片想いのまま卒業するでしょう。せめて、未来にこの本を開く誰かに、この切ない思いを知ってほしくて…… (イニシャル)」


というようなことを書いた。正直、クラスにちょっと好ましい子はいても、片想いというほどの片想いはしていなかったのであるが、当時中島みゆきなどを聴き始め「(片想いってかっこいいな)」と思っていたので、そうした影響下に書いたものと思われる。その後、中学生になり、『探偵ナイトスクープ』というTV番組を知ったことで、「(あの手紙が後輩に見つかって、探偵がうちに来たらどうしよう……)」という、どうでもいい後悔をすることとなる。

 

昼休みは、職員室に呼んでもらって、時々優しくしてくれる女の先生と保健室の先生の間に座って給食を食べた。別に給食もひとりでよかったのだが、嫌な先生たちではないのでよかった。
先生たちの雑談の話題は、「卒業生を送る会で在校生が歌う歌」についてで、
「あの歌、いい歌やと思うんやけど人気がないよね、『お兄さんお姉さん』っていう歌詞がみんな恥ずかしいみたい」
などと話していた。「先生たちって普段こんな話をしてるんやな」と思った。 

それにしてもいつもなら、月経一日目というのはもっと痛みで苦しんでいるはずなのに、この日はふしぎとそれほどではなかった。思うに、調子が悪いのに皆と同じペースで何かやらねばならなかったり体育やらなんやらやらされたり、という集団生活のストレスが余計生理痛を重くさせていたのではないか。

 

午後からも引き続き図書館で過ごした。午後には、5年生の女の子と4年生の男の子が遊びにきた。
「なんで遠足休んでるん?」
女の子は年下だが気の強い子で、いつも私に先輩のような口をきく子だった。
「生理になったから」
と答えると、
「へえ、私やったらそれでも絶対行くけど」
と言われたが、完成していた家庭科と図工の課題を見て、
「すごいやん」
と誉められたのは嬉しかった。


普段の5限目が終わるくらいの時間になると、保健室の先生が来て「もう帰っていいよ」と言われたので、さっさと荷物をランドセルにまとめて帰った。
一日中ひとりだとちょっとは淋しくなるかもしれないと思っていたけれど、まったく一切淋しくならなかった。勉強も休み時間も、ひとりならこんなに気楽で楽しいのか、毎日こうだったらいいのに、とさえ思った。
以上が、小学生時代の最も楽しかった一日である。

 

 

 

 

 

おつまみの思い出

その店はもうないけれど、私の実家はかつて酒屋を営んでいた。
古く小汚い小売店であり、家族全員たいして店に愛着はもっておらず、私も積極的に店を手伝うこともなかったが、夜にシャッターを閉めた後のしんとした店の雰囲気は好きで、今でも思い出すことがある。
誰もいない店の中、棚と棚の間や、狭いレジカウンターの中に身を隠すようにして蹲ると、冷えて湿った匂いがする。時折、シャッターの向こう側でカランと音がして、自販機から誰かが何かを買っていく。
閉店後の暗い店でひとりその音を聴くのは酒屋の子どもの特権のような気がして、嫌いでなかった。中学のとき、「短歌を作る」という国語の宿題でも、その様子を詠んだ記憶がある(どんなのだったか忘れたが、冬の夜シャッター越しに自販機の音云々、みたいな感じ)。


酒屋の子どもの実質的な特権としては、店の商品を飲んだり食ったりできる、ということがあった。
勿論仕入れ値は家が払っているわけであるし、好き勝手に持っていけるわけではないが、一日に缶飲料一本くらいなら、「これもらっていい?」と許可を得てもらうことができた。
といっても、興味ある商品はそんなになかった。子どもなので酒は飲めないし(というか我が家は全員酒が飲めなかった・それゆえに酒屋という家業になんの愛着もなかったのだった)、ジュースも限られたラインナップでさほど変わったものは置いていない。よく「本屋の子だったら読みたい本がたくさんあるしいいなあ」と思っていた(私は本好きな子だった)。そんな中、おつまみ棚には、時折光る商品が現れた。

 

私は当初、おつまみ棚にあまり興味はなかった。おつまみであるから、スルメだのイカだの子どもには興味のない渋い食べ物ばかりで、私の心を捉えるような商品はなかった。ところがあるとき、「チータラ」というものが我がハートを射抜いたのだった。チータラとは(説明するまでもないが)魚のすり身的なもので少量のチーズをサンドしたつまみであり、チーズ好きな私はもともと少し気になってはいた。
チータラに目覚めたのは、小学生の頃、曾祖母の通夜のときであった。90代で大往生した曾祖母の死は、私にとって初めての身内の死であったが、通夜では親戚たちが飲み食いしながら楽しそうに笑い続けているので、「えっ、お通夜ってこんなんなの!? もっと悲しそうにするものではないの? 笑ったりしてええもんなんや!」と大変驚いたのを覚えている。当時は葬祭場もまだ少なく、通夜も葬儀も自宅で行った。食べ物がなくなると、店のおつまみ棚から適当なつまみの袋をもってきて、それを菓子皿に盛って出した。
愉快そうにビールを飲み続けていた親戚のおっちゃんが、赤い顔で私を呼び、「なんか食べるか? 好きなん食べ」と自分の前にあったつまみの盛り合わせを勧めた。私はスルメやらなんやらの中に、以前から少し気になっていたチータラが存在するのを認め、この機会にとそれを食べた。そして思った。
「うまーーー! こんな美味しいもんやったんや!」
曾祖母の葬式以降、私は頻繁におつまみ棚のチータラをねだることになり、しばしば「チータラはもう在庫のうなるからあかん! スルメやったらええで」と断られることになった。

 

しかし我がおつまみ棚歴における最大の衝撃は、「アメリカからやってきた髭」であろう。
それは中学生のときだった。90年代初頭である。仲のいい友人宅に泊まりに行くことになり、父が「これ皆で食べよし」と、おつまみ棚から袋をいくつかとって渡してくれたのだが、平凡なラインナップに加え、
「これも持っていくか? なんやアメリカのポテトチップスで、日本ではまだあんまり売られてへんらしい。俺もまだ食うてへんし、美味いか知らんけどな」
と、珍しいスナック菓子を出してきた。新たに売ることになった商品だという。
パッケージの種類は三色あり、どれも派手で、筒状の容器には髭を生やした王様的なキャラクタが描かれていた。たしかに見たことのない菓子だった。
「なんや、プリングルスていうらしいわ」
私は三色のうち、チーズ味だという黄色を選んでもっていくこととした。

 

友人宅でそれを披露すると、友人たちも見たことがないと珍しがった。早速パッケージを開け、われわれは衝撃を受けた。
一枚のポテトチップス上に、チーズのパウダーがこってりと、数ミリの層を成して積もっているのだった。それまで食ったことのない種類のスナック菓子であった。パウダーの色は不自然なオレンジ色で、いかにも大陸からやってきた菓子という感じである。我が家はどちらかというと、味の濃いものや不自然な食べ物を禁ずる傾向があったので、そのきつい色とごてごてぶりは、開けてはいけない箱を開けてしまった的な罪の香を感じさせた。
口に入れると、口内から、癖の強いチーズと油の臭気が感ぜられた。チータラのチーズとは質的に異なるチーズであった。黒船来航である。「(これが、アメリカの味なんだ……さすが戦勝国、自由の国、アメリカ……)」。敗戦国の中学生は、だいたいそんなような感慨を覚えた。初めて中学の友人の家に泊まり夜更かしするというシチュエーションも、背徳感を増していたのであろう。
さらにその菓子は、食べているときは「こんな味が濃くて身体に悪そうなもの、もういいや」という気分になるのだが、食べ終わるとまたすぐに食べたくなるという中毒性もあった。体型も気になり始めるお年頃であり、こんなもんは明らかにダイエットの大敵も大敵なのであるが、もう食うまいと思ってもしばらく離れていると口と身体が彼を欲してしまう。私は日々「あのアメリカのやつまたもらっていい?」とねだるようになった。当時、他のつまみが100円程度であったのに対し、プリングルスは300円ほどで割高であったので、申し訳なさがあったが、しょうがなかった。しまいには、親に断りなく店からプリングルスを持ち出し、あのパウダー層を搭載したチップスを憑りつかれたように口に運び、一人で隠れて食べつくしては後悔するようになった。こうなると本格的に罪の味であった。

 

その後、プリングルスはコンビニやスーパーでも普通に見かけるようになった。しかし今では日本向けに改良されているのか、ずいぶんパウダーが減量され、もうあの分厚く身体に悪く罪の味のする数ミリの層を載せていない。

 

 

 

ハンサムの思い出

「イケメン」という語の台頭によってすっかり「ハンサム」が駆逐されてしまった。
「イケメン」が現れた頃はこんなに長持ちする言葉になるとは思わなかったが、2018年現在も「イケメン」は現役であり、その勢いは衰えることがない。
「イケメン」登場以前は、何か違うと思いつつ「ハンサム」を用いている人も多かったのではないか。たしかに、「イケメン」は「ハンサム」より広い範囲を示しうる語である。「ハンサム」と形容しうる日本人男性はそう多くないと思われるが、「イケメン」にはより広いイケメンが含まれるので、カジュアルな誉め言葉として用いることができる。


そんな死語となった「ハンサム」についての思い出がある。
小学校4年生頃、母のもっていた昔の少女漫画にハマったのだが、わけても惹かれたのはそのセリフ回しだった。6、70年代の少女漫画は、少しレトロでかつ心憎い言い回しが多く、新鮮であった。気に入ったものは、台詞を暗記するほど読んだ。
その中で印象的だった場面のひとつは――『ポーの一族』の一場面だっただろうか?――おしゃま(これまた死語)な女の子が素敵な男性を見て「ま、ハンサム!」と驚く場面である。
ストーリーの筋には特に関係のない、なんてことない場面だったのだが、女の子のおしゃまぶりがよく出ていて、可愛らしい場面だった。また自分の周りには、「ま、ハンサム!」と驚くような男子なんていないので、小粋でおしゃれなセリフに思えたのだった。

 

私は「ま、ハンサム!」を一度使ってみたくなったが、特に使いどころはなかった。上述のように、周囲に「ハンサム」と形容できるような人物はいなかったし、また、日々会う異性はクラスの男子・先生・用務員さん・父と祖父・近所のおっちゃんのみであり、そもそも誰かと新たに出会うということがないのである。
そんな或る日、社会の授業で、日本の名産物かなんかの勉強として、視聴覚室で茶のビデオを見せられた。茶が茶畑でどんな風に作られ収穫されるか、という過程を追ったビデオだった。茶摘みの場面で、茶農家のおじさんがインタビューされ、茶摘みの工程を語っていた。頭にタオルを巻いたその中年の男性は、別に悪いルックスではなかったと思うが、まったく普通の日本のおじさんだった。
私は「(いや、ここは違うよな、明らかにその場面ではないよな……)」と思ったが、「ま、ハンサム!」を使ってみたい気持ちがそろそろ最高潮に達しており、「(ここで使うのか……違うとは思うけど……でも……)」と納得できない気持ちのままながらも、隣に座っていたサッちゃんの耳もとに口を寄せ、

 

「ま、ハンサム!」


と言ってみた。


サッちゃんの反応は特になかった。